朝倉道場三羽烏・大騒動!⑥
――――― 45 ―――――
翌朝。
誰よりも早く起き出したのはおたみだ。身支度を済ませ、井戸端へ向かう。
『水道の水で産湯をつかった』
というのが、上下水道が世界一(当時)整っていた大都市に生まれた江戸っ子のステイタスであるらしい。
が、生憎とこの妙法寺のある辺りは起伏の激しい丘陵地帯で、中でも妙法寺は一番小高い丘の上にある。
水道水など望むべくもなかったが、幸い良質の地下水に恵まれていた。妙法寺の〈六翠の井戸〉は椿山荘の〈古香水〉と並んで、東京の名水として令和の世にまで残っている。
奥の部屋に寝ている孝広達を起こしてしまわぬようにそっと裏手の井戸へ水を汲みにいった。
まずは水瓶を一杯に満たし、それから米をとぐ。昨夜の小雨で湿った土の匂いがやけに清々しい朝であった。
「あらっ!?」
おたみが声を上げる。
「まあ、今朝は馬鹿にお早いんですねえ」
彼女と擦れ違うように井戸端へ顔を洗いにやってきたのは、客人達に部屋を占拠されている孝広であった。おたみは普段通りだが、孝広の方は滅多にない程の早起きである。
声をかけたおたみに向かって半分だけ笑顔を見せた。後の半分は不意にわき起こった大欠伸に中断されて消えていった。
「おたみ、まだ数馬も冬彦も寝ておる故、ゆっくりでよいぞ」
ふわぁ―――
ともう一度大口をあいてから、井戸の釣瓶に手を掛ける。
その内に朝餉が整う頃になると、江口新八もやってきたし、弥太郎も早々と顔を出した。総勢六名で至極のんびりと朝食を取る。弥太郎と冬彦はともに、殺された女の身許を調べに品川へ行くつもりで、食べながらの打ち合わせだった。
孝広と数馬は、今日もまたあまり口を利かない。
炊きたての飯に香の物、めざしを頭からバリバリとやり、ズイッと啜り込んだ熱々の味噌汁には産みたて卵が落としてある。
今日の孝広は珍しく早起きだった。というよりも寝てないのじゃないかと、おたみは茶碗の陰から孝広の様子を伺いながら、心配げに眉をひそめた。
そして、数馬も。おたみと同じ思いに心を満たして同じように眉をひそめた。
しかし、一晩中輾転と寝返りを打ち、おそらくは殆ど眠らなかっただろうと思われるのに、この朝の孝広の表情は何か心の決まった落ち着いたものであった。
「出掛けてくるぞ」
茶を飲む間もなく、出掛けていった。
それを追って数馬が出ていき、またその後を新八が追っていく。おたみの眼差しがまたそれを…。
「坊っちゃん、あっしらも参りやすか?」
弥太郎の声に冬彦は軽く頷いたが、
「待って。お待ちよ。せめてお茶くらい飲ませておくれな。…ねえ、おたみちゃん」
彼だけがおたみに向かってにっこり笑いかけた。
――――― 46 ―――――
孝広は家を出ると、裏手の林の中へ入っていった。その姿が木立ちの影へ消えさる頃、戸口には数馬が現れ、
「…?」
右と左、キョロキョロと見回し、ようやく姿を捕らえて後を追っていく。
「おいっ、待て」
孝広は数馬の声を聞き、足は止めたが振り返らなかった。どんな表情でいるのやら、皆目分からぬ。
「何ぞ用か?」
孝広は言った。用があるから呼び止めたのだろうに、『何ぞ用か』もないものだ。
だが、いつもなら容易にシニカルなポーカーフェイスを作れる筈の孝広が、今日ばかりは何故か振り向けずにいた。
「………」
しかし、数馬の方とて格別に用があって呼びとめたのではないらしい。
「…用がなければ…行くぞ」
と孝広はそのままスタスタと。
「あ、待て」
言って数馬は孝広の腕を捕まえた。
「用があるのは己の方であろう? 俺を探して…夕べ…おたみに…」
落ち着かない気分で、何を言っているのか自分にも分からないでいる。ともかく、おたみに何やら聞いたのであろう。
「離せ、数馬」
「………」
「離せっ、数馬! 俺に…俺に、触れるなっ!」
ビクッ
時ならぬ大声に、林の中の小鳥や野鼠がびっくり眼で顔を見合わせた。そして数馬もハッと身をたじろがせ、それでも孝広の袖を捕らえた手は放さない。大声を出した孝広までが、慌てたようにふっと顔面に片手を当て、ますます顔を背けた。
「………」
数馬の戸惑う気配が腕から伝わってくる。数馬は―――いつも通りの数馬だった。真っ直ぐでお堅くて、愚直なまでに清廉で、優しくて、甘ちゃんで―――孝広の心にゆっくりと安堵の気持ちが広がった。
「離さぬとあらば、俺にも覚悟があるぞ」
孝広のドスの利いた声は少しばかり普段通りのからかうような調子を取り戻してきたように思える。
「何、何の覚悟だ」
「…先日の、吉原での己の醜態、志保殿に申し伝えようか」
志保は朝倉道場師範の一人娘で、数馬の秘めた(?)想い人である。
「ぶわっ…ぶわっかか、貴様! お、俺は別に…」
真赤に染まって凄い形相である。もちろん数馬には何らやましいことなどないのだが、慌てふためく姿がさても数馬らしい。
孝広の顔が歪んだ。
口元が、笑いの形に。
たとえそれが多分に苦さを含んでいようともだ。
「冗談だ、数馬。腕を離してくれ、痛いよ」
その腕から、張り詰めた感じが薄れていくのが数馬にも伝わった。
「ん、ああ、すまぬ」
と素直に離す。
その瞬間、孝広は何かをひらめいたようにカッと目を見開いた。
「数馬っ!」
大声に数馬が再び驚き、こちらも目を見開いた。
「型を遣うて見せろ! 三段突きだ」
数馬が仰天したままもたついていれば、焦れたように刀を抜いて彼に持たせ、
「早うしろ。…新八! 新八!」
新八まで呼ばわる。後から付いてきて木立ちの影で覗いていた新八は渋々といった様子でやってきた。
渋々と出てきて、言われるままに、数馬が型を遣う相手を務める。
数馬も新八もわけが分からぬながら、それでも孝広にせっつかれて朝倉一刀流の書第二巻三節に納められた立ち会いの型、〈三段突き〉を披露した。
「一と二と半…か。そう、さすがだな」
数馬の三段突きは道場内でも随一。初太刀から三の太刀まで二秒半しか掛からぬのである。その鋭さに新八が思わずのけ反り、尻餅を突いた。
孝広の独語は昨夜来の屈託を吹き払う程の明るい響きを伴っていた。
――――― 47 ―――――
孝広、数馬、新八の三人が裏手の林でぐずぐずとしてる間に、冬彦と弥太郎が探索に出掛けていった。これも思えば奇妙な取合わせである。
「ねえ、弥太さん」
にっこりと話しかけてきた少年を見返して、弥太郎は曖昧に頷いた。家に待つ恋女房のおきぬ、一時は吉原一番の器量よしと噂された彼女に、容色の点でいささかの引けも取らぬこの少年は当年とって十三才だという。
育ちもきらぬすんなり細い手足に、弥太郎は羨ましいとともに小恥ずかしいような気持ちで、感嘆の眼を向けた。弥太郎はまだ冬彦の本性を知らぬのである。
弥太郎は、女子に見間違われるのも冬彦にとってはさぞや迷惑なことであろうと、やっとの思いで頬に浮いた微笑の影を消した。
「何ですかい、坊っちゃん?」
冬彦と弥太郎がやってきたのは、品川宿であった。言うまでもなく、飾り職の藤吉の証言による〈おとよ〉なる女の足跡を確かめにきたのである。
「あれ! ほら、あれがそのお話の店じゃありませんか?」
冬彦が指差したのは、場所は品川宿の端だが、宿場女郎を置く店としては上等な方である。
「ちょいと御免よ」
弥太郎が店に一足踏み入れると、
「まあっ、いらっしゃいまし」
愛嬌を声の端からもこぼしながら、店の者が顔を出した。出したと思うや、
「あれっ!?」
すっ頓狂に叫んで、弥太郎をまじまじと見詰めている。当然である。
いつものように、昼遊びの客を愛想よくあしらってくれんと出てきてみたらば、客の奴めが、何と子供連れ。この者でなくとも業腹になろう。
「何ぞ、用ですけえ」
ぶすったれた声を出す。冬彦と弥太郎の前へ出てきたのは、年の頃なら五十と幾つか。もういい加減なバアさんだ。女郎屋には妓達の世話をするこういうババァがいるものなのだ。元は妓達と同じ境遇であったものが、年取って店にも出れなくなって転職するのであるらしい。俗に『やり手ババァ』などと呼ばれている。
冬彦にじろりと嫌な視線を向けたこのバアさんも、確かに痩せて顎も尖り、皮膚だけがしわしわと骸骨の上に張りついていたものの、さぞや美しかったのだろうという昔日の面影が忍ばれるような…気がしないでもなかった。
「用がねえのなら出てっとくれ」
ぷんっと鼻息荒く、この年までを苦界で生き抜いてきた女だ、相当以上に気も強く、意地も悪くなっているに違いない。
「おばあさん…」
冬彦であった。可憐とも称したい程の様子で、美貌はともかくその性質においては限りなく少年らしいと思っていた冬彦の豹変に、弥太郎はぎょっとなった。
「なっ、なんじゃい、坊は?」
さすがのババァも毒気を抜かれたらしく、少年に向かっては、がなりたてようとしなかった。
「おばあさん、実は…」
かえってタジタジとなって、冬彦の〈瞳うるうる〉攻撃に抗していた。
「実は、私、どうしてもお尋ねしたいことがあるんです。…ああ、どうか、私におとよさんの居所を教えて下さいっ」
冬彦が必死なことは、弥太郎にもこのババァにも十分に伝わってきた。無論、その真摯さに嘘偽りはない、あろう筈がない。
「おとよォ~?」
「何年も前にこちらのお店にいらっしったでしょう? ええ、今はいらっしゃらない筈です。何処のどなたが、あの人を受け出していったのか、教えて下さい」
弥太郎は冬彦を押しとどめた。何もかも、そう短兵急に聞いては、上手くゆかない。だが、冬彦はそんな弥太郎の手を振り払うと、
「お願いっ」
震える声で叫んだ後、一度面を伏せ、素早く『ペペッ』と唾を目元・頬筋になすりつけた。
(はて?)
弥太郎が首を捻る間もなく、
「病の床でお父っつあんが、死ぬ前に一目、一目でいいからおとよに会いたいと…」
ガタタンッ
弥太郎だ。
これで、冬彦の犠牲者は数馬に続いて二人目となった。
――――― 48 ―――――
江口新八は鼻歌を歌いながら町中を歩いていた。
数馬の三段突きですっ転がされた後、彼も町へ探索に出ていたのである。鼻歌などが出ているところをみると、相当機嫌がよい。どうやら確かな手応えをようやくに掴めたらしかった。
その時だ。
「土左衛門だぁ! 土左衛門が上がったぞ」
江口新八は条件反射で振り向いた。
だが、己の姿にはたと気が付き、さてどうしようかという顔つきになる。
今日の新八は再び羽織・袴を脱ぎ捨て、町人になりすましていた。腹には晒を巻いて、裾はからげて、何処からどう見てもちんぴらやくざにしか見えない。こんな格好で衆人の前に出ていくわけにはいくまい。
(…うーん、どうするかな)
このまま見過ごしていくのも、一番現場近くに居合わせた町方同心として何やらはばかられるし…。
(よし)
心の中で頷いて、新八は川べりの方へ歩いていった。やじ馬の振りして近づいて、初動捜査ぐらいはやっといてやるかぐらいの心づもりであった。
裾をはしょった鉄火な姿で新八が土手を下りていくと、大勢の人だかり。
(まさかあの賭場にいた小僧っこじゃないだろうな)
賭場で新八に定吉の情報をもたらしてくれた不良少年のことである。
「はい、御免よ。ちょいと、すまねえな」
かきわけかきわけ中へ入ると、彼がわざわざお節介を焼くこともなかったようで、町方同心がすでに検死を始めていた。
「何だ、おまえ。早いな」
新八のたった一人の後輩、見習い同心の柚木平九郎である。新八が唯一威張り散らせる相手だ。
「うん? 何だ、貴様!! 入ってきてはいかん!」
「拙者だよ、見習い」
新八は笑いながら、死骸の側に屈み込む。
「え? あっ、すみません、江口さん。それにしても…お見事ですね」
見事な化けっぷりに感心している。
「この土左衛門、溺死体ではないな」
一目見て新八は言った。死体の顔を見て表情が強張っている。
「はい。ただ、外傷もないようなので…。酒に酔ったか何かで心の臓でもイカれたのかと思ったのですが…」
「柚木、アレを持っているか」
「アレと言いますと、これですか?」
見習い同心が懐から取り出したのは、飾りなど殆どついていないシンプルな銀のかんざしである。
「こいつの喉の奥に入れてみな」
新八の言うように見習い同心が死骸の喉に銀かんざしを差し入れると、
「色が…では、此奴、毒を?」
「らしいな」
銀には毒に触れると変色するという特質がある。そのために大名家のお毒味役の箸は銀で作られているし、定町回りの同心達は必ず懐に銀のかんざしを持っているのである。
「これは大変なことになりましたよ。早速、上に報告しますが―――江口さん」
「ん?」
「この男の身許ですがね、何処かで見たような気がするんですよ。江口さんは見覚えありませんか?」
新八は一瞬、キョトンとした顔でいたが、呆れたように苦笑し、
「自分で考えるのだな、見習い。案外、身近にいたかもしれぬぞ」
一言残して立ち去った。
「あ、江口さ…」
「柚木! お奉行にお伝えしてくれ。期日までには必ずと」
新八は妙法寺へと足を急がせた。
土左衛門は、南町奉行所の牢番だった男で、名を源治といった。
まだ続いてます
スミマセン
次回もよろしくお願いします。
一応……
妙法寺の〈六翠の井戸〉はねつ造です。m(_ _)m
椿山荘の〈古香水〉本物ですが。