49.関与の姿勢
次の日の午後二時ごろ。
夏の陽射しが、静かな住宅街を白く照らしていた。古びた二階建てのアパートの前で、ケイトは足を止める。ここが、茜の部屋だ。短く息を吸い込み、玄関のチャイムへと指を伸ばした。
――ピンポーン。
その音が鳴り終わるよりも早く、家の奥から怒鳴り声が飛び出した。
「ふざけんな! この野郎!」
思わず、ケイトの肩が跳ねる。玄関越しでも分かるほどの荒々しい声だった。続いて、足音と、乱暴に何かを叩くような物音。 少しして、玄関のドアが開いた。顔を出した茜は、どこか気まずそうに笑った。
「……大丈夫?」
ケイトが小さく尋ねると、茜は肩をすくめる。
「大丈夫……。いつものことだから。外、行こう!」
そう言って、何事もなかったかのように靴を履き、ケイトの手を引いた。家から少し離れた、小さな川沿いの遊歩道。風が通り抜け、さっきまでの空気よりも、少しだけ軽い。
「で、どうした?」
歩きながら、茜が何気なく聞いた。
「あ、うんとね!」
ケイトは、少し照れたように笑い、カバンの中から一冊の本を取り出した。黒く、重たい装丁。手に持つだけで、空気がわずかに変わる。
「これを、茜に渡そうと思って」
茜は一瞬、目を見開いた。
「……それは、『時刻の書』!!」
思わず声が裏返る。
「それを、どこで?」
ケイトは、初めてこの時刻の書を富士見乃屋書店で見たことを思い出し、買って来たことを告げた。もっともそれを見つけたことは以前に伝えたのだが、あの時はタイミングが悪く、そのことを聞いた茜もよく覚えていなかった。
「前に、茜が『偶然』見つけたって言ってたでしょ。私もこれをあの本屋で偶然みつけていたのを思い出したの」
ケイトは、そう言って続ける。
「これは、ケイトのだからって、あの『時刻の書』を私にくれたでしょう? だから、これはそのお返しになるかはわからないけど、茜にって思って」
少し間を置いて、ケイトは付け加えた。
「……茜のだったら、いいね!」
一瞬の沈黙のあと、茜は本を受け取り、ぎゅっと胸に抱いた。時刻の書は、当事者となりえない者が触れると、拒絶の反応をおこすが、そのときは茜はなんの抵抗もなく手に取ることができた。
「ありがとう!」
その声は、心からのものだった。
――『時刻の書』。 当事者として妥当な人物が、妥当な選択をし、妥当な行動を取ったときにのみ、その者に能力を授ける本。
---
二人は茜の家から、遊歩道をずっと歩いていた。目的地があったわけではないが、気づけば二人は、地図でいえば江茂志市の最南端にまで来ていた。そして市営の一つの建物の前に立っていた。
「……ここ、なんだろう?」
白い外壁に、控えめな看板。川添博物館と立派な大理石に文字が刻まれている。
「絵画の、展示会が開かれているみたいだね。」
茜が看板の内容を読み続ける。
「うん。柳亮太という人のらしいね。でも今月で終わるみたい。あと数日で終わるんだ。どんなもんだか、入ってみる?」
少し迷ってから、二人は頷き合い、館内へ足を踏み入れた。ガラス越しに座っている受付の人に500円ずつわたし、中に入っていった。静かな展示室。順に一枚一枚を見て回る。
「とても綺麗な絵画だ」
「うん!」
一番奥の壁の中央に、それはあった。二人はその前で立ち止まる。それが今回の柳亮太の『目玉』の作品らしく、他の絵よりも額縁がしっかりしたもので、堂々としていた。
作品名――『251』。宇宙に散りばめられた星々を背に、二つの惑星が煌めいている。そしてその二つを貫く、一本の赤い線。不思議な構図に、二人は心を奪われた。とそのとき、背後から明るい声がした。
「その絵、気になりますか?」
振り返ると、一人の男性が立っていた。展示の挨拶回りをしているらしく、穏やかな笑みを浮かべている。柳亮太。その人だった。彼は楽しそうに語り始めた。
「これはですね、宇宙がテーマですが、もっとも言いたいことをこの『赤い線』で表現しています。想像してみて下さい。紙を折り曲げると、離れていた二つが、ひとつになるでしょう?」
言葉を選ぶように続ける。
「そして、ここに描いたこの星は、地球と……」
彼は、はっきりと言った。
「こちらはアグダラ、という名があります」
その瞬間、空気が微かに揺れた。
「え……」
「……何故、その名前を知っているんですか?」
茜が、思わず問いかける。しかし、柳は困ったように首をかしげた。
「それが、『わからない』のです。自分で考えた名前ではないことは確かなのですが……」
少し照れたように笑う。アグダラのことを全く知らない人が同じ答えを聞いたなら、『ただの創作だから』と思えるかもしれない。 しかし茜とケイトにとっては違う。この柳亮太という人物、それだけで二人にとっては忘れられない名前となった。警戒心もあった。しかし――。
「たぶん、頭の中で芸術が爆発しただけかもしれませんね!あはは!」
その笑顔には影がなく、その言葉は二人の警戒心を解いた。
--
――おそらく、オミナスベイパーの影響で、その名が彼の意識に『触れた』のだろう。ひょっとしたら心も同じ理由であの石碑の『アグダラ』を表す文字が読むことが出来たのかも知れない。この絵の最大のテーマは、それは『赤い線』によってふたつのものがひとつになるように、距離を無力化する存在がありえるということ。ふたつがひとつ、ふたつでひとつ、ニコイチ…。それで251。なるほど、と二人は思った。同時に、『距離の無力化』が何かの手掛かりにはなるかもしれない、忘れないようにしようとも思った。
--
「251って最初星の数かと思った! こんなにきれいに星が散りばめられてるから」
「わたしも。」
「ふふ。でも、どのように解釈して頂いても……観て頂いた方の自由ではあるのですけどね……」
やはりこの男に敵意はない。それだけははっきりと分かったので、二人は柳亮太を無害であり『普通』の芸術家・絵描きと判断したのだった。
静かな展示室で、赤い線にまたぐ二つの星は、うっすらと光輝いていた。




