人喰い豚9
「やっと王都に着いたか…」
そう疲れた声を出すのはガイナット=エノシュー、ミシュマル国の元老院の一人である。最近のアレンタール王国の神殿には黒い噂が絶えない。王都の神殿に子供を喰らう豚がいるだとか、神官が巫女を食い物にしている等、神に身を捧げる者として到底信じられない噂ばかりであった。そんな時に王都の神官長からとある貴族を異教徒として破門にするよう要請が来た。良い機会であるからこの国の神殿の実態を調査せよとの王命により、ガイナットは一ヶ月も馬車に揺られアレンタール王国までやってきたのだ。
王都の門を抜け、ガイナットの馬車は街の中心部である一等地に建てられた立派な神殿に向かった。しばらくすると馬車は止まり、御者がノックとともに扉を開けた。ガイナットは笑顔で御者に礼を言い、神殿を見上げると途端に顔をしかめた。
「なんと、禍々しい…。これは一体どう言う事だ。」
神殿は建物全体が薄い黒い霧に覆われており、邪悪な気配が辺りに充満していた。呆然と神殿を見上げるガイナットに、一人の男が声をかけた。
「ようこそおいでくださいました、エノシュー様!ささ、長旅で疲れた事でしょう。こちらへどうぞ。」
「お前は…」
「神官長のエドワードと申します。」
「お、お前が?神官長だと?」
「?はい、そうですが…お聞きになっておりませんか?」
「い、いや…では、邪魔をする。」
ガイナットが驚いたのも無理はない。エドワードは首から下がすっかり黒い霧に埋もれ、その身体を見ることもできなかったのだから。この黒い霧はこいつが原因か?神官長ともあろう者が、悪魔に魅入られているようだ。ガイナットは今すぐ除霊したい衝動に駆られたが、神殿の黒い噂にエドワードが関わっているのならこのまま話を聞くべきだと判断し、右手に握りしめた十字架をそっと下ろした。
「本日は旅の疲れを癒して頂き、話は明日すると言うことで…」
「いや、大丈夫だ。荷物を置いたら、直ぐにでも話を聞こう。」
「畏まりました。それでは後ほどお部屋に案内の者を向かわせます。」
エドワードと別れ部屋に入り、ガイナットはホッと息を吐き出した。あまりの邪悪な気配に吐き気がする。道中すれ違った数人の神官も皆黒い霧に包まれていた。他の神官達はどうなっている?まさかこの現状を、誰も気がついていないのか?神に身を捧げた聖職者ならば、程度の差はあれ皆悪魔の気配が分かるはずである。しかし大きな問題になっていないということは、この神殿にいる者は皆腐りきっていると言うことだ。これは予想より酷い。ガイナットは胸に十字を切り、深呼吸して心を無理矢理落ち着かせた。
コンコン
「失礼いたします。」
ノックと共に入室したのは金髪の若い女性。彼女は巫女長と名乗り、ガイナットを応接室まで案内すると言う。邪悪な気配を感じない巫女長を見て、ガイナットはそっと胸をなでおろした。
「よろしく頼む。」
「それではこちらへ。…エノシュー様。神殿の様子にさぞや驚かれたことでしょう。」
「!やはり、神殿の者は皆気付いていたのか。何故本国に報告が上がらない?」
「気付いているのは、私と数名の巫女だけです。神官達は、私どもが何を言おうと鼻で笑い、相手にしません故。」
「神官どもは何をしているのだ…。神聖なる神殿が悪魔に乗っ取られているのだぞ。」
「元よりこの神殿は神官長エドワードに乗っ取られておりました。それが悪魔に成り代わろうと、対して違いはございません。」
「そこまで腐敗しているのか、この神殿は…」
「応接室はこちらで御座います。私はこれにて失礼致します。」
「あ、ああ。ありがとう。」
エドワードの前に姿を見せる事を禁じられている巫女長は、扉を開ける役を他の巫女に任せ、その場を去った。
「失礼する。」
「エノシュー様!さあ、こちらにどうぞ。」
「それでは話を聞こう。先ずは破門にする貴族の件を聞きたい。」
「はい。シュバルツ公爵家でございます。彼らは罰当たりにもイーツェル教の六属性説に異を唱えております。なんでも長男が新属性に目覚めたとか。魔力水晶で調べても魔力なしの結果が出るのです。何かイカサマをしているに違いありません。異教徒の教えを説く彼らに破門の罰を。破門となれば、この国では生きては行けません。彼等に天罰を与えたいのです。」
「成る程…話は分かった。確かに六属性説に異を唱えるなど信者にあるまじき愚行。あなたの話に嘘偽りがないのであれば確かに破門だ。しかし一方だけの話を聞いて判断するのも早計だ。後日彼等にも話を聞こう。」
「そんな悠長な…!」
「この件は以上だ。次に、この神殿の黒い噂について伺いたい。」
「黒い、噂ですか…?」
「そうだ。本国まで届いているぞ。お前は子供を喰らうと。」
「な、何をデタラメな…そんな事、ある訳が…」
「そうだろうな、神官長の立場にある者がその様な神の教えに反する様な事する訳があるまい?真実だとすれば、それこそ破門ものだ。」
「はは、あり得ません。神に誓って、その様なことは…」
「神官長含め、ここの神官達は随分と肥え太っている様だな?その金はどこから来ているのだ?質素倹約はどうした。信者の寄付金を何に使っている。」
「い、今はそんな事は関係ありません!私はシュバルツ家破門の件で…」
「私が遥々アレンタール王国まで来たのはその黒い噂の真偽を確認する為だ。破門の件はついでに過ぎない。私はこの件に関して全ての権利を有している。正直に話せ、エドワード。」
「わ、私は無実です。その様な噂、事実無根でございます!きっとシュバルツ家が私を陥れるために…」
「そして神殿を覆うこの邪悪な黒い霧はなんだ?発生源はお前の様だが。」
「は?黒い霧ですか?」
「やはり見えていないのだな。お前、神官長という身にありながら、悪魔に魂を売ったな。」
「あなたまで何をおっしやるのです!その様な事、ある訳がない!黒い霧など存在しない!」
「そうか。取り敢えず、今日のところはそれで納得しておこう。噂が真実でないという証拠を提出したまえ、そうすればお前への処分はなくなる。」
「必ずや!納得するものをお出ししましょう!」
聞く耳も持たず、鼻息を荒くまくし立てるエドワードの姿は常軌を逸していた。彼に纏わりつく黒い霧が彼の興奮と共に濃さを増し、ガイナットに乗り移ろうとその触手を伸ばしていた。これ以上エドワードを追求するのは危険だ、自分一人の手に追えない。ガイナットは神殿の不祥事の処理をしに来たのであって、悪魔を処分する予定はなかった。この悪魔を祓うには人も、物資も、力も、何もかもが足りない。ここは一先ず様子を見るだけに留め、本国に応援を要請しよう。そう密かに考えをまとめたガイナットは、ふとある事を思い付いた。
「時に神官長。話は変わるが、先程私を案内した女性は誰だ?随分と美しかった。」
「ああ、巫女長で御座いますね。お気に召しましたか?彼女は巷では聖女とも呼ばれております。」
「ほう…彼女と今宵ゆっくり話がしたいところだ。」
「ええ、是非に!存分に味わってください。エノシュー様もお目が高い。」
「それでは楽しみにしている。」
エドワードは簡単に巫女長を差し出した。やはり巫女達が神官どもの餌食となっている噂は本当の様だ。そしてそれを皆当たり前と思っている。後ろ暗い自覚があるのなら、ガイナットの提案を断るはずだ。一つ証拠を抑えた。それに彼女はこの現状を把握している数少ない神殿関係者だ。夜を徹して話を聞く価値がある。ガイナットはエドワードにその件を頼むと、応接室を後にした。