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花のお江戸の烏ども  作者: サーラ
3/9

朝倉道場三羽烏・大騒動!②

――――― 29 ―――――


 南町奉行所内、仮牢前。

 薄暗い廊下に数馬と冬彦が苦り切った様子で、うろうろと歩いていた。じめついた格子の中で、孝広がうつむいている。


 この三人だけが、今はここにいる。

 数馬が知り合いの与力に頼み込んで、面会を差し許されたのである。

 孝広がまだうつむいている。そして、数馬と冬彦はうろつき続けた。


「…すまんな、おまえら。いや、悪いとは思っとるんだ。このような…」

 長い沈黙の後でようやく口を開いた孝広の、その台詞は数馬がさえぎった。


「『すまん』で済むか、馬鹿者が! 何だ、その態度っ、寛ぎおって!!」


 見れば、牢内の孝広の傍らに酒だの何だのがやたらに積んである。普段から『俺ァ妙な知り合いばかり多くて』と言っている孝広だが、その通り町の者には中々に人望が厚い。

 彼がここへ押し込められて幾らも経ってはいないというのに、その差し入れの多さは牢番を驚嘆させるに足るものであった。


「ハハッ―――冬彦っ、おまえのそれも差し入れであろう? 寄越してみろ」

 冬彦が手に抱え込んでいた風呂敷包みを格子の向こうから奪い取ると、

 パカッ

 蓋を開けた。

「おっと、旨そうだな」

 冬彦の重箱の中身は、豆のふくめ煮、茄子の煮びたし、卵を煎り付けたものに、菜飯で作った握り飯などが詰め込んである。孝広の好物ばかりであった。

「おっ、キュウリ」

 パクンと浅漬けに喰いついた。


 そんな孝広を非難するような目で冬彦は、

「おたみちゃんです。来る前に寄ってきましたから」

 と言った。

 すると、孝広はようやく困ったような頼りなげな表情となる。

妙法寺(てら)へ行ってくれたか。―――で?―――どうしていた?」

「大変ご心配なさっていましたよ。和尚様も、おたみちゃんも。青いお顔をしておいででした」

「そう、か。そうだろうなぁ」

 孝広が言ったきり黙り込んだので、後の二人は何とも言えなかった。

 しばらくして、

「…孝広、時があまりない。一体、何があったのだ?」

 口を開いたのは数馬であった。孝広はおたみの煮物をむしゃむしゃと頬張り、

「事のあらましは?」

 と問いかけた。

「聞いている。おまえが女を水茶屋に連れ込んで、悶着の末に殺害せしめた、という話だが」

「うん。で?」

「『で』じゃありませんよ。お訊きしているのは私どもです」

 噛みついてくる冬彦に、

「分かった。実はな…」

 孝広が自分の身に起こった出来事を、他人事のように冷静に語り始めた。


「成程? 気が付いたら女の方が死んでいた、とおっしゃるんですね」

 冬彦の口調は、まるで意地悪な取調べ官のようで、孝広の眉をしかめさせた。

「やれやれ、冬彦、数馬。何だよ、おまえらはこの俺が本当に女を殺したと思うているのか」

 『冷たい奴だな』と孝広はわざとらしく拗ねて見せている。

「おまえが誰を殺したって、女を殺したなど、有り得んだろうよ」

 その台詞から、孝広という男が相当なフェミニストらしいことが分かる。

「私だって思いません。けど、ねえ…」

 と冬彦が溜息をつき、

「誰か信じましたか? その孝広殿の言い分を」

 言われた途端に、孝広が爆笑を始めた。

「アッハッハ! ハッ、そりゃそーだ! 冬彦、おまえは頭がいいよ」

 笑いながら、格子の中からニュッと手を伸ばして、冬彦の頭を撫でる。

「もうっ! やめて下さい。分かりましたよ、ええ、私どもは信じておりますとも。それで? そうしますと、孝広殿はお話のやくざどもにやられてしまったのですかね?」

 数馬がこの台詞にパッと反応した。

「そのような輩に不覚を取ったとは、情けないぞ」

「…見ろ」

 孝広がくるりと背を見せた。着物をはいで、巻いた晒もはぎとった。

「!?」

「孝広殿? それは」

 脇腹にすでに青黒くなってしまった刺し傷がある。

「では、その女が?」

 チェッ

 と舌打ちして孝広が頷く。


傷は背中からのもの―――後ろ手に庇った女に刺されたのだ。孝広ほどの遣い手が、いくら油断していたとはいえ、女の細腕で意識を失うほどの傷を負わされたというのは考えづらい。おそらくは刃物に何やら塗ってあったと見るべきであろう。

よくもまあ生きていたものである。


「殺されてた女だよ」

 答えた彼に、二人の友達は、

「はぁ」

 と同時に溜息をつき、

女子(おなご)にお弱いのもいい加減になさいまし」

 冬彦が言ったものである。




――――― 30 ―――――


 牢内は真暗であった。

 今はもう数馬の姿も冬彦の姿もない。

 廊下から漏れてくる松明の仄かな灯りで、かろうじて孝広らしき人影の蹲っている様子が伺える。


「旦那、旦那」

 牢番に立っていた小者がそっと呼びかけた。


「………」


 しばらく黙って、孝広はようやく返事をした。

「何だ?」

「豪胆な人だね、おまえさん。明日になりゃ小伝馬町に送られようかって身で」

 孝広の沈黙を寝入っていたものと判断して、牢番は呆れたように首を振った。


 小伝馬町には牢屋がある。こんな仮の牢などとは比べものにならないところだ。

「ほう。明日は伝馬町送りか」

「そうだとよ。明日、なんでもお奉行様直々のお取り調べがあるってこったが、まあ伝馬町送りは免れねえだろうよ」


「何!? お奉行が? 直々!?…お奉行というと…山代長門守様だな」

 ずかずかと、そこで初めて孝広は牢番の側、格子の近くへ寄ってきた。

「こんな分かりきったご詮議にお奉行様直々ってのは珍しいんだぜ」

「………」

 孝広が黙りこくったので、牢番も黙った。


「おまえさん、逃げてえだろうね」

 と牢番が真剣に問うてきたので、

「ほォ? よく分かったな」

 小馬鹿にしたように孝広は言った。


「逃がしてやろうか?」

 孝広は牢番の顔を探るようにじっと見つめ、

「よいのか? 女殺しの大罪人だぞ。俺は貧乏寺の居候、金も持っておらん」

「金じゃねえさ。それにおまえさんも罪人じゃねえな。女を殺したなぁ、別の野郎だ」

 牢番は言った。

「ほう? では、誰だ」

 少し強めの口調で孝広が問うと、牢番は案に相違して知らぬと言う。

「では、何故、俺ではないと?」

「おまえさんはあの女のイロで、別れ話の悶着を起こしてヤっちまったってぇ話だったろう? だがよぉ、俺は知ってんのさ」

「ふん、おまえごときが何を知っていると?」

 孝広は牢番を挑発するように話の先を促した。牢番はにんまりと淫猥な表情を作り、

「おまえさんみてえなイイ男が相手で、あのアマが俺に向かってあんなにグチグチとうるさくこぼしゃしねえのさ」

「……おまえ、あの女と関わりがあるのか?」

 孝広が驚いたように言った。この牢番とあの小粋な美女とがどうしてもつながらぬからである。

 ところが、牢番は、

「元亭主ってとこですかね」

 平然と答える。

「そいつぁ勿体ねえ」

 小声で呟いた孝広の言葉は、正直すぎる感想であった。

「何処で何やってる女だよ」

 気を取り直して孝広は牢番に尋ねたが、

「そいつは分からねえ。こちとらは四年も前に別れてそれっきりですからね」

 何も知らぬ、何も存ぜぬと言う。

「それでも、あのアマっちょめ、元から野心を持ってやがったんで、ろくな死に方はできねえと思ってたのよ。ま、とは言っても、ちっとはかわいそうだと思ってよ」

 と付け加える。

 孝広は牢番を睨みつけた。睨んだというより、鋭い眼差しで其奴を見据えたのである。

 牢番が怖じけづいたように孝広の視線を外した。

「ごちゃごちゃ言ってねえで、おまえさん、逃げてえのか逃げたくねえのか」

「ああ、そうか」

 と孝広。やっと牢番から視線を剥がして、

「うむ、逃げようかな。南町のお奉行とツラァ会わせるのは御免だからな」

 孝広の言葉で牢番は牢の鍵を開け、

「そらよ」

 と刀を差し出した。捕らえられた時に役人に取り上げられた孝広の刀である。彼は黙って刀を受け取った。鯉口を切り、すらりと半分程抜いてみる。

「………」

 刀身には一点の曇りもなく、美しい刃紋を見せていた。


 人を斬れば白刃は血に濡れる。懐紙で拭ったところで拭いきれぬ、人の脂で刀は曇るものである。この孝広の刀にはそれがなかった。


 カチン

 刀を鞘に納めると孝広は、

「これは置いてゆこう。()()へ置き土産だ」


 牢番と孝広の二人連れが奉行所内より姿を消した後、大小揃えた二本の刀が孝広の身代わりに牢の中に鎮座していたという。




「ハッ、ハァッ、ハヒッ」

「もう、ここらでよかろう」

 と言って孝広は駆けていた足をとめた。いつの間にやら江戸の外れの方まで走ってきている。

「ハッ、ハッ、そう…もうここまで来りゃあ…」

 あえぎながら牢番は半歩後ろへ下がって、そっと懐に手を入れた。孝広の背中を睨み据えたまま、そろりそろりと懐に忍ばせた匕首に手を伸ばす。一瞬たりと孝広から目を逸らしはせぬ。

「………」

 夜風が涼しく彼らの間を吹いていく。

「………」

 牢番は孝広の背中をじっと見据え、石のように動かない。何故、動かないのか。気味の悪い汗が顔といわず背といわず、尻といわずに流れた。

(見ている? それとも見ていねえのか)

 彼は動かないのではない、動けないのだった。

(この野郎、背中に目ん玉くっつけてやがんのか…)

 丸腰のはずの孝広の背中が倍にも三倍にも膨れ上がる。山のようになって彼を圧倒するのだ。

 牢番はとうとう、

「ふうっ」

 疲れきった溜息をつき、カチッと匕首を納めた。

 孝広の方では気付いているやらいないやら何も言わず、微動だにしなかった。

「…後、四半刻程したらあっしの交替がやってくる。そうなったらたちまち手配されちまいますぜ。今の内に江戸をお出んなった方がよかねえですかい?」

 牢番は初夏の風吹く闇の向こうを指差して、しきりに言った。だが、

「おまえ…あの女の亭主と申したな」

 孝広は立ちどまったまま、のんびりと牢番に言った。

「元、がつきやすがね。そんなことより早く行かねえと木戸が…」

「あの女、何処で何やってる女だ?」

「知りゃあせんよ。言ったでしょ、四年前に別れてそれっきりだと。どうせ、ろくでもねえ野郎に引っ掛かってたんだろうよ。それより、木戸が閉まっちまったら…」

 孝広が同じことばかりを聞いてくるもので、尚更に焦れている。

「何故、そのろくでもない情夫(おとこ)が俺ではないと思ったのだ、おまえ」

 また同じ話である。

「しつこいね、旦那も。言ったじゃねえですかい。あの女があんたみてえな色男をくわえこんでたんなら、あんなにうるさく愚痴をこぼしゃしねえって。それよりさっさと江戸を出ねえかいっ?!」

 いきり立つ牢番の様子も知らぬ振りでさらに問いかける。

「ほう。あんなにうるさくなぁ……おまえ、あの女とは四年前に別れたきり会っておらぬのではなかったのか?」

 孝広が言った途端、牢番はさっと顔色を変えた。

「あ、おい、待て…」

 捕らえようと伸ばした孝広の腕をすんでのところでかいくぐり、一目散に牢番は逃げ出していった。


 一人、江戸の外れの夜道に取り残された孝広は、

「江戸を出ろ、か。どうやら、俺が江戸におると困る奴がいるらしい」

 ぶつぶつと呟いてからにんまりと笑い、くるりと踵を返した。




――――― 31 ―――――


 夜半、草木も眠る丑三つ刻。

 ドンドン

 板戸を物凄い勢いで叩く者があった。伊勢屋靖吾郎の隠居所である。

 ドンドン、ドンッ

「御用の筋で参った! 開けぬかっ」

 只事ではない。

 板戸の向こうに人の気配が起こったと見て、役人はもう一度、板戸を強く叩いた。

 ドンドン!

「おまいさん…」

 奥の寝間から出てきた主人夫婦は、互いに顔を見合わせた。

「開けて差し上げなさい」

 老いた夫は、にっこりと微笑んで、なだめるように優しげな口調で言った。

「はあ」

 ガタン

 と女房が板戸を引き開ければ、目も眩むばかりの御用提灯。ものものしい捕り方役人達である。


「…お役目、御苦労様にございます」

 一瞬の沈黙の後にそう受け答えた靖吾郎の声音は、これ以上ないほどにゆったりと落ち着いていた。


「牢破りのご詮議である。この屋に妙蓮寺孝広はおらぬか! 先刻、奉行所仮牢を破りし大罪人である」

 一足遅れて起きだしてきた冬彦の耳に、役人の口上が飛びこんできた。

(孝広殿…一体…?)

 牢内で会った時にはそんな様子など見受けられなかったのだ。冬彦は怪訝な顔で役人達を見返した。靖吾郎は起き出してきた息子の顔をじっと見やって頷いてから、

「おりませぬ」

 そう答えた。

「隠しだて致すとためにならぬぞ」

 役人は彼ら親子を睨み据え、

「検めさせて貰おう」

 ぐっと式台に片足をかけた。もちろん土足のままである。

「お役人様」

 ズイッと靖吾郎は身をはだからせ、

「ここに妙蓮寺様はいらしておりませぬ。申し上げましたものに、それ以外の意味はございませぬ。…お役人様!」

 ピリリと辛子をきかせた声音に役人達が怯み、それへ押し被せるように靖吾郎、

「はばかりながらこの伊勢屋靖吾郎、申しました言葉を疑われたことはただの一度とてございませんでした」

 さすがに日本橋の大店伊勢屋の隠居。一代で大奥御用達にまで成り上がった男である。

 



 孝広の牢破りは早々と、その夜の内にあらかた知れ渡っていた。

 妙法寺へも、その坂の下にある団子屋へも知らせがいった。妙法寺は寺社地。支配違いのため、町奉行所の役人には手出しができない。しかし、おたみのいる坂下の団子屋ともなれば話は違う。

 居丈高に役人が、

「かばいだて致すな。罪人を匿えば、其方とてただでは済まぬぞ」

 南町奉行所の江口新八という同心である。

 彼の言葉にいささかも怯むところなく返答したのは娘、少女と言ってもいいくらいの娘だった。

 この団子屋、店構えは小さいが妙法寺よりも余程有名な、お江戸の名物ともなっている団子屋で、住込みで働いているおたみという娘は牢破りの大罪人の幼馴染みだ。

「あたし、存じません。新八様に分からぬものが、どうしてあたしなんぞに分かりましょう?」

 おたみが言うと、同心の江口新八は配下の役人達の手前、嫌な顔をした。実は彼もまた朝倉道場の門弟で孝広とは昔馴染みの友であったのだ。


「新八様っ、植木屋の徳次さんに聞いてごらんになりました?」

 新八が頷いた。

「では、備中屋の若旦那は? それと、〈まさご〉の女将さん、弥太郎さん、遊び人の草太さんは?」

 そのすべてに頷くことで返す。

「―――ああ、では、あたしには分かりかねます」

 年は若いし、か弱きが、十数名のものものしい役人どもに玄関払いをくらわせたものである。


「孝広様の行く先、新八様、あたしが教えて頂きたいくらいです」

 この台詞をおたみは案外、本気で言ったのかもしれない。




 町奉行所の探索方は、あらゆるところへ手を回していた。

 無論それは、山代長門守の私邸とて例外ではない。実は極秘裏にではあるが、捜索されていたのである。

 早朝、それもやっと夜が明けるか明けないかの時分、南町奉行の私邸に奉行所の内与力がやってきた。

「羽村? どうしたのだ、このような早朝に。何ぞ、役宅で?」

 数馬がもうすでに起きだしている。まず、これに羽村与力は怪しむ。もっとも、数馬はいつに限らず早起きなのだが。

「いえ、違います、数馬様。…ご壮健でいらっしゃいますなぁ」

 乾布摩擦のその若々しい数馬の姿に溜息をもらして彼は話を逸らした。

「これ、羽村、何を探しておるのだ? これ、と申すに」

「はっ、いや、何とも」

「?…おかしな奴だな。何を探しておるのかと言うに」

「いえ。その、いいお天気ですなぁ」

 その朝、羽村与力は不審げに見守る若主人の横で邸内をくまなく(押し入れの中まで覗いて)探索したあげくに、数馬の耳に孝広脱獄の報を入れた。老練な彼の目にも、数馬の驚きようは虚偽であるとは思えなかったのである。




 孝広は一体、何処へ隠れたのか。

 あれから数日が過ぎても依然、影も形もない孝広であった。というのも、『孝広の行きそうな所は?』と問われた人々が答えた場所は、それこそ役人達が目を剥く程に広範囲であり多数であった。にもかかわらず、それが自分の所だと思った者は一人もなかったからである。

 誰もに好かれた孝広の、心根の寂しさが今更のように感じられる出来事であった。


 だが、かといって江戸ご府内より出た形跡はない。町々の木戸や関所には事後早々に手配書が回され、簡単には脱出できないのである。

「一体、何処へ消えてしまわれたのでしょうか?」

 冬彦の問いに数馬は、

「うむ」

 と短く頷いた。

「やはり…妙法寺でしょうか?」

 冬彦は言ったが、幾ら寺社地とはいえ、そう長いこと隠れているわけにもいくまい。

「叡周和尚の顔色から察するに、違うであろうなぁ」

 数馬がそう結論づければ、冬彦も、

「おたみちゃん、泣きそうな顔してましたよ。ええ、そうですとも。まったく…水臭い」

 同じく泣きそうである。

 冬彦にも数馬にも、やはり孝広の行方は掴めていなかった。




――――― 32 ―――――


 翌朝、江戸城中にて。

 一段高くなった御座所に一人の男が姿を現わすと、集まった武士達は閣議を中断し、一斉に平伏した。

 この日の本、八百万石の総大将。天下の征夷大将軍に他ならなかった。

「構わぬ、続けよ」

 将軍が声を発した。

 居並ぶ幕閣どもが、『ははっ!!』ともう一度頭を下げてから、中断した閣議を再開した。平伏したその中には、数馬の養父の山代長門守忠之の顔もあった。

 再開された閣議では増上寺の改修工事の予算から参勤交代制度の見直し、西国の小藩のお世継ぎの認可、夏に取り行われる富くじの際の警備の強化などが議論の俎上に載せられた。


「ところで…長門」

 将軍より山代長門守にお言葉が掛けられた。

「はっ」

 山代長門守が膝を正して向き直る。

「近頃の、江戸の町の様子はどうじゃ」

 将軍が町奉行の一人である山代長門守に尋ねた。

「は。物価の急激な上昇も只今のところ抑えられておりますし、格別…ただ商人(あきんど)、それも一部の大商人どもは近来ますます華美になる様子、それにひきかえ長屋に住まう職人どもや小商いをする者どもはその日暮らしといった有様でございます」

「左様か、成程の。町の治安はどうじゃ」

「只今のところはこれといって。但し、犯罪件数につきましては前年の同じ時期と比べ、やや増加の傾向にございますので」

「うむ。人心の荒廃は治安の乱れに繋がるからの」

「はっ、ただ…」

「分かっておる。心にとめおくとしよう。長門、其方は『但し』が多いのでな」

「恐れ入ります」

 山代長門守はこっそりと苦笑して、座を下がった。


 その時である。


「何もないと言われるか、長門守殿」

 将軍の御前にて不意に老中が呼びとめたのだ。長門守は即座に彼の方へ体を振り向け、

「と、おっしゃられますと?」

 厳しい表情で問い返した。この老中は城中一のうるさ型で通っているのだ。

「先般、水茶屋で女を殺害した浪人者が逃亡したというではないか。…そうであったな?」

 老中はもう一人の奉行、北町奉行に同意を求めた。

「そのように、報告を受けております」

 今月は南町の月番ではあるが、今回の孝広の破牢のような場合には、北町奉行所にも応援を頼むのである。

 一月ごとに月番を設け、北町と南町とでの交代制―――というと月番ではない奉行所は休んでいるかのように聞こえるが、新しい訴えを受け付けないというだけで通常の業務は行われているのである。月番の時に受け付けた訴えを処理したり裁きをつけたり、もちろん現行犯などの突発的な訴えに関してはその場で訴えを取り上げ捕縛することもできた。

 江戸の町は当時、世界でも有数の大都市であった。その江戸の治安を守るために協力体制にあるのが北町奉行と南町奉行である。

 江戸町奉行は現代でいうところの「都知事」と「裁判官」の一人二役を担っていた。その職責の多さにより南北両奉行のバディ体制は必要不可欠なものなのだ。

 山代長門守忠之の相棒(バディ)(北町奉行)は老中の質問に対し、

「確かに…そのように報告を受けてはおりますが?」

 と、その声音に『確かにそうだが、それがどうした』という内心をしっかりと表して見せた。


「上様に良いことばかりをお聞かせ申し上げて、それで職をまっとうした気になりおるのかっ、長門守殿!」

 北町奉行の無言の圧迫を平然と厚い面の皮で無視して老中はさらに言いつのった。

「何のことじゃ?」

 さすがに将軍までが訝しげに口を出す。

「ははっ。ご老中の折角の仰せですので、ご説明させて頂きましょう」

 山代長門守は平伏して、再び一膝前へ出して言い始めた。

「過ぐる日、水茶屋にて浪人者が女を悶着の末に殺害せしめるという事件がございました。下手人の浪人はすぐさま捕縛致しましたが、先夜、奉行所内の仮牢を破り逃走した由にございます。まったくもって面目次第もございませぬ」

 以上の報告を聞いた将軍が、

「成程な。……酒井」

 軽く頷いてから老中に問い掛けるような眼差しを投げた。これだけならば老中が目くじらを立てる程のことではないのである。

「わしの耳に入ったところによると、長門守殿。その下手人の浪人者、其方の子息の友人であったとのこと」

「まことか」

 将軍もやっと身を乗り出してきた。

「はい、それに相違はございませぬ。愚息の申すところによりますと、その浪人者は確かに腕はたつようではありますが、女を殺害するような人物ではないとのこと。また、取り調べに当たりました同心も同じく申し立てておりまして…それ故、拙者も直に会うて取り調べてみたいと思うておりました。その矢先の破牢でございますので、残念に思うております」

「何という者じゃと?」

「妙蓮寺孝広と申し、妙法寺という寺の居候と聞き及びます」

「逃げたが何よりの証拠ではないか。息子の友じゃといって手心を加えるような…」

 山代長門守は老中の台詞を途中で遮り、

「昨晩より必死の探索を行っております。まもなく捕縛できるものと信じております」

「左様かの。わしの耳には別の話も伝わっておるがの。警備の厳しい奉行所内よりの鮮やかな脱獄、誰ぞ内通者でもおったのではないか?」

「何を仰せになりたいので?」

「別に何ということはないが―――友の窮地に手を貸す者がおったとも考えられぬかの」

 という老中のあまりといえばあまりの暴言に山代長門守は、

「なっ!?」

 絶句した。まさか将軍の御前でこのようなことを言い出されようとは、夢にも思っていなかった。

「馬鹿なことをおっしゃられるな! 如何な友人であろうと、南町奉行の息子が破牢の手引きなどしよう筈もござらぬ」

 憤怒に顔を染めて言い返す。だが、老中の方とて負けじと、

「聞き捨てならぬ! 長門守殿はこの老中を馬鹿と申すか」

「長門!」

 将軍から叱責の声が飛び、一挙に険悪なムード。

「これは……確証なきこと故、極秘にて探索致しておりまするが……妙蓮寺孝広とともに牢番が一人姿を消しております。この者が手引きをした可能性も高く、只今その行方を追っております」

「ふん。可能性であれば何とでも言えよう」

 と老中が意地悪く言うと、

「左様、可能性だけでござれば何とでも言えましょう」

 山代長門守も痛烈な当て擦りで返す。

「酒井! 長門! もうよい。二人とも、よい加減にせぬか」

 とうとう将軍の大喝、雷が落ちた。

「酒井、江戸の治安を守るは町奉行たる山代忠之が任じゃ。其方はこの件に関し、今後一切の口出しは無用と致せ」

「はっ」

 口惜しそうに老中は平伏した。

「長門、其方は今後の捜査に関し動きがあり次第、余に逐一報告致せよ。よいな!」

「ははっ」

 無表情に山代長門守忠之は平伏して、将軍の御前を退座した。




――――― 33 ―――――


「どこじゃ、帯刀!」


 帰宅と同時に用人に声をかけた人物は、清月庵に起き伏しする静謫(じょうたく)という名の青年僧の実の父に当たる人であった。


 本郷の武家町の一角にある佐々木家はその日、上機嫌な主の帰宅を出迎えた。

大急ぎで駆けつけてきた佐々木家用人の伊東帯刀は、父の死により一月前からこの職責に就いたばかりである。


 用人を伴って私室に引き上げてきた佐々木虎太郎の父・佐々木兵吾は、奥女中に腰の刀を預けてしまうと、着物を脱ぎ着させられるのも煩わしげに、伊東帯刀に言った。

「帯刀! 山本真木彦めはようやったぞ」

 用人はその言葉に対しての答えをすでに用意していたものらしく、

「はっ、山本は元は町人ですので、こうした時には色々と伝手などあるらしく、重宝致します。これで山代長門守様が如何にあがきましょうと、失脚は免れませんでしょう。山代様も手の者を使って事件の一部始終を何やら調べさせているようではございますが、結局はあの浪人がおらずば己の息子に掛かった疑いは晴れますまい。そして、彼奴ならば今頃は墓の下で、口出しも出来ずに悔しがっておりましょうとも」

 一息にまくし立てる。

 旗本の家において用人とは、家令もしくは執事のような役職である。主君の側近くにあって、出納・雑事を担当している。それ故、好むと好まざるとに関わらず主人の表にも裏にも精通してしまうものである。

「む…」

 満足げに佐々木兵吾は頷いた。

「若も…これでお気が晴れましょう」

 伊東帯刀は役職に就いたばかりの新米で、実のところ佐々木家の嫡子である虎太郎とほとんど顔を合わせたことがなかったのだが、取り敢えずそう言った。

「虎太郎めもこれで少しは懲りたことであろう。三月…いや、二月もすれば呼び戻せような」

 どんな形であるにせよ、子を思う親の気持ちは貴いものである。

 しかし、佐々木家の当主は言いながら、今日の外出先に思いを馳せていた。もちろん用人とてそのことは誰よりもわきまえている。


 幕閣の中枢、ご老中方への挨拶回り。江戸町奉行職の片翼、山代長門守の次にその席に座るのは、他ならぬ佐々木兵吾となる筈である。




――――― 34 ―――――


「弱ったな」

 と呟いたのは、誰あろう、妙蓮寺孝広その人であった。

「ああ、やれやれ。困った、困った」

 先刻より頻りに弱ったり困ったりしている。彼の横にいるのは一人の僧侶。


 読経の声が響く。


 といって、ここは妙法寺ではない。実は動坂の清月庵であった。ということは、孝広の隣りの僧侶は、当然のことながら佐々木虎太郎である。

 確かに清月庵は盲点といえばこれ以上ないくらいに盲点であろう。とはいえ、逃げ込む方も逃げ込む方なら、またそれを匿う方も匿う方である。どうやら虎太郎、孝広の粋狂癖がうつったと見える。

 孝広が困っているのを横目に見て彼は、

「ふん、よい様よな」

 一応は悪態をついてみた。

「まったくさ。あ~あ、やれやれ」

 虎太郎の静謫はその返事を受けて、思わず問いかけた。

「? 何をそんなに困ることがあるのだ?」

 牢破りの大罪人に対していささかおかしな物言いであったかもしれぬが、しかし、

「…一言、貴様が言いさえすればそれですべてが済むであろうに。一言、『俺は数馬の兄なのだ』とな。その顔を、疑う者があろうとは思えぬぞ」

 それは虎太郎がここ数日来抱いていた疑念。孝広と数馬と冬彦の弱みを見つけだすべく手の者に探らせていた時、彼は一度だけ数馬の兄を見たことがあった。

 それは数馬によく似た、それ以上に孝広に瓜二つの青年であった。


 無論、彼らには江戸城内でのやり取りなど知る由もない。だから、ことは簡単に済むと虎太郎は考えていた。山代長門守も自分の養子の実兄を罪人として白州に引き出すことなどできまい。そんなことをすれば一大スキャンダルだ。

 この際、孝広の罪状の真偽は関係ない。山代長門守がどれほど職務に忠実であろうとも、孝広の事件自体をもみ消すしかないのである。

 だから、そうしようとせぬ孝広に虎太郎は怪訝な顔を向ける。


 しかし、それにしても近頃の虎太郎は妙である。孝広に対する口利きが、昨年来の仇敵に対するものとは思えない程だった。それはまるで、友人ででもあるような―――

 本当に近頃の虎太郎は変わってきていた。だから、そう助言してくれた彼の顔を、孝広がしばらくの間、凝視していたとしても無理からぬことであろう。

「何だ?」

 ムッと虎太郎が不機嫌な声を出す。

「おまえって…」

 孝広は呆れたように首を振り、

「おまえ、存外に人が好いな。此度の敵はそんなに甘くねえのさ」

「どういう意味だ」

 『お人好し』と言われて怒るところが、孝広から見ればまだまだ甘いのだ。


 孝広は自分にかけられた嫌疑が濡れ衣であることを知っている。そして、それが濡れ衣である以上、悪意を持って孝広を嵌めた〈誰か〉が存在するのである。その誰かが陥れようとしているのは自分のことだけではあるまい―――と孝広にはわかっていた。

 この虎太郎でさえ少し調べたなら藤堂家の嫡男と自分との相似に気付いたのである。


 敵が―――そう―――敵が、虎太郎でさえ簡単に気付くその事実に気付かぬ筈がない。そして、この度のことは妙法寺の居候の痩せ浪人一人を狙うにしては手が込み過ぎていた。


「よいか、もし仮に俺が、おまえの言うように…数馬の兄だとして…」

 虎太郎は片眉を持ち上げ、だが、何も言わずに彼の台詞が再開するのを待っていた。

「まさかに、おまえ、旗本につながりのあるこの俺が、殺しの嫌疑で捕縛されたとあっちゃ、ちィっとばかしこりゃ拙かろう?」

 拙いも何も、そんなことがあったとなれば、前代未聞の不祥事である。

「俺だとて濡れぎぬ被って白州に引き出されんのはまっぴら御免さ。そこで、だ。仮に俺が藤堂家所縁のものだとして…うん、おまえの言うたように、大慌てで揉み消してくれようさ。厄介な野郎を捕らえたもんだと、後悔しながらな」

「…そう、したらよかろう」

「馬鹿」

 間髪入れずに発せられた孝広の返答に、虎太郎のこめかみがピクリと動く。

「そんな真似をしてみろ、俺を嵌めた奴らはおそらく大喜びで小躍りしようぞ。それこそ鬼の首を取ったように、俺が悪事とそれを隠蔽せんとした山代殿の悪事をな。大喜びで暴き立てるだろう。こいつぁもう八方塞がりだよ」

 と孝広は言って、また『困った、困った』をやり始めた。彼は奉行直々の取り調べと聞いて、慌てて牢を破った男なのである。

「あの時、やはり江戸を売っておきゃあ良かったかな」

 己の天邪鬼な性格を嘆いていた。江戸を売る、江戸を出ていくというのである。一体、何が孝広にそこまで決意させたのか。

 孝広を嵌めたのがまさかに自分の父親だとは思いも寄らぬ、ある意味当事者に限りなく近く、同時に第三者的な立場の虎太郎だったが、わざとらしいまでに大仰に嘆く孝広をじっと見詰めた。


「……いつまでも言うておれ、馬鹿馬鹿しい」

 積極的に孝広のために働こうという気にまではなれぬらしい。

 

 そして、孝広は何を考えてか、スッと立ちあがった。行くつもりなのかと虎太郎が振り返れば、


「虎っ」


 庭から孝広が呼んでいる。

「こいつを折ってもいいか?」

 指し示したのは一本の樫の木である。返事も待たずに、切ってしまった。手頃な枝を二本。邪魔な小枝はこそげ落とした。

「何をするのだ?」

 虎太郎の顔前にヌッと突き出し、

「?」

「稽古をつけてやろうと言ってるのだ。取れよ」

 その声音は挑発を含んでいた。虎太郎は不得要領な顔で黙っている。


 だが、


「安心しやがれ、今のおまえ以上に情けない奴などおらぬわ。それ以上、みっともなくなりようがないのだから、安心して掛かってこい!」


 こうまで言われては、もちろん虎太郎が平静でいられるわけがない。元々、カッとなりやすい性格なのである。

「貴様…」

 ゆっくりと立ち上がった。

「しけた面しやがって…そんなつまんねえ顔で読まれた経など、釈迦牟尼とて御上人とて喜びゃしめえよ。てめえばかりが損をしているような顔をして、世の中がそんなに馬鹿らしいのか、虎」

 そう捲し立てた孝広に、虎太郎はいつしか本気で答えていた。


「おお、馬鹿らしいとも!! 父は出世だ何だと権謀術数に精魂かけて、義母は義母で日がな一日、ぐちゃぐちゃメソメソと五年も十年も泣き暮らしておる。周りに集まる輩とくれば、愚にもつかぬことばかりをぬかす。この俺とて、一心かけた剣術もっ…」


 そこまで言って虎太郎は言葉を切り、掴まされた樫の枝に目をやった。それは一種言いようのない、敢えて言うなら、愛しげなとでもいう目付きである。


「妙蓮寺、貴様は冬彦と立ちお合うたことがあろう?」

 虎太郎は、唐突に言い出した。

「そりゃ、あるが…?」

 と孝広。挑発の響きも薄れた。

「負けたことはないか?」

 孝広の不思議そうな顔になどお構いなしである。

「それも、ある。何、十に一つは負けているのだ」

「…そうか。俺もある、一度だけだがな」

「ああ」

 孝広は短く頷いた。虎太郎が冬彦に一度だけしか負けたことがないというのは、何も彼が孝広より強いという意味ではない。彼は、一度負けて以来、冬彦とは立ち合ったことがないだけである。

「妙蓮寺…。俺が、剣で身を立てたいと思っていたと言うたら…笑うか?」

 今度は孝広は何も答えなかった。虎太郎が返事を欲しているとは思えなかったからである。旗本の嫡男である虎太郎には剣で身を立てなければならない理由など一つもない。彼は不意に苦く笑うと、

「己が一剣にて世に出ようとの望みも、たかだか十やそこらの子供に破られたわ。剣の天才、神童よと持ち上げられた挙句がこの様だ。その通り、みっともないにも程がある」

 彼は口癖の『馬鹿馬鹿しい』を切り札に結論づけた。しかし、孝広は、

「世の無常を嘆くのなら、虎っ! おまえは何を為した!?」

 言いざま、虎太郎の襟首を掴んで、無理矢理に庭へ引きずり下ろす。あまりのことに虎太郎が口も利けずにいると、

「何をやったかと訊いておるのだ。この世を悲嘆するなら、人事を尽くして後に嘆け! 貴様なんぞ、世を拗ねるのに百年早いわっ。来い、虎っ! 俺が売る喧嘩はこれが最後と思えよ」

 口角泡を飛ばした孝広の台詞に、どうでも江戸を出て、おそらくは二度と戻らぬつもりなのであろうことが、窺いしれた。


 孝広は最初から虎太郎が嫌いではなかった。ただ虎太郎の厭世的な態度が己と重なり、やけに恥ずかしくなってくる。それ故、彼らはこれまではおそらく、お互いがお互いを避けていたのである。恵まれぬ生い立ちからくる不必要なまでに高いプライドに、覚えがありすぎて、居ても立ってもいられぬほどに恥ずかしいのだ。

 しかし、今生の別れだと思えば、何やら言ってやりたいことの一つもあったような気がしてくるのだから、不思議だ。


 ゆっくりと、道場の作法に則った〈礼〉を交わした二人の胸の内に、同時に、

『始めっ!』

 の声が掛かる。

「セィヤッ」

「トリャー」

 樫の枝が二人の腕を、肩を、打った。

 孝広の方はともかく虎太郎は曲りなりにも僧侶である。剃髪の、墨染めの裾をひらひらと翻し、右へ左へと跳び回る。


 通いの爺ィが、

『おらがとこの坊様はぁ、きちげえだぁ。ありゃあ、気違え坊主だよぉ』

 家へ逃げ帰ってそう呟いたとか。


 虎太郎の太刀(木枝)が下段にいった。

 ピッ

 と下段からの太刀が孝広の頬を切りつけ、

「うわったっ、とォ!」

 息つく間も無く、大上段からの連続技。さすがに孝広は紙一重で避けたものの、左肩を掠っていく気配があった。

「ふん」

 と嘲るような、それでいて気恥ずかしそうな虎太郎の呟きに、孝広は楽しげな顔になった。心底、楽しい様子で、今にも笑いだしそうである。

 下段から相手の顎にかけて斬り上げ、次の瞬間に袈裟掛けに振り降ろす。孝広得意の連続技である。

「クックッ。虎よ、おまえ、洒落っけが強すぎるぞ」

 言って孝広は半歩下がった。半歩下がって、スーッと瞳を細め、剣は上段に。

「エィヤッ!!」

 ダン!

 地面を蹴って、渾身の力を込めて繰り出された太刀は虎太郎の僧衣を一直線に切り裂いた。もし真剣であったならば、鉄の兜すら斬り割ったろうと思わせる。それ程の気迫であった。


 いつしか―――

「アハ、ハ、ハッ、ハハ」

「クックッ、フフ、アハハハ」

 どちらからともなく、孝広と虎太郎は、気が付くと声を上げて笑っていた。

 互いに体力の限界まで暴れまわり、彼等は汗みどろの姿のまま縁台の上に倒れ込んだのだった。


 この翌朝より、妙蓮寺孝広の行方は、気絶から覚めた虎太郎こと清月院静謫にすら分からなくなっていた。


まだ続いてます。

次回もよろしくお願いします。

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