朝倉道場三羽烏・大騒動!⑦
――――― 49 ―――――
妙法寺に戻った数馬が、玄関の戸に手を掛けた時、
ヌッ
と妙な町人が現れた。
「おお、弥太…」
てっきり弥太郎だと思い声をかけかけた数馬だが、一瞬、言葉をとぎらせ、
「江…口…? 新八ではないか」
叫んだ。数馬の目の前で、遊び人風の江口新八が、少し照れたように目礼してみせている。その見事なまでの化けっぷりに感嘆より先に笑みの方が湧いてきて、
「ぷっ」
と小さく吹き出した後、
「や、すまん、すまん。ご苦労だな」
数馬はようやくそれだけを言った。
彼らが家の中へ入ると、孝広も冬彦も弥太郎も、すでに揃っていた。
「何ぞ掴んできたな、新八」
二人がやってくるのを見るや、孝広が言った。
「相変わらず聡い奴だな―――」
言いながら江口新八は指を三本立て、
「三つだ―――ネタがある」
ニンマリと笑って見せた。
「それは凄い」
と冬彦。
「で?」
と数馬が先を促す。
「先程、堀留の辺りで土左衛門が上がりました、数馬様」
お奉行様のご子息とあってしゃべり方が大分に違くなる新八であった。
「但し、溺死ではなく、毒を飲んでおりました。その名を源治と申し、南町奉行所の牢番でございます」
「何と!! 奉行所の牢番が!?」
「は…?」
新八は訝しげに頷いた。数馬や冬彦達の反応が一般的な驚きの範囲内にとどまっていたからである。くるりと孝広の方へ顔を向け、
「孝広? 申し上げておらぬのか?」
それと同時に孝広からも、
「何だ、新八、言っておらぬのか?」
同じく声がかかった。
「どういうことです」
冬彦が代表して彼らを真正面に見据えて問い正すと、
「いや、そいつはな…」
かくかくしかじかと孝広が、自分が牢を抜け出したその夜の出来事を話して聞かせてくれた。
「奉行所内の牢番でありながら、何とけしからん真似を!!」
数馬が持ち前の堅物振りを発揮して憤然と言った。
だが、冬彦がそれを遮り、
「どうだっていいですよ、そんなことは! それよりもっ! どうしてっ、どうしてそんな大事なことを今まで黙ってたんですか!!」
大いに怒り出して、孝広を叱りつけた。少年の怒りは至極もっともであった。数馬も弥太郎もなるほどそうだとばかりに一緒になって怒りだす。
その牢番をもし生きている内にこちらが手に入れていたのなら確実に捜査は進んだであろうにと、まんまと敵に出し抜かれてしまったではないかと、彼らの怒りはもっともなのだ。
「許せ、許せ、冬彦。色々とあってな、忘れていたのだ」
「忘れてって…あなたって方はっ!! そんな下手な言い逃れがありますか」
真赤になって怒っている年少の剣友をなだめる孝広を見て数馬は、
(色々あって…か)
忘れていたという孝広の言葉は案外、本当なのかもしれないと、思ってしまった。
「冬坊」
江口が冬彦の頭を撫でた。この凸凹コンビ、すっかり馴染んでしまっている。
「あんまり怒らんでやれ。数馬様やおまえ達には言うてはおらなんだようだが、奉行所の方では孝広とともに姿を消した源治を懸命に捜しておったのだ。見つからなかったのは奉行所側の手落ち…我らの不徳の致すところだ」
〈お役人様〉である新八にこのように言われてしまっては、冬彦も怒るに怒れなくなる。
「ずるい」
小声で冬彦が呟いた。
「ああっとォ、それよりも、新八。後の二つというのは何だ?」
孝広がごまかすように奇声を発した。
「ああ、そうか」
新八も慌てて頷き、懐から人相書きの紙を取り出すと、
「こいつの居所が知れたぞ」
「何!! まことか!」
人相書きをひらひらと揺らしながら新八は、
「元は武州無宿の定吉。今では神田関口町近辺の地回りだ」
言った。
「やはりさすがですねえ、江口様。こんな早くにもうそのようにお調べで…」
冬彦が、先程の埋め合わせのつもりなのかもしれぬが、やけに感心している。それが新八の失笑を買った。餅は餅屋という言葉がある通り、彼はプロだ。プロにはプロのやり方と、何といっても組織力が違う。
「さすがだねえ、新八」
孝広までからかうような調子を含ませ、
「で、三つ目は?」
と言った。新八は、彼の質問に答える代わりに冬彦の方へ向き直り、
「…冬坊、おまえさんは弥太郎と品川まで足を運んでくれたのだったな」
逆に問い掛ける。
「ええ、そうですよ。弥太さんと孝広殿が見つけてきてくれた飾り職の口から女の名前と元いた店が分かってましたでしょう? ですからね、すぐに見つかりましたよ。大阪の生まれで、もちろん名はおとよと」
確か、殺された源治も上方辺りから流れてきた筈である。
「その店からは二年前に受け出されてますが、身請けしていった男というのが…」
冬彦は一端言葉を切り、懐から一枚の紙を取り出した。
「孝広殿、絵の才があるんじゃないですか?この人相書き、とても役に立ちましたよ」
それは、新八が持ち歩いていた人相書きとおなじものである。
「…と、いうと…冬彦!」
「ええ。私も見つけましたよ、定吉をね。もっとも私達に分かったのは名前だけでしたけど」
正直なところを付け加え、ぺろりと舌を出す。
その横で弥太郎が隣りの数馬に、
「大した坊っちゃんですぜ。山城の旦那」
と小声で囁いている。数馬は彼の言いたいことを十二分に理解した様子で、
うん、うん
大きく頷いた。
それとは別に孝広が冬彦の手柄を褒めそやしていると、冬彦は途端に照れてしまい、もじもじと、
「え、そんなぁ。だって、本当はそのお店にいたお婆さんが親切に教えてくれただけなんですよォ」
ブッ
弥太郎が口に含んだ茶を思いっきり吹き出していたようである。
「…そうすると、江口」
数馬が、弥太郎の差し出した手拭いで袖を拭きながら(「すんません、旦那」と弥太郎)、口を挟んだ。
「江口、おまえの三つ目の手掛かりというのも…?」
「はい、数馬様。似顔絵の男、女を殺害したと見られる男…定吉の身辺を洗い出しましたところ、奴は地回りをしながら囲っている女にも料理茶屋などをやらせているようにございました。深川にある茶屋で、料理茶屋と申しましてもそんな上等な店でもなさそうですが、それなりに繁盛しており…」
新八はその後、番頭が何人の、女中が何人、板前がどうだと事細かな探索結果を報告した。
「江口。冬彦ではないが、さすがだなぁ。ようもこの短時間でそれ程に調べてくるものだな」
素直な数馬が褒めると、新八はニッとずるそうに笑い、
「お褒めに預かった後ではちと申し上げにくいのですが、丁度、その店の女中が『うちの女将さんが帰ってこない』と奉行所に訴え出ておりまして」
というわけであった。
「ガイ者の身許が分かった。下手人も、目撃者の証言により割れた。捜査の常道として後は…」
町方同心の言葉が、
「黒幕、だな」
孝広の台詞にさえぎられた。
「証拠がた…えっ!?」
新八の方は『後は証拠固めだ』と言うつもりだったようである。
「黒幕、敵の正体と言ってもよい。あるいは動機。そもそもそいつは何故、女を殺したのか。そして何故、この俺に罪を被せたのか。何故この俺だったんだろうな?」
「…でも、孝広殿。そのようなこと、定吉を捕らえて白状させれば…」
冬彦の言葉に皆が頷く。しかし、江口新八だけが一人、
「何かあったな、孝広」
と訝しげに聞いた。それに対して孝広はにやりと笑う。
「孝広殿?」
「旦那?」
「………」
数馬は無言で身を乗り出した。
「まあ、聞け。夕べの話だ。俺が弥太郎と別れた後で…」
そして、孝広は昨夜、数馬もどきの暴漢に襲われた話を皆に語って聞かせた。
「お、俺ではないぞ」
数馬が思わず叫ぶ。だが、その声音にはまるで正直に白状したも同然のぎこちなさがある。
「当たり前だ、阿呆ぅ。覆面侍の三段突きはおまえよりずうーっと遅いんだ」
孝広は今朝の覇気のなさも何処へやら、だ。
「となると、敵の仕業と思わざるを得まい。それで気付いたんだが、ニセ数馬の奴、朝倉道場に出入りしていた者でもなければあそこまで真似できるわけがない、とな」
孝広は言葉を切って、冬彦と数馬の顔を見た。敵の刺客は彼らも見知りの者だと言っているのだ。
「?」
「………」
冬彦が首を傾げ、数馬は無言のままである。
「とくれば思い出されるのが…」
ぐぐっ
と数馬以外の三人が息を詰める。
「虎太郎の取り巻きの中におらなんだか? 覚えておらぬか、数馬と背格好のよく似た奴がいたであろう」
「そう言えば…あ、おりました! 確かに。私、覚えてます」
数馬と似ているというのは要するに、人並み以上に背丈の高いがっしりとした体型ということである。その虎太郎の取り巻き(山本真木彦という名の佐々木家の家臣であった)も、六尺はあろうかという大男で、数馬に似ているといえば似ているかもしれない。
冬彦が覚えているのも当然で、いつも彼をいびっていた中の一人である。
「え?…そっ、それでは!? ではっ、まさか佐々木様が!?」
「虎太郎ではないよ。おそらくはその親父殿の方だろうな」
と言って孝広は、清月庵に引きこもってからの虎太郎の様子を皆に語って聞かせたのである。
「まったく。喰えんやつだな、おまえは。並の役人よりも余程に出来がよい」
新八が感心した。さすがに新八の〈親分〉だ。
「あの猿真似野郎に俺を襲わせたのも、おそらくは虎太郎の親父殿の考えだろうよ。ふんっ、ついでのことに俺に化けて数馬のところへも行きゃあよいものを、さすがにその暇はなかったと見える。…それとも、腕の差か?」
孝広の台詞は数馬を挑発するような響きがあった。挑発というよりも、どちらかといえば、この数日まるで意気の上がらない数馬を発奮させるための言葉であったかもしれない。
「その、猿真似侍がおまえの太刀筋を真似られなんだわけを、教えてやろうか」
数馬が言った。怒ったような言い方ではなかったが、それでも孝広に言葉を返している。
「うん?」
「裏で薪ばかり割っているからだ」
と数馬が簡潔に言った。師匠からの『薪割り』は五回に六回(?)の割合で三羽烏に申し付けられていたが、さらに高い頻度で孝広がやらされているのである。
ブッ
と孝広が吹き出した。
「なるほど。そいつぁ気づかなんだわ」
言って孝広が数馬に優しい瞳を向ける。
数馬は慌てて、
「それは…孝、た、おま、おまえ、少し考えれば誰でも分かろうが」
やはりこの二人、何処かぎこちない。
冬彦は疑わしそうにじっと二人の顔を覗き込んだ。
「ところで、新八。この勝負はどうやら俺の勝ちだな」
冬彦の視線を逃れるように孝広は明るく叫んだ。
ニヤッと笑い、
「弥太、ちっと出て〈いなり〉でも買ってこいよ。新八のおごりだ」
新八は、『ハイハイ』と半ば諦めた様子で、ピンッと弥太郎の方へ銭を飛ばした。
弥太郎はその銭を握って、屋台に寿司と酒を買いに出ていく。
いつのまにこの捜査会議が勝負になっていたのか、しかも、いつのまに金まで賭けさせられていたのか。誰にも分からないまま、いなり寿司が皆の腹の中へ納まっていた。
――――― 50 ―――――
明けて十六日、早朝。
江口新八は、今日こそは普通の着流し姿で出かけようとしていた。
「新八、深川へ行くのであろう? 俺も行く。ちょっと待ってろよ」
孝広に呼びとめられ、彼はハッとした。深川というと、殺されていた女と見られるおとよが女将をしていた料理茶屋のことである。
「よいのか? 佐々木様の方は行かぬのか」
「あっちは弥太郎達に行かせる。面の割れている俺より動きやすい」
夕べの残りのいなり寿司を口へ放り込みながら、慌ただしく支度する。今日はおたみは団子屋の店の方が忙しく、こちらへは来ていなかった。
「俺に行かれちゃまずいのか」
「いや、別に」
孝広の言葉に江口新八が気まずげに目を逸らす。
「歯切れの悪い奴だな。はっきりと言ってもらおう」
孝広が促してもしばらくは言いよどんでいたが、とうとう、
「店の者どもは…その、下手人の浪人がしばしば店に出入りしていたと、その、言っているし…」
遠慮がちな口調に孝広は、
パンッ
と思いきりよく新八の背を叩き、
「おまえはまぁだ俺を疑っとるのか!? よいから連れてけ、連れてけ」
二人は深川の料理茶屋へ出かけていった。定吉が経営する店だが、そこの女将がしばらく前から行方が知れないらしい。
「深川か。旨いものを食わせる店があるからな。…何という店だって?」
「菊秀だ」
「何? 深川の、菊秀?」
「知ってるのか」
「あそこは、老夫婦の切り回す、ちょいと趣のある上品な店であった筈だぞ」
「去年、その主人夫婦が揃って死んで、定吉が店を買って女に与えたそうな」
「そうか、あの主人夫婦、死んだのか…」
孝広は仏頂面で黙り込んだ。
そのまま二人は黙々と、お互いに考え込んでしばらくしてから、
「後、もう一日しかないな」
口を開いたのは新八だった。
「今日を入れて二日だ」
「後、一日半だ」
再び沈黙が二人の間に落ち込んだ。
「………」
新八が三度目の口を開いた時、二人はすでに菊秀に着いていた。
「殺された女将の名は?」
と新八。件の茶屋の番頭に向けた顔はもっともらしいしかめ面である。
「へえ、おとよさんと申します」
それに答えたのは菊秀の番頭は、じっと孝広が新八の影から睨んでも、どうやら見覚えはないようだった。
成程、おとよか、と新八は振り返って孝広と顔を見合わせた。その視線に答えた孝広は一つ頷くと、
「女将には定吉以外に情夫はいなかったのか? あれだけのいい女だ、いたのであろう?」
素知らぬ顔でそう言った。突然横合いから口を出した浪人に、菊秀の番頭は『お役人だろうか』の判断もつかぬまま、孝広の人懐こそうな笑顔につられて、
「へえ、まあ、おりましたようで」
うっかりと口を滑らす。
「その話を聞かせてもらおうか」
長年の経験から新八は、自分の一睨みよりも孝広のそれの方がずっと効果があるということを知っていた。そして、今回もその通りであった。番頭はほんの少し口を閉じたのみで、
「へえ。あ、ちょいとお待ちを。…おい、おまえ達」
何人かの中居を孝広達の前に連れてきた。どれも小綺麗な娘ばかりで、料理茶屋の中居というには少し美しすぎるような気がする。
ピュウッ
孝広が思わず口笛を吹いたのを、右端の少々年増の女が咎めるように、じろりと見やる。彼女だけは化粧も薄く、確かに玄人風ではない。この女が、役人に女将の行方知れずを訴えてきた女中である。
数年前までは如何にも品が良く風雅なたたずまいの料理茶屋であったものが、ずいぶんな変わりようで、おとよという女の素性もこれで知れたという気がする。
「おまえ達の方が分かるだろう?」
番頭の問い掛けに、女達は一斉に顔を見合わせた。
「女将のところへ来ていた男のことだがな」
孝広がさらに言うと、
「定吉親分のことでは…」
「それ以外には誰も女将のところへ出入りしていなかったか」
「そしたら、あのご浪人さんのことでしょうか」
左端の女が口を開いた。他の女達もやっと、
「へえ、さよ、さよ。わりにこざぁっぱりしたご浪人さんで」
「近頃には、まあ、ようけ来てなすったようですわ」
口をほぐしたついでに、
「あのご浪人はん、定吉親分とこのお人やいうのに、親分のいない時にはわてらんとこにはちィーっともきはらしまへんで…」
余計なことまで言いかけて、ゴホンと番頭に睨まれていた。
「名は? 顔は? 存じておろう」
一番、口の軽そうだと思われる真中の女に孝広は集中的に問い掛けた。
「そら、見ました。いつでも用心深いお人やしたけど、へえ。あの捕まらはった妙蓮寺たらいう、けったいな名前のご浪人はんに間違いあらしまへん」
きっぱりと断言したこれを、当の本人の真前でやっているのだから、滑稽なことこの上ない。
「ほう、間違いない、と?」
「へえ。何度も見てますよって」
孝広の口元が今にも吹き出しそうな形に歪んでも、右端の中居以外は口々に繰り返した。孝広は振り返り、
「新八っ! 覚えとけよ。これが捜査の基本というものだ」
偉そうに言った後で再び女達に向き直り、
「別嬪さん方にゃ後でまた証言してもらうことがあるかもしれぬが、よろしく頼むよ」
孝広と新八は女達の、
「あら、やだァー」
嬌声を背後に聞きながら店を出た。
店を出て歩き始めてすぐに、
「…新八。いつか、あの店を調べてみるが良い」
ぽつりと孝広が呟いた。
「何?」
「あれ、あの番頭がさ、ぺらぺらとしゃべったところを見ると、確かに今度の一件には関わりはなかろう。しかし、裏を返せば、役人の調べが店の内情に及ぶのを防ぐためであったとも取れる。いつか、暇になったらな、調べてみるが良い」
新八はあまり関心もしない様子でそれを聞いていたが、
「そうだ、な。いつか…暇になったらな」
『暇』というところを、やけに強調して呟いた。孝広の呑気なのもいい加減にして欲しかったのであろう。
ところで余談ではあるがずいぶんと後になってこの番頭、料理茶屋と称して私娼を置いた罪でお縄になっている。
「もしっ…」
孝広達に女の声が追いすがってきた。一人の中居が追い掛けてきたのである。
「…あの、(ハッ)もし、(ハッ)お待ちんなって、旦那」
息を切らせて、やっとそれだけを言った。右端にいた薄化粧の女である。
「おお、おまえ、先程の…」
彼らが足をとめると、女も胸を押さえ息を整えた。
「何だ? 女。何ぞ、用か?」
江口新八が声をかけても、そちらを見ようともせず、女はヒタと孝広の顔に視線を合わせている。
「ん…? 俺、か?」
孝広はにっこりと笑顔。美人と見るとすぐこれだ。新八が、『やれやれ』と、小さく呟いた。
「あの、もしかして…妙蓮寺様? 妙蓮寺孝広様でございましょう?」
「あ、れ!? おまえさん?」
孝広の表情に女はホッとした様子で、
「はい。菊秀の女中のおていでございます。先の旦那さんの頃に、はい、何度かお目にかかって…」
「そうか。おまえ、まだ菊秀にいたのか」
孝広が言うと、女は少し悲しそうに溜息をつき、
「行くとこもありませんから」
そう答えた。
この女は今の菊秀の女中としては最古参で、死んだおとよが菊秀の主人に納まる前からあの店で働いていた。以前、孝広が何度か菊秀に来店した時には快活なよくしゃべる女であったのが、今は何処となく面やつれしている。
「忘れなどしやしません。妙蓮寺様には一度、危ういとこを助けて頂きましたもの」
女がこう言ったのは、ずいぶんと前のことであった。孝広の方ではすっかり忘れていたらしく、キョトンとした表情をしている。
おていという名のこの女が菊秀で働いている時、とある客に粗相をしてしまったのである。粗相といっても如何にも些細な、しかし、相手が悪い。いかつい、鐘馗様のような侍であった。あわや手討ちというところ、店の主人も恐ろしくて執り成せずにいたのを、友人(悪仲間ともいう)の備中屋の若旦那に連れられて店に来ていた孝広が口を添え執り成してやったのである。蛇足ながら、その鐘馗様とは孝広、今でも交誼を続けている。
ぺらぺらと彼女が当時の礼を虫干しするのを、
「おい、女」
新八が横からさえぎった。
「では、おまえ、菊秀に来ていた浪人を…」
「ええ。もちろん妙蓮寺様ではございませんとも」
「そうか。…女、これより番屋、いや奉行所の方で詳しく聞かせてくれぬか」
「妙蓮寺様? あたし…」
訴えるような目で彼女は孝広を見、新八をちろりと振り返った。
「定吉親分が、おしまちゃんに言ってたんです」
「何をだ」
「女将さん…おとよが死んだらあの店をおしまちゃんに任せようかって。あたし、聞いてしまって…おしまちゃんが『うん』と言ったら、その、女将さんをナニしてしまうからって」
「おてい!?」
「そ、それを、誰に聞かれても言えるな?」
新八と孝広の同時に叫んだ声に、おていは、
「そりゃ冗談で言ったのかもしれませんけど。女将さん亡き今、定吉親分があたしの雇い主でござんすから…」
ずるそうな目で探るように孝広の様子を伺った。新八はこの女中が己の証言と引き替えに何事かを孝広に要求するつもりであることを見て取った。
「小面憎い女だ。役人と取り引きしようと言うのか」
新八の言葉を女中は聞かぬ振りをし、
「女っ、どうなのだ!?」
それでも彼女は答えず、ただ、
「…妙蓮寺様。あたし、怖いんです」
そうとだけ言った。
「怖い?」
「ええ。お店の人達が、とても。女将さんも番頭さんも、おしまちゃんや朋輩の娘達だって…ああっ、何て申したらいいのか分かりませんけど。とても怖くて、近頃は一晩だって安心して寝むこともできゃしません。あたしはあんな人たちなんぞ大嫌い! 幸太のためでなければ、あんな店で働きなどしないのに!」
彼女は殆ど半泣きで訴えた。元々が堅気の育ちで、幼子を抱えて働くキャリアウーマン、中々感心な女なのである。その感心な女がこうまで怯えるとは、確かな原因がある筈であった。それは、言語として成立し得ずとも、孝広達には自ずと理解することができた。あの如何にも実直そうな番頭ですら、腹に一物、一筋縄でいく男ではなかろう。まっとうな人間が震え上がるのも無理はない。
「ああ、よし…」
呆れる新八を無視して、孝広は女の肩にそっと優しく手をかけた。
「ああ、よし、分かった。おまえ、子は? そうか、里にな。ならば、このまま俺達と来るがよい。勤め口にも心当たりがある。荷物など取りに戻らぬでもよいわ。着の身着のままで来るがよい。俺はこれよりおまえに多大な恩義ができるのだから」
女の肩を優しく抱いて、
ポン、ポン
二度三度叩く。なだめる声から誠実さが溢れ、案外、この男には医師か寺子屋の教師辺りが似合いだったのかもと思わせた。
その孝広の袖をぐいぐいと引っ張った者がある。涙を押さえた女から、少し離れたところまで来ると、
「孝広、おまえがそのような、勤め口の世話までしてやるなど…そのような面倒までみてやる必要はないのだぞ。あの女には本当のことを正直にお上に申し上げる、江戸町民としての義務があるのだからな」
「うん、まあ、そう言うな。あの女はな、若い頃に亭主に死なれて、女手一つで子を養っておる、健気な女なのだ」
孝広の言い訳にも新八はすげなく、
「そんな境遇の女など江戸中にいくらでもおるわ」
「そりゃそうだがな、と言うてその女達の健気さが減るというものでもなかろう」
「だが、本当によいのか?」
新八の必要以上に深刻な表情があった。
「あれは子供を故郷に置いて働く、真面目な善い女だ。構わぬさ。勤め口にもまことに心当たりがあるのだ」
その台詞がますます優しげで、剣を手にする時と大違いである。だが、新八は変わらぬ心配げな顔を、さらにしかめて言った。
「その子供…まさか、おまえの子ではあるまいな」
「へっ!?」
孝広が目を剥いた。
とかく、日頃の行いはよくしておきたいものである。
――――― 51 ―――――
その時のことを後で思い返してみても、どうにも悔やまれてならない。
決して人の往来が絶えていたというわけではなかった。但し、人通りが激しいとも言い難かったのは確かだ。それ故、結局のところは孝広と新八の油断だったのだろう。期日一日前のこの時になって証拠を手に入れたという油断が彼らにあったことは否めない。
「孝広様、あンのォ…手を、その、お放しんなって…」
女が言った。女は深川の料理茶屋・菊秀の女中で、ていといった。孝広の無実を証言できる唯一の第三者である。
ぎゅっと孝広の大きな手につかまれた自分の荒れてガサついた手をもじもじとさせながら、彼女は頬を赤らめている。証人となる自分を安全な場所に匿ってくれようというその道すがら、孝広が必要以上に彼女を引き寄せた。同行の江口同心も先程より押し黙ったままだった。女の浅はかさで、おていはおののいて頬を染める。
「あのォ」
再び囁き、孝広の顔を盗み見る。おていは決して頭の回転が人より劣る方ではない。孝広の怒ったような横顔を見て、彼女は事態の異様さを看取したらしい。
「案ずるな。何、すぐに片付く」
女の怖じけたような瞳に孝広は言った。
そして…
一体、何が起こっていたのか、おていには正直なところ分かっていなかったのである。
ただ、大勢の男達が彼女達の周りを取り囲んだことだけは知っていた。
「あの店からか?」
と新八が言った。
「いや。店を出て、その少し後からだった」
孝広が答える。
(~~~)
おていはもう無性に怖くなっていた。
嫌だった。この場に居合わせていることが自分には間違いであるようにしか思われない。
孝広と新八が大刀を抜き払った。
「行くぞ!」
「おう!」
ぎっちりと彼女を押さえ込んだ孝広の手がどうにもこうにも、煩わしくて―――わずらわしくて―――ワズラワシクテ―――
おていは懸命になってそれを振りほどこうともがいた。
「イっ!! つッ」
孝広が苦鳴を漏らす。
それを遠くに、おていはその声を遠くに聞きながら、気が付くと彼女は地面の砂を手に捕まえていた。
「おいっ、おてい!?」
「女!! しっかりせぬか!」
ただ右の頬に湿った土の感触だけがある。
「よし、やったぞ!」
「もういい、引き上げろ」
わらわらと大勢に人間の足音が響いてくるのだが、それも非現実的であった。
(死んだ亭主もこんなんだったんかねェ)
彼女の夫は博奕のいざこざで与太者に刺されて死んだのだった。
(幸太…)
故郷に置いてきた息子の名であった。
ピィィィィーッ
新八の呼び子が鳴った。鋭い笛の音が辺り一帯に響き渡る。
(チクショウ!)
白く色が変わる程に握り締めた孝広の左拳に血が滲んでいる。おていに噛みつかれた跡である。
南町奉行山城長門守忠之に出頭を命じられた明十七日までは、孝広はまだ容疑者の一人であるというにすぎない。
――――― 52 ―――――
十七日、時は子の刻。
もはや一刻の猶予もならなかった。
「弥太、裏手へ回れ」
夜の明けるよりも大分前、定吉の家の前へ孝広達が集まっていた。
「よいか、木っ葉どもには構うな。目指す相手は、定吉一人のみ」
孝広が言うと、
「はい」
と冬彦。
「承知…」
と新八が答え、
「分かっておる」
数馬がぶっきらぼうに応じた。
「それっ」
の一声で、四人は家屋に押し入った。
バリンッ
ドカァ!!
時ならぬ襲撃に、定吉とその仲間達は大慌てに慌てて、てんやわんやの蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
夜討ち・朝駆けの主目的は、敵の不意をつくこと。奇襲の点で言えば此度の襲撃、すでに成功と見てもよかろう。
「新八、冬彦、小者は頼んだぞっ!」
土間から上がり込んで孝広は、奥より響く足音に向かい、顎をしゃくった。
「南町奉行所同心、江口新八である。定吉を菊秀女将おとよ殺害の容疑で召し捕りに参った。神妙にお縄を頂戴致せ。邪魔立て致せし者はすべて同罪と見なすぞ」
堂々と名乗りを上げた南町同心の江口新八は、自分達一行の珍妙さにまったく気付いていなかった。
「そうですよ、大人しく捕まりなさい」
捕り方の中で一番張り切っているのが、まだ声変わりもせぬ少年であった。上質の絹を着て、今日は自分の刀を携えている。
次々に押し寄せる人波を新八と冬彦の凸凹コンビが峰打ちであしらっていった。
「数馬、二手に別れるぞ! 定吉を探せ」
言った時には、孝広の姿はもうすでに廊下の奥へと消えていった。
「何処だっ、出てこぬか!」
叫びながら孝広は一つ一つの襖を開け放っていった。だが、彼の探しているのは定吉ではなかった。
ギィィン
刃を噛み合わす音が聞こえた。庭の方からである。
孝広がそちらへ目をやると、
「旦那っ」
弥太郎が喜色を表して呼んだ。裏木戸を境に、一人の侍と何やら押し問答。もっとも、その手元にはギラギラ光る匕首が握られているのだから問答の穏健さは推して知るべし、だ。
「旦那、この野郎がね、逃げ出そうとしてやがって」
弥太郎はそう言って、大刀を抜き払った相手に、一歩も引かぬ気構えである。孝広はズカズカと庭に下りていった。
「弥太っ!…ここはいいから、数馬の方を手伝ってやれ」
定吉如きを捕らえるのに、数馬が手伝いを欲するとも思えなかったものの、とりあえず孝広は言った。弥太郎はそれに頷くと、
ヒュッ
いきなりその侍へ斬りつけて、トッと身体を反転させるように座敷の方へと駆けていった。この辺りの呼吸が、此奴にしても尋常ではない。弥太郎が行った後で、
「…久方振り、と申してもよろしいか? 妙なところで会うものよな」
凝り固まったような姿の侍はその声に、やっと呪縛を解かれて振り向いた。無論、朝倉道場で見掛けた虎太郎の取り巻きの一人、山本真木彦に違いない。
「御貴殿とも、同じ門を潜った者同志…」
さても空々しいことを言いかけたが、
「ほざくな!」
山本が怒鳴りつけてきた。怒鳴りつけざま斬りかかってこない辺りが、此奴の限界であろう。弥太郎などとは大分に違う。元は同じ町人といっても、山本の方は大店の三男坊のお坊ちゃまときては、致し方あるまい。
孝広はそんな山本に対して短くせせら笑うと、
「笑止! 貴様如きがこの俺に勝てると思うてかっ」
こちらもズラリと剣を抜く。
先夜、五分で闘った相手に、大層な口利きである。
山本は屈辱に蒼冷めた顔で、スルスルと孝広に近寄ってきた。
「猿真似侍っ! もう数馬の真似はやめたのか」
孝広はすっと後ろへ退いて、再び間合いを取る。
「………」
ジリリ、と間合いを詰める。
「………」
スササ、と間合いを開ける。
「エヤッ!」
「トアーッ!」
キィン
両者の身体がもつれ合うようにして、刃を噛み合わせ、再び離れる。二人が同時に、一間ばかりも飛び退ったろうか。
「テヤッ」
山本が剣を突き出した。次々と迫り来る切っ尖きを避けて、避けて、避けて。
一段、二段、三段。それをすでに予想していた孝広は、フッと身を沈め、
ズザザァ
山本の足元を滑り込んでいった。
「くゥ」
後背を突かれまいと転瞬した山本の、その頭皮の上をツーッと冷たい汗がしたたる。ここに至って彼は、ようやく自分の敵が只者ではないことに気が付いたのであった。
そして、猛然と斬りつけてきた。
斬って払って、突いては引いて、右を狙って左で受ける。
ギィン
白刃を間に、互いを睨みつける。ギリリ、ギリリと、力と力が押し合っている。
「貴、さ…ま、山…本、と申し、たっ、な」
腕がしびれて尚も押し続けながら、孝広は言葉をしぼりだした。
「………」
山本が答えなかったのが、黙秘権を行使した結果なのか、声を発する力さえも抜けなかったせいなのかは定かではなかった。
「おのっれ、のみ…の、仕業…と…は…思わっぬ。誰それに…頼、まれったのだとォ、言え、よぉ」
ふざけているわけではない。声を出すのも苦労するのだ。
「言、えば…よし。言わ、ねばァ、斬る!」
ギリギリギリギリ
山本というこの侍、身嗜みも良く、言葉付きも物堅い。さすがに数馬に化けただけのことはある。体格も、孝広・数馬に似て、身の丈六尺はあるかと見えた。
「ッ!」
交わした二本の剣は刀身を滑って鍔のところまで下がってきている。孝広の悲鳴は、切っ尖きが肩に喰い込んだからである。
(チッ、おたみにゃ見せられんな…格好の悪い)
この状況で軽口が心中に浮かぶ辺りが如何にも孝広らしい。減らず口の後で、ぐぐっと刀身を押し戻す。いや、押し戻したばかりか渾身の力を込め、山本の剣を跳ね飛ばした。
シュオンッ
空気すら切断してしまう程の一刀が、山本の頭上を掠めていった。
横真一文字に薙ぎ払った孝広の剣は、ぽんと如何にもあっさりと山本の髷を斬り飛ばした。
「あっ!? あ…あ…」
ザンバラリと、顔の周りに散り落ちてきた髪を頼りなげな手つきで掴みながら、山本は声もなくそのまま膝をついた。
まるで手妻のような孝広の手練であった。
「あゥ、うう」
ザシッ
孝広が彼の前に立つ。と、そこへ、
「定吉を捕らえたぞっ! おいっ、孝っ…その、何処だ」
それは数馬の声であった。
山本はすっかり観念したらしかった。何といっても、髷を落とされたとなれば、武士にとっては恥も恥、大恥である。それは、『首級も取れるところではあったが、見逃してやろう』と、そういう意味合いの行動なのだから、なまじ腕に覚えのあった山本には恥辱以外の何ものでもなかったろう。
「すべて話す、話すから、命だけは…」
その掌を返したような態度に孝広は、
「ふん」
否とも応とも取れる台詞である。
「我が、我が主の名は…佐々木、ささ…」
やはり性根から武士にはなりきれぬ山本真木彦、主家の名を半ばまでもらし―――
「おおっ、そこであったか!」
「孝広殿ォ、すべて片付きましたよォ~」
「旦那ァ、これで濡れぎぬも晴れやすぜェ」
「お奉行に出頭命ぜられているのだろう、急ぐぞォ」
妙蓮寺孝広の、その一味達であった。孝広がふっと無意識の視線を投げた。
その瞬間、
「ウォッ!!」
両膝をついて俯いていた山本の身体が、瞬間、エビのように跳ね上がった。
「きっ、さまァ~」
孝広の怒声と、
「「「あっ!!」」」
駆けつけた数馬達の声とが重なった。
山本の奇襲を、ほんの紙一重で躱した孝広が、
ピョウッ
と必殺の―――〈逆袈裟〉が決まって―――一刀両断。
「………」
「…やっちまった。捕らえりゃよかったな」
溜息が孝広の口からもれ、新八がポンとその肩を叩いた。
誰に指図されたものかは判明せずとも、彼らの傍らにはすっかり観念したような定吉の姿がある。孝広の女殺しの汚名を晴らすだけならば、十分である。今はこれだけで満足すべきであろう。
チチチッ
小雀どもが騒がしげに鳴き出した。
期限最後の夜が白々と明けている。
洞正院妙法寺に住まいする浪人・妙蓮寺孝広が、南町奉行所の白州に引き出されたのは、その日の正午であった。
次が最後です。
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