9 銀細工の髪留め
私はシャルルに抱きつく。身を投げた理由を尋ねるよりも彼を抱きしめたかった。
「大丈夫。私は絶対に貴方の前から消えたりしないから」
シャルルの腕は私を抱きしめることなく、ただ銀細工の髪留めを握っている。
「離れてくれ。私は君を抱くことはできない。抱いたら……君を不幸にする」
「不幸ならもう十分味わったわ!」
シャルルの瞳が僅かに見開く。
「……お願い、せめて手を握らせて。……私がうなされている時、手を握ってくれているでしょう? 貴方が苦しんでいるなら、貴方の手を握ることだけは許してくれない?……契約結婚でも何でもいい。一人で苦しまないで」
「アイリス……君は何故そんなに強くあれる?」
アイリスには二人の私がいる。でもそれ以上に
「シャルル、貴方の優しさがあるからよ」
黒曜石の瞳に光が戻る。
「……君には本当に敵わないな」
この日、シャルルが初めて微笑み、そして私を優しく抱きしめた。
私は目を閉じ、彼を感じた。
抱きしめられた温もり、彼の香油の匂い。黒髪の肌触り、それらが全て特別だった。
彼に抱きしめられて、心の中がじんわりと温かくなっていく。
シャルルの呼吸が少しだけ早くなる。
私を抱きしめた手から力が抜けていく……
手が震えてる。
「大丈夫? シャルル?」
頰を触っているのは、柔らかな女性の手のひら。
「シャルル? 聞こえている? 聞こえていたら答えて?」
過去の記憶が蘇る。あたかい母の手のひら。
「シャルル、私の目を見て!」
その手には真っ赤な鮮血……
「シャルルっ!」
シャルルの大きな身体が糸を切ったように崩れる。目を閉じ呼吸が荒い。
誰かを呼んでこなければ。でも一人にしておけない。
顔色が呼吸と共にどんどん青ざめていく。
声を張り上げても屋敷からは離れている。どうすれば?
草むらが揺れた。
「ねーね、どうしたの?」
「こーしゃく、どうしたの?」
現れたのはあざのある双子の子供だった。手にはあげたお手玉を握りしめている。
「お願い、グランダを、あなた達のママを呼んできて!」
二人が頷き、離れの方面に向かってウサギのように駆けていく。
「シャルル、シャルル、目を開けて! お願いだから! 私を不幸にしないで!」
グランダさんや庭園にいた農夫たちが駆けつけ、シャルルを運び、私は屋敷に戻っていた。
寝室のベッドに寝かされ、医者も呼んでもらった。
その日シャルルは目を覚まさなかった。
呼吸は規則正しく、聞こえている。だが呼びかけても反応がない。解かれた髪はベッドに広がり、眠っている。
ロイツさんが隣で口を開く。
「アイリス様。お医者様はただの疲労だと言ましたよ。無理をなさって、時々倒れることは今までも何度かあったんです。一晩眠ったらよくなりますから」
「分かったような口を聞かないで! 私の母様だって突然倒れて………っ!」
口にしたら本当になるような気がしてしまい、口をつぐむ。ロイツさんが小さく息を吐いた。
「アイリス様が心配されるのも無理ないですが、その……奥様がまずは落ち着いてくださいませ」
「落ち着いている……つもり」
「何かお茶をお淹れしますよ」
ロイツさんが微笑み、部屋から出ていく。
実際に医者は「ただの寝不足だろう」という事を言っていた。だが私にはただの寝不足だとは思えない。
過去の記憶にさらし、辛い思い出を蘇らせてしまった。
「ごめん、シャルル」
私は彼の手をとり、強く握りしめた。
……アイリス。
………アイリス?
目を開ける。シャルルの黒曜石の瞳が私を覗き込んでいた。
「アイリス。君は着替えず一晩一緒にいてくれたのか?」
「……シャルルっ!」
眠っていた私は身体をベッドから起こしてシャルルに抱きつく。
「だ、大丈夫………もう、大丈夫だよ」
シャルルが、驚いたように身体をすくませ、そして大きな手のひらでなだめるように背中を撫でてくれる。
彼の鍛えられた胸に顔を埋め、ゆっくりと顔を離し彼を見つめる。
「………びっくりさせないで」
シャルルの手のひらが私の頰の涙の跡を優しく撫でた。
「気が抜けただけだ。君こそ大丈夫か? 目が赤い」
私は気まずくなって、目を擦り身体を起こした。
「ロイツさんを呼んでくるわ」
「待って」
シャルルが私の手首を掴み、身体を私に引き寄せる。じっと黒い瞳が私を見つめている。
「………だめ。無理はしちゃダメよ」
私の顎は彼の指に捕えられ、黒い瞳が私を見据えた。
「無理はしない。でも君にキスさせてくれないか」
私は目を伏せた。今すぐにでも彼に唇を差し出したい。だけど……
「……そういう事はしない、契約結婚ではなかったの?」
「確かにそうは言ったが……契約書を交わしたわけじゃない。ダメか?」
突然手を震るわせ、苦しむシャルル。
その顔が脳裏から離れない。私は彼の目を見つめた。
「それなら……貴方のお母様が亡くなった理由を教えてくれる?」
シャルルが息を飲み、そして目を伏せた。
「……それは……言えない」
……やっぱり。教えられない事なのね……
一末の寂しさを紛らわすように私は微笑んだ。
「いいのよ無理しないで。いつか教えてくれる日を待っているから。ロイツさんを呼んでくるわ」
努めて明るく言い、身を翻し私は部屋を出た。
「珍しいですね。今年は収穫を手伝いに行かないのですか?」
「アイリスに止められた。まだ病み上がりだからと」
ロイツはティーカップを執務机の上に置いた。主人は窓辺で農民達がジャガイモを収穫している様を眺めている。
主人が倒れてから数日後、雲ひとつない晴天はジャガイモの収穫日和だった。
シャルルは農婦たちに交じり手慣れた手つきで芋を掘るアイリスをずっと見つめている。
「どうされたんです? お母様の事を話されて、吹っ切れたんじゃないのですか?」
「いや、彼女に気を遣わせている……」
公爵の過去……
ロイツ自身はそれを国王から聞かされただけだったが、しばらく何も喉を通らなくなるほど衝撃を受けた。
そしてシャルルに仕え共に王都を離れる決心がついた。
ロイツは意を決したように主人に告げた。
「いっそ、アイリス様に何があったのかを全て話されては?」
公爵が振り返り、執務室の椅子に座る。
「国王にでもならぬ限り……無理な話だ」
寂しげに微笑んで侯爵はティーカップに口を付ける。
ならば貴方が国王に……喉元まで出かけた想いをロイツは必死に飲み下す。
それを彼に望むのはあまりにも酷だと知っていた。
「本当にお上手ですねぇ」
「公爵様より上手いんじゃないかい?」
「うふふ。皆さんの動きが上手いからよ。私は真似ているだけ」
汗を拭い、微笑んで誤魔化す。本当のところは前世の時、祖母の家庭菜園を手伝っていたので農作業は経験していた。ジャガイモも毎年作っていたし、これだけの広さであれば人手が多いに越したことはない。
農民たちと私は庭園の庭の枯れたジャガイモの葉を取り去り、スコップも使いながらジャガイモを掘り起こした。今年は豊作らしく、大きなお芋が現れる。
農婦のエルダさんも来ていて、私の掘ったお芋を籠に入れていた。
「それで奥様、どうなんだ?」
「エルダさん、どうって何のこと?」
「ここへきて二月だろ? 前は細かったのにふっくらしたし……無理するんでねぇだ」
籠を持ち上げようとすると、すぐに奪われてしまう。
「無理なんかしてないわよ…?」
じっとエルダさんが私のお腹を見ている。
確かに王城に居た頃より食べているし、昨日もちょっと食べ過ぎたけどそんなに太ったかな?
エルダさんが私の耳元で尋ねた。
「お子様ができた?」
私は目を見開き、思いがけない言葉につい口を滑らす。
「……っ、そ、そんなこと一度もしてないわっ」
今度はエルダさんが目を見開いた。
「一度も? 侯爵が寝不足で倒れたって聞いただ?奥様はべっぴんなのに放っておくなんて、信じられねぇ」
「も、もうエルダさん、シャルルは……仕事で寝不足なだけよ、その話は止めましょう」
「奥様、侯爵が嫌いか?」
「そんなわけない!」
つい声を張りあげてしまい、農民たちが一斉に私に注目する。
「……そんなことはないわ。シャルルのことは好きよ」
好きだからこそ、彼に無理をさせたくはなかった。求めれば、彼をまた震えの底に落としてしまう気がした。
「結婚式はいつあげる?」
「きっと領主様のことだから収穫が終わった頃だろ」
「今年は豊作だし、祝いと一緒にしたらいいなぁ」
農民たちが次々に口を開く。ドレスはどんなのが良いとか、鹿を仕留めてこようだとか盛り上がってしまう。
「結婚式はしないの!……その……お金がもったいないから」
一同がみな、目を丸くしている。
さすがに契約結婚だとは言えなかった。
「そのくらい、遠慮せんでも」
「そうだ、そうだ。日頃どれだけ備えとるか知らん領主様ではあるまいよ」
「本当だで。収穫祭と同じ………いやもっと領主様と奥様の結婚式は大事じゃ」
次々に色々と言葉を重ねる農民たちの言葉。ありがたいけれど……それは彼の為にできない。
私はわざとらしく、パチンと手を合わせる。
「そうだ、お茶。お茶にしましょう! 暑いしね。準備してくるわっ!」
私は皆の言葉から逃れるように屋敷にかけていった。
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