31.絵描きの少年
BRFに赴いた日から、数日が過ぎた。惑星アグダラの存在、そして地球の危機。その他に知り得た重い事実。それらが青空心の心情の中で、鉛のように沈み込む。そして日を追うごとに進んでいく、オミナスベイパーによる日常から非日常への異変。あの夜、心がベッドで見たナオトの姿……。半透明ながらも「おいで」と手を広げた彼を思い出すたび、心の奥底が締め付けられる。この江茂志市は、あるべき真実の一つへと、次第に近づいているのか。
ある日の夕方、心は道場での鍛錬の前にいつも実施している、『曽井川』沿いでの自主トレ『全速力マラソン』をしていた。辺りで早くも虫やらカエルやらが鳴き始めている。シューズの紐をきつく締め直し、土手を駆け上がる。呼吸を整え、一定のリズムで足を動かす。いつもならこの一体感が気分を気持ちよくしてくれるはずだったが、今日の心は違った。河川敷を流れる風も、遠くで聞こえる車の音も、どこかいつもとは違う感覚がするのは、オミナスベイパーの影響なのか。
走りながら、何度か大きく息を吸い込み、吐き出す。心はただひたすらに、前へ前へと足を動かす。折り返し地点としている看板の手前の陸橋が近づいてくる。
そして階段を下りて橋の下をくぐろうとしたその時だった。橋脚の陰に、小学生の低学年くらいの一人の少年が座っていた。少年は『スケッチブック』を広げ、真剣な顔で色を塗っていた。その横には、無造作に置かれた色とりどりの絵の具箱と、筆の束。おそらく風景画でも描いているのだろう。心は少年の近くを走り過ぎようとしたとき、少年に気づかれないようにその絵を横目で観た。
(あ……綺麗……)
心は、思わず目を奪われると、足を止めていた。描かれていたのは、実際には見たことのないはずなのに、どこか懐かしい、幻想的な風景画だった。燃えるような夕焼けを背に、『砂漠にそびえる美しい城』。細やかな装飾が施された城の屋根は、陽炎のように揺らめき、遥か彼方まで続く砂の海を見下ろしている。そこには、ただ美しいだけでなく、心を焦がすような強い憧憬が込められているように見えた。
(砂漠……いや、考えすぎか。それにしても外で風景画を描いているにもかかわらず、目の前の光景とは全然違う景色を描いているのは何故だろう?)
気になった心は、少年に声をかけた。
「何描いてるの?」
少年はビクリと肩を震わせ、慌ててスケッチブックを閉じた。その顔には、隠しきれない焦りと、微かな怯えが浮かんでいる。
「べ、別に……何でもない」
少年は俯き、絵の具箱をがちゃがちゃと片付け始めた。その様子は、まるで大切な秘密を暴かれた子供のようだった。
「あ、待って。今の、ひょっとして君の想像の風景?」
心が優しく問いかけると、少年はちらりとこちらを見た。そして、諦めたように、小さな声で呟いた。
「……うん。でも、みんな、『下手くそ!しかもそんな場所、どこにもない!』って馬鹿にするんだ。だから、誰にも見せたくないんだ……」
その言葉が、心の奥底にある悲しみに少し触れる。馬鹿にされる。理解されない。だからもう誰にも何も言わない……。それは、彼女自身も幼少の頃、ナオトを失ったあの時に経験したことだ。ナオトを失い、誰にも信じてもらえない、その悲しみを分かってもらえない苦しさ。そうして心を閉ざし、二度と涙を流すことをやめると決心した、あの時の自分と重なる。
「そんなことないよ」
心は、少年が閉じたスケッチブックにそっと手を置いた。
「とても上手だし、何かこう、引き込まれる絵だったよ!その絵は、すごく何かを訴えかけている気がするよ!だから話しかけたんだ」
少年は少し照れくさそうに心を見ると、
「ありがとう」
心は続けた。
「君、きっと絵の才能があるよ!今度会ったときは、ちゃんと見せてね!お姉ちゃん、今マラソン中なんだ。またね!」
そう言うと心は、笑顔で少年の肩をそっと叩き、また全速力でその場を去ってゆくのだった。




