47.黒い靄のあと
九条が用務員として働き始めてから、一週間も経たないうちに、変化は現れた。盗難が、嘘のように止んだのだ。生徒たちは「校長の注意が効いたんだろう」「見回りが増えたからだ」と噂した。誰も深く考えようとはしなかった。問題が解決したのなら、それでいいのだと。
昼休みの屋上。心たちはいつものように集まり、風に吹かれながら他愛のない話をしていた。そこへ、あの九条が現れた。
「やぁ。君たちは仲よしグループだな」
気さくな口調だった。何気ない会話の流れで、九条は尋ねる。
「趣味は?」
「……。鍛錬です」
「私も」
心とレナが答えると、九条は一瞬、目を細めた。
「すばらしい」
茜は「読書」と答え、穏やかに頷かれる。ケイトは言葉に詰まり、少し間を置いて口を開いた。
「……ない、かも」
九条は何も言わなかった。ただ一瞬だけ、ケイトを見て、すぐに視線を外した。その視線が、妙に冷たかったことを、ケイトは気になった。
就任から一週間後。それは明後日から夏休みが始まるタイミングだった。九条は、学校を去った。一身上の都合による退職。
それ以上の説明はなかった。そして終業式当日、用務員室の整理中、不可解な私物が見つかったという話が、教師たちの間だけで静かに広まった。しかし警察が入ることはなかった。被害者の生徒からの知らせはうけたが被害届を出すほどの大事にはならなかったことを理由に。盗難は最初から、小さく抑えられていた。問題になる前に、切り捨てられた。
終業式が終わり、心たちは四人で下校した。
ケイトがぽつりと言った。
「そういえばさ……」
「ん?」
「あの用務員さん、私のこと、ほとんど見てなかったよね」
誰も、すぐには答えられなかった。心は、あの日のことを思い出していた。下駄箱の近くで、下校する生徒たちを『値踏み』するように見ていた、あの視線。
(……選ばれなかった、だけか)
守られたわけじゃない。助けられたわけでもない。
ただ、興味を持たれなかった。それが救いだったという事実が、心の中に、黒い靄のように静かに広がっていく。
帰り道の緑道。いつもと変わらない江茂志市の夕暮れ。何事もなかったかのように木々が影を落としていた。日常は、変わらず続いていく。――確かに、何かを沈めたまま。




