卒業アルバムの余白
平和公園の桜が春の日差しにさらされて、今まさに満開を迎えようとしている。
おびただしいほどの花見客、携帯電話から放たれるシャッター音、勢いよく吹いて花びらを散らす風。眼前の光景はどこをどう切り取っても平穏そのものである。
去年までは、毎年この季節になると妻と娘を連れてこの公園に花見に来ていた。そのことを懐かしく思いながら、俺は空いているベンチに腰を下ろし、目を閉じて瞑想を始める。呼吸を意識し、できるだけ何も考えないよう努める。心を無にするのだ。波紋一つ立たない水面のように。
花見の喧騒が遠のいていく。
完全なる集中。しかしそれは長くは続かなかった。
「相変わらずじゃのう、剛志」
俺は目を開け、目の前にいる人物に向かって頭を下げる。
「先生もお変わりなさそうで何よりです」
「何を言うておる。変わりまくりじゃ。髪は白うなるし、腰は気づいたら曲がっとったし、人間、歳は取るものではないのう」
先生は引き連れてきた子分の一人に杖をわたし、俺の横に座る。
「お前ら、小遣いやるから出店でも見てこい。呼ぶまで帰ってくるな」
万札を四、五枚手渡し、ガラの悪い子分たちに離散を命じる。
「ですが親父、もし鉄砲玉でも飛んで来たらどうしますぜ」
「どうもせん。はよどっかいけ」
なおも子分たちは組長のそばを離れていいものか、迷っている様子。
「安心してください。俺がそばにいる限り先生には傷一つつけさせません」
「そうは言ってもなあ。あんた、いくら体がでかいとはいえ、一般人だろ。護衛なんてつとまらねえだろ」
俺は立ち上がり、腕を組んで、子分たちを見下ろした。俺の気迫に押されて、子分たちはみな一歩後退る。
「な、なんだよ。やんのか?」
「やめとけい。お前らじゃ束になっても剛志には勝てはせん」
「ぐっ」
子分たちは俺をにらみつけはするが、手は出してこない。本能で分かるのだろう。勝てないと。
「くそっ。親父に何かあったらタダじゃおかねえからな」
捨て台詞を残し、子分たちは思い思いの方向へ散って行った。
「すまんのう。ウチの若いもんがとんだ失礼をしてしもうた」
「いや、若いときはあれぐらい威勢がいい方が大成するでしょう」
「威勢がいいというか、あれはただの馬鹿共ぞ。まあ、皮肉なことにああいう馬鹿共の方がなぜか運よく生き残るがな。早死にするのは良い奴ばかり」
先生は咲き誇る桜に目を細めて言う。
「天音さんの法要は滞りなく進みよるか?」
「はい。先日、四十九日の法要を終えたところです」
「わしみたいなヤクザもんにも優しゅうしてくれる、いい人じゃった」
しみじみとそんなことを言ってくれる。こんな風に妻のことを思い出してくれる人がいると、なぜか俺の方が救われたような気持ちになる。
「先生、してご用件の方は?」
「おお、そうじゃそうじゃ。実はお前に頼みたいことがあってな」
「この剛志、先生の為ならどんなことでもやる所存」
今の俺があるのは先生のおかげだ。先生は当時札付きの悪だった俺を決して見捨てずに、高校卒業へと導いてくれた。四十代半ばで教壇を退いた後、ヤクザの組を立ち上げたのには驚いたが、今では火口組はその名を全国にとどろかす一大組織だ。
「頼みと言うのはな」
そこでいったん言葉を切り、少しの間を置いてから先生は言った。
「わしのかわいいかわいい孫娘に護身術を教えてやってほしいのじゃ」
思ってもいない内容に、数秒、放心してしまった。
「琴刃お嬢さんに、ですか?」
「そうじゃ」
「たしかウチの娘と同い年でしたよね? つまりこの四月から高校生、ですか?」
「いかにも」
しかし解せない。先生が孫娘を溺愛しているのは知っているが、なぜこのタイミングで護身術を? 俺の表情を読み取ったのか、先生が事情を話しだした。
「琴刃には学校への行き帰りはもちろん、休日も家の外に出るときはいつも護衛をつけておった。流石に学校の中までは護衛をつけてやれなかったが、ヤクザに囲まれて登校する子をいじめようなどという勇気を、今の小中学生は持ち合わせておらん。つまり、護衛さえつけておけば、護身術など必要なかったのじゃ」
じゃが、と先生は言葉を継ぐ。
「わしは間違っておった」
「どうしてそう思われるのですか?」
「あの子の卒業アルバムを見てな、わしは愕然とした」
笑っている写真が一枚もなかったのだという。友達もいない様子で、生徒も先生も琴刃お嬢さんを避けていることがうかがえた。極めつきは、真っ白な見開きのページ。そこは本来であれば、クラスメートや友達や好きな人からメッセージを書いてもらうためのページだった。琴刃お嬢さんの卒業アルバムにはただ広大な余白が広がるばかりで、一文字たりとも何も書かれていなかったのだという。
「そんなあの子は、わしにも父親にも何一つ恨み言を言わなかった。それどころか、無事卒業できたのはわしらのおかげだと、そう言ってくれてのう。わしはそれが不憫でのう」
先生の気持ちはよくわかる。責められた方が楽なときというのが、人生にはある。
「わしは悟ったのじゃ。あの子に必要なのは物騒な面した護衛ではなく、かけがえのない友達なのじゃと」
「そこで自衛の手段として護身術ですか?」
「そうじゃ。あの子が護身術を身に着けてくれれば、今までのようにそばに護衛をつける必要はなくなる。無論、いくらか距離をおいて遠巻きには護衛をつけさせてもらうがな」
ヤクザの組長の孫娘である以上、完全な自由というのは享受しえないか。
それでも先生は方針を転換し、できるだけの自由をお嬢さんに与えようとしている。
「頼む、剛志。あの子に護身術を教えてやっておくれ」
「俺なんかでよければ、全身全霊をもってお手伝いさせていただきます」
柔らかな陽光の中、先生は満足そうにうなずいた。
「わしは琴刃ちゃんへのお土産にベビーカステラ買って帰るが、お前さんはどうする?」
「じゃ、俺も、娘に」
愛娘の雷華は近頃すっかり雰囲気が変わってしまい、よくわからない言葉を話すようになった。それでも父と娘。コミュニケーションを取り合って生きていかなければならない。その一手段としてベビーカステラを献上するというのは悪くない手だと思った。
屋台の列に並んでいると、娘からLINEが来た。
――ちょ、今起きた。書き置き見たんだけど、パパ、平和公園行ってんの? マジ卍。とりまタピりたい気分だから、出店でタピオカミルクティー買ってきてくんない? ついでにたこ焼きとかベビカスとかも買って来てくれたら雷華マジあげみざわ。おけまる?
俺は一文字「りょ」と返信し、ほんのりと霞んでいる春空を仰いだ。




