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高層試合

作者: 有山苔太

 目の前の大男が邪魔で仕方ない。祐一にしたところで決して小柄ではなく、同世代では長身の部類だ。ただこの図体が、その向こうにいるご老体の読んでいるスポーツ新聞を隠しているのは、なんともいまいましい。カバンの奥にしまい込んだスマホを強引に取り出すのは気が引ける。通勤電車の中、けばけばしい紙面に踊る文字はどうやら大逆転があったのだ。一面は写真が占めていて、活字だって十分大きいが、なにがどうしたのかがちょっと見には分からない。

 祐一は何気ない素振りで体をずらせ、男の肩の横からのぞこうと試みた。四十九号炸裂、とそこまで見たとたん、カーブに差しかかった電車は大きく揺れた。体勢を立て直した時、こちらに向いてるのは釣りの記事ではないか。60がらみの貧相しい男はしっかりと手の中に新聞の端を握り込み、ちょっとやそっとでは違うページに移動することなどなさそうだ。朝っぱらから風俗面を読みふけっているのか。まあ好意的に考えてやるなら、ちょっと譲ってやって芸能記事か。

 祐一は諦めて目を閉じた。昨日も帰宅したのは遅い時間だった。食事をとり、入浴し、ベッドで妻の真由美から一日の出来事を聞かされながら、いつの間にか寝入ってしまった。もちろんテレビも見ていない。今朝は今朝でコーヒーを半分飲んだとき、もう七時十分だった。十三分までに玄関を出ないと急行に乗り損なう。一本乗り過ごすと新宿につく時間が十五分も違ってくる。

「おはよう」

 電車から吐き出されたとき、後ろで聞き覚えのある声がした。

「やっと涼しくなったねえ」

 総務部の柳次長が、いつものように人なつこい笑顔をみせた。

「今年は特に暑かったですよ」

 柳は祐一より一時間以上もこの電車に乗っていなくてはならない。通勤圏内ではあるが彼の住まいは、ハイキングコースとして有名な、丘陵地帯にある。空気の汚れに敏感な家族のためとかで、三年ほど前に引っ越したのだ。彼の年でこの通勤は応えるだろうに、朝から飄々としてにこやかな様子は、人徳すら感じさせる。

「昨日は凄い試合だったねえ」

 未だ余韻さめやらずという、遠くを眺めるような様子だ。

「残念ながら、見てないんですよ」 

「そう。きのうは逆転又逆転で、こんな試合滅多にないらしくてね。確か四十年ぶりだとか解説者が言ってたけど」

「どっちが勝ったんですか」

「逆転サヨナラでカープ」

 柳は苦笑いした。対戦相手のジャイアンツを応援して、確か五十年になる筈だ。

「それはいけませんね」

「いや、良いところまで攻めたんだが、変なとこでスクイズなんてさせるから、失敗しちゃってね」

 と渋面を見せると、

「ところで最近はそんなに遅いの」

 と話題を変えた。

「ええ、今度のプロジェクトは立ち上がりがすっきり行かなくて」

「そう、じゃあ毎晩夜景を遅くまで眺めてるんだ」

 祐一のオフィスは高層ビルの四十三階にある。その階は、一部を接待用のバーにしているくらいで、他の階と違って窓を大きくとっている。膝の高さからほとんど天井に届くまでがガラス貼りとなっていて、オフィス部分も例外ではない。三十八階から四十三階までが祐一の勤務する会社が入っており、柳は一番下の階に机がある。他の階は、こんな展望レストランのような内装ではない。そのフロアーに未だに見物にやってくる社員がいる。ほとんどの社員が帰宅した後のひっそりとした時間、忍び込むように訪れることが多いのはなぜか。

「行き詰まると遠くばかり眺めてますね」

「早く軌道に乗らないと落ち着かないね」

 夜景が慰めになるのも、早い時間の内だ。光の中に人間の息吹が宿っているのも、十時を過ぎる頃までだ。そこから見えるビルの明かりは未練たっぷりに消えていく。一つ又一つと消え去るまでのわずかな時間に、諦めと倦怠を窓の外に吐き出す。

「下の階でも外がよく見えると思いますけど、変なものが見えるときはありませんか」

「なんだいそれは」

 柳は笑いながら半ばあきれたような声を出した。

「いや窓越しになんだかこうもりみたいなものが見えたんですが」

「ああなるほど、それはあるだろう。案外都会の真ん中に野生の生き物がいたりするものらしいよ。まあ、カラスが良い例でさ。どこに巣があるか何て僕等には分からないが、あれだけ大量にいるんだから、あっちこっちに巣くってるんだろう。こうもりだって橋の下にいたり、廃墟になったビルの中になんていそうだね」

「ご覧になりましたか、結構たくさんいるようですが」

「いやいや僕は見たことないが、そんなにいるの」

 柳は驚いたようだったが、それがこうもりでないことは、祐一には分かっている。まさかノイローゼ扱いされることもないだろうが、黙っているほうが良さそうだ。

 建物に入ると、柳とは違うエレベーターに乗ることになる。四十階以上とそれ以下では別のエレベーターが運行している。

 オフィスのドアを開けるとそこはあくまでも明るい。日中、日の光だけで照明をまかなえれば、経費節減に繋がる。しかし、光にむらがあり目に負担がかかると訴える社員もいる。課毎にパーティションで区切られた、一部屋には十人分の机が置ける。但し、最近は工場出張者が多く、普段は半数も埋まらない。

 その日は予想通り、作業ははかどらなかった。打ち合わせの調整を設計課に任せたのが失敗で、午後の会議がキャンセルになった。祐一は次回プロジェクト「新オフィス換気システム」の技術書にもう一度目を通していた。窓に近い彼の席には、隣のビルが威圧感を持って迫っている。

「高層階で仕事をする場合の心理分析っていうものが、あったはずですがねえ」

 このフロアーに移動してきたとき、後輩の丸木がそうぼやいたことがあった。一年も前のことだ。

「こんなに外が見えては集中出来ないと思いませんか」

「窓際には衝立を置いた方がいいな」

 祐一もまた足元がおぼつかない気がして、外を見下ろしながら呟いた。

「高層マンションで育った子供が内向的になるっていう統計があったんじゃなかったでしょうか」

 見渡すと遠くの空には富士山の頂上が浮かんでいた。隣接する高層ビルがなんだかおもちゃのように見えて仕方がない。耐震構造については疑いもないが、妙に覚悟を促されるようにも思えた。そのころはほとんどのブラインドを下ろしていたのだが、ある日照明を計測する一団がやってきて、一部のブラインドが撤去された。開け放されたのは、確かに、一日を通じて直射日光が入らない部分だけではあったが。

 夕刻、いくつかの高層ビルに乱反射した光がこの部屋に入り込んでくる。光の網に縛られて、フロアーを行き来することへの躊躇が生まれる。わずかな時間この部屋の社員は机に目を落とし、自分の仕事に注力する。しかし、時には光の海の中を歩かなくてはならない事もある。そんなときは、形のない自分、乱反射のきらめきに輪郭を失いそうになる自分を意識しながら、ゆっくりと歩むのだ。一枚のコピー、一束の書類を運ぶだけであっても。

 午後遅くになって、プレゼンテーション資料をチェックする必要が発生した。顧客は大手銀行の計算センターだ。大型のサーバーを抱えている相手は注文がうるさいのが常だ。

 また、あれを見ることになるのだろうか。祐一は、昨日始めて意識した「もの」たちを思った。昨日は十時を過ぎていた。今日はその時間までここにいるだろうか。祐一は熱いコーヒーを入れ、目の前の仕事に集中することにした。

 八時を過ぎた頃には、この部屋には祐一しかいなかった。彼以外には見回りのガードマンと、別の階から資料をメールボックスに入れに来る社員の姿がある程度だ。祐一はカバンからスマホを取り出した。最近はゲームの進み具合が早いので、そろそろ後半戦に入っている頃だ。果たして試合は八回の裏、同点のまま膠着状態が続いていた。今日は贔屓チームと贔屓選手の対戦だ。先発投手は祐一が兼ねてから応援していた選手だが、今年移籍し新天地で活躍をしている。肘にメスを入れ三年のブランクから昨年九月に復活し、今年は新チームですでに二桁も勝っている。力投が目に浮かぶが、試合は投げ合いのまま続き、いささか単調なムードだ。

 資料の山は半分も減っていない。極めて豊富な機能と高度な性能、輝かしい成果をもたらし収益の飛躍的な増加を約束する資料。オリジナリティ豊かなデータに古典的分析の手法。うたい文句が祐一の視界を滑っていく。ヴィジュアル性には疑いもないが、どの程度説得力があるか。もう少し地味な脚色を施す必要があるに違いない。

 気がついたとき、スマホでは解説者とアナウンサーが今日の試合を振り返っている。肝心な所を聞き逃した悔しさに、祐一は音量を上げた。今年三度目の完投勝利、肘を痛める前とほぼ同じペースで来ている。歓声が収まりつつあった。

 電源を落とし、資料の修正すべき部分にマーカーを引いた。このプレゼンテーションも今日の完投勝利と同じくらい分かりやすい物になればいいのだが。コーヒーを入れ直し仕事が一区切りしたとき、十時を過ぎていた。

 ほうっておくに越したことはない。だが、一方で正体を確かめたい欲求もあった。窓際には接近防止のため等間隔にポールが立ててあり、太い飾りひもがポールとポールの間に渡してある。祐一はその青い紐を跨ぎ、ガラス面に近づいた。窓の明かりが消えた高層ビル群はさながら墓石の集まりだ。その墓石の輪郭にいくつもの、ちっぽけな虫のような赤い光がとりついている。コンクリートの塊は昼間ため込んだ息を少しずつ吐き出している。祐一が窓際を少し移動する度、長方形の影はゆっくりと傾いた。

 今夜もそれはいた。祐一がはっきりと目撃する以前から、それは墓石の壁面や誰もいない部屋の窓にうごめいていた。数はどのくらいか、現れては消え又再び出現するのを数えることなど出来そうもない。ここからはちっぽけに見えるそれは、人間ほどの大きさがあるようだ。黒いインクの染みを空中に落とすことができたなら、こんな形状になるだろう。

そしてその染みは微妙に形を変えている。向かいのビルの窓の部分に現れたのは、おたまじゃくしのようなしっぽを出すと、それを動かしながら宙を泳いだ。祐一が目を凝らすと一瞬に消え失せる。実体が現れては消え、再び現れる事を繰り返しているようだ。

「錯覚ではない」

 彼はそう自分に言い聞かせたが、理解しがたいものに出くわしたときの、焦りと不安が入り交じった状態からなかなか抜け出せなかった。むしろ昨日の方がずっと平静だった。何しろそれが現れていても光の具合か何かだと思い、帰り支度をし始めるまで、何とも感じなかったのだから。気になり始めたのは帰りの電車に乗ってからだった。

 祐一は机の電話に目をやった。誰か人を呼びこの目の前の光景を目撃してもらおう、との考えがよぎったのだ。しかし、仮にもしこれが自分だけに見えているのだったならと思うと人を呼ぶのは危ない行為だ。

 祐一はもう一度窓の外の動く影達を見た。さっきは平面的にしか捕らえられなかったものが、今は立体的に見えている。

「別に実害は無いじゃないか」

 その通り、それらは現れては消え、ただそれだけを繰り返しているのだ。祐一は自分の神経が平常時の状態に戻っているのを知った。そして、影達からも悪意だとか恐怖を全く感じられないことも分かった。

 彼は仕事を続け、昨日より少し遅い時間に帰宅の途に就いた。

 それからしばらく、祐一は自分と同じものを目撃した社員がいないか、それとなく注意を払う日々を続けた。最近遅くまで残業しているチームのメンバーの間に何か噂が流れていないか聞き耳を立てた。ある時、エレベーターで、昨日は終電が無くなるまで仕事をしたとぼやく声を聞いた。聞き覚えのあるそれは、去年まで祐一の部下だった遠藤美代子の声だ。同じ部署での仕事ぶりを思い返すと、まず持って彼女が深夜まで集中を続けることなどとうてい不可能だ。間違いなくお茶を飲んだり、菓子を摘んだり、ひょっとすると窓の外をぼんやり眺めていたことだって、十分あり得る。

「最近遅いんだって」

 祐一は、昼休みのカフェテリアで声を掛けた。

「ええ、もう大変なんです。何でも私に振られちゃって」

「資料の作成が多いの?」

「英文を訳さなきゃいけないんですよ。うちの若手みんな使えないのばっかりなんで」

 美代子の去年までの仕事ぶりが蘇り、苦笑したくなる思いをこらえ、

「僕も最近遅いんだが、疲れると窓の外のビルの点滅にばっかり目が行って」

 と水を向けた。

「なんだか大きな建物が迫ってくるのって怖いですよねえ」

「そうだよね。一人取り残されたみたいで、気味が悪いことがあるよ」

「一人で残ってるんですか」

「やむを得ず」

「こっちは山崎次長がいつまでも帰らないんで、みんな大迷惑です。自分は家が近いもんだからねばってられるんでしょうけど」

 不満げな様子を見せるだけの美代子からはなにも期待できないことは明らかだった。それ以上尋ねることは止めにしておいた。

 一方で祐一はそれらを撮影することを試みた。下の子が小学校の高学年になってからはあまり使用していない、旧式のビデオカメラを用意し、闇の中に動く影を追いかけた。家でこっそり再生したテレビ画面には、微かに影達を捕らえることが出来ていた。但し、機械の性能のためか、建物の間の闇の部分と余り見分けがつかない。拡大するともっと訳が分からない映像になり、媒体が痛んでいるだけのようにしか見えない。

 腹立たしく思いながらも、祐一はしばらく撮したものの観察を続けた。ビルから眺めていたときは全く気まぐれに出現するようだった。しかし、こうしてビデオで確認すると現れ方に法則があるようなのだ。それらはビルの谷間の空間に遍在するのではない。さながら一つか二つかの群が、一定の奥行きと一定の高さの範囲で飛び交っているのだ。出現している場所も祐一の勤務するビルの周辺と彼のいる階の辺りだけのようだ。そして、そいつらは目まぐるしく動き回っている。出現したとたん一斉に同じ方向に集まろうとすることがある。大きさはそれほど差が無く、一つの塊に集約するようなことはない。又、

すうっと流れ星のように残像を現すものもある。それはかなり小さめで、大きな影から弾みをつけるように分離して、別の影に到達する。

 一時間近くビデオを見続けたが、影の動く様を観察したという以外得るものはない。マスコミに持ち込むことを思いついたが、どれほどの価値あるものとして扱われるかが不明だ。いじり回されたあげく、阿呆扱いされるような目にあうのだけはごめんだった。不思議な現象の第一発見者として、このビデオを保管するに留めようと決め、再生を停止した。

 テレビ画面にはその日の野球の結果が映し出された。またしても、スパイクスがホームランをかっ飛ばした。早くも五十号に達しているので、この分だと新記録もあり得る。祐一の贔屓チームは十二回引き分けで、いっこうに首位との差が縮まらない。昨年の補強失敗が未だに響いているようだ。大体、十年選手の捕手がいるというのに、金に飽かせて、新鋭の女房役を獲得する必要なんて無いはずだ。

「まだ起きてるの」

 寝室のドアが開き、妻が現れた。

「今日も引き分けよ」

 画面に目をやり、あくびをしながら言う。

「今見たとこだ」

 祐一はテレビのスイッチを切った。

 そのうち誰かが影に気づくだろうとの思いが叶えられないまま時は経ち、ペナントレースは大詰めを迎える頃になっていた。柳は機嫌がいいようで、早くも日本シリーズに先発させるピッチャーの心配をしていた。

 祐一はその時、パソコンに向かっていた。優勝が決まりそうな明日の試合の応援メンバー誘うメールを、受信するやいなや削除したところだった。送信してきたのは、入社三年目の若手だが、宛先に柳の名前もあった。

「建築士さんとの打ち合わせご同席お願いします」

 開発三部の課員が祐一を呼びに来た。

「申し訳ありませんが、企画からもぜひ出席お願いします」

 まもなく退社時間になるところだった。

「いいでしょう。長引きそうかな」

 祐一がそう尋ねても、首を傾げるばかりで、どうやら遅くなりそうだ。今日は中継は無い日だし、早く帰る必要もない。

 打ち合わせの議題は、今回首都圏を中心に展開する予定の総合換気システムについてだった。一戸建ての換気を行うためのダクトの配管に関し、建築士を交え打ち合わせを開催したのだ。祐一は予算の手配と、工場との調整が必要になる見通しがあったため、参加を求められたのだ。

 打ち合わせは長引いた。技術的な確認が中心となったため、祐一はあくびをかみ殺すことが多かったが、その日のメンバーに一人目を引く存在があった。

 佐藤京子一級建築士、と紹介された女性は、恐らく祐一とほぼ同年代か。発言の内容や、打ち合わせの中で一目置かれている様子はどうしてなかなかベテランのようだ。但し、仕事を生活の中心に置いている女性にみられる、中性化の傾向が全くない。外見も、思考過程の細やかさにおいても、女性を意識させる。

 さらに、男に引けを取らない分析力にも祐一は感心させられた。男どもの、単純で前例ばかりを引き合いに出す発想に比べ、柔軟で合理的な提案を行っている。落ち着いていながら華やかさのある装いも加わって、一座の主役は彼女に決まりつつあった。

「佐藤さんってなかなかでしょう」

 休憩の時間、コーヒーの自動販売機のところで、開発三部の友田が祐一に囁いた。

「なんだい、関心があるっていうのか」

「いやいや、だって僕より年上でしょう」

「自分で事務所を持ってるのかな」

「共同経営らしいですよ。著名建築家の弟子筋だそうです。残念ながら既婚者ですが」

 友田の表情を見るに、早くも崇拝者の一名となりつつある。

「結構したたかそうじゃないか。途中でいきなり方向転換してこないかな」

「でも彼女の考え方は正論ですからね」

 と、祐一の懸念など、意に介さないようだった。

 打ち合わせが終わり、だが、終わってから更にこまごました検討事項があった。祐一の居る、パソコンの使いやすいフロアーに、人数を絞って移動することになった。

 パソコンでデモの画像を流しながら、熱交換率低下を阻止する検討が行われた。ノートパソコンの周りを取り囲みながら、懸案事項をまとめていく。画面が小さいので、皆が自ずと覗き込む姿勢になっていた。祐一は後ろの方にいたが、佐藤京子が身を乗り出してパソコンの画面を指で示したとき、目の前に肉好きの良い腰が突き出される格好になり、思わずたじろいだ。

「壁の中を這わせるのはこの数値からみても採用出来ません」

 疲れも見せず艶のある声音で言い、皆はうなずかざるを得ないようだった。

 やがて、懸案を出しきって打ち合わせが終わり、めいめいが持ち場に戻る中、京子はもう少しここの机を借り、資料をまとめることになった。

 すでに八時を過ぎていた。祐一はやらずもがなの人事ファイルに入力しながら、視界の端に京子の姿を置いていた。中学生の子供がいてもおかしくない年齢のように見えるのだが、所帯じみたところがない。優雅さと肉感のバランスがとれ、そして商売上もそれを武器としていないところがますます好ましく見えてくる。

 ふと、ノートにメモをしていた京子の指が止まった。顔をあげたその視線の先には、闇に沈んだ高層ビル群がある。なにかを見つめている風情だが、とまどいがあるようだ。

 あれが始まる頃だ。

 祐一は窓の外に視線を走らせた。そこには、祐一にとって見慣れたものが出現している。闇を透かして見るまでもなく、そこかしこに湧き出た黒い影が躍動を始めていた。

 京子が腰を浮かせ、窓際へ近づこうとしたのを捕らえ、祐一も立ち上がった。

「ここはうちの展望台と呼ばれているフロアーなんですよ」

 いきなり声を掛けたにも関わらず、京子は落ち着いた様子だ。

「ほんとに、一面ガラスですね」

「ただ、建物が接近しているんで今ひとつ眺めが良くない」

「遠くばかりが見渡せるより落ち着くじゃないですか。高い建物に囲まれていると保護されているみたいに感じられますね」

 京子は祐一に目を移しながらも、明らかに影の存在を意識していた。

「どうも将棋倒しに倒壊するようで災害時が気になりますが」

 祐一は意識的に影を注視した。京子は、祐一の様子からそこに現れているものが錯覚でないことを知るだろう。

「そういうのって、一度気にし出すと後をひきますね」

 飛び回っていた影達が、つと静まるかのように動きを止めた。数秒の後、一斉に騒ぎ出すかと思うと、一つの影からちっぽけな塊が離れて飛び出し、もう一つの影に到達した。

「・・・」

 京子の視線がその軌跡を追ったのを祐一は見逃さなかった。

 二人は顔を見合わせた。祐一が言葉を継ごうとしたとき、

「さあ、もう一働きしなくちゃあ」

 と京子は嫣然と祐一に告げ机に戻った。

 遅れて祐一が自席に付いたとき、友田がパソコンを片づけながら、二人の方を窺っているのに気づいた。立ち話がすぐ終わったので、きっと安心したことだろう、と祐一は苦笑した。

 佐藤京子一級建築士があの存在を捕らえたことが分かった日以来、祐一は影達の動きをあまり気にかけなくなっていった。特に驚くにも当たらない事のように思えてきていたのだ。そして、京子と秘密を共有しているといった、密かな愉しみもあった。


 秋の気配が一段と深まる頃、リーグ優勝チーム同士がしのぎを削っていた。

「やっぱり力の差があったかねえ」

 職場に向かいながら柳はその朝元気がなかった。

「まだ三戦済んだところじゃないですか」

 贔屓のジャイアンツが、日本シリーズで一引き分けの後、連敗していた。

「投げるほうはそんなに差がないと思うんだが、なんだか打てないんだね。リードの上手い下手なんだろうな。キャッチャーの違いは普段それほどわからないんだが、じっくり研究されているってことだな」

「もうそろそろ相手の癖もつかんだところじゃないですか」

「そうねえ、今日やられたらもうだめだな、一つも勝てないってことも過去三回くらいあったからねえ」

 老け込んだように元気のない姿に、祐一は笑いをこらえていたが、柳は苦々しい口調で、「あんなんじゃ日本の景気の足を引っぱるよ」

 と吐き捨てた。

 その日の夜、祐一がコーヒーを買いにカフェテリアに立ち寄ると、いつもは誰も見ないテレビの前に数人の観客がいた。仕事が残っていたのか、家までの電車に乗っている時間が惜しいのか、柳が一番前の席に陣取っている。今朝と一転したえびす顔からはジャイアンツの攻勢は間違いないところだが、果たして、画面には初回に飛び出した満塁ホームランがリプレイされていた。

「一矢むくいたってとこかな」

 柳は嬉しそうに甲高い声を出した。

「これで面白くなりますね」

 祐一は調子を合わせたが、相手の投手がいつ引退してもおかしくないベテランの記念登板では、予想出来ない展開ではない。

 机に戻ると、いつ訪れたか佐藤京子の姿があった。修正したパソコンのデモの内容を、友田とチェックしている。友田がさっきの柳と同じように、にやけているのがおかしい。その日の京子の装いは、ベージュのスーツ姿だったが、下に着ているニットがやはり体の線を強調しているように見える。本人の自信の現れか、それとも祐一が意識しすぎているのか、どちらとも分からない。

「今日はここで作業かい」

 祐一が友田に声を掛けると、

「佐藤さんのご希望です。ここが眺めがいいって」

 と外に広がる夜景を示した。

「そんなに気に入っていただけましたか」

 祐一が京子に言うと、

「ええ、均質空間の中のシェルターみたいで、不思議に落ち着きますから」

 と祐一を面食らわせる返事が返ってきた。

「はあ、まあオフィス的ではない場所ですが。均質って周りの建物のことですか、コンクリートの?」

「ええ、都心のほとんどがこの材質ですから」

「ここももうちょっと潤いがあれば居心地がいいんですが」

「遅くまでいらっしゃるんですか」

 すでにほとんどの社員が帰宅し、フロアーの人はまばらになっていた。

「もうしばらくは。この部屋の人間は大体帰りが早くて。私くらいですよ、終電を気にしてるのは」

「まあ、それはさびしいですね」

「じゃあ続けましょうか」

 友田が割って入るように言ったので、祐一はそこを離れた。

 二人がマニュアルと画面を見比べているのを横目に、祐一は提案書の添付資料の確認作業を続けた。その日は、なんだか気が散るようで、机に置いた一連の資料が自分に働きかけてこないようだ。文字と図形が力無く横滑りしていく。

 祐一は二人の様子を窺い、それから窓の外に目をやる。

 ・・・良いプレイでした・・・この大一番でこんなプレイが出せるのが・・・さすがはベテラン・・・ 

 誰が流している音声か、放送が聞こえてくる。

 ・・・さあ反撃開始です・・・願ってもないチャンスが・・・

 カフェテリアの音がここまで漂って来る筈はない。この部屋でスマホをいじる者などいないのだが。

 祐一が頭を巡らすと、ふとあの影達が現れているのに気づいた。改めて目をこらすのだが、時折見失うこともあるそれらの物を祐一以外に誰が認知しうるのか。外の闇はネオンやビルの明かりに浸食されて、かえってうごめく物を隠す働きを増している。

 祐一は窓のところまで歩んだ。まさか外から音が運ばれてくるということもあり得ないだろうに。祐一は目を閉じ、音の源に集中しようとした。

「あれが見えますか」

 耳元で京子の呟くような声がした。

「ええ、私ぐらいですよ。あんな物を気にしているのは」

 友田は他の場所に行ったらしい。京子は都心の空間に踊る影を、当たり前の風景を見るように眺めている。動きは一様に素早く、時として一つが転げ回り、あるいは号令でもかかったように一斉に躍る。

「活動していますね」

「活き活きとしていますよ。あれが現れるときはいつもそうです」

 ・・・大きい・・・さあ・・・入るか・・・入るか・・・

 影の小さな塊が上方に飛び出して緩やかな軌跡を描いた。打ち上げられ、そして自然の法則によって落下するみたいに。

「なにをしてるのかしら」

 ・・・ピッチャー投げました・・・空振り・・・第2球を・・・

 祐一は右肩の辺りに京子の体温を感じていた。しかし、体が触れ合っているわけではない。

 小さな影はまっすぐに放たれる。ビルの出っ張りや道路の上空にいるやや大きめの影は一瞬体を沈めるように身構える。

 ・・・打ちました・・・良い当たり・・・だが正面だ・・・

 正面のライナーを受け取ると、直ちに一塁に送球しダブルプレーを果たした。仲間達は体を震わすことにより賞賛を表現する。影は躍動しゲームは最高潮に達する。

「いま分かったような気がします」

 祐一は京子に笑顔を見せた。

 首を傾げる京子に

「野球はお好きですか?」

 と尋ねるだけで、十分なヒントになった。

「まさか・・・」

「そう、ゲームです」

 もう一度窓の外に注意深い視線を送った京子は、唇を半開きにして嘆息するように言う。

「ああ、ほんとう、試合をしているんだわ」

 この目の前の空間が彼らのホームグラウンドなわけだ。闇とネオンの交錯する中を自在に飛び交いながら、ゲームを楽しんでいるのだ。

「ビールがあればいいな」

「この場所からだとちょうど立体的に見えるのね」

「ああ、これはいい当たりだ」

 一際力強く投げ出されたボールは翼でもあるかのようにホップして内角を攻めたが、タイミング良く振り出されたバットがそれを跳ね返したのだ。

 ・・・打ったー・・・さよなら・さよならホームラン・・・

 数秒間静止した影たちは遥か遠くへ飛び去った小さな塊の行方を見届けた。そして、沸き立つようなざわめきを思わせるもの達と、諦めたようにぼんやりと佇む影の対比があった。

「嬉しそう」

「会心の当たりでしたからね」

「勝ったのかしら」

 どちらのチームのことですかと尋ねようとして、祐一は京子の少女のような表情にみとれた。

 殊勲者をホームベースに迎えながら、影たちはまろびあい、歓喜に跳ね上がる。それが一段落すると、速やかに整列し、健闘をたたえ合う。

 そして、試合に決着がついたからか、今まで波のように届いていたカフェテリアからの放送の音がしなくなった。この放送は、日本シリーズの中継だったのか、それとも眼前のゲームのどちらだったのか。祐一がそんなことを考えたとき、つと動きを止めた影達も、潔く一斉に姿を消した。


                                      終わり


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