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花のお江戸の烏ども  作者: サーラ
6/9

朝倉道場三羽烏・大騒動!⑤

――――― 41 ―――――


 旗本屋敷の奥まった一室で、用人の伊東帯刀は苦い顔をして見せた。

「して、その…何と申したその浪人…」

 と伊東帯刀が言った。目の前には浪人姿の一人の侍。

「妙蓮寺と」

 男が答える。

「名なぞはどうでもよいが、その者を始末せなんだと言うのだな?」

「油断しているところを一思いに刺せと申しつけておきましたが、どうもあの牢番の奴めが意気地のない奴でして、妙蓮寺が背に百も二百も眼がついているようでとても殺れなかったなどとタワケたことを」

 浪人姿の侍が汗をかきながら懸命に言い訳をしていた。


 この男、名を山本といい佐々木家に仕える下級武士だが、もともとは町人であった。侍でもないただの商人の三男坊だったのである。それが道楽のつもりで通い出した剣術にとり憑かれ、その腕を見込まれて、ようやく武士に引き立ててもらったばかりである。それ故、たった一度の失敗とて彼にとっては恐怖の種となる。


「言い訳はもうよい。で、その浪人はまことに自訴してでおったのか」

「はぁ、それは…源治の申すには江戸を出るよう仕向けたとのことで、行方の知れぬところを見てもそうであろうと拙者も思うておりましたが、昨日になって自ら名乗りでたようでして…。自訴して出た妙蓮寺は一時放しで、奉行所では只今、事件を内偵中のようでございますが」

 源治というのは孝広を逃がしてくれた牢番のことである。

「確かか?」

 伊東帯刀は言葉少なに言った。彼は亡き父の跡を継いでこの用人という役職に就いたばかりである。就いた途端にこんな厄介な役割を押し付けられた。今時のサラリーマンであったならば、とっくの昔に業務規約違反で裁判沙汰だ。

「確か、かと…」

 自信なさげな山本の返事に伊東帯刀はイラつきを覚え始めていた。

「確かでなくてはならぬ!!」

「いやいや、確かだと思います。そもそも、これは定吉の子分がつかんできた情報(ネタ)でございますが、この定吉という男は若い頃から無茶をやらせましたら天下一の男で、私…拙者がこの男を知りましたのも実は…」

「もうよい!」

 ぐだぐだとしゃべり続ける山本の言い訳を、伊東帯刀がぴしゃりとさえぎる。


 放っておけば山本はいつまででもしゃべっていただろう。尋ねたことに応か否かで答えたことなど一度とてない男だ。事の成否を問うても、事がそれへ至るまでの経緯を洗いざらい話さぬ内には、結果を報告せぬのである。剣の腕を見込まれて取り立てられた男であるから、それは屋敷内随一と認められてはいた。しかし、その一方では誰もが彼を『剣の冴えは天才的じゃが、それもまさる言い訳上手』と囃したててはうとんじていた。口達者というのは元が町人の彼を当て擦ったものである。


「一時放しになっておるのなら、その浪人を今度こそ仕留めよ…あ、待て」

 用人は頷きかけた山本を押しとどめた。

「いや、やはりその浪人には手出し致さずともよい」

「はっ!? しかし、それは…」

「まずは殿の采配を仰ぐが肝要じゃ」

 また何か言い出さぬ内に被せるようにして念を押す。彼らの主人は何事も自分で決定を下さねば気の済まぬ質なのだ。

「ところで、その牢番の方は大丈夫であろうな?」

「はい…」

 その言い方にまた伊東帯刀の眉が八の字に傾いた。

「大丈夫なように致せ! そういう意味じゃ!」

「は? はっ!」

 半刻後、佐々木家の門から山本という名で浪人姿の下級武士が出ていき、そのまま江戸の町へ消えていった。

 山本真木彦を帰した後で用人の伊東帯刀は大きな溜息を吐き、主人の部屋へ入った。




「あの浪人めが自訴して出たじゃと?―――何を馬鹿な…」

 主の佐々木兵吾に正面きって睨み据えられて、伊東帯刀はパッと顔を伏せた。

「いえ、驚いたことに真のことにございます。まだ罪は決しておりませぬが。長門守様も其奴を泳がせて時日をお稼ぎになるご所存のようで。どうやら取り調べに当たった同心が妙蓮寺を犯人ではないと主張しており、調べ直している模様です。上様におかれましても大層関心をお寄せになっておられる事件故、証拠がないからと逃げるわけにもいきますまいし、といって町奉行としては無実の者を断罪するのも叶いますまい。なれど、結局はこちらの思惑通り、あの浪人を断罪するより道はありません。あの者の罪が決した後…処罰された後で、あの者の無実を証してやってもようございますな。無実の人間を己の保身のために処刑したとなれば、山代長門守の失脚も間違いございません」

 滔々と流れるように伊東帯刀はこれからの展望を主に向かって説いた。

 しかし、彼の主は決して夢想家ではなかった。そんなに都合よく事が運ぶのであれば、虎太郎の父親は今頃、天下だって取っていることだろう。

「…あの浪人、何故に自訴致したのだ」

「は?」

 当然、得られるべき反応が得られなかった伊東帯刀は虚を突かれたようにぼやけた答えを返した。

「あの者は山代の息子と同じ道場に通い、素知らぬ態で友人のような顔をしておったくわせ者であったな。そのためにか? 友、いや弟のために自訴したと申すのか」

「そう…でしょうな」

 あまり自信もなさそうに伊東帯刀は頷いた。彼の内に自己犠牲の(そうした)感情が存在したことなど一度とてなく、そんな彼に孝広の心根を理解し得る筈もない。

「………」

 用人の返答に佐々木兵吾はしばらくの間、黙り込んでいた。

 妙蓮寺孝広という浪人者は佐々木兵吾の息子、佐々木虎太郎と同門の徒である。虎太郎自身は自分は暴漢の姿を見なかったと固く口を噤んでいるが、まず間違いなくこの妙蓮寺某が関わっている。なのに何故か―――

 佐々木兵吾は頭を振って、脳裏に浮かんだ考えを払拭した。


「ふん。だとすれば、余程おめでたい奴じゃな、その浪人は」

「まったくもって。愚かですな」

 用人の相槌を主は聞きもせず、

「友のためか…」

 呟きながら何か思いついたようである。

「ならば、その友と仲違いを起こしたらどうなる?」

「は!? 仲違いですか?」

「そうじゃ。たとえば、山代の息子が長門守ひいては己の不利益になるその浪人を密かに始末しようとしたならば…」

「まさか。あのご子息が?」

「と、いうようにあの浪人に思い込ませたのなら?」

「?」

「そうなれば当然、自分一人が濡れ衣を被ることに合点がいかなくなろう」

 にまりと笑う佐々木兵吾の表情は、その息子・清月院静謫と似たところは少なかった


「あ、成程。承知致しました。では、早速」

 そう言って、伊東帯刀が部屋を出ていった。町中に潜ませた山本真木彦を急いで追ってつなぎをつけるのであろう。

 伊東帯刀が去った後で、佐々木兵吾は一人脇息に寄り掛かり、

「ふん。妙蓮寺孝広とその一味の者どももこ小ざか賢しい真似を致すものよ」

 独語した。




 この時―――


 不眠不休で必死の探索を続ける南町同心・江口新八は、自分が〈妙蓮寺孝広とその一味〉扱いされていることに―――


まだ気付いていなかった。




――――― 42 ―――――


 仲間達が探索を、敵方が悪巧みを必至にめぐらしている頃、肝心の孝広は、どうしていたのか。

   

「旦那?」

 押し黙った孝広に向かって親しげに声をかける男。彼は名を弥太郎といい、孝広の押し掛け子分である。

 此奴とともに孝広は()()()特殊な場所を巡っていた。

 特殊な…大の男でさえ入るのがためらわれるような、いわゆる悪所というものが江戸の町にとて探そうと思えばいくらでも探せるのである。

 押し掛け子分の弥太郎は普段からも『旦那、旦那』とおだててくれているが、こういう時にこそ役に立つ。『若え時分にゃ、これでもずいぶんと無茶をやりやしたから…』という弥太郎がこれで結構、重宝なのである。


 さて、いよいよそのエリアに一歩足を踏み入れた途端、異様な臭気に孝広は思わずムッと顔をしかめた。

「匂いますかい?」

 同行の弥太郎がすまなそうに言うが、だからといってこの物凄い匂いが彼のせいであるというわけはない。

「いつだって、そこら辺の隅に一つや二つは転がってやすからねえ」

 と苦笑してみせる。

 さすがに、江戸一番の悪所と呼び称されるだけのことはある。昼間だというのに尚薄暗く、どんよりと人か獣か判別できかねる塊がそこここにうずくまっていた。路地裏では醜い老婆が大鍋をかきまわし、一体何を煮込んでいるのか、想像するだに恐ろしい。転がっている〈一つや二つ〉というのは当然、人の死骸のことに違いない。

 弥太郎の言葉に孝広は、

「死臭…? にしちゃあ、ちっと…」

 言い掛けたところで気付いて、

「ああ」

 言葉少なに呟いた。

 二人のいるところから脇へ入った道の、本当に飲めるのかどうか危ぶまれる井戸の端で、老婆のかきまわす大鍋。どうやら食する物であるらしいその得体の知れぬ匂いと、死臭とが混じりあっているのである。

 これには、さすがの孝広もいささか閉口したらしい。


 じろり


 孝広と弥太郎がその区域を歩む度、住人達から敵意とまではいかぬものの、じろりじろりとこの新参者達に鋭い一瞥が投げられた。何しろこの場所では、孝広はもちろん弥太郎までもが異質(まとも)な人間だったのである。

「なるほど、気持ちのいい所ではねえな」

 孝広が殆ど聞き取れぬぐらいの囁き声で弥太郎に言った。ここでは、孝広程の剣士でさえ、呼吸一つするのも楽にはいかなかった。

「へえ。でも、聞こえねえように。何されるか分かりやせんぜ。どれもこれも、命知らずのキチガイどもでやすから」

 二人は気丈にも軽口を叩いて歩き続けた。


 奥の一角。人影も疎らになった路地の奥、鼻をつくような臭気がさらに酷くなる。

「ゲホッ」

 たまりかねたような咳払いに、弥太郎は慌てて、

「しィ~」

 口に指を当てた。

「すまん」

 孝広は謝りはしたものの、酷い匂いで息が詰まる。死臭だ鍋だなどもう分かりはせぬ。ただひたすらに臭い。

 その原因になる一団へ、彼らが向かっているのだから、当然であろう。

 五・六人の男どもであった。月代(さかやき)も伸ばし、いやそれどころか髷さえも結ってあるのかどうか判別も出来ない。だらりと垂れたざんばら髪に、糞尿と覚しきがこびりついて、がびがびになっている。着ているものとて着物などとは呼べやしない、垢が凝り固まって体にまとわりついているようなものである。一週間がとこ肥溜めにつけこんだような臭気で、汚泥の底のヘドロにも似た奴どもであった。

「おい、其方!…おいっ」

 三度呼び掛けられても、まさかに自分のことだとは気付いていないようであった。成程、確かにそうであろうとも。誰が、何処の物好きが、こんなゴミ屑に話しかけようか。

 その男は振り向いて孝広と目を合わせ、ようやく呼ばれていたことに気が付いた。気付いた途端に、心底驚嘆したといった様子でポカンと口を開け放した。一見、痴呆のようにも見えるが、その目に宿る光りからそうでないことだけは分かる。少なくとも、受け答えぐらいは出来るだろう。

「おさむれえさま、あっしのことですけえ?」

 振り向いたのはよいが、ひどい臭気が層倍になり、眼球にしみて涙が出る程である。

 ゴホンッ

「あー、そう、おまえさんだ。ちと、尋ねてえことがあってな」

 気取っていても仕方がないと思ってか、孝広の口調がずいぶんと伝法である。彼はその浮浪者の一人を呼び寄せた。

「あの…」

 おどおどとした瞳で男は孝広と弥太郎をしげしげと眺めた。不安と好奇心とが混じり合っている。

「…おいおい、おっさん、こちらの旦那の尋ねることに、きちんと返答すりゃあいいんだよ」

 弥太郎が妙に凄みを利かせるもので、男の不安が強くなった。それを孝広が、

「これ、弥太」

 たしなめると、

(いえね、旦那。こういうびくついてる野郎のが見込みがあるんでさ。中には脅してもすかしてもポカ~ンとしてる輩がおりやして)

 弥太郎がそう小声で言った。

(成程。生きるも死ぬも他人任せか)

(へえ)

 そういう奴に比べれば、感情が動く分だけこの男の方がマシなのであろう。

「怖がらずともよい。おまえ、飾り職の藤吉、だな?」

「!?」

 男の目はこれ以上ないくらいに見開かれ、しまりのない口が如何にも唐突に、

 パクン

 と閉じられた。

「当代一の細工師、(かんざし)作らせたら右に出る者はないというおまえさん、このかんざしを知ってるかい?」

 孝広が懐から取り出した品物は、四つに畳んだ手拭いに挟まれて、素晴らしく見事な細工である。水茶屋で殺されていた女のものであった。

「こ…こいつはっ」

 かんざしを出すまでは、どうとぼけようかという気配が濃厚であったものを、男はそのかんざしを見た途端、

「こ、こいつをどこで…?」

 言ってからハッと己の仲間へちらりと視線を投げた。そして、彼は孝広と弥太郎の腕を引かんばかりにして、離れた別の隅に二人を連れ込んだ。弥太郎の方は今にも嘔吐しそうに顔を歪めたが、孝広の方は慣れてしまったのか平気な顔で男の様子を観察していた。

「話を聞かれちゃまずいのか?」

「へえ、まあ」

「おまえ、飾り職の藤吉であろう?」

「しっ!! だんな、へたなことはおっしゃらねえで。こんなところでさ。あっしはもうやっかいにまきこまれたくはねえんですよ」

 男の目は孝広の手のかんざしに吸いつけられたまま、そう言った。此奴の言う厄介なことというのは、孝広達にも何となく分かる気がする。


 身を持ち崩した腕のいい飾り職、おそらくは金さえ積めば、何でも、贋金作りだろうと何であろうと引き受けるに違いない。いや、断るとあらば、無理にでも引き受けさせるまで…そう考える者があったとて不思議はないだろう。ここはそういうところである。


「へっ、もっとも…」

 藤吉は照れたように自分の両手を見下ろした。

「もう、なんのやくにもたちゃしないんだ」

 ()ベテラン飾り職・藤吉の右手は小刻みに震え、もう何年もこの震えがとまることはなかった。

「あっしに、なんぞききてえとおっしゃるだんなさんよ。はなしのめえにさけのいっぱいものましておくんなせえよ」

 藤吉の台詞に、弥太郎は派手な舌打ちを聞かせ、懐の銭を握りかけた。ところが、孝広がそれをとめ、じっと男を、藤吉を見詰めた。

「話が済みゃいくらでも奢ってやろうさ。とりあえずは…」

「だんな、ほんとうでやすか?」

 疑わしそうな藤吉の声を孝広は取り合おうとせず、

「このかんざしに見覚えが…?」

 くるりと手の中で回転させる。藤吉は会話の間中、孝広が懐から取り出して以来ずっと、そのかんざしから目を離そうとしていなかっったのである。

「へえ…」

 無意識の内に藤吉はかんざしに手を伸ばした。その手の届く一瞬前、

 スッ

 と孝広は手を引いてしまった。

(あ…)

 そのかんざしは銀の、実に見事な細工の一品であった。かんざしというのは、女性の髷の中程にさして飾るアクセサリー(兼イヤーピック)で、孝広の手のそれも銀製で美しい牡丹が透かし模様に入っている代物だった。

「そいつぁ…あっしのつくったもんでさぁ」

 藤吉の目が懐かしむように細められた。

「あっしはうでのいいさいくしで…」

「そうだ、藤吉。おまえは腕のいい細工師だった。おまえの同業者はまだおまえを覚えていて、こんな代物を作れるのはおまえしかおらぬと、俺に教えてくれた」

 孝広の言葉に、弥太郎は首を傾げた。確かに上物ではあるらしいが、そこまでは言ってなかったような気がする。だが、藤吉は孝広の言葉を素直に受け取った。

「そうっ! 中でもこいつは五本と作れねえ逸品だった!」

 孝広のおだてに乗って嬉しそうに言った。

「なら、こいつを誰に売ったのか、覚えていよう?」

「そいつは売りゃしなかった。女にやったんだ」

「女ぁ!?」

 とんだところで藤吉の奴が色男振りを発揮しやがって、と弥太郎はすっ頓狂に叫んだ。けれど、孝広は、

「…女房か?」

 先を促した。

「いや、品川宿の女郎だ。名は…おとよ、そうだ、おとよってった。色の白え、あんなところにいるにしちゃ美い妓だった。夢中になって通ったが、いつの間にか誰ぞに受け出されていなくなっちまった」

 孝広に話すというより、自分自身に語りかけているような声である。藤吉にとってはこの妓が原因で身を持ち崩したのであるから感慨もひとしおだった。

「藤吉、店の名を覚えているか?」

「………」

 孝広の問いに藤吉は小さく答えた。

 店の名も、妓の名も判明した。これで万事OKということだ。

 弥太郎は早く帰ろうというように、孝広をせっついた。

 彼らが話をしている間に、どうも周りの様子が怪しくなってきたのである。一段と奥まった場所にいたのだが、周囲の誰も彼もが自分達の方を見ているような気がする。先程の藤吉の言葉が彼らの興味を引いたのか、それとも孝広達の服装や持ち物に目を付けたのか。どちらにしても、いくら孝広とて一度にこの人数を相手にできるとは思えない。弥太郎は、周りの微妙な雰囲気が自分の気のせいであるよう切に祈った。

「藤吉、よう聞かせてくれたな」

 孝広は言った。藤吉からは女の容貌も聞き出したし、何より孝広の描いた似顔絵によく似ていると頷きもした。しかも、上手に描けていると褒めてもくれたのである。後は早々に引き上げて、   

「だんなさん」

 にゅっと藤吉は右手を突き出した。ブルブルと小刻みに震えている。

「ああ、そうだ。礼がまだであったな」

「へえ…」

「藤吉、今一つ頼みがある。…おい、何だ。よせよ、弥太」

 弥太郎がぐいぐいと彼の袖を引くのを無視して、孝広は続けた。

「いい細工だ、気にいった。俺もおまえと同じように女にやりたくなったよ。これと同じ物をおまえに作ってもらいたいのだがな」

 腹を立てるかと思いきや、藤吉は笑い出した。

「ひゃひゃひゃ」

 どうやらタチの悪い冗談だと思っているらしい。卑屈な笑い声であった。

「だんなさん、だんなさんはめくらかね。あっしのこのてがみえねえようだ」

「左様…今でなくとも良いぞ。おまえが作れる時でな。駄賃はその時にまとめてやろう」

 藤吉は本気で腹を立てた。一体、何だって無力な自分をこの浪人は執拗にからかい続けるのか。

「さけだっ!! あっしはあんたのしりてえことってのをしゃべった。ごまかしをやろうってのかっ!」

 こういう輩は弱々しげに見えて、一端怒り出すと、意外に狂暴なのである。黄色い乱喰い歯を剥き出した。

 弥太郎はブルルッと身体を振った。藤吉自身はもちろん彼の敵ではない。ただ、すべてを捨て切った人間は、自分も一度そうであっただけに、その恐ろしさは十分に理解できた。まして相手は此奴だけではないかもしれぬのである。だが、

「人間ってえのは、よくよく自分のことは分からぬものさ」

 そう言った孝広からは、嘘も真もない穏やかさだけが感じられた。弥太郎は以前、孝広が『俺はおまえ以上の気違いかもしれんよ』と言っていた真意を、この時初めて知った。

「出来ると思ったことの出来ぬこともある。出来ぬと思うても、出来ることがある。俺も剣術を習うているが、一向強くなった気がせぬのだ」

 カチリ

 と鯉口を切ったが、孝広の穏やかさに誰もが警戒することを忘れてしまっていた。

「だが、剣も…」

 ヒュンッ

 鋭い口笛のような音が聞こえたかと思うと、

 パラリ

 誰もが唖然とした。抜く手も見せぬ早業で、孝広は藤吉を袈裟掛けに斬り払ったのである。藤吉の着物は垢や汗、糞尿にまみれて重い鎧のようになって肌に張りついていたが、それがドサリと地面になだれ落ちた。元は青い三筋格子であった。

 着物も、下帯まで落とされた藤吉の皺の寄った灰色の胸板には、傷一つ付かなかった。

「…やれやれ、まだ修行が足らぬな。残っちまったか」

 孝広は呟いて、再び剣を一閃させた。

 バタリ

 今度は藤吉の髪、がびがびになった黒い塊が、落ちた。

「この通り、剣も抜かねえと分からぬ。藤吉、おまえの剣も抜いてみぬか?」

 藤吉は頷かなかった。

 孝広が踵を返した。周囲の視線は、孝広の早業に毒気を抜かれたように、白けきったものだった。




――――― 43 ―――――


「旦那、旦那」

 弥太郎が後ろをはばかりつつ孝広に囁いた。

「うん?」

「まだ付いてきやすぜ、あの野郎!!」

「ふむ。付いてくるな」

 孝広と弥太郎の後ろを四、五(けん)ばかり離れて、珍妙な出で立ちの男が付いてきている。先刻よりずっと付いてきていた。素っ裸の藤吉である。


 この夜は、月もない闇夜であった。

 墨を刷いたようなドス黒い空を厚い雲が覆い、星一つ見えない。

 街灯などといった気の利いたものなどない時代でもあり、頼りは弥太郎の捧げ持った〈ぶら提灯〉一つだけである。


「放っておけ」

「へっ?」

「放っとけ」

 ずいぶんと無責任な言い方である。楽しそうに微笑んで、またスタスタと歩き始めた。

「…江口の旦那の方はどうなりやしたかねえ。賭場を探ってらっしゃるんでしたっけ。それと、山代の旦那と伊勢屋の坊っちゃん達の方は…」

 弥太郎は言って、

 クシュン!

 と一つくしゃみをもらした。


「火のォ用心」

 カチ、カチッ

 遠くに夜回りの声。


 一糸纏わぬ姿の藤吉が、辻番や夜回りに呼びとめられその度の説明が煩わしくなったもので、弥太郎は藤吉に着物をそっくりやってしまったのである。今度は彼が下帯一つの裸体となった。下帯だけは着けているので、藤吉よりはマシであろう。

 夏とはいえ夜のこととて、それなりに冷えてくる。

「くしゃん、くしょん」

 と新式の連発銃のようであった。

「大丈夫か?」

「へ、山代の旦那方が俺の噂でもしてるんでしょうよ」

「新八の方は分からぬが、他は駄目だ。大したことなど何もつかめぬでいよう」

 孝広は数馬をわざと閑職に回したのであるから、当然の推理であった。数馬を共犯にするわけにはいかぬのだ。

 にやりと言ったその笑顔を弥太郎は少しばかり誤解して、不安になった。

(まるで…)

 まるで一かけらの屈託さえないような笑い方ではないかと。本当に真犯人を探す気はあるのか、と。

「………」

 弥太郎が黙ると、夜道に静寂が戻った。

「………」

 藤吉も後ろから黙ってついてきている。

『下手人が見つからなんだら、そん時は江戸を出るまでだ』

 おたみにはそう言ってなだめたが、それで済むような状況ではすでになかった。それは孝広もよく分かっている筈である。

「…旦那、山代の旦那と仲違いでもなすったんですかい?」

 弥太郎は唐突に言い出して、上目遣いに孝広を見た。ところが、

「仲違い? 俺が? 何で?」

「な、何でったって、そりゃ…」

 そこで言葉をとめる。孝広の顔に、そら惚ける気であるのがありありと見て取れたからである。弥太郎は何も言わなくなった。そのうちに彼らが四ッ辻に着くと、

「じゃ、あっしはこれで」

 右の道を顎で示して、弥太郎は藤吉を手招きした。他の者は皆、妙法寺に泊まり込みだが、彼は家へ帰るのである。この通りに見てくれはひねていても弥太郎、新婚ホヤホヤなのだった。

「こいつのこたァ任してくんなさい。植木屋の徳次さんに渡しときゃいいんでしょ?」

 〈植徳〉は孝広の友人の一人で、孝広の関わる大体の厄介事に進んで巻き込まれている彼の悪友達だ。今は弥太郎・おきぬ夫婦の大家でもある。

「おう、頼んだぞ。おきぬによろしくな」

 余計なことまで言い、

「気をつけて帰れよ」

 さらに言ったのは、一つしかない提灯を、弥太郎は孝広に渡してしまったからである。

「自分の家くれえ、目をつぶってたって帰れまさぁ」

 弥太郎は藤吉を連れて暗夜の中を歩き去った。




 夜の闇の中、頼りは手にしたぶら提灯一つきり。半径0.5mのサークルの外側は真の闇であった。鼻をつままれても気付かぬ程とは、こうしたことを言うのだろう。


 その時、突如として闇がうごめいた。


 さすがの孝広も連日の心配事に気もそぞろだったのであろうか。

 提灯の―――火を消す間とてなかった。

 ピュッ

 ぴかぴか光る白刃だけが、幾重にも漆を塗り込めたような暗がりで、象嵌細工のように浮き出て見えた。

「何奴っ!?」

 孝広は言いざま、手にした灯りを刺客の身体めがけて投げつけた。

 バサッと刺客がそれを跳ね返す。ぶら提灯が地面に叩き付けられた隙に、孝広は大刀を抜き払っていた。燃え上がる提灯の火が、刺客の姿を照らし出す。

 黒覆面の侍であった。顔は見えぬ。堂々たる体躯がいかにも強そうに見えた。

 孝広のぶら提灯はめらめらと炎を上げ、半径1.5mに広がったサークルの端と端で両者は睨み合っていた。


 ツ―――

 ツツ―――


 孝広と刺客の足先が、まるで連れ舞のように行きつ戻りつ、互いに互いを牽制している。その間にも手元は一瞬たりと油断することができない。二人の交わす白刃だけが表情を変え、彼らの攻防の激しさを伝えた。

(むっ)

 終始変わらなかった孝広の表情が、ほんの僅かながら、動いた。刺客のその足捌き、姿勢、太刀筋、孝広にはどうしても見覚えがあるように思えて仕方なかったのだが、それが誰のものであったか、ようやく思い至ったのである。

「!?」


(馬鹿な!)

 

 ピュウッ

 と、一の太刀。

 朝倉道場においては数馬が得意とする三段突きである。一の太刀から二太刀、三太刀へと連続するスピードは、朝倉道場随一だ。

 頬を掠める白刃をようやく避けて、

「おい…? 数馬か!?」

 孝広はくらくらと目をくらませた。

(まさか)

 とは思っていても、この二、三日に起きた事柄は、孝広の疑惑を裏打ちするばかりではなかったろうか。


 ヒュッ

 二の太刀をかろうじて躱す。躱しながらも肩を浮かしてしまう。

「なっ」

 この時の孝広はすでに確信に近い気持ちでいた。

「なめんなよォ!」

 言いはしても、避けるのが精一杯。普通の人間なら、初太刀から三の太刀へいくまでに五秒がとこかかる。ところが、数馬の場合はその半分である。一突き目で相手の頬を掠めて目を眩ませ、二突き目で肩を浮かせ、三突き目は喉元へ。

 そして三秒後、


 ギィキィーン!

 孝広の喉を突き破りえぐらんと迫りくる刃を、孝広の一刀が差しとめていた。

 刺客の三度目の突きは、後ろへ退くことも、肩を浮かされた状態では横へ退くこともできない。孝広の剣は真一文字に捧げられ、黒覆面の突きを下から跳ね上げた。

 だが、敵の重い刃を完全にはねのけることはできず、縦と横に互いの刃をかみ合わせたまま一瞬たりと気を抜くことは出来ない。少しでも力の均衡が動けば、黒覆面の剣は孝広の剣の刃を滑って彼の喉をえぐりにくるだろう。

「ぐゥ」

 孝広が呻くのを真似て黒覆面も、

「ぐゥ」

 と呻いた。

 この二人、どうも気が合うようだ。二秒と半分の間だけ睨み合い、

「ざけんなよ、てめえ!」

 上体を右へ反らすのと同時に、

「どぉりゃあっ!!」

 剣を軸に黒覆面の身体を跳ね飛ばした。両者は離れ、また元の1.5mの灯りの輪の端と端に別れた。

 しかし、今度は孝広、この刺客へ形勢を立て直す暇など与えてやらなかった。

「でやっ」

 閃光の如く走った白刃は、刺客の頬を掠め彼の黒覆面を切り飛ばした。

 パラリ

 刺客の顔のおよそ三分の二を覆っていた布が見事に二つに別れて―――


 その瞬間、

 フッ

 孝広と刺客の周囲に張り巡らされた灯りが、不意に消失した。

 闇が再び彼らのものとなった。孝広の投げ捨てた提灯、めらめらと燃え上がったそれが今になってやっと燃え尽きたのだ。

 突如として闇がうごめいた。

 孝広は己を包む暗がりの向こうに、

 タッタッタッ―――

 辺りを憚る足音が、遠ざかっていくのを聞きながら、

(数馬…?)

 彼は一人呟いた。




――――― 44 ―――――


「おたみ、今帰ったぞ」

 夜も遅くなって、妙法寺の離れ屋に孝広が帰ってきた。おたみは今日こそは追い返されまいと、住込みで働いている団子屋の主人夫婦に了解を得てきてしまっている。詳しい事情を知らない主人夫婦は、もちろん快く承知していた。

「まあっ、孝広様。遅うございましたこと。どうな…」

「おたみ、数馬は?」

 孝広は大小の刀を置く間も、もどかしげに言った。

「数馬様は今…」

 返答しかけたおたみが、急に目を剥くと、

「どうなさったんです、これっ!?」

 孝広の小袖の袂を押さえた。スパリ、スパリと、三箇所程も斬られているのである。

「数馬は?」

 その声は如何にも容赦がなく響いて、おたみの顔を曇らせた。

「あ~、いや、すまん。話は後にして、数馬は何処だ?」

 ゴホン

 戸惑いを咳払いに変える。この妹分にはまったく弱いのである。

「数馬様は…お出掛けになってます。冬彦さんも」

「出掛けたと? 何処へだ?」

「孝広様」

 おたみがキッと向き直る。

「何だ」

「孝広様を探しにいったんですわ。決まってますでしょう。あたし達、それは心配したんですからね」

 キャンキャンと噛みつかれて、孝広は両手を上げた。

「わぁった、わぁったよ」

 元来がこの娘の涙に弱いのをもってきて、今度の件で心労を掛けているとの自覚もある。

「冬彦も一緒なんだな? 新八もか?」

 明らかにホッとしたような声音である。だが、

「いいえ。先に冬彦さんが出て、中々戻らないものだから、数馬様が。新八様は今日はお戻りでないようですわ」

 おたみの言葉に肩を落とす。

「ふっ」

 切ない吐息をもらして孝広は、

 ゴロン

 と横になった。

「孝広様、寝ないで下さいまし。起きて話を聞かせて下さいましな。一体、どうなすったんです」

 孝広はそれにうるさげに手を振って、手枕を組み直す。

「何でもない」

 この言いぐさに今度もおたみ、負けはせぬ。

「何でもないってわけがありますか。まあ、まあ、こんなにしてしまって」

 ぐいっと袂を引っ張るものだから、必然的に孝広は、

 ズデン

 畳に顔を押しつけた。だが―――

「ぐう」

 と、そのまま狸寝入りを決め込む。おたみはあきらめざるを得なかった。

「………」

 ずいぶんと経った頃である。サァーッと、月にかかった黒雲がとうとう水滴を落とし始めた頃になって、

「…あいつの顔を見ていると、時折、妙にイラつくのだ」

 ぽつりと狸が口を利いた。

「え?」

 孝広の体に薄掛けをかけていたおたみ、そっとそのまま手を離す。

「俺は…もしかしたら…」

「? もしかしたら?」

「数馬が嫌いなのかもしれぬ」

 とうとう言ってしまったという声音である。

 これが、今回の一件で己の真情を吐露した孝広の初めての言葉となった。

「………」

 おたみは今回のことについて、何一つ知らされていなかった。藤堂家の秘事は当事者と、そして山代長門守ぐらいにしかもらされていないのだから、当然である。そうしたわけで、おたみは孝広と数馬の()()()については何ら聞かされてはいない。いないが、しかし、

「それは違いますわ、孝広様」

 彼女は、あっさりと孝広の台詞を否定してしまったものである。孝広が数馬を嫌っているのは〈違う〉と、たとえ血は繋がっておらずとも現時点において唯一自認しているところの彼の身内は、

「お嫌いなのではなく…孝広様は数馬様に嫌われておしまいになるのが怖くてらっしゃるんですよ」

 と言ったのである。

 四半刻の後、数馬と冬彦が連れだって戻ってきた時、

 くうくう

 妙法寺の離れ屋の主は、本物の寝息を立てていた。





まだ続いてます。

あと3回くらい?

次回もよろしくお願いします。

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