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花のお江戸の烏ども  作者: サーラ
9/9

朝倉道場三羽烏・大騒動!⑧

やっと出来ました。今回で終わりです。

――――― 53 ―――――


 南町奉行所内仮牢前。

 妙蓮寺孝広は再び、格子の向こうへと押し込められていた。

 夜半、とはいっても明日には仕置されるその身で眠れる筈もなく―――


「妙蓮寺…」


 闇の中に聞こえた呼び声は、あまりに低く、

「んがぁ、ごがぁ」

 孝広の大鼾にかき消されていた。


「妙蓮寺、妙蓮寺」

 イラだったように何度も呼びかけ、終いにはぴゅっと小柄を投げ打ってよこす。

 乱暴な男である。その乱暴な男、服装から見るに僧侶であるらしいのだが、小柄は持っているし、あまりにも怪しい。

 ピュッ

 と飛んだ小柄は、高鼾の孝広の背中に突き刺さる寸前で、はっしとつかみとられた。

「危ねえな、虎」

 眠気を50%以上も含めた声音で後ろ向きの影は言った。

 乱暴者の僧侶は虎太郎の静謫であった。

「妙れ…孝広、貴様にだけは言っておこうかと思うてな」

「ふん~?」

「俺…拙僧は、京へ上ろうかと思う」

 闇の中、剃髪の僧侶は静かに言った。牢番の小者は幾許かの金銭をつかまされて、何処にも姿は見えない。

「京へ?」

 背中越しの問いに、虎太郎は答えなかった。山本真木彦が死んだ以上、佐々木家にはなんらの咎めもない。

 だが、色々と察することはあったのだろうと思われる。

「おまえ…侍を捨てるつもりか?」

 孝広の台詞の中には父親まで捨てるのかという響きが含まれていた。

 京には日蓮宗の壇林(仏教における僧侶の養成機関)がある。

「俺は母の顔を知らぬ。俺を産み落とすとすぐに亡くなられたそうな。今の母は義理の母よ。父は、母を殺したこの俺を憎んでおられた。物心ついて今日まで、俺はあの父に優しい言葉一つ掛けてもらった記憶さえない。義母が俺をいびろうと、関心なぞなかったものを、俺が元服すると今度は利用価値でも見出だしたのであろう。何かとうるさくなりおった。ふん、馬鹿馬鹿しい。…孝広、おぬしの嫌いな言葉であったな」

 虎太郎が語ったのは、佐々木家の公然の秘事であった。秘め事としての価値は藤堂家の秘事の方が遥かに高い。だからといって、孝広はこの告白を取るに足らぬとは決して思わなかった。

「それで京へ上るか。…それも、よかろう」

 背中越しに届いた台詞は、多いに虎太郎を満足させた。今回の京行きは、虎太郎にとって一人の賛成者もない、殆ど夜逃げ同然の旅であったからだ。

「…父のことは、孝広、好きに計らうがいい。弟達とて母がついておれば…いや、俗世のことなど俺にはすでに関係のないことだ」

 虎太郎が牢の前から立ち去る時まで、

「………」

 とうとう孝広は一度も振り向かなかった。



――――― 54 ―――――


 結果からいうと、定吉はおとよ・源治殺害及びその罪を孝広に着せようとした科により、死罪を申し渡された。

山本については証拠不十分のために不問に付された。何しろ、定吉は何も知らず、金をもらっての仕事だったのだ。山本が数馬に化けて孝広を襲ったことさえ定吉は知らなかったようだ。もっとも、おとよを殺したり、おていの口を封じようとしたのは定吉達の考えであった。

 定吉と彼の仲間達はそれぞれに余罪を調べられ、遠島や追放など相応に処断された。

 そして孝広はもちろん無罪放免となるところだが、破牢の罪があるので情状酌量の上、五十(たた)きの判決が下された。


 翌日、

「よんじゅうなぁ~な!」

 バシィ

 皮膚が破れ、鮮血が飛び散る。

「よんじゅうはぁ~ち!!」

 ビシィ

「よんじゅうく…ごぉじゅう!」

 呻き声一つもらさぬ辺りがさすがであった。(ムチ)(人を打つための細長い竹の棒)で五十も敲かれれば、その衝撃で体力のない者ならば死に至ることもある。少なくとも半月は起き上がることさえ出来まい。

「孝広様っ、大丈夫ですか!?」

 周囲の人垣の中から娘が飛び出してきて、結城の単衣に肩を入れている孝広の傍らに寄り添った。

「おたみか。…ああ、いいよ。大丈夫、歩けるさ」

 気恥ずかしげに答えた科人はやけに元気そうで、見物人達の語り草になった。


 妙法寺に戻って、孝広がおたみに背中の傷を手当てしてもらっている頃、冬彦が訪ねてきた。

「おお、冬彦か。上がれっ」

 言われて冬彦が中へ入ると、孝広がおたみに薬を塗られ、ヒィヒィわめいているところであった。その横で笑っている人物が二人。一人は町方同心で、もう一人はやくざな町人である。

「大丈夫ですか?」

 型通りの挨拶はしたものの、冬彦もやはり、

「クスッ」

 と笑った。打ち据えられている時には声一つ立てなかった者が、おたみの前ではまるで他愛なくなっている。

「新八、笑うな! 弥太っ、冬彦に茶でも淹れてやれ」

「あれ、弥太さん、すみません」

 おたみがすまながって、弥太郎の後を追い、台所へ姿を消した。

「江口様。ところで、一体どういうお裁きだったんですか?」

 冬彦が一膝乗り出す。

 現代と違って町民が裁判の様子を知ることは出来ない。お白州での出来事は、立ち会いの役人や小者、呼び出された証人等がかわら版に売らないかぎり、殆どシークレットとされていた。

「そもそも、おとよという女が一芝居打って孝広を騙した、つもりだった。とりあえず本人はそのつもりだったろう。ところが旦那の定吉に逆に自分が殺されてしまった。動機は…おしまという若い女をモノにするためにおとよが邪魔であったし、孝広を罠にはめよと山本真木彦という浪人者ということになっているに金で頼まれていたという両方であったが。もっとも山本のことは確証を押さえられなかった故に、お白州でも言及はされなんだがな」

「そんなの、決まっておりますのに。孝広殿が斬っておしまいになるからですよ」

 虎太郎の父親、佐々木兵吾の掛けた孝広・数馬を陥れる二重の罠に相違ないのだ。孝広に対する復讐と、自分の出世の妨げとなる山代忠之の失脚を狙った一石二鳥の罠だった。それに違いないのに、確証がない。

「…ともあれ、おていの証言で助かったのだ。めでたし、めでたしであろう」

 孝広がその場を取りつくろうように笑った。

「えっ!? では、あの女中、生きてたんですか?」

「言うておらなんだかな。ひどい怪我ではあったが、何とか一命は取りとめた。あの十七日のお白州にも戸板と大八車で運ばれて証言してくれたわ。最初は言い逃れようとしていた定吉もあれで一度に崩れた」

「そうなんですか」

 そうなのだ。おていは重傷を負いながらも生きていた。彼女の証言により定吉はすっかり観念して何もかもを白状した。というよりも、おていを刺した男が定吉宅にてともに捕らえられているため、さすがに言い逃れることが出来なかったのだ。そうして、孝広は無事に釈放された。

「…どうするつもりだ」

 その時、ふいに孝広を詰問する声が起こった。〈憮然〉という形容詞を音声で表現しきったような数馬の声であった。

「えっ?」

 年少の剣友の問い返しを無視して彼は、もう一人の剣友にくってかかった。

「何を考えている、どうするつもりなのだ。他の者は騙せても俺の目はごまかされんぞ」

「何が言いたいのだ、数馬」

「孝…お、おまえ、何故、彼奴を斬った? おまえの腕なれば斬らずに捕らえることもできた筈だ」

 数馬は孝広が山本をわざと捕らえなかったのだろうと責めているのである。

「…買いかぶってくれるのは嬉しいが、ありゃ本当に過失なんだよ。俺もまだ修行が足りぬ。つい本気になってしまった」

「でも、孝広殿。本当に…これより佐々木様のお父上はどうなさろうという…如何ようなお心積もりなんでしょうか」

 不安そうな面持ちで冬彦が口を挟んだ。

「…そう、だな…」

 孝広はしばらく思い考えてから、

「これから、俺はその虎太郎の親父殿に会ってこようかと思う」

 と答えた。

「なっ!?」

「何ィ!?」

「孝広殿! 一体、何を!」

 途端に周り中から非難ごうごう浴びる。その騒ぎに弥太郎とおたみも台所から飛び戻ってきて、話を聞くや青くなって口々に孝広を口説いた。

「話合いにいくだけだ。心配するな」

「しっ、心配するなだとォ~、貴様、何を考えとるんだ!」

 数馬の孝広に対する呼称が〈おまえ〉から〈貴様〉に変わってしまっている。

「いけません」

 冬彦がわなわなと身を震わせ、

「いけません、いけません、いけません! どうしても行くとおっしゃるのなら、この私もお連れ下さい」

 ひしと孝広にすがりつく。孝広がふっと吐息をもらし、

「おまえが女であれば、男冥利に尽きるといったところなのだがなぁ…」

 思わず叩いた軽口は、冬彦の真剣な眼差しの前に効力を失った。

 孝広は中途でそれを咳払いに変えると、

「殴り込みにいくわけじゃない」

「孝広様っ!」

 悲鳴まじりのおたみの声に、心配いらぬと言い訳する。

「俺にいささか考えるところがある。勝算我にあり、だ。行かせてくれぬか?」

「旦那ぁ」

 弥太郎の、とめようという気持ちをあきらめた声だった。孝広という男は言い出したら利かない男なのである。

「冬彦、頼むよ」

 呼びかけた孝広の顔には、何者の反論も許さぬ表情があった。冬彦は不承不承、

「…分かりました。頼まれて差し上げます」

 と言った。ところが、

「数馬もだ、いいな?」

 そう言われた数馬が返事をしないのである。

「………」

「…おまえには、頼んでるんじゃない。よいな? ついてくるなよ」

 命じているのだとの孝広の言葉にカッと頬を染めた数馬に知らぬ振りで、孝広はたった一人で妙法寺を出ていった。




――――― 55 ―――――


 本郷・湯島は官学の町である。武家屋敷も多く集まっていた。

 二千五百石の旗本、佐々木兵吾の屋敷に、不埒な浪人が姿を現した。

 何が不埒かというと、その男、殿様に会わせろなどと申したのである。さらに驚いたことには、用人の伊東帯刀がその通り招じ入れてしまったのだった。

 不審顔の門番が、何度も何度も屋敷内を振り返り、ゆっくりと佐々木家の門は閉じられていった。




「遅いですね、孝広様」

 おたみがぽつんと呟くと、皆が皆一様に顔を上げた。

「遅いかな? そうか?」

 新八が反論の相槌を打つ。冬彦が、

「おたみちゃん。だって、まだ一刻と経ってないじゃないか」

 言いながら、彼自身がそのことに今気が付いたといった表情である。

「まあ、今に戻ってこよう」

 なだめるように数馬が呟く。しかし、そのなだめてくれようとする心情があまりにも見えすぎ、

「今にっていつでございますの!? 数馬様」

 おたみがカッとなって振り向いた。

「う、いや…」

「おたみ、これ! 数馬様に当たるでない」

「江口様」

 『だって』と言い掛けたおたみも、急にしゅんとなり、

「ごめんなさい、数馬様」

 素直に謝った。そこへ、見かねた弥太郎が口を挟む。

「ねえ、おたみ坊。旦那なら大丈夫だから、落ち着きねえ。おたみ坊が困るようなことを旦那がするわきゃねえだろ? あの人ァまったくおまえさんに弱いんだもんな」

「あら、弥太さん」

 おたみはちょっと驚いたように答え、

「孝広様は女の方であればどなたにでもお弱いんだわ。…それに、孝広様も皆様もあたしを困らせるようなことばかりしててよ」

 くすんと鼻を鳴らした。だが、孝広に寄せる絶大な信頼が、彼女の顔を明るくした。

「そうとも、案ずることはない、おたみも冬彦も」

「数馬様…」

「彼奴も勝算があると申していったろう。あいつとて、むざとやられるために出掛けていく程、馬鹿ではない」

「そうですよね。孝広殿ときたら、ホントずる賢いんだから」

「まこと、まこと。あれ程、悪知恵の働く男は滅多におらぬぞ」

「そうでやすよねえ。その旦那が大丈夫だとおっしゃったんでやすから。また何ンかいい手だてでもあるんでしょうよ、ね?」

 口々に言い出した。孝広は仲間内で絶大な信頼(?)を博しているらしい。

「ほうっ」

 とおたみが溜息を吐いた。確かに孝広は飄々としてガキ大将のように悪賢い。しかし、それでいて時々(本当に時々)、数馬みたいにひどく融通の利かないところがあるのである。そのことをおたみはちゃんと知っていた。

「そうよね。大丈夫ですよね、孝広様は」

 もし彼らにして、孝広の『勝ち目がある』と言って出ていったその言葉の意味が何であるかを知っていたのなら、これ程、落ち着いていられたであろうか。




 虎太郎の父、佐々木兵吾と正面きって差し向かい、孝広がこの時何を考えていたのかは誰にも分からない。

 大切にしていた調度品数点を破壊した末に持たれたこの会見に臨んで、佐々木兵吾の心中が如何ようであったのかということもまた、誰にも分からなかった。

「………」

「………」

 ただ、孝広が己に敵意のないことを示すために差し出した刀を見た後から、両者とも無言であった。その刀とは新八が奉行所に保管していた孝広の刀ではない。それよりも数段は値の張る、虎太郎が京へ行く前に孝広にくれていった〈祐定〉の業物であった。

「…今後一切、拙者達に関わり合わぬで頂きたい。虎太郎殿と拙者は()()()()()にて、その友の父上と事を構えるは我が本意にはあらず。ここは虎太郎殿に免じて、一切を水に流して下さらぬか」

 孝広の言葉に隠された意味を佐々木兵吾は正確に受け取った。

 態のいい脅迫である。

 虎太郎の刀を見せつけておいての息子の身柄と引き替えに手出しするなという、堂々張った大はったりのいかさま勝負。だが、当の虎太郎が人知れず草庵を出て旅立っているため、如何にも真実らしく聞こえてくる。

 しかし、虎太郎への佐々木兵吾の情愛をカタにとってのこの大はったりは、ひどく危険な真似であった。そもそも佐々木兵吾が虎太郎の存在にどれ程の価値を見ているかはなはだ疑問である。

 本人の虎太郎が孝広の計画を聞いたならば、すぐさま『無理だ』と答えたであろう。佐々木家の跡目は虎太郎の義母の生んだ弟にすでに決まっていたからである。

 今回の騒動とて虎太郎の敵討ちというよりも、孝広は南町奉行失脚のついでのようなものだったではないか。

 それでも、孝広はこの脅迫(はったり)が『成功した』と、京へ上った虎太郎へ伝えてやりたくなったのである。成功してほしかった。自分のためというよりは虎太郎のために。いや、やはり自分のためだ。どんな親でも子に対する愛情は深いものだと思いたかったのかもしれない。

 その時、からりと障子が開き、伊東帯刀が部屋へ入ってきた。主人へ近づき耳元へそっと何事かを告げる。

「~~~」

 虎太郎の草庵を見にやらせた使いが今戻ってきたのである。

 佐々木兵吾はかたりと脇息を倒し、

「其方の好きにするがよかろう」

 吐き捨てるように呟いた。

「虎太郎は何処じゃ」

 孝広がにっこりと微笑んだ。『成功した』のだ。虎太郎の父親は厳つい顔立ちの男だったが、孝広は彼の姿に笑みこぼした。何故だか嬉しかった。

「さて、何処でしょうか」

「貴様…」

「慌てずに。京へ、京へ行くと申されてましたよ」

 伊東帯刀が出て行った。早速、京への道筋に虎太郎を探しに行くのであろう。見つかってしまえばそれでもよし、だ。今朝のあの虎太郎は追手なんぞにとめられるものではなかった。

「では、これにて。…ところで山本殿はこちらのご家来でしたな」

「!?」

 訝しげに、ぴくりと眉を持ち上げる佐々木兵吾。

「朝倉道場で出会うた奇縁でござる。病死したと聞き及んでござれば、どうか手厚く供養してやって下され」

 言って孝広は佐々木家を辞した。

 彼が山本真木彦を斬ってしまったからこそこの会見が成立したのである。そうでなければ、無事にこの佐々木家の門をくぐることは出来なかったろう。


 佐々木家の門をくぐりながら孝広は斬り裂かれた片袖をくんとつまんで、

「やれ、またおたみに叱られる」

 といかにも呑気に呟いていた。


 後日、   

 孝広は会見の一部始終を認めて京の虎太郎へ送った。それがどのような変化を虎太郎へもたらしたか、孝広は知らぬ。知ろうとも思わなかった。

 ただ、しばらくして京より一通の手紙が佐々木家へ届いたらしい。

 二か月後、佐々木兵吾が孝広に寄越した使いの、

『わしは、虎太郎と貴様の交誼(つきあい)を絶対に認めんからな!』

 という娘の交際に反対する父親のような伝言を聞いて、

「クックッ。やめてくれよ、人聞きの悪い」

 孝広は嬉しそうに笑っていた。


――――― 56 ―――――


 ある日の夕刻。

 事件が片付いてから、そうだ、五日程も経っていたろうか。

 草深い土手に孝広と数馬は腰を下ろした。目の前を流れる悠々たる水面を、吸いつけられたように見詰め続ける。

 表面は至極穏やかに見えるこの川は、その名(大川)の通り、中へ入らば歴戦の勇者も馬足を取られる程の水量を有している。そのことは、一度でも大川へ浮いた覚えのある土左衛門ならば誰もが知っていよう。

「………」

 黙り込んだまま、孝広と数馬は酒徳利に手を出した。方便に使われた釣竿は、脇に放ったきりである。


 二人の妙にぎこちない態度を心配したおたみと冬彦に、

「どっか変ですよ」

 ぎゃんぎゃんと噛みつかれたもので逃げ出してきたのである。


 だが、こうして二人きりになっても、黙ったきりただ川面ばかりを眺め続けている。

 そこへ、数馬がぎこちないカラ咳の後で、声をかけてきた。

「あの、な。その、孝…広…な」

 と、いやに歯切れが悪い。まるで一昨日さばいたイカのようである。

「はあっ」

 と孝広の太い溜息。

 彼が『孝広』の名を呼ばわったのは、実に十日振りのことであった。

「おい、これ」

 と孝広。

「うん?」

「俺とおまえは正真正銘、実の兄弟。それが、兄に対する口利きか?」

「な…にィ!?」

 数馬が孝広の台詞を理解するまでに何秒かかったか、生憎と計った者はなかった。

 これまで、彼が切り出すのをためらった台詞を、あっさりと言い放ったばかりか、

(それこそ何だ、その言いぐさはっ!)

 一瞬、数馬がポカンと口を開けたのも、無理のないところであったろう。

「『兄上』と呼べとは言わんぞ。―――孝広()()()だ」

「な、何だとォ~」

 構わず孝広は後を続けた。

「そうであろうが。()()数馬殿?」

 シニカルな、いつも以上にシニカルすぎる孝広の表情に数馬はやっと言語を取り戻し、

「…ああ。ああ、そうだ。俺は確かに山代数馬。藤堂ではない。貴様との縁なぞ無きに等しいわ!」

 プー、フー

 毛を逆立てた猫のようだった。それを見て孝広は、

「数馬…それでいい。十分だよ。おまえは俺の友達で、剣術仲間で…それで十分なんだ」

「孝広…」

 二人に再び静寂が流れた。

数馬は、やっと落ち着いて孝広という男がどういう人間であったかを思い出していた。

 明るくて面倒見がよく誰からも好かれ友達が多い。だが、その実、冷静で厭世的傾向の、ひどいひねくれ者だ。彼の生い立ちが分かってみれば確かに厭世的にもなろう。同じ日、同じ時、同じ腹から産まれ出て、かたや大身旗本の跡取り息子、かたや貧乏寺の居候。

 だが、数馬は知っていたではないか。孝広がどんな奴であったか。己に厳しく他人に優しい。弱い者には限りなく優しく、正義感が強い。冷静なくせに、照れ屋で―――やはりひねくれている。そういう男なのである。

「すまぬ」

「よせよ、数馬。馬鹿らしい」

 孝広はいつのまにか酒徳利を抱え込んでいた。ぐいっと一口。

「だが…その…孝、広?」

「ん?」

 黙りこくった数馬に、

「何だ?」

 と、もう一度穏やかな声音で問い掛けた。

「それでも、おまえ、藤堂の父母を恨んでいるであろうな」

 それが数馬の問いであった。孝広はそれに答える前に、ぐっと数馬の方へ酒を押しつけた。

「まさかな。恨んでなどおらぬよ」

 明るく答える。ここら辺りが、ひねくれ者と評される所以である。

「…まことに?」

「会ったこともない者を、何故に恨むわけがあろう」

 孝広がにっこりと…。

 数馬は目を伏せ、黙り込んだ。そして、孝広もまた、言った途端に後悔の色を顔に浮かべ、

「埒もないことを言った。戯言だ、許せよ」

 苦水を呷るように酒を飲み下したのであった。

「道場へは? 知っておって…?」

 数馬が呟いた。

「…俺の剣術の師匠が朝倉先生のお弟子にあたる方だっただけなのだがな。そこにおまえが通うていようとは夢にも思わなんだ。俺の方こそ驚いたぞ」

 孝広は言った。

 嘘であった。

「そ、うか。孝広、その、おまえはいつから知っていたのだ?」

 数馬の問いに、ふっと溜息をついてから孝広、

「数馬よ、俺が…己の父母を…探しておらぬとでも思うていたのか?」

 ひどく照れ臭そうに呟いた。

 妙蓮寺孝広の、数馬に見せた初めての弱みであった。


 どうどうと流れる大河も、表面は至極穏やかである。









 夕暮れが近くなった頃、孝広と数馬は通りすがった魚屋から、一尾の鮃と四尾の鰺を買い込んでいった。

―――不幸にも、彼等にはそれが海魚であることが分からなかったのである。





如何でしたでしょうか。

もう随分と前に書いた小説でした。

大好きなテレビ時代劇が衰退していくのが寂しくて友人にロビー活動するために書いたものでして。

皆様にお見せするのもお恥ずかしい限りでしたが、頑張りました。

ちなみに私が好きな時代劇は「江戸を斬るⅡ」「ぶらり新兵衛 道場破り」です。(もっといっぱいあるけど書ききれない)


書くのに詰まると自分の書いているキャラに実在の俳優さんとか声優さん(声フェチなので)をあてて妄想する癖のある私。

この話でも今だと誰だろう、なんて妄想して楽しんでました。

冬彦クンだけは間違いなくジャニーズの子ですね(笑)


読んで下さった皆様にも少しは楽しんでもらえたなら嬉しいのですが。


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