11:雇用の条件
朝食の後、クロエは女将にしばらく滞在させて欲しいと頼み込んだ。ただし理由は結界云々でなく捏造である。
『私たち、もうお金がなくて……家を追い出されてからは冒険者にでもなろうと思っていたのですが、ここには上級者向けしかないですし。もしご迷惑でなければ、働かせて頂けませんか?』
『確かにここには正式な従業員はいないから助かるけど。でもねぇ、まともに給料なんて払えないよ? こんな辺鄙な場所に来るのなんて、魔物か山賊か命知らずの冒険者くらいだから』
『置いて頂けるだけでいいんです。街へ下りてもきっと、父の手が回って働き口が見つからないだろうから、そうなったら私もう……お願いします!』
クロエは父の手と言ったが、実際はレッドリオが護送先をナンソニア地方に決めると同時に国中の役所に『クロエ=セレナイトを雇ってはならない』と言う御触れを出している。と言っても、対象は家庭教師や図書館司書、商人の補佐などの貴族の娘が働く上での定番であり、底辺の仕事に規制はかけていない。天より高いプライドのクロエが、自ら率先してきつい仕事を引き受けるはずがない。
だが背に腹を代えられぬともなれば体を売る事もあり得ると仄めかされ、女将は同情の眼差しを向けた。
『そりゃ、このまま無一文で放り出すのは忍びないけど…大丈夫かい? うちは宿屋と酒場を兼任しているし、荒くれどももあしらわなきゃならない。貴族のお嬢さんにはなかなかハードだよ』
『でしたら一週間の実習期間をいただけますか? 教えられた仕事をこなせず使えないと判断されたら諦めますから』
クロエの一歩も引かない様子に、ついに女将は折れたようだった。こうしてイーリス山中腹の宿屋と契約を交わす事になった二人だったが、ここでクロエは偽名を使った。
『……チャコ。チャコ=ブラウンです』
『チャコかい。何だか貴族らしからぬ名前だけど、詮索しない方が面倒がなくていいね。あんたは?』
『シンです』
『シン=ブラウンにチャコ=ブラウン……それじゃ、これからよろしく頼むよ。あたしはアーデルハイト=グレース。亭主はマスラット=グレースってんだ。客の中じゃ専ら女将と牧師で通ってるけどね』
『よろしくお願いします、女将さん』
部屋はとりあえず客室の一つを使わせてもらう事になったが、問題は同室にされた事だ。
『あんたたち、兄妹なんだろ? この二人用の部屋を使っとくれ』
そう言って女将は部屋を出て行く。取り残されたのは、クロエとシンの二人きり。今までは宿に泊まっても別々だったし、後は馬車の中や野宿と言った仕方のない状況ぐらいだが、今回の同室はそうもいかない。もしもレッドリオの婚約者のままなら、真偽はどうあれ不貞の疑いは免れなかっただろう。
しかし固まるシンとは裏腹に、クロエは憎たらしいほどに落ち着いていた。