書籍化記念番外編「赤い仔犬と月の女神」(後編)
クロエが宿屋の風呂から上がると、テーブル席にシンとロックが座っていた。ロックは顔を覆って項垂れ、シンはそんな彼を見下ろしながらブローチを弄んでいる。足元には仔犬に戻ったメランポスが、大人しく眠っていた。
「何してるの?」
「こいつの処遇をどうするか、チャコに判断してもらうために待っていたのですよ」
「ほんっと、ごめん!」
ロックが勢いよく頭を下げたので、ゴン! とテーブルに打ち付けてしまう。どうやらシンはこの事を監視者に報告する気満々のようだが、それをされるとクロエも困るのだ。ロックの向かい側に座ると、クロエも同じく頭を下げる。
「こちらこそ、驚かせてしまって。シンにも再三注意されていたけど、温泉と聞いて浮かれ切ってたのよね。だからこの件はお互い様って事で流しましょう……いいわね、シン」
「チャコがそれでよろしいのなら」
「え……怒ってないのか?」
ブローチを起動させる事なく懐にしまうシンから、ロックの視線はクロエへと移る。彼女も思うところがないわけでもないが、それより気になる事があったので話を進めたかった。なのでわざと冗談めかして踏ん反り返る。
「ほら、私って美人じゃない? 見惚れてしまってもしょうがないと思うの」
「えー……自分で言うか、それ」
ぽかんとした表情から一転、苦笑いをするロックの顔を、クロエは両手で挟んで覗き込んだ。
「んー? ロックは見惚れてなかったと? 私の裸はそんなにお粗末でしたか? ごめんなさいねぇ、お見苦しいものを」
「いや、そんな事は言って……怖い怖い怖い、すみません見惚れてました! てっきり月の女神かと思ってました!」
顔を逸らす事も許されず、ロックが必死に謝り倒す。王都にいた頃を思い出し、シンは呆れていた。もっとも、断罪される前であればこんなものでは済まないが。
「ほとんど脅しじゃないですか、チャコ」
「うん、私もここまで言われるとは……何なの、『月の女神』って」
解放すると何故か咳き込まれたが、どうやら赤面を誤魔化しているらしい。かわいそうなのでこれ以上弄るのはやめておく。
少し落ち着いてから、ロックはテーブルに白い石をコトリと置いた。変わった形だ……クロエが昔投げ捨てた、家庭教師からプレゼントされた香水瓶に似ている。
「これは『月の石』と言って、ガルムが守っていた財宝の一つだ。俺に加護を与えた奴から依頼されて、これを探していたんだよ」
「月の石!? これが……さっき温泉に投げ入れてたわよね。温泉がパーッと光って、私の神力を打ち消したわ」
「打ち消したんじゃなくて、融和したんじゃないか? 神力を消せるなら、結界にも影響が出ているはずだ」
クロエが気になっていた、光る温泉の秘密。手に取って眺めれば、真っ白ではなく半透明のようだった。黒くどよどよとしていた彼女の神力が透明になった事を「打ち消した」と言ってみたのだが、なるほど、ロックの推察も納得できる。
「実際どうかは分からないけどね。で、あれに何の意味があったの?」
まさか夜でも温泉に入れるための照明効果でもあるまい。訊ねると何故かロックは言いにくそうに頬を掻いた。
「だからその、依頼主によれば満月の夜、聖なる泉に月の石を浸せば、月の女神が姿を現す……事もあると」
要は入手アイテムの効果を試したくなったのだ。温泉を聖なる泉と言っていいものか微妙だが、実際に温泉の周りに瘴気はなく、魔獣も寄って来なかった。
「結局、覗きじゃないですか」
「冒険者の浪漫だろそこは。だからまあ、半信半疑だったんだよ」
「でもロック、私をその月の女神と見間違えたのよね?」
ツッコめば、ロックは真っ赤になって俯く。別にいじめるつもりはない……王都にいた頃だったら、しつこいぐらいにネチネチ追いつめていただろうが。
「まさかチャコとは思わなかったんだ……地毛の色は予想してたけど、カツラ外してるところまでは見た事なかったから」
「私、短髪だから女神っぽくはないんじゃない?」
カラフレア王国では、短髪の女性は罪人か神職の者だ。クロエの疑問に、ロックはああ、と首を振る。
「コランダム王国では結構短髪の女は多いぜ。特に月の女神に関する伝説だと、彼女は狩人の守護神だから勇ましいイメージが強いんだ」
(狩人の守護神ね……弓の腕が一向に上がらなかった『クロエ』には、皮肉な話だわ)
自嘲の笑みをどう勘違いしたのか、ロックはもう一度頭を下げる。
「……やっぱりあんたが許しても、こっちの気が済まねぇよ。お詫びに何かして欲しい事はないか? 俺にできる事なら何でも…」
「そんな、気にしな……今、何でもするって言った?」
殊勝な態度で謝罪するロックだったが、クロエの目が異様に光ったので、体を仰け反らせる。逃がすかとばかりにテーブルに乗り上げようとするクロエ。
「今、何でもするって言ったわよね?」
「あ、ああ……できる範囲で」
「チャコ、テーブルから下りてください。はしたないですよ」
シンの苦言も聞こえないふりで、ドン引きしているロックの手を握りしめる。まさかモモへの復讐や第一王子との復縁を手伝えとか、言い出すとでも思っているのだろうか。今のクロエにとって、その二つはどうでもいい。そんな事より。
「じゃあ、変身してみせてよ」
「はっ!? ……いや、それはちょっと」
「どうして? 何でもするって言ったわよね、あれは嘘? キサラたちの前ではできたんでしょ。と言うか私の全てを見たんだから、ロックも全て見せるべきよね、違う?」
全てと言いつつクロエは隠し事をしているので、主張がおかしい自覚はある。勢いで迫りながらポンポン捲し立てると、ロックは涙目でシンに助けを求めていた。
「おい、こいつ止めろ。いいのか、第一王…」
「よかったですね。チャコを本気で怒らせれば、裸に剥いて逆さ吊りの上、百叩きにしなくてはならなかったところです」
にっこりと悪魔の笑みを浮かべるシン。見捨てられた事に絶望してクロエに視線を戻すと、かなり近い距離で目が合った。コク、と息を飲む音がする。
「……怒ってないんじゃなかったのか?」
「けじめは大事よね」
「そうだな、だからあんたもここにいるんだしな……あー、くそっ!!」
クロエから離れ、何を葛藤しているのか頭をぐしゃぐしゃにすると、ロックはメランポスの首根っこを掴まえてクロエの方に投げた。突然起こされて驚いたメランポスだが、クロエの腕の中と知ると、嬉しそうに頬を舐め出した。
「あははは、くすぐったい……ちょっと、ロック!」
「ダメだ言えねぇ!! キサラみたいに爆笑されたら、絶対立ち直れない……逆さ吊りの方がマシだ!!」
「えっ、そこまで!?」
有耶無耶にして逃げるロックを追いかけようとするが、メランポスに邪魔されている間に階段を駆け上られてしまった。ぷくっと頬を膨らませるクロエ。
(まあ、見当はついてるんだけど……『アレ』の事よね、たぶん)
彼が異常に嫌がっていた事と、『変身』と言う言い回しに惑わされたが、実はおおよそ察していたクロエ。だが本来『クロエ』が知りようもない事なので、敢えて知らないふりをする。
本当ならラキたちのように、気の置けない仲でいたい。しかしそれは、欲張り過ぎなのだろう……ロックの大切な人を傷付けた罪人には。ともすれば彼の優しさに甘えて、寄りかかってしまいそうになる――自分が何者であるのかを忘れてはいけないと、クロエは改めて肝に銘じた。
逃げ込んだロックの客室を見上げていると、シンがそばまで近付いてくる。メランポスは彼には懐かず、がうっと威嚇の声を上げた。
「ところでお嬢様、何故ロックが鹿になったなどと思い込んだのですか。たとえ変身できたとしても、こんな魔獣の巣窟ではあり得ないでしょう」
「直前まで思い出してたのよ、メランポスの名付けの由来になった神話を――
ある男が狩りをしている時、月の女神が水浴びしているところを見てしまうの。覗かれた女神が激怒して、呪いで男を鹿の姿に変えると、連れていた猟犬が主とも知らずに襲いかかり、男は食い殺されてしまいました――って言うお話なんだけど」
「トイレの女神と言い、お嬢様は外国の神話に詳しいのですね……メランポスは仔犬の名前ではなかったんですか?」
「そうなのよね。どうして『仔犬』なのか、私にも分からないわ」
(それを知る術も、今の私にはない)
もう戻らない遠い過去に思いを馳せながら、宿屋の外にある犬小屋にメランポスを連れていき、鎖で繋ぐ。ガルムの彼はその気になれば、鎖などいつでも断ち切れるが、ロックとクロエの言う事を聞いて大人しく首を差し出している。力と契約で絶対服従を誓う魔獣は、人間の従者よりも余程素直だ。
(だから連れていたのかしら、『魔女』も……こうしてロックが仲間にして、私も名付け親として契約を結ぶなんて、因縁を感じるわ)
空を見上げると、憎たらしいほど美しく輝く満月。まるでクロエの運命を嘲笑っているかのようだ。ぎゅっと唇を噛みしめ、クロエは誓う。
「私は……月の女神じゃない。魔女にもならない。悪――だって」
「お嬢様?」
「戻ろう、シン」
言葉の意味を測りかねているシンの手を取ると、肌寒さに少し震えながらもクロエは笑ってみせた。
※番外編小説はこれで完結。次回から本編に戻ります。
※ツギクルブックス様より書籍化が決定致しました。詳細は活動報告にて。





