朝倉道場三羽烏・大騒動!①
「見参!」の三羽烏がまたもや騒ぎに巻き込まれます。
「大騒動!」では孝広の素性も明らかになっていきます。
*こちらのシステムが今ひとつ使いこなせておらず、読みにくいかもしれません。申し訳ありません。
――――― 22 ―――――
その日、妙蓮寺孝広は江戸の外れの小さな庵に顔を見せた。
場所は動坂、清月庵。千駄木の団子坂よりまだ少し郊外へ向かったところである。
「おいっ、虎太郎。どうした」
孝広が清月庵のあるじに気安く声をかけるや、
じろり
剃髪の跡も青々とした青年僧が、尖りきったまなこで、その訪問者を睨みつけた。
「どうしたとは、何がだ」
言葉付きも惜しむかのような低声で、ぼそりと投げ捨てる。とはいえ、これでもマシになったくらいである。孝広がこの庵へ訪ねてきた当初など、口を利きもしなかったのだから。
もっとも、両者の態度を比べると、これは清月庵の主である青年の方が正しい。
青年僧の名は佐々木虎太郎―――元は二千五百石の旗本・佐々木家の嫡男。江戸一番の遊郭・天下の吉原で下賤な浪人らと喧嘩沙汰を起こし、激怒した父親から無理矢理に剃髪させられた男である。
虎太郎本人も読経三昧の日々を過ごし、写経すること余念なく……おのれのこれまでの行いを恥じ悔い改め―――ているようにふるまっている。
しかし、廃嫡になるだろうというもっぱらの評判ではあったが、実のところ幕府へのお届けはいまだ出されていない。それ故、父親の怒りがとけ、世間が彼の醜聞を忘れ去ったころに還俗するであろうことは誰の目にも明らかであった。
ところが、だ。その喧嘩沙汰のもう一方、下賤な浪人こと妙蓮寺孝広が何故だか初夏の風吹くころよりたびたびこの庵を訪ねてくるようになっていた。
孝広と虎太郎、両者の態度を比べると、これは虎太郎の方が正しいであろう。
「こいつはご挨拶だな。…どうした? 息災か?」
「見れば分かろう」
ぼつん、と言うだけ。
「おいおい、虎…おお、すまぬ。虎太郎ではない、静謫殿か。そうそう。静謫殿だ、静謫殿ww」
じろり
とまた一睨み。
「何をしにきた」
清月院静謫こと佐々木虎太郎がイライラと爪を噛んで怒鳴った。
「べっつにィ」
孝広は陽気に返事をすると、虎太郎の下男が気を利かせて運んできた甘辛団子を、むしゃむしゃと頬張る。
この男がここへ訪ねてきたのはこれが初めてではない。虎太郎がこの庵に引き籠もって以来、何度も訪ねてきては好き勝手にしゃべり散らし菓子を喰い散らかして、また帰っていくのである。
本当に何をしにきているのか分からなかった。
「何だよ、遊びに来ちゃ悪いかよ」
と孝広が問えば、
「悪い」
と一言。これぞまさしく『取りつく島もない』といったところである。
虎太郎の返答に、孝広は苦笑を洩し、
ぺろっ
と団子のタレのついた指を舐め、
「俺、帰るわ。じゃあな、また来らぁ」
今日もまた喰い散らかして、しゃべり散らかして、出ていった。
「ふん」
虎太郎は思いっきり舌打ちを鳴らし、写経の手をとめ空を見上げた。
青い夏空、白い雲。ちらりと覗く陽光に、彼は眩しげに顔をしかめる。
書机の上の経本『妙法蓮華経如来寿量品第十六』が、パラパラと風にめくれていた。
――――― 23 ―――――
とある朝である。
麹町、江戸城の市ヶ谷門と四ッ谷門の丁度、中間くらいにその屋敷はあった。
旗本・藤堂隆信の屋敷である。
「ご返答下されっ、父上!」
バタバタバタ―――
大声に驚いた雀が、いぶし瓦の屋根から大慌てで飛び去っていった。
聞き覚えのあるこの声は、朝倉道場三羽烏のその二番手、山代数馬のものである。
「~~~」
がぁがぁと何やら言い立てている。
山代数馬と名乗るこの青年、実は藤堂隆信の次男坊。山代の名は養子に入った家の名である。
三千石の旗本・山代家には子が生まれず、隣家の藤堂家から養子を迎えたのだ。
つまり、数馬が『父上!』と噛みついている相手は南町奉行の山代忠行ではなく、実の父・藤堂隆信であった。
「…もうよろしゅうございます。ああ左様、私は山代の家へ養子に入った身でござれば、ああ左様、関係なぞございませぬよ」
数馬の相手はうるさそうに『下がれ』と手を振っている。
「失礼つかまつりますっ!!」
ぷんすこと足を踏みならし数馬は屋敷を後にした。
こうした時の数馬の行きそうな場所といえば、一箇所しかない。彼の足は朝倉道場へと向かった。
(まったく…父上は、いつまでこの俺を童扱いするおつもりなのか)
ぶつぶつと、そんなことを胸の内に呟いている。
藤堂の父と些細なことで言い争ってしまった、そんな後悔がないこともない。だから、余計に腹立たしい。何しろ、今朝の喧嘩は珍しくも数馬に非があるのではなかったのだから…。
山代数馬は数年前に元服を終えた立派な若侍。一筋のほつれもない髷、きちんと着けた薄鼠の袴。並以上に背丈も高く、がっしりとした身体つきのこの青年を、子供扱い出来る者があるとしたら、それはもう身内だけであろう。
彼は藤堂家の次男坊として生まれた。本来ならば旗本の冷や飯食い(当主の厄介者)として、肩身狭く暮らしていくものではあるが、藤堂家の次男坊は運が良かった。藤堂家の隣人、山代長門守は三千石の旗本で、数馬の父の竹馬の友で―――子宝に恵まれなかった。
数馬が養子となったのは十の歳。
だが、南町奉行の公務で役宅へ詰めきりの養父より、藤堂の実父の方が余程に良く顔を合わせていた。
(まったく、冗談ではない。何で、俺が唐変木呼ばわりされねばならんのだっ!?)
いさかいの理由はほんの些細なことであった。どれくらいに些細かと言うと、数馬がもう覚えていないほどである。早足で数馬は道場へ向かった。思いっきり木刀を打ち合えば、憂さなど綺麗さっぱり忘れてしまえる。単純明快な男であった。
トン
と若い男が数馬に当たってきた。
「何の真似だ」
と数馬。男の手を掴みとり、不機嫌な声で言った。
「へ、こりゃどうも。ぶつかりやしたかい」
とぼけた男である。数馬の懐へ伸ばした手をつかまれて、それでも平然としている。
「ふざけておるな、このスリめが、役人に突き出してくれようか」
「ってェ!!」
ぎりりと男の手を締め上げる。
「ざけてんなあ、どっちだっ! このドさんピン!」
ぺっ
数馬に向かって唾まで吐いた。
ちなみに、男の言った『ドさんピン』というのは、名詞・形容詞の上につくそのものの程度が強いことを表す〈ど〉を、『さんピン』に付けたものである。『さんピン』は、〈三一〉と書く。最低身分の侍の年収が三両一人扶持であったところからきた悪口。
数馬の場合、旗本の道楽息子(?)なので、この罵倒には当てはまらない。
にもかかわらず、
「居直る気か、此奴!」
怒り出したのはやはり気が立っていたのだろう。ぐいぐいとスリの商売道具(右腕)を捩じ上げた。
「つあっタタタ。痛ェ、畜生っ! お天道さんをまっとうに拝んで暮らすこの俺に、何てえ真似をしやがる!!」
完全に開き直っている。周りには見物人がわけも分からずに、それでも増え続けている。
ぐいっ
数馬がさらに一押し捩じ上げた。このまま続ければスリの右腕は折れるだろう。
「んぎィ、ギャアッ」
と、その時だ。
パン、パン、パン!
「っ!?」
手を打ち鳴らす者がいる。その者は拍手をやめると数馬に向かって呼びかけた。
「数馬、数馬、随分とまあ、威勢の良いことだのぉ」
その言葉は皮肉な響きを伴った。
「兄上!?」
驚いて数馬が手を緩める。スリはしめたとばかりにそそくさと逃げてしまった。
人込みをかきわけながら、総髪を一つに束ねた着流し姿の浪人がやってきた。到底、数馬の御兄君には見えぬ。顔つきに似たところがあっても、如何せんあまりにも違いすぎる。
「おいおい、よしてくれ。念者でも持ったような気になるではないか、気色の悪い」
やってきたのは孝広であった。おそらく彼も道場へ行く途中なのであろう。
「ああ、何だ。孝広か…って、おいっ!? 誰が念者だ、馬鹿もん!」
数馬が真っ赤になった。
念者というのは同性愛嗜好者のことで、そういう性癖の男が情人に呼びかけるのに『兄上』という言葉を使うことがあり―――つまり、冗談にしても気持ち悪すぎる。
「クックッ」
孝広が喉の奥で笑って、
「ぷっ…くくっ、ああ、悪い。…数馬、どうしたのだ? 今日は虫の居所が大分に悪そうだな」
と言った。
「う…つ、つまらんことだ」
ぷいと横を向いた。
「孝広、道場か? ならば、さっさと参ろうではないか」
――――― 24 ―――――
ガツン
薪割り斧がスコンと縦半分に薪を割った。
片袖を脱いで、『よっこらせっ』とやっているのは、孝広である。傍らには薪の小山が出来ている。
ガツン
もっとも孝広は交替したばかりなので、傍らの小山は数馬の成果に違いなかった。
この二人、またもや道場の裏手で薪割りを仰せつかっているのだった。
確かに、花のお江戸で百年の歴史を持つ道場の、道場主・朝倉友晋の口癖は、『裏で薪でも割ってこぉーい!』であったが、五回に六回(!?)の割合でその怒声が孝広達、朝倉道場の三羽烏に向けられているというのが実情である。今日は三羽烏の最年少がまだ姿を見せぬので、デカいのが二羽である。
「おまえも大変だな」
孝広が、井戸の釣瓶に手をかけて胸元の汗を拭っている数馬に声をかけた。
スカン
傍らの小山は着実に増え続けている。
「うん?」
「親父殿が二人もいる」
からかうような響きを真に受けて、
「…まったくだ」
数馬が溜息をついた。けれど、その孝広には二組どころか一人の親もいないのだということに気付き、それ以上は何も言わなかった。
「…な、孝広」
思い出したように話を変える。
「ん? 何だ?」
「なっ、以前に申したであろう? 俺が兄上とおまえと、よう似ておる」
「誰ぞに話したのかっ!」
ガコッ
手元が狂ったのか、孝広の斧は的を外し、薪の一片が数馬めがけて吹っ飛んでいった。
「あぶっ!!…おい、気を付けろ」
「んあ? あ…ああ、すまん。…数馬、それで、話したのか」
その声は必死で抑えたようなくぐもった声であったが、数馬がそれに気付くようであれば、とっくに、薪の一片が飛んできた時点で気付いていただろう。
「話し…何?…ああ、いや。おまえが嫌がる故、別に話しもせなんだが、うむ。世の中にはよう似た顔が三人はいるというし、もし、そうしたのに出会ったらどういうものかなと思うて、藤堂の兄上にな、聞いてみただけだ」
数馬は藤堂家の次男坊、上に兄が一人いる。
「だけって、おまえ―――それは―――話さなかったとは言わんだろうが」
孝広の呆れ声に、数馬がきょとりと見返していた。
実は、この妙蓮寺孝広と数馬の兄は、面差しがよく似ていた。生き写しと言ってもよいくらいである。
三年前、初めて孝広が道場に現れた時、数馬は心底驚いたものである。散々騒いでやっと人違いだと納得したほどだ。
もっともかたや旗本の嫡男たるに相応しい姿で、かたや見るからにだらしのない着流し姿(時々、懐手にしているのもいただけない)で、二人の違いは一目瞭然ではあったが。
それほどによく似ているものが何故話に上がらぬかと言えば、孝広が大層に嫌がるからである。数馬に向かって、
『よいか、誰にも言うなよ』
言いつけたものである。
『親なし子のヒガミだ。それでも…言うてくれるなよ』
しつこいほど念を入れたので、数馬も頷くしかなかった。それ故、このことは冬彦さえ知らぬのである。
「言うてはおらぬよ。ただのたとえ話だ」
数馬はそう言って、ジャッと手拭いを絞った。
だが、そのただのたとえ話に彼の父は何故か苦々しげにがなりたててきたのである。
もちろん、ただのたとえ話である。数馬の兄だとて快く話に乗ってくれたものを。ただ父親だけが、おかしなくらいピリピリとその話題を忌避したのである。
「ただのたとえ話だというに、何故だか父上の機嫌が悪うて…替わろうか?」
数馬は孝広が休めていた手から、薪割り斧を受け取った。だが、孝広は、
「ん? ああ、そうか。頼む」
数馬が薪を割り始めてから返事をし、何故か心ここにあらずといった風情であった。
スカン、コン
「せィやっ!」
パッカァーン
一心不乱に斧を振り下ろす数馬。
「エイッ、ヤァー」
掛け声も勇ましく、半ば興に乗っているとしか思えない。
「数馬、数馬、これっ。それで? おまえの親父殿はそのようなことに腹を立てたというのか」
「うん?」
先程から孝広、会話が噛み合っていない。
「そうだ、が?」
「兄上殿は何と言うた。…俺と会うたら何とすると言うたのだ」
焦れたような様子の剣友に、数馬は初めて訝しげに顔を上げた。
「―――そうだなあ。兄上は、こう言うていたかな。『顔が同じでも声が違う。まず、生まれが違おう。育ちが違おう。育ちが違えば気質が異なろう。数馬、この世に同じ人間など一人とておらぬよ』と、言うていたよ。お堅いことだ」
人というのは、まったくもっておのれのことは分からぬものらしい。数馬に堅いと言われるようでは救われぬ。いつもの孝広であれば、腹を抱えて大笑いしていたろう。
「…ふうん」
先刻とは打って変わって気のない返事である。
「おまえと兄上の場合は声も似ておるがな」
さらに数馬が言うと、
「よせっ! もうよい。もう話すな!」
と、くる。さすがに数馬が鼻白んだ。
「ん? ああ…」
その時になってやっと孝広は、数馬の訝しげな表情に気が付き、
「おしゃべり数馬。二度と誰にも喋るなよ」
「何ィ!? この野郎!」
「ハハッ。替わる、貸せよ」
孝広が薪割り斧を奪い返した時、
「まあ!」
廊下の角を曲がってやってきたのは女剣士であった。年頃の女の身を道着に包み隠し、匂うような美しさ。
ぎょくん、と数馬が硬直している。
「まあ、まあ、数馬様、孝広様。…これでは何度、湯を沸かしても追いつきませぬ」
女剣士・朝倉志保の眺めやったその先には、こんもりと薪の大山が出来ていた。
「数馬殿、数馬殿!」
その時、救いの声が。
数馬は薪割り以外の理由による頬の熱さを振りきり、その呼び声に応えた。
もっともその声の主というのが、遅れてやってきた朝倉道場三羽烏の最年少であったから、あまり助けにはならぬかもしれぬ。廊下から中庭の方へ回ってやってきた冬彦は、何故だか少し機嫌が悪そうであった。
「如何致した。今日は馬鹿に遅かったではないか?」
数馬に言われてますます頬を膨らませる。
「クッ」
その様子に孝広が吹き出して、
「まるでトラフクのようだのぉ。志保殿?」
と、朝倉友晋の一人娘に囁きかけると、彼女も軽い笑みを漏らして言った。
「左様。如何にも可愛らしい様子になりましたな」
普段の彼女はしとやかそうな娘に見えるが、父親譲りの剣の才も中々でしばしば男のような格好で稽古に参加していることがある。袴を着けてこんな姿になると、言葉遣いも男のようであった。孝広達もそれ故、ごく自然に剣友とでもするように扱ってしまう。また、志保にとってはそれがかえって嬉しかった。
「…数馬殿! ひどいじゃないですか」
「何?」
冬彦は唇を尖らせ、
「おお、今度はタコか」
孝広から入った茶々を完璧に無視して冬彦、
「何、じゃありません。今日は私のところへお寄り下さるとおっしゃるから待っていたのにっ」
大声で言った。その言葉に今度は数馬が、
「あっ!?」
と声を上げ、
「待てど暮らせど数馬殿は来ない。どうかしたのかと思ってお屋敷まで行ってみたらば、もうお出掛けになったというじゃありませんか!」
「すまぬ!! 冬彦」
朝一番に父親と喧嘩したおかげですっかり忘れてしまっていた。数馬は申し訳なさそうに冬彦に手を合わせた。
「もうっ!…もうよろしいですよ。それより、数馬殿。今日、お屋敷へお伺いしてもいいですか? 数馬殿が持ってきて下さるはずだった書物が見たいんです」
「おう、構わぬぞ。来い、来い」
埋め合わせのつもりもあって、調子がいい。
「夕餉の一つも出してやる。…そうだ、孝広、おまえも一緒に来ぬか?」
数馬が水を向けると、
「あれ?」
いつの間にやら孝広の姿が見えなくなっていた。
「孝広様ならば、つい今し方何処ぞへ行かれたようですが」
と志保。孝広は誰にも気付かれぬようそっといなくなったらしい。
「そう言えば、私、数馬殿のお屋敷へ孝広殿とはご一緒したことはございませぬ」
冬彦の何気ない言葉。その通り、一度として行ったことはない。行けば大騒ぎになること間違いない。それほどに数馬の兄と孝広の面差しはよく似ている。
「うん、ない。そうさな、つまらぬことを気にしておらずに来ればよいのにな。さぞ、面白かろうて」
「え? 何がですって?」
不思議そうに問い返す冬彦はこれまで、山代家へは行ったことはあっても藤堂家へは訪問の機会はなかった。それ故、数馬の言葉にきょとりと首を傾げる。
冬彦に問い返された数馬は危ないところで内緒の話だということを思い出した。
「や、いや、その……堅苦しいのが嫌なのであろう。ま、ともかく、ここを片付けて屋敷へ共に参ろう。あの一山で終いにする故な」
数馬の指差した先には薪が申しわけ程度に一山積み重なっているだけである。
「私も遅れた罰で先生に薪割りを仰せつかっているんです。後は私が…」
「数馬様!」
慌てて志保が二人の袂を捕らえて言った。
「もう薪は結構でございます!」
――――― 25 ―――――
そっと道場から姿を消した孝広は、暇に任せてあちこちへ顔を出した後で、先日に引き続き再び動坂の清月庵へやってきた。
虎太郎の方も今日は『帰れ』とは言わず、黙って座っていた。こちらもよっぽど退屈だったのだろうと思われる。
「妙蓮寺…」
「ん?」
口一杯に西瓜の赤い実を頬張ったまま振り返る孝広に、じろりと一瞥を投げると、虎太郎はまた黙り込んだ。
「ん、おい? 何だ、おかしな奴だな。何か言いかけたのだろう? おい」
「うむ」
頷いて、しばらくは視線を漂わせていたが、
「貴様は確か捨て子であったな」
「…貴様ときたか。口の悪い坊さんだ。…ああ、そうさ」
シャクッ
答えた後で、また一かじり歯を立てる。今日の西瓜は孝広が持ってきた初物だ。
虎太郎の静謫は、会話が終わりでもしたかのように、口を閉じている。
「それが…どうかしたか」
粗噛音とともに言われたこの台詞は、虎太郎の耳には、『ひょれがほうはひたは?』としか聞こえなかった。
「山代の家の、いや、山代数馬の藤堂の家の方だがな。―――そなたとそっくりの顔をした兄者がおるらしい―――不思議なこともあるものよな―――さて、ただの不思議で片付けてよいものやら、のぉ?」
髪はすっぱり剃ってあるし、着ているものも墨染めである。にもかかわらず、清月院静謫の言葉付きは佐々木虎太郎であった時といささかも変わっていない。
「ふ…うん」
「という話をな、聞いたことがあった。ちらりとな。……妙蓮寺、貴様と山代、よう似ておると思わぬか? まるで血のつながった兄と弟でもあるような……な…?」
虎太郎の言いぐさは根性曲りのドラ猫のようで、聞き苦しいことこの上なかった。
彼は何かを知っているわけでもなかった。ただ秘め事とあればとりあえず脅しの種にはなろう、そう思って口に出してみただけに過ぎない。
「虎、おまえ…」
絶句した孝広に、彼は冷笑を投げかけた。虎太郎のかけたカマは良いところをついたらしい。
にまりと笑んだ虎太郎。
だが、これでめげる孝広ではない。
この男はそのお山の大将的な性格で、何処にあっても多数の敵と、同じ数だけの味方を作り出した。孝広はその育ち故かはたまた持って生まれたものなのか、この程度の挑発に乗ってくるには、いささかひねくれ過ぎていた。
「虎、おまえ…そんなに俺の事を案じてくれていたのか。おまえっていい奴♡」
虎太郎はぱくっと口を開けた後で、苦虫を噛み潰したようにむっつりと黙り込んだ。
「妙蓮寺、貴様、呆れた奴だな」
「この話は内緒にしてくれ。みな真に受けるから、なっ、頼むから。よいか? しゃべったら…こうだぞ」
そう言って、孝広がハーッと拳に息を吹きかける。
「………」
八つ九つの子供のようで、虎太郎はその内に何やら馬鹿馬鹿しくなってきた。
「もうよい!」
「何を怒ってるのだ。喰わぬか?」
差し出された西瓜を虎太郎は黙って受け取り、くるりとそっぽを向く。
シャクシャク、シャクシャク
(…変な奴だな)
孝広が独りごちた時である。
「虎太郎!」
割れ鐘のような声が、孝広と虎太郎の上に降りかかってきた。
「虎太郎はおるかっ!」
面白いのがその当の虎太郎。赤い実と黒い種とを一緒に、
むぐぐっ
と喉へ押し込み、やおら小机の筆を手にした。
「ここです、父上」
(おや?)
と孝広が思ったのは、虎太郎の声が孝広に対する時よりもなおさらに暗く打ち沈んでいたからである。
「おお、おったか」
姿を現したのは、その声の主として、成程と誰もが思うような人物だった。
縁台に腰掛けていた孝広に気付きもせず、
「喜べ、虎太郎!」
近くに来ても音量を絞ろうとしないので、耳が痛い。
「何事です、父上」
唾棄しかねない口調で、佐々木家の家庭事情の複雑さがこの一事で分かる思いであった。
「其方をこのような様にした悪漢が見つかったのだ」
「ほう?」
と、虎太郎は写経の手をとめもしなかった。虎太郎の父はそれが気にいらないらしく、顔をしかめた。
「出入りの同心に調べさせたところ、其方と争うた悪漢めは妙蓮寺某とかいう薄汚いごろつき浪人らしい」
(げっ!?)
これは孝広の独り言。
まさか虎太郎の親父殿も知らぬであろう。その薄汚いごろつき浪人なら、それそこの縁台で茶を啜っているではないか。
虎太郎は自分がどうして吉原などで殴られて気絶するに至ったのか、その詳細を、実の父にさえ話しておらぬのである。もっとも話したところで自慢になるわけでもなし、虎太郎にも恥があったということかもしれないが。
「虎太郎!」
いきなりの怒声に、障子の棧までビリビリと震えたようである。
「この愚か者めっ! 毎日毎日、のらくらとしおって、馬鹿者が。そもそも其方がだらしない故、かような様になるのじゃ! 分かっておるのか!」
これはひどい言いがかりだ。
醜聞のせいで頭を丸める羽目になり、この庵に移り住んで以来、虎太郎はただひたすらにほとぼりの冷めるのを待っている。
写経し読経し、日々精進に心掛け、さも反省しているように振る舞っている。
「剣術の稽古でもせぬか、未熟者が!」
言うだけ言うと、虎太郎の父親はのっしのっしと、去っていった。
子を思う親心の故の説教であれば、家族の断絶はあり得なかったであろうが、虎太郎の父の場合はエゴイズムの末のヒステリーであるから始末に負えぬ。それが子に伝わらぬわけがないのである。
「………」
彼が去った後、残された二人は少しの間、口を開かなかった。
「強…、烈な親父殿だな、虎」
先に口を開いたのは孝広である。虎太郎の父はとうとう彼の存在に気付かずじまいであった。
「ふん、放っとかぬか」
虎太郎はすぐさまぴしゃりと返す。
「…虎よ、おまえ、家を継ぎたかろう?」
聞くまでもない。当たり前ではないか。家を継ぎたくない嫡子などいるものか。
「………」
だが、静謫という名の虎太郎は何も答えなかった。
「剣術の稽古ならいつでも相手になるぞ」
孝広がにやっと笑いかけて去った後、この草庵には、
「…自我得仏来、所経諸却数、無量百千万、億載阿僧祇…」
清月院静謫の読経の声だけが響き渡っていた。
――――― 26 ―――――
(フンフンフーン♪)
孝広が鼻歌まじりに通りを歩いていたのは、それから数日後のことであった。
いつものように懐手にして、ぶらりぶらりと鎮守様の境内を通り過ぎる。境内の大きな御神木の根元には、先程までままごと遊びの童でもいたように茶道具が転がっている。
(女の子ってえのは、同じような遊びをやるもんだなぁ)
横目に眺めて、ぷっと吹き出した。彼にも覚えがある。数年前まで、おたみが彼の傍らでよくこんな真似をしていたものだ。
「きゃあーっ!」
(そう、『きゃー』と…へっ!?)
振り向くと、何やら人相の悪い奴どもが孝広の周りへやってきていた。
「何だ、おまえら」
スッと懐から手を出す。集まってきた奴らは全部で五人。
「にーさん、いいからすっこんでな」
「そうとも、にーさん。怪我しねえ内にとっとと帰んなよ」
やくざ風の男どもが嘲るように言い散らすのを平然と無視して、彼は自分の後方下を覗き込んだ。
「後生です。お助けを…あの、どうか」
そこには孝広の着物にしがみついてガタガタと震える女がいた。美しい顔立ちをした町家の女らしい服装で、これは使いの途中にこのちんぴら連中に悪戯を仕掛けられたのだろうか。
(…おたみ…)
孝広が呟いた。年格好も何も、彼の妹分とはあまりに違い過ぎるにもかかわらず。先程、ままごと遊びの名残を見たせいであろう。
その女はどちらかと言えばおたみとは正反対、妙齢の―――町家の後家といった風体で、それにしては唇の横のほくろがやけに色っぽい女だった。
「退きな、さんピン」
「退くんだよ、腰抜け」
ちんぴら達はじわりじわりと近づいてくる。
「そうもいかぬ」
だが、孝広。がくりと振られた年増の髪から落ちた銀のかんざしを拾い上げながら、少し困ったというような顔つきだ。
「何ィ!」
一斉にちんぴら連中。
「…むさい野郎ならいざ知らず、別嬪の危難ばかりは見過ごすわけにはいかぬでな」
孝広は後ろ手に女を庇った。『女に甘すぎるのがおまえの悪いところだ』といつか数馬が言っていたのを、この瞬間には思い出しもしなかった。
「ふざけやがってっ」
殴りかかってくるのを、片手で軽くあしらってやる。拾ったかんざしに傷のつくのを嫌ってくるりと手首を返す余裕である。
大体、ちんぴらやくざ如きが孝広にかなう筈がないのである―――
「ぐうっ!」
孝広が苦鳴を上げた。同時に、チンと銀かんざしが手からこぼれて地面に落ちる。
「やったか!?」
男達の声がやけに非現実的に響く。脇腹に灼熱感。目の前が暗い。
(誰、だ…?)
「やだよ、この人、死にゃしないだろうね」
気味悪そうに言う女の声。
「おい、気を付けろ。殺っちまうとまずい」
それを最後に、孝広の意識は深い混沌へと引き込まれていった。
――――― 27 ―――――
泥のような闇。
その中で、孝広は寂しげな三味線の音を聞いたように思った。
(?)
理屈もなく、ただそれだけを訝しく感じていた。
一面が墨で塗りたくられた闇から、薄明へと孝広の意識はゆっくりと移行した。
「や、生きておる…」
自明のことを呟いてから、彼はぽっかりと瞳を開けた。自分ではほんのわずかな時間気絶していただけのつもりであったが、陽の入り具合から見て、二刻程は経っているようだ。
「何処だぁ? ここァ!?」
やっとそのことに気付く。
赤い行灯、色めいた明り窓、違い棚に置いた桔梗の花まで何やらなまめいて見える。
どうやら水茶屋の一室のようであった。
「素人造りじゃねぇ…あゥちっ!」
起き上がりかけて、脇腹を押さえる。押さえた手に晒が触れた。
「何だ?…手当てしてやが…ん?」
その時になって、やっと孝広は自分以外の存在に気付いたのである。
女だった。
しかも、腰巻き一つで同じ布団に自分と並んでいる。他の場合であれば嬉しがりもするが、これでは…
「おい、これっ、女! しっかりしろ」
持ち上げた女の腕がパタリと落ちる。これでは、嬉しがりようがない。
先程の、無頼連中に追われていた女である。
(てっ、勿体ねえ)
此奴らしい呟きであった。
と、その時、
「キャアーッ!」
障子の向こうから女の悲鳴。女中であろう。
「ひとごろしィ~!」
黄色い悲鳴に孝広は、
「へっ!?」
と手元を見ると、血塗れである。
「おい、俺ぁ…」
言いかけたのも聞かず、
「親分さんっ、親分さぁーん」
涙声になって女中が叫んだ。ドタドタと足音が廊下に響き、
「野郎っ、神妙にしやがれ」
十手を持っているところを見ると、岡っ引きであろう。あまりの手回しのよさに、皮肉な冷笑が浮かぶ。
孝広は数人の厳つい男達に取り囲まれ、弁解する暇もなく縄付きと相成り果てたのだった。
「あーったくもうッ、俺じゃねえっつーの!!」
一応は喚いてみるも、確かに女の死骸と一つ布団に寝ていて知らぬ存ぜぬでは通らなかった。
引き立てられていく彼の視界の隅に、置き忘れたように投げ出してある三味線が映る。
(…結局、助けてやれなかったな)
そう思いつつ、口は違うことを問いかけた。
「よぉ、親分。どうせなら、北町へ連れてってくれぬかい?」
――――― 28 ―――――
「数馬殿! 数馬殿! 大変です」
その日、山代長門守の私邸に訪ねてきた少年は、さすが大店の倅らしく品のよい小袖を着けていた。
「冬彦か」
この商家の末っ子にしてご養子様の剣友、山代家の門はすでに顔パスだった。
「『冬彦か』じゃございませんよ。大変なんです。まだお聞きおよびじゃないんですかっ?」
数馬は冬彦の台詞を、井戸端で聞いていた。もろ肌を脱いで、汗を拭っている。
「孝広のことであろう?」
「そうですよ、孝広殿です。孝広殿が人殺しなどと…何かの間違いに決まってますよ、ねえ、数馬殿」
少年が一気に捲し立てた。
「分かっておる。あの馬鹿者が捕らえられたのは何処だと思うておるのだ」
孝広をしょっぴいたのは、よりにもよって南町、数馬の養父の配下であった。
南町は嫌だと散々ごねていたようだが、今月の月番は南。下手人がいくらごねようとも仕方がない。
「ええ。それですから…数馬殿。何とか、何とかなりませんでしょうか?」
だからこそ、冬彦は奉行所ではなく、南町奉行・山代長門守忠之の私邸にやってきたのである。
「何とかなるものなら何とかしておるっ」
グッと袖を入れ、胸の合わせを引き締める。振り回した腕が井戸端の水桶に当たって、
カラカラカラ、ザブゥーン
落ちていった。
「会うだけは会わせてもらうよう、養父上にお頼みした。行くぞ、冬彦」
「はい」
『ほっ』とした表情を見せ、冬彦が勢いよく返事をした。だが、二人連れ立って山代邸を出た時に『はあっ』と溜息をついてから、
「孝広の奴、本当に、まったく。女子に弱いのだから…」
「孝広殿ときたらほんとにもう、女の方にお弱いのだから…」
と言ったのが、自分一人だったと二人ともが思っていた。
まだ続きます。次回もよろしくお願いします。