16 黒い雲
カルミアは装飾も絨毯もない部屋で冷たい床に跪き、頭を垂れていた。
そこはカルミアにとっては信じられないほど質素な国王の私室だった。
「ルイ、お前達の式は済んでいる。あの愚かな近衛兵もお前の直属だ。お前が判断せよ」
ロウアン国王陛下はカルミアの前で頭を垂れる王太子に命じた。
「……承知しました」
カルミアはドレスを握りしめた。悔しい。悲しい。憎い。恨めしい。ルイがカルミアに近づき、静かに言った。
「カルミア、立て」
カルミアは冷たい床からゆっくり立ち上がった。顎がルイの手で持ち上げられる。
紅い瞳が真っ直ぐカルミアを捕え、唇が重ねられた。
「……これで最後だ」
ルイの紅い瞳が揺らいでいる。
「……そうですの。今度は私が婚約破棄……ではなく離婚させられるのですね」
「……違う。離婚はしない」
「では、幽閉?……牢屋にでも閉じ込めますの?」
「そんな事はしない」
「分かったわ! 私の命を奪うおつもり?……どうぞご自由に!……貴方は王太子だもの!」
「違う!」
ルイが強くカルミアを抱きしめ、その唇を激しく奪う。
「……全て許す。俺が君に贈れる最後の贈り物だ」
カルミアが瞳を見開く。
「本当に?……私を許すと言うの?……あの女を辱めようとしたのよ? 許して下さるの?」
「全ては俺が悪い。君は何も悪くないよ」
カルミアが満面の笑みで笑う。
「それならば、豪華な茶会をしましょ!素敵なドレスもたくさん作らなくちゃ!」
立ちすくむルイを取り残し、カルミアが不自然に笑いながら部屋から立ち去る。王が口を開く。
「ルイ。カルミアはもう……」
ルイが遮った。
「陛下。私に判断はお任せになったはず。二度と投げ出すことはしません」
「………そうか。それほどまでにカルミアを」
「………届かなくとも、この胸に想いはあります」
「困ることがあれば、私を頼りなさい。………それで、二人は良いのだな?」
王は目の前のソファーに座す、当事者へ声をかけた。
横に座わるシャルルが視線で私に問い、私は視線を落として頷く。シャルルが固く手を握りしめたまま呟いた。
「……陛下と王太子のご判断の通りに」
ルイ王太子がすかさず問う。
「本当に俺に判断を譲るのか?」
「アイリスは私を許した。ならばルイもカルミアを許す権利はある」
シャルルが私の手を握る。ルイ王太子が私に身体を向けた。
「……そうか。アイリス・マルラン公爵夫人。貴方に感謝する。シャルルの事も頼む」
「……はい。わかりました」
目の前に座す、ロウアン国王が無言で立ち上がられ、天井を仰ぎ見られた。
その潤んだ紅い瞳を私は一生忘れない。
王城からの帰り、遅まきの小麦畑を眺めながら、馬車の中でシャルルが呟いた。
「……生まれは私が早かったと母は言っていた」
「そう……王太子が言っていた通りだったのね」
「表向き、陛下に似ているルイを兄とし、私を弟にする事が決められた……私は頼りない兄だからな」
「シャルル! ……そうやって卑下しないでと言ったつもりよ?」
私が睨むと、私を見て彼は肩をすくめた。
「すまない。……気をつけるよ。だが、ルイが兄で良かったと思う。彼ならば良い王になるだろう」
私は彼に身を寄せた。
「貴方のその言い方、王太子を認めても貴方自身を卑下することになってるわ」
「………難しいな。気をつけるよ」
眉を寄せるシャルルの手を私は握った。
「王太子は……大変そうね……今度は気づいてもらえると良いのだけど」
「彼も中々素直になれないからな」
「さすが兄弟、捻くれた所が似ているわね」
「アイリス」
ゆっくり、咎める口調でシャルルが言う。そう言いながらも、彼は微笑んでいた。私は微笑みが彼に戻ってきた事が何より嬉しい。
しかし彼の笑顔はすぐに消えた。
視線は馬車の外にある。私も外へ視線を移すと小麦畑の先、地平線の空に黒い雲が立ち込めていた。
「どうしたの?」
シャルルが立ち上がり、馬車の窓を素早く閉めた。
激しく雨が打ちつけるような音と共に、馬車が揺れた。従者の悲鳴が聞こえる。
「な、何っ?」
シャルルが私を胸に抱き寄せる。窓を閉め切った夏の馬車は蒸し暑い。
まだ揺れている。
「何なの! シャルル!」
激しい雨音が続き、ほとんど声はかき消されてしまう。音と揺れはまだ治らない。
馬のいななきが聞こえ、馬車が激しく、大きく揺れる。
シャルルが何か叫ぶが、全く聞こえない。
馬車が傾き、一段と大きな音と共に私たちは一緒に身体を窓に打ちつけた。馬車の窓が地面に接している。
馬が暴れ、馬車が横に薙ぎ倒された事を理解したとき、雨音が止んだ。
「大丈夫か」
「ええ。庇ってくれてありがとう。貴方は?」
「私は大丈夫だ」
シャルルが、天井になった馬車の戸を飛び開けて、その戸口に捕まり、外へ脱出する。
シャルルが伸ばした手に捕まり、彼に引き上げられる。
開いた扉と反対側、馬車の側面に這い出た。
「いったい何が………」
一面の小麦畑の金色が土埃の中、跡形もなく消えていた。それだけではない。
緑が生い茂っていたはずの木々も冬が来たように枝が見えている。
「………始まった」
彼が呟いた。
「何が?」
私が尋ねる。
「蝗害だ……恐れていた飢饉がそこまで来ている」
彼は険しい顔でそう言うと、強く唇を噛んだ。
幸い、従者達は地面に伏して怪我はなく、馬車の車輪も外れることはなかった。
逃げた馬が戻るまで、近くの川までシャルルと従者が馬車のボディを押し、私は夏の日差しが降り注ぐ道を歩いた。
河岸に温泉が沸く場所へ来て、ひとまず休憩を取ることになった。日は山際へ差し掛かっていた。
額の汗をハンカチで拭う。日が沈み涼しくはなっても、やはり夏だ。
「すまない、アイリス。もう一頭の馬がまだ見つからない」
シャルルが汗で張り付いた髪をかき上げ、近づいてきて言った。
「貴方も飲む?」
私は川の水を汲み取った木のコップを彼に差し出す。シャルルはそれを受け取ると一気に飲み干し、額の汗を手首で拭った。
「生き返るな。……大丈夫か? 顔が赤い」
「私は十分飲んだわ。……ただ、前もここへ来たなと思っただけ」
「ああ。そうだね。あの時、君は何をしても眠ろうとしなかったから、そこの窪みに落としたな」
彼が視線で窪みに沸く温泉を示した。
「……そんな理由だったの?」
私が問うと、シャルルが首を傾げた。
「さあ?」
そう言うなり、彼は上のシャツだけ脱ぎ捨て、私を両手で抱き抱えた。
「ちょっと、待って! 皆が見るわよ」
「これだけ、日が傾いたら、暗がりで見えないし、どのみち今夜は野営になるよ」
ドレスごと、シャルルが横抱きしたまま、私を湯の中に落とす。
「ちょっと! ……強引すぎるわ」
そうは言いながらも、川底から湧き出す湯は汗をかいた肌に心地良い。
「そう? でも今日くらいは、汗も流してよく眠っておいた方が良い。これからしばらく忙しくなる」
「……忙しく?」
「さっきも言ったが飢饉が来るからだ」
「飢饉?………あの大量の虫のせいで?」
「虫はきっかけに過ぎないよ。遅まきの小麦がなくなれば、小麦の値が上がる。そうすれば様々な物の値も上がる」
「物の値段が上がると食べれなくなる人もいる、ということ?」
「それで済めば良いのだが………」
「どうしたの?」
「………いや、今は考えるのは止めよう。思い出の場所で語るのは無粋だからな」
「私にとっては良い思い出じゃないわよ」
「そうか? 私はあの頃より君の重みを感じることができて嬉しいよ」
もう! 私が気にしていることを!
私が視線を逸らして黙ると、彼が優しく私の髪を撫でた。
「アイリス、怒るなよ。あの日、デビュタントで見た君より痩せていたから困惑したんだ。王城では飢えないからね」
「……そう」
「……無理やり湯に落として悪かったよ」
「思い返せば、貴方は最初から良い人ね」
「君の事をずっと想っていたからね」
「あの日より前に私を知っていたなら、教えてくれれば良かったのに……ずるい人」
シャルルが肩をすくめ、私の額に口付ける。
「……さぁ、昔話も終わりにしよう。のぼせてしまいそうだ」
彼は私を残して、湯から上がるとトランクからタオルを取り出して、私に手渡した。
「従者達にも入るよう、伝えてくる。先に馬車の中で着替えておいで」
「ありがとう。そうするわ」
領地に戻ると、シャルルは猛然と仕事に勤しんだ。我が領地は早蒔きの小麦が主で、蝗害の被害は少なかった。
それでも彼は油断せず、他の作物の収穫を早め、保存食への加工を促し、王都で捨てられた物を再利用して資金を蓄える事に余念がない。
季節は夏から秋に移っていた。
山々が紅葉に染まる中、私は領民と保存食の加工を手伝い、忙しい彼の為、手紙の代筆を行なった。
「シャルル、これを見てもらえない?」
報告書で溢れた執務机の上でペンを走らせていたシャルルが顔を上げた。
「また王太子妃から茶会の誘いか? 適当に書いて断っておいてくれ」
「違うわ。今度は陛下からよ」
シャルルは手紙を受け取ると封蝋を解き、文面に目を落とす。
「何と書いてあるの?」
「城下では小麦の高騰で食糧不足が起きているらしい」
「それなら、行かないと」
私たちは再び王都へ向かった。
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