異世界からの戦友
酔いつぶれたアルバはカウンター席に突っ伏していた。
「アルバ?」
少し掠れた、ダスクのハスキーボイスがアルバの耳をくすぐる。アルバが目を開けると、ダスクが顔を覗き込んでいた。
「ん?」
「アルバ、泊まってく?」
マルクスもまた、アルバの顔を覗き込んで言う。彼の家はとても広く、酔いつぶれたりした客や、宿の無い旅人をよく泊めているのだ。
「うん……」
「じゃあ、こっちおいで」
珈琲豆やワインが陳列している棚をマルクスが動かすと、木材でできた重そうな扉が現れた。それは何処か陰気で、アルバの足は軽く震える。マルクスが扉を開けた先には暖炉があり、来客を出迎えていた。
部屋に案内されたアルバとダスクは、外から聞こえる雷鳴と雨音をBGM替わりにして、ひたすらにボーっとしている。それを退屈に思ったのか、ダスクは本を取り出した。が、アルバはむしろそれを面白く思ってずっと外からの音に耳を傾けている。
アルバは窓を開けた。当然、アルバに雨が降りかかる。だが構わないとでも言うように、颯爽と彼女は外へ飛び出した。
「アルバ?!」
呼び止めるダスクの声も気にする様子は無く、ひたすらに走っていた。
——つまらない。
アルバはそれすらつまらないと感じた。暫く立ち止まり、地上に染み行く雨粒一粒一粒を見つめる。遥か彼方の空から来た彼らの旅はもうじき終わるんだ。そう考えるとアルバは途端、悲しくなるのだった。
「終わらないよ」
アルバの後ろから聞こえてきた声に振り向くと、そこには銀髪の少女が立っていた。少女、と呼ぶには色気がありすぎる気もするが、彼女はアルバにとって
よく知った相手だった。
「アネラ……」
アネラ・アンナ・マウカ。異世界であるエステラの、マウカ王国というところの女王で、海の女神。最近海を壊滅させて、エステラを追放された。大戦争でもともに闘った戦友である。
「雨水は地面に染み込んで、動植物の生きるための源となるか、海へ還る。そしてまた天へ吸い上げられるの。ところでアルバ、もうじき大戦争が開戦するわ」
最後にさらっと告げられたその言葉は、アルバを驚愕させるのには充分すぎた。大戦争が開戦するということはつまり、全世界の王者が決定するということ……?
「前の大戦争からもう五億年は経ってるわよ。むしろここまでよく勃発しなかったよね。そうか、あんた封印されてたんだっけか……」
「まって。もうすぐに開戦しちゃうの?」
「というか、もう異世界では開戦してるわよ」
アルバはルスワールを取り出した。変わらずに、暁の様に輝く大剣。もう一回これで戦う……のか?
「とにかく、早く準備しな。ね、私達で一緒に戦わない?」
「勿論。ダスクも一緒でいい?」
「うん」
アルバとアネラ、そしてダスク。彼女らがタッグを組んで戦うと、随分と有利になる。暁と黄昏、海は天と地とみなされて対の関係になるからだ。だから大抵の神の弱点は突けるようになっている。
アルバはアネラを連れてパブに向かった。
「……お客さん? こんな時間に?」
流石にこの時間はマルクスも寝ていたらしく、眠い目を擦って彼はカウンターに立った。甘いミルクをアネラに差し出すと、彼女は薄桃の唇を開いてトクトクと飲み始める。
「彼女と君の関係は?」
マルクスがアルバに訊ねると、アルバはアネラを手で指して紹介した。
「彼女はアネラ・アンナ・マウカ。異世界人だよ。数億年ぶりの戦友」
「へえ……。異世界人なのにトワイライトの言葉が解るんだ」
「神は皆全知全能ですよ?」
「あ、すんません」
マルクスに華麗にツッコむアネラと、謝るマルクス。この会話のテンポがコミカルで、アルバは思わず吹き出してしまった。
「でさ、聞いてよマルクス」
「ん?」
珈琲を淹れながら答えるマルクス。ドリップしたての珈琲がカップの真っ白な世界に注がれていくのを、アルバはじっと見つめている。
アルバの手にはめた革の手袋。アルバの手が握られたことによってそれに皺が付く。
「もうすぐ、神々の大戦争が開戦するらしい」
ガシャン!
神々の大戦争、とアルバが発言した途端にマルクスの持っていたポットとカップが手から滑り落ちて、床で儚く割れた。ドリップしたてのほかほかだった珈琲も、床で無残に冷めている。
「それ、本当?」
「ええ、本当よ……」
「異世界からの文通により仕入れた情報です。確かなものかと」
アネラが付け足す。マルクスの小さな手がぶるぶると震えるのが分かった。
「君たちは戦うの?」
「ええ、勿論」
「そうか……だったらできる限り協力はするけど、だけど——」
「こんな時間にお客さん?」
マルクスが言いかけたのと、眠っていたダスクが棚を押しのけて部屋から出てきたのはほぼ同時だった。
「あ、どうも。エステラから来ました。アネラ・アンナ・マウカと申します」
「彼女とは前回の大戦争でともに闘った戦友なのだけど、覚えてない?」
ダスクはアネラの姿をじっと見た。ストレートセミロングの白に近い銀髪。右が鮮血の様なスカーレット、左が深海の様なマリンブルーの瞳。浅い海の様なシアンのオフショルダーは露出度が高く、彼女の色気のあるスタイルが伺える。露出された腹部は少しぷにっとしていて、フィッシュテールに包まれた脚は少し肉付きがいい。
そんじょそこらの男なら簡単に堕とせそうである。(だがこれに釣られるのはたいてい体目当てだとアルバは思った)
「ああ、思い出した」
ダスクはくっきりとした目を細めて笑った。アネラも、一重の幼げな目を、無くなってしまうんじゃないかと思うくらいに細めて笑う。二人の笑顔は妙に美しくて、切なげで、アルバは胸にぎゅっと手を当てた。
「で、マルクスはさっき何か言おうとしてたけど、どうしたの?」
珈琲豆の入った瓶をチェックしているマルクスに話しかけるダスク。瓶の蓋をマルクスが開けると、芳しい香が辺りに漂った。
意味深に優しく笑うマルクスを、アルバは見逃さなかった。
マルクスは絶対何か隠してる。彼女はそう確信していたのだ。
「いや、なんでもない……」
マルクスはそう呟いてキッチンへ行ってしまった。
アネラはというと、手帳を開いて日記を書いている。アルバはそれをそっと覗き込んだ。
【拝啓 親愛なる娘 嗚呼、愛する娘よ。母である私はもう、そこに帰れないかもしれません。次に帰ってくるときはきっと、骨になっているでしょう。いや、骨の姿ですら帰ってこれないかもしれません。マリア。貴女は自慢の娘。貴女が女王になるの。まだ幼いけど、貴女だったら大丈夫よ。 精一杯の愛をこめて。Anela】
几帳面な文字で綴られたその文章。アルバは誰にも悟られぬよう、涙をそっと流した。アネラの苦しみをアルバは理解できない。何故なら、アルバには息子も娘もいない。守るものは何もない。だけど、この若さで娘を産んで一人で育てたアネラ。彼女が娘にかける愛情は相当なものだ。なのにこんな運命になるだなんて。
愛情が、哀情になってしまう。
アルバはアネラをそっと抱きしめた。泣いていたのはアネラも同じだった。白い頬を、水晶の様に輝く涙が伝う。
「守るべきものは、ちゃんと守りたい。なのに、それができないだなんて……」
アネラの口から零れた独り言は、真夜中のパブに悲しく、儚く消えて行った——。
——もうすぐ、暁だ——。