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感受性と論理性について

作者: 丸峰

 感受性と論理性について思い馳せるのであれば、このような帰結をするでしょう。

それは、感受性とは理解力であり、論理性とは吟味する力だと。

ここで、なるほどそういうことかと納得できた方は、私に言わせれば感受性が高いのです。


 ここで、私は一つの実体験を持ち込みたいと思います。

その前に、私はこの実体験の登場人物を説明せねばなりません。

まず、私です。

私は兎角感受性の高い人間です。

この前、友達と東京リベンジャーズを見た時は友達がなんともないところでさえ涙を流していました。

私は、主人公の心情などを察して、その言葉のバックグラウンドを把握して、心震わせずにはいられなかったのです。

もう一人、彼をFと名づけるのだとすると、彼は論理的な人間でしょう。

正直な話ですが、彼と僕は共に有名な大学に通っていて頭が悪いとは思えません。

ですから、彼が、これからいう体験のようなことになったのはただ単に彼が論理的だったにすぎません。


 私とFは三木清著の「パスカルにおける人間の研究」を読んでいました。

そこで、Fはこう言います。

「もし、無限が人間の動性を規定するとしよう。とするのならば、それはもっぱら人間を問題としておる。であるのならば、この文言は何であるか。即ち『ありとあらゆるものは虚無と全体との間の中間にある存在であり、そしてこの中間の領域を彼方此方に運動せる存在である』(三木清「パスカルにおける人間の研究」p.119)と」

流石にここまで堅苦しくはありません。

ですが、私はどうしても文章書くときに気取ってしまう癖があるようで、これはご了承願いたい。

私はこれが三木清のレトリックのようなものであると感じました。

でなければ、ここで難しい議論は省きますが今までと矛盾してしまうから。

でも、彼はそれをレトリックと感じなかった。


 我々は同じ大学に通うことからも、レベルは同じでしょう。

ですが、そのような同レベル間でもそのような議論が発生する。

そこで私は考えました。

これは脳の出来の問題ではなく、構造の問題であると。

つまり、Fは論理性が、私は感受性が卓越していたにすぎないのです。

Fは以上のように相手の土俵を吟味する力が、私は相手の土俵にとりあえず立つ力があるのでしょう。

ですから、私は先の命題を提唱します。

まあ、私としてはFのような論理性を身につけたかったのですが。


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