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花のお江戸の烏ども  作者: サーラ
1/9

朝倉道場三羽烏・見参!

痛快娯楽時代劇(笑)です。今回が見参篇で次回は大騒動篇になります。

――――― 1 ―――――


 寛旻(かんぶん)二年。   

 月の照る夜道を一人の(さむらい)が歩いていた。

 身なりは良く、何処かの大家に仕える者のようであった。侍は腕の中の小さな荷物を大事そうに抱えながら、砂利の坂道を上った。

 その先には、妙法寺という寺があるだけであった。

 満月が侍の影を色濃く映す。

「ア…ブゥ」

 その時、侍の腕の中の荷物がかすかにみじろいだ。

 赤子である。

 赤子は上等な絹の産着を着けて、金糸銀糸に縫い取られた豪奢な衣服にくるまれている。

「………」

 侍があやすように揺すりあげると、赤子は微笑んだまま再び眠りに落ちていった。

「…ただの…御子であったなら…拙者がこのままもろうてしまおうものを…」

侍は呟いた。彼は先年の春の流行病で妻と子を同時に亡くしていた。

 侍は一度頭を振り、また道を急いだ。手にした提灯も不要なほど明るい晩であった。

 妙法寺が闇の中に姿を現す。

 侍は、寺の門を目にすると一気に駆け上がり、その門前に赤子をそっと下ろした。門のすぐ内側には人の佇む気配が感じられる。


 ドンドン!


 力任せに門を叩いた。雷鳴のように響いた音に、赤子が泣き出す。

「子を捨て申す!…御門前に和子を、和子を捨て申ォす!」

 侍が怒鳴った。その声はかすかに震えていた。

 怒鳴るだけ怒鳴ると彼は、そのまま踵を返し、一目散に来た道を駆け去っていった。

 赤子の側に提灯を残し、何も持たず。月が照るとはいえ真っ暗な砂利の坂道を、ただひたすらに駆けていった。

「………」

 侍が去ってしばらくすると、

 キィ

 妙法寺の門がきしみながら開いた。

 中から出てきたのは僧侶である。僧侶は手を伸ばし、その墨染めの袖に火のついたように泣きわめく赤子を抱き取った。

「…不憫な和子よの」

 僧侶は呟いた。




――――― 2 ―――――


 そして―――

 十数年の歳月が流れた。



 

 天和(てんな)三年、風のぬるやかに吹きつける春の夕暮れ。

 

 人気のない坂道を、三人の若者が並び歩いていた。青年とも少年とも呼べる彼らであった。

 その中の背の高い浪人、名は妙蓮寺(みょうれんじ)孝広(たかひろ)

 浪人とはいえ垢じみてもおらず小綺麗な着流し姿で、総髪を束ねていた。この先の妙法寺という寺の居候である。子供の頃に寺の門前に捨てられていたところを、妙法寺の住職に拾われたのだという。

「さて…」

 その孝広がおもむろに口を開いて、

「誰の()だ?」

 と言った。それというのも、先程より殺気だった気配がヒタヒタと彼らをつけまわしていたからである。

「拙者は知らぬぞ」

 答えたのは、いかにも堅物といった印象の袴姿の青年。先の浪人者より年下の様子で、名を山代(やましろ)数馬(かずま)という。三千石の旗本の嫡男であった。

 この二人の間にはさまれた町人姿の少年は、日本橋の薬種問屋伊勢屋の末弟で、名が冬彦(ふゆひこ)

 朝倉道場三羽烏というのが彼ら三人のもう一つの呼び名であった。

「私も知りませんよ」

 冬彦も言った。無論のこと、口火を切った孝広とて心当たりなどはない。

「ありそうなといえば、おまえだろうな」

 孝広が数馬をつつく。

「何故だ?」

 少し意外そうに数馬が問い返した。

「三千石の旗本の跡継ぎ息子だ。そなたにはなくとも父君にはあるかも知れぬぞ」

「そのようなことがあるものかっ! 馬鹿を申すな!」

「逆恨み、ということもある」

「ですが…」

 そこへ、冬彦が口を挟んだ。

「うん?」

「香の匂いがします」

 微かに漂う芳香に首を傾げる。くすりと数馬が可笑しそうに、

「女か? ならば、孝広だな」

「よさぬか、人聞きの悪い」

 孝広も苦笑いで軽口を叩くが、二人共、これ程の殺気の主が女であるとは思わなかった。

「香の匂いがして男なら…冬彦だな」

 孝広の台詞にブッと数馬が吹き出した。

 というのも、冬彦はまだ年少ながら、役者にでもしたいような顔立ちで、(迷惑なことに)女にも、(はなはだ迷惑なことに)男にも、もてたのである。

「お二方、敵と一戦交える前に一勝負、私とやりたいと申されますか」

 冬彦は町人であったが、さすがに三羽烏の最年少。

「や、敵と申したな、冬彦」

 三羽烏の真中が言うと、

「左様、申しました」

 意味ありげに冬彦も数馬を見返して頷いた。

「敵か。敵、な。…ま、それもよかろう」

 三羽烏筆頭は、にやりと笑った。

 その瞬間、

 ビュヒュッ

 ギラリと光る白刃が背後から彼らを襲った。パッと三人が三方へ飛びのく。孝広は右へ、数馬が左、そして冬彦は前へ。

 彼らは振り向き、冬彦は孝広から借り受けた脇差しを引き抜いた。

「背後からとは…卑怯な!」

 数馬が呟いたのを耳にして孝広が、

(此奴らしいわ)

 心中で微笑む。

(この状況で卑怯もクソもなかろうが…)

 孝広は笑ったが、プリプリと数馬は本気で言っているのだ。

「しかも、名乗りもあげぬぞ」

 言ったと思いきや、

「…やあやあ我こそは…」

 いきなり戦国武将のように高々と名乗りを上げはじめた数馬に、彼の二人の友達は、

「阿呆、黙っとけ」

 と孝広、無情にも断じた。弟分の冬彦も、

「時と場合を考えて下さい」

 小さく笑う。

 この間にも、視線ばかりは刺客の動きから一瞬たりと離さない。

 刺客の浪人が、

「うむ」

 微かに唸ったのも当然であろう。

 スッと、孝広と数馬の足先が道幅に沿って、円を描くように進み出た。誘うように冬彦も一歩。

 これにつられて斬りかかってくるのであれば、両脇の二人が取り押さえていたろう。

(…此奴、退()きおったわ)

 孝広が数馬に目混ぜで言って、

 ジャリ…

 また一足、小石を滑らせる。道の両側は、雑木の生い茂った崖である。しんと静まり返って、鳥の声さえやんでいた。

「でやぁ!」

 孝広が、その浪人を試すように斬り込んだ。ガッキと白刃を噛み合わせ、離れる。両者共、中々に隙がない。

 興じたようにニヤッと孝広が歯を剥いた時である。

「うひゃっ!?」

 突然、悲鳴が聞こえ、刺客浪人のその背後に人影が現れた。崖の方から脇道を登ってきた近くの百姓である。恐ろしげな争いの様子、あるいはただもう彼らの手にある抜き身の刃に驚嘆し、派手に鍬と鋤とを取り落とす。

「ひっ、ひとごろしだぁ!」

 との悲鳴に、

「チッ」

 浪人の舌打ちだったのか、孝広のであったのか…  

 浪人の身体が再び孝広に肉薄する。

「孝広っ!!」

「孝広殿っ!」

 だが、一端は孝広に迫りかけた浪人が、あっと思う間もなく向きを変え、腰を抜かした百姓の方へ、いや、その手前の道無き崖を滑るように駆け降りていった。

「………」

 後に残されたのは、呆然と佇む三人。そして、へたり込む一人。

 冬彦が追おうとするのを孝広がとめて、

「よせ、よせ。おまえの手には余る。それより、すっかり遅くなってしまった。あれは六つの鐘だぞ」

 のんびりと言った。

 暮れ六つの鐘が鳴り始める。

「ですが…今の…」

「何を悠長に言っとるか。おまえという奴は…あ、おい、何処へ行くつもりだ? おい、孝広?」

 ゆるい坂道を寺とは反対の方角へ駆けていく孝広に、数馬が慌てて声を駆けると、

「すまん、急用を()()()()()。おまえら、先に行っててくれ。寺にはおたみがいる」

 片手で拝む振りをして、また走っていった。彼らは孝広の住み暮らす妙法寺で花見の筈だった。

 ちなみにおたみというのは、孝広が妹のように可愛がっている親のない少女のことである。

「何…だ? あれ」

「さあ?」

 後に残されたのは呆然と佇む二人。そして、へたり込む一人、であった。




――――― 3 ―――――


 あくる日、孝広はいつものように道場へ赴いた。

 朝倉道場の道場主、すなわち孝広達の師匠である朝倉友晋は、知名度こそ低いが江戸の剣術界においては『知る人ぞ知る』実力者である。

 故にこそ、その門弟には大家の子弟、大藩の藩士までいる。また、同時に朝倉友晋の人柄を慕う身分の低い者…どころか町人までが通ってきている始末だ。

 孝広が稽古着に着替え、自分の木刀を手に取った。そこへ、剣術仲間の一人が彼に声をかけてきた。

「妙蓮寺、おい。来た早々だが、冬彦に稽古をつけてやれよ」

 剣友の言葉に孝広は眉をひそめた。何故ならこの言葉にはもう一つ別の意味があったからである。

 冬彦という少年は、町人の分際で朝倉道場に通ってきて、しかもそこそこ腕がたつという生意気さ。同門の剣士達の妬みを受けて、時折、いびられていることがある。

 孝広が冬彦に稽古をつけるというのは、それを救い出す方便であった。

「先程、山代殿が行かれたが…」

 再び呟いた友人に、

「やれやれ」

 孝広は大袈裟に肩をすくめてみせた。

 山代数馬は清廉潔白、質実剛健、猪突猛進が身上の青年である。そんな男が、冬彦へのいじめまがいのしごきを見過ごしておくはずがない。

 ただ、彼が口を出すと、騒ぎは確実に大きくなるのが難点である。

 孝広が肩をすくめ冬彦の姿を探してみると、数馬の声が耳に飛び込んできた。

「よさぬかっ! 年端も行かぬ少年(こども)に寄ってたかって…侍としてあまりみっとも良いものではあるまい」

 いかにも正義感の強い数馬らしい台詞で、冬彦と三人の侍との間に自分の身体をねじ込んでいた。その三人はどれも旗本の家来で、立派な武士である。

「山代殿、異なことを申されるな! 我らは冬彦に道場での作法を教えてやっていたまでのこと…いくら旗本のご子息とてそれを(かさ)にきて、いわれのない言い掛かりはやめて頂きとうござる」

 この反論に数馬が激昂した。

「何だと!? せっ拙者がいつ…」

 と怒鳴り終わらぬ内にさらに、

「同じ道場仲間に身分の上下はなし、先日そう申されたのは山代殿でしたな」

 とまで言われては数馬も引き下がるわけにはいかぬ。無言でぐっと体を乗り出した。

 三人の侍の中で最も背が高く最も腕のたつ山本という男が、やはり無言でじりりと一歩進み出た。

 一触即発のまさにその時であった。

「方々、そこらでやめておかぬか?」

 孝広が間延びしたような声を彼らに浴びせかけたのは。

 彼らは一斉に孝広の方へ顔を振り向けた。各々興奮気味のその中で、一人冷然と澄ましているのが当の本人の冬彦だったため、孝広は思わずにんまりとなった。

「そろそろ朝倉先生がお出ましの刻限、ここらでやめておいたが良かろう。方々も薪割りにはいい加減、飽いたであろう?」

 孝広が言葉を続けた。『裏で薪でも割っていろ!』というのは、師・朝倉友晋(ともゆき)の口癖である。

「冬彦っ、そもそも其方が年下のくせに生意気ゆえいかんのだ。どれ一つ、この俺がもんでやる。さっさと支度しろ」

 孝広の言葉に冬彦は、

「またですか?」

 ニッコリと微笑み返す。これが通例なのであった。孝広が冬彦に稽古をつけてやり、ポコポコと打ち据える。

 町人の分際で身分もわきまえぬ生意気な冬彦少年が打ち据えられる、その厳しい稽古ぶりを見て他の侍達がいくぶんか気を晴らす。いつものことであった。

 もっともこれのおかげで冬彦の腕前がさらに上がっているということに気付いている者はあまりいない。

「何を申す! こやつらは…」

 数馬が憤慨して言った。

「数馬、おまえは裏で薪でも割っていろ」

「なっ!? 孝広!」

「そのように平常心を欠いていて、剣が遣えるものか。それ、行った、行った」

 確かに孝広の言う通りであった。こういう言われ方をされると数馬も黙るよりない。うまくごまかされた感じだったが、

「グッ」

 と妙な声を発して言葉を詰まらせた。

 そこへ別の方向から声が掛かる。

「ほーぉ! 他人(ひと)のことはよう分かるもんじゃな、孝広」

 朝倉友晋であった。一体、いつの間に現れたのやら不肖の弟子達にはその気配すらつかめなかった。

「ゲッ!?」

「先生!?」

「あ、先生」

 孝広、数馬、冬彦の三人がそれぞれ言った。この時にはすでに冬彦をいびっていた三人の姿はない。要領がよかったというよりも、いつの間にやら論点のずれていった言い争いに呆れていなくなっていたのだ。

 朝倉友晋が大きく息を吸い込み口を開きかけると、先を制して孝広、

「…承知つかまつった!」

 姿勢を正してペコンと頭を下げる。

「数馬っ、冬彦っ! ゆくぞ」

 スタスタと歩き去る孝広に、『えっ?』と声をかける数馬と冬彦。

「裏で薪でも割っていろ、とサ」

 孝広はさっさと道場を出ていった。




――――― 4 ―――――


 三人が裏庭へやってくると、すでに薪も薪割り斧も用意されていた。

 ほとんど日課のようになっているため、道場主の一人娘の志保(しほ)が準備万端整えておくのである。

 しかし、孝広はそれらに目もくれず、いきなり庭に面した縁側の廊下にゴロリと転がった。

「あ、ずるい、孝広殿」

 冬彦が叫んだ。先程までの大人びた冷然とした表情は消えている。

「馬鹿者。…よいか、俺は妙法寺でそんな真似(薪割り)など十分させられているのだ。それ故、他に機会のないおまえらお坊ちゃん方に涙を飲んで譲ってやろうという親切心ではないか。冬彦、しっかり斧を振るって筋肉(にく)をつけろ」

 孝広がからかうような口調で言うと、冬彦は孝広の盛り上がった二の腕と自分のそれとを見比べ、軽く息を吐いた。

「分かりました。数馬殿もお休み下さって結構です」

「ふむ、道理だな。…冬彦、励めよ」

 と、数馬も縁側へドカリと腰を下ろした。そして、冬彦が薪を割り始めるのを眺めながらおもむろに口を開いた。

「昨日のことだがな…」

「ええ。気になりますね」

 待っていたように冬彦が薪割り斧を放り出して相槌を打つ。

「…誰が狙われたのか…そして、何故」

 孝広の呟きを耳にすると、冬彦がすかさず、

「言っておきますけど、私には狙われる覚えなどありませんよ」

 と言い張った。

「む、拙者だとてない」

 数馬も言い、二人してじとっと孝広の方へ視線をやった。じと目の視線を受けて孝広は、

「いやァー、俺だって…」

 言いかけてから、ゴニョゴニョと言葉を濁らせる。

「実はな…」

「やっぱり」

 冬彦の茶々が入った。

「まだ何も言うとらん!…実はな、あの後、おまえらに先に寺へ行かせたろう?」

「ええ。夕べは随分と遅いご帰宅でしたね。また女の方ですか?」

「…孝広。貴様、いい加減にしておかぬと本当に…」

 日頃の行いというのは、こういう時に出るものである。

「違うと言うとろうがっ! よいから二人とも黙って聞け。俺は心当たりって奴を探しに行ったのだ」

「えっ!?」

「それでっ?」

 勢い込んで聞いた二人に、孝広は首を振った。

「今んとこ抱え込んでいる厄介事はあらかた片付けてきたがなぁ…」

 と、もう一度、頭を左右に振った。

「そうなんですか?」

「おまえらは? 念のためだ。おまえ達も心当たりには探りを入れてみてくれ」

「貴様じゃあるまいし、そのようなものは無い!」

 きっぱりと数馬が否定する。いつの間にか数馬の横に座り込んでいた冬彦も、ウンウンと頷いている。ところが、

「そうかぁ? 数馬、冬彦。本当にないか、よく考えてみろ」

 念を押されると、二人とも黙り込んだ。質実剛健、清廉潔白、猪突猛進が身上の山代数馬もしょせんは三羽烏の一羽にすぎない。念を押されて黙り込んだあげくに、

「何やらいわくありげな侍を助けたことがあったが…」

 と言い出した。そうなれば後の一羽も同様である。

「怪しき飴売りが…」

 冬彦が呟いた。もっとも彼はそれには不承知な様子で、

「ですが、それは本当に見掛けた、というだけのことですし、関係ないと思います」

「拙者とてその侍とは名も告げずに別れたのだし、第一、狙われる覚えも道理もないこと故」

「まあ、とにかく…」

 言いながら孝広は、

「よっ」

 と体を起こした。

「あれで終いとも思えぬ。用心するに越したことはないな。あれは容易ならぬ遣い手であったぞ」

「………」

 孝広の言葉にしばし沈黙が続く。

「冬彦、夕べ言うておいただろう? 供をつけておけと。どうした?」

 思い出したように孝広は言った。

「つけておりますよ。仰せの通りにね。後で佐吉がこちらへ迎えにくるはずです」

 冬彦もまた思い出したように、廊下から飛び下り、薪割りを再開しながら答えた。

「ですが、本当に必要があるとお思いですか? この私に」

 肩をすくめる彼の様子は、少年らしい不服の申し立てであった。

「過信致すな、冬彦。まだ打たれたりぬか」

 孝広が口元に皮肉な笑みを浮かべた。

「過信ではございませぬよ。孝広殿は分かっておりません」

「そうは言うても、冬彦」

 困ったように孝広が数馬を見た。

「あの浪人を甘く見るな、あれは相当に遣えるぞ」

 数馬が言った。

「分かって…」

「分かっとらん! 其方などのかなう相手ではないんだぞっ」

「無論ですとも」

 平気な顔で答えた冬彦に数馬は、

一対一(サシ)でなら拙者とて危うかろうに」

 静かな声音でそう続けた。

「これ、数馬」

 そこへたしなめるように孝広が数馬を呼んだ。狙われているのが冬彦とも決められないのに、むやみに脅かす必要はないというのであろう。

 冬彦が表情を変えた。敵の力量を見抜くのも実力のうち、それが見抜けぬのならやはり過信である。

「…数馬殿。分かりました、十分に用心しましょう」

「では、佐吉を供にするよりもっと屈強なのを雇え。伊勢屋の用心棒ならいくらでもなり手はあろう」

「佐吉? ああ先程言うておったな。数馬、知っているのか?」

「ああ。よう働く忠義者だ。年は…冬彦、確か其方と同じ九年の生まれであったな」

 寛旻九年生れといえば、十四である。用心棒には少し頼りないかもしれない。

「佐吉はお(たな)で一番の韋駄天なんですよ」

 足が速ければ刺客に襲われても逃げきれる、証人となり得る、と言うのである。証人とはもちろん自分を殺した下手人のであった。

 ニッ

 と冬彦は笑った。腕も立ち、頭も良く、少し変わった性質(ところ)のある少年だった。

「冬彦、其方なぁ」

 げんなりとした様子で数馬が言い、

「ったく、この阿呆」

 孝広が苦笑した。

「でも、それにしたところで、私にばかり用心棒をつけろというのはやはり不公平ではありませんか。お二方にもつけなされ。ずるいですよ」

「う、それは…」

「あー、ああ…そ、そういえば、先程の騒ぎで珍しく虎太郎がおらなんだな?」

「おお、そうだ! 確かにいなかったわ」

 冬彦の年上の友達は二人して慌てて話題を逸らし始めた。

「佐々木様ですか?」

 仕方ないので冬彦も同意して見せる。

 佐々木虎太郎というのは彼らと同じく朝倉道場に通ってきている者で、大身旗本の跡継ぎ息子である。

 身分的には山代数馬と同程度であり、剣術の方もそこそこには遣う。ただ、町人である冬彦が同じ道場に通っているということがどうにも気に入らず、ことあるごとに難癖をつけてくるのである。

 先程、冬彦をいびっていた三人も佐々木家の家来ばかりで、佐々木虎太郎の腰ぎんちゃくであった。

「うむ。確かにおらなんだぞ」

 孝広がもう一度頷いた。

「そういえば…そうでしたか。昨日の今日。さすがに来づらかったと見えますね」

「うん? 昨日?―――虎太郎がどうかしたのか?」

「え、いえ。別に、何でもありません」

 数馬の問い返しに冬彦がそう答えた。何故なら、本当になんでもないことだったからである。




――――― 5 ―――――


「困ったことをしてくれた、杉坂さん」

 苦り切った様子でそう言い立てたのは、佐々木虎太郎であった。

 イライラと爪を噛んで、『杉坂さん』が返事をせねば、三度でも四度でも同じ台詞を吐いたであろう。

「何が、だ?」

 裏長屋の狭苦しい一室。

 その衝立の向こうから、凄味のある浪人がうなった。三十がらみの薄汚い男で、昨日、孝広達を襲った浪人である。

「とぼけるのはよしにしてもらいましょう、杉坂さん」

 と、佐々木虎太郎はますますイラついた様子でピシャンと言った。

 杉坂はのそりと体を動かし、衝立をわずかばかりずらすと、

「そこで威張っていても始まらん、上がれ」

「………」

 虎太郎は黙って畳に上がり込んだが、陽もろくに射さぬような暗い、ジメジメとした部屋である。二千余石の旗本佐々木家の御嫡男がいるようなところではない。

「困ったことをしてくれたな」

 再び虎太郎が言った。

「あの小僧を始末し損ねたことか?」

 杉坂は酒を飲んでいたらしく、手の中の盃をいたずらに撫で回し、ぺろりと下唇を嘗めた。

「他に何がある!? 一刻も早くと申したであろうに。おかげで冬彦の奴、ますます用心しおるわっ!」

―――ヒヒヒッ   

 不気味な笑声を聞いたような気がして、虎太郎はハッと顔を上げたが、杉坂は相変わらず陰鬱な表情で、まずそうに酒を飲んでいる。

「ふっ」

 今度は本当に笑ったらしい。

「若君には何をお困りになられるのかな。俺がやることに間違いはない。そうと知っておるだろうに」

 杉坂は嘲るように笑った。わざとらしく若君などと呼んでみせる。

「それとも…あのガキに何ぞ弱みでも握られたか。一刻も早く口封じせねばならぬような弱みでも」

 ひゅうひゅうとすき間風をそのかさついた唇から漏らし、杉坂は虎太郎へ無感動な一瞥を投げた。虎太郎はカッとなり、

「貴様は言われたことだけしておればよい!」

 図星を指された格好で、顔面に血をのぼせた。けれど、虎太郎の付き合っている連中のうちで、一番の腕利きがこの杉坂なのである。それ故に今回のこともこの男に声をかけたのだ。

「ああ、ああ。仕事はするさ。黙って見ていろ」

 杉坂の言いぐさに、虎太郎はギリギリと爪を噛み、

「三人を共にしかけるなと忠告したはずであったな。…今度はその必要もなかろう」

 精一杯の皮肉を言うや、

 バシン

 戸を思いっきり叩きつけていった。

 そして杉坂は、

「ふん。人間(ひと)一人、斬ったこともないヒヨッコがっ!!」

 呟いて、

 ベッ

 と、無造作に唾を吐き捨てたのだった。




――――― 6 ―――――


 夕闇が広がり始めた頃。妙蓮寺孝広は、道場で数馬、冬彦と別れ、その姿をとある繁華街の一角に見せた。

 ここは日本堤、別名〈吉原〉とも呼ばれ、江戸一番の………そういうところである。

「弥太公っ!! おい、弥太!」

 声をかける。

 赤い格子の向こうにではない。無粋にも頬傷の。手は懐手の。土地のちんぴらやくざにであった。

「誰でェ!? この俺を…」

 ちんぴらやくざは振り向いて言ったまま、あんぐりと大口を開け放し、

「っで、んでっ」

「ん?」

「っん、ぐっ、てってめえはァ~」

 しぼり出すように言った後、ハアハアと喘いでいる。

「てめえ!! 妙法寺の痩せ浪人がっ、よくも吉原(ナカ)に足踏み入れやぁがったな! ぶっ殺してやる」

 ズチャッ

 と、懐から匕首を取り出した。

「貴様にちょいと、訊きたいことがあってなぁ」

 ちんぴらやくざの抜いた手を、孝広の刀の柄頭がぐいと押さえ付けた。相手はこれだけで身動き一つ取れなくなる。

「くっ」

「浪人者を俺ん所へ差し向けたなぁ、おまえかい?」

 声にも表情にも力む様子などこれっぽっちも現れぬのに、ちんぴらやくざの手首にはギリギリと物凄い圧力が加えられていく。

「くそォ~~」

 もう退くも引くもならない。

「吐けよ、ほれ。吐け、吐け―――吐きゃあがれっ、こォのちんぴらごぼう!」

 ズバリと怒鳴りつけた。

「………」

 男は憎々しげに孝広を睨みつける。

「おまえが最後の心当たりなんだよ。えっ、おい、どうだ? ごぼう野郎がっ!!」

「俺がごぼうだぁ? じゃあ、てめえは何だ、何様のつもりだ、この親なし野郎!」

「な…に…」

 孝広の顔からにこやかさが消えていった。

「へっ、二本も差して、何様のつもりだってんだ、捨て子めが。みょうれんじだと!? 偉っそうに。妙法寺の坊主がてめえ勝手につけた名前ぶら下げて、粋がるんじゃねえや」

 『二本も差して』というのは刀のことで、大刀小刀の〈二本差し〉は侍を表す。

「………」

 今度は孝広が黙り込む番である。男の言っていることは本当のことであった。

 今よりも二十年近く前、上等な産着にくるまれて孝広は、妙法寺の門前に捨てられていた。胸の守り袋にはただ二文字、〈孝広〉と。父の名も、母の名もなかった。

 孝広はこの広い世の中に、ただ一人の存在であり、周りすべてが『他人』だった。彼を拾い上げて育てた叡周(えいしゅう)和尚でさえ例外ではない。和尚自身がどう想っていようと、彼は個人である前に万民に仏の教えを説く僧侶なのだから。

 この世に生を受けた幼子にとって必要なものとは、決して乳ばかりでもなく、産着ばかりでもない。孝広はそれを誰よりもよく知っていた。

 ちんぴらやくざが自由になった右手をわざとらしく揉みながら、

「足抜けは天下の大罪だぁな。お上に沙汰されたくなけりゃ、妓をここへ連れてきやがれ、あーっ!? 聞いてんのか、てめえ!」

 右手首は青黒く腫れ上がっている。

 足抜けというと、女郎屋の抱え女郎を孝広が吉原から盗んだということだ。

「…弥太公。貴様、調べたな?」

 そう呟いた孝広の瞳からは、喧嘩沙汰の最中にすら絶やさなかった人懐こい穏やかさが霧散消失していた。

 孝広の声は静かであったが、殆ど聞き取れぬくらいに低く、その孤独な瞳の色はいっそ悽愴とでも呼べたかもしれない。

 弥太郎の背中を氷塊が滑り落ちていった。

「…バッ、バーロー! んなこたぁ聞いてやしねえ! 戻すのか、戻さねえのかっ、この盗人め」

 それでも、息巻いて見せたのは、愚かしさを通り越して天晴ですらある。青い顔で弥太郎はフンと鼻を鳴らす。

 孝広の表情が変わった。

 一瞬前までの凄惨さは影も形もなく、また元の柔和そうな迫力に変わっていた。

 どちらの顔もこの男の真実には違いあるまいが、一度垣間見た凄まじさに、弥太郎はそれを柔和()()()としか見られなかった。

「ほう? 俺が盗人とはな。足抜けが大罪だと!? では聞くが、労咳病み(現在で言う結核のこと)の妓を店に出すのは、罪にならんのか? なあ…」

 一端、言葉を切ると、

「なあ? 大黒屋ぁ、どうだ!」

 ちんぴらやくざの後ろに向かって声を張り上げた。

「大黒屋の旦那!?」

 と、これはちんぴらやくざ。騒ぎを聞きつけて、件の女郎屋の主人が顔を出したのである。

「大黒屋! おまえにも()()()()()()()聞いておくが、あの浪人を俺ん所へ寄越したのは、おまえじゃあるまい?」

 孝広の穏やか()()()声音に、小太りの女郎屋の主人は薄らいというかのように身を震わせた。

「…ありゃあ、妙蓮寺の旦那、おまえさんに差し上げた妓ですぜ。それをどうなさろうと、旦那のご勝手で…」

「そうか?」

「大黒屋の旦那!」

 孝広が頷くのと、ちんぴらやくざの悲鳴とが同時であった。

「その馬鹿だって何も知っちゃおりません。どうぞ、お放しを」

 吉原で女郎屋(みせ)を張る男にしては卑屈な態度で、ちんぴらやくざはもう一度悲鳴を上げた。

 実は、この男。孝広には以前にもひどい目に遭わされた事がある。

「結局…空振りか」

「へえ。お役に立ちませんで」

「まあ良いわ。大黒屋、妓のついでに、この馬鹿も一つ、もらい受けてよいか?」

 唐突に言い出した。

「へ?…あ、どうぞ、お持ちんなって結構ですよ。包むものもありやせんが、そのままでよけりゃ」

 と即座に大黒屋。風呂敷でもあれば本当に包んでしまいそうなことを言う。

「だんなァ~」

 ちんぴらやくざの半べそ顔を尻目にさっさと行ってしまった。

「そうか…。おまえらでもなかったか」

 孝広は困ったように独りごちた。

「畜生! その間抜け浪人の刺せなかったトドメ、俺が刺してやらぁ」

 ブンッと匕首を振り回すので、中々に危ない。ちんぴらやくざ、半ば自棄である。

「泣くな、泣くな。大黒屋はな、この俺がおまえ以上の気狂いだと、知っているのさ」

 笑うばかりで、孝広はてんで取り合わぬ。振り回す腕をかい潜り、ずいっと顔を近付けて、

「おまえ、おきぬに惚れているな」

 出し抜けに言った。

「っ!?」

「そうだろう? 図星だな」

「てやんでェ、知ったことかよ」

 ぶんっと、また振り回す。

「おきぬは染井にいるぞ」

「てめえの知っ…え?」

「おきぬの生まれた村だ。医者の所で大人しく寝ておる」

「なん? え?」

「弥太郎というのだろう、おまえ? な、そうであろう? おきぬもおかしな女さ。この俺よりも、きんぴらごぼうが好きだとさ」

「…え?」

「弥太郎、おまえも俺がもらい受けた。行っちまえ」

 孝広がシッシッと手を振る。

「行けと言うに」

 渋面の孝広に男は呆然と立ち尽くした。




――――― 7 ―――――


 板張りの床が見える。

「鋭ッ!」

 明かり一つない薄暗い道場で、山代数馬が気合い声を発した。

「エイッ、ヤァ!」

 彼はそうして何時間もただ木刀を振っている。(かね)の入った素振り用の、重たいものである。

 ポツリ

 足元の床が小雨の降りそそいだほどになっても飽くことを知らぬ様子であった。

 道場内には門人達は誰も、孝広も冬彦もすでに引き上げてしまっていて、誰もいなかった。

 ふと数馬の脳裏に孝広の言葉が思い出されてきた。

(狙われる心当たり……先日のいわくありげな侍……飴売り……)

 連想ゲームのように次々と心に浮かんでくる。数馬は雑念を吹き払うように頭を振った。だが、それはますます彼の心の中に大きく広がっていく。

道場の真ん中にたたずんだ数馬は、いつの間にか木刀を振る手をとめていた。

(強かったな、あの男…なのに何故、俺は勝てたのだろう)

 彼は再び木刀を振り上げた。



 先日のことである。町中をいく数馬を不意に呼びとめた声がある。

「あの、もし。あなたは…? あの時はまことに…」

 それは一人の侍。きちんと大小の刀を腰に差し、ずいぶんと身綺麗な形なりをしている。

「おお、御貴殿は…。いや、よい所で会い申した」

 数馬が言うと、侍は深々と頭を下げ、

「先日は危ういところをお助け頂き、まことにもってお礼の申し上げようもございません。また、こちらからお伺い致さねばならぬところを、このような場所で。重ね重ね…」

 中年、と言っては語弊があろう。数馬や孝広よりも大分上らしく見えるが、実際はまだ若いようである。ただ、何やらくたびれたような印象であった。

 この侍がくせ者に襲われていたところを、通りがかった数馬が助けに入るということがあった。その時はあまりにもこの男が大仰に礼を述べたので気恥ずかしくなり、名乗りもせずに立ち去ってしまった。しかし、何やら普通ではない因縁のようなものを感じており、気にはなっていたのである。

「礼などと、無用の気遣いですよ。人として当然の事をしたまで。拙者こそ家も何も告げずに失礼致しました」

 ハハハッ

 と数馬が笑うと、

「ハハハ、左様。お名前もお聞かせ願えませんでしたな」

 青白い顔の侍も少し笑ってみせた。この広い江戸の町で2度も偶然に出会えるというのは、確かに縁があるのだろう。世の中には気の合う奴、合わぬ奴、色々といる。一目で嫌いになる者もおれば、一目で親しむということもある。この二人がそれであった。何とはなしにぴたりと来るものがあった。

「これからどちらへ?…歩きながら話しませぬか」

 数馬に促されて、侍は少し迷惑そうであったが、それでも二人は歩き始めた。

 しばらく歩く頃、

「…では、先日のくせ者、仇討ちの相手と申されるか!?」

 幾ら親しくなったとはいえ、殆ど初対面の相手にこのような話までするというのは、あまりないことである。余程、数馬を気にいった、というより、やはり数馬の人柄であろう。

 人徳とでもいうのか、彼には人を信頼させてしまうような何かがあった。そこが孝広とは違うところである。いつぞやはその孝広が、『此奴の脳天気な面を見ていると、打ち明け話の一つもしたくなっていけねえや』などとひねくれた褒め方をしていたが、数馬とはそういう男なのである。

 そして、この侍もいつの間にやら重大な打ち明け話をしてしまっていた。

 彼のこけた頬や青白い顔を見れば分かるように、仇討ちとは決してきれいごとですむようなものではない。第一、〈仇討ち〉は人に明かさぬもの。どんなことで自分の所在を敵に知られるかもしれぬ。逃げられてしまうならまだ良い。返り討ちに襲われることとてあるだろう。

 もっとも『主家の名だけはどうぞお許し下さい』と、尋ねた数馬にそう言いはしたが。

「しかし、仇と申されるが、先日の男、あれではまるで町人ではないですか」

 数馬には飴売りに見えた。

「左様…彼奴は…卑怯者です」

 どうやら相手は町人に身をやつして逃げ回っているらしい。

「卑怯者。だが、強い」

 数馬の言うように、卑怯と強さはまた別なのである。

「はい。…奴は国許で、道場の師範代にまでなった男でして…実を申せばこれより果たし合いに向かう途中で。貴方にお会いできてよかった。一言のお礼も申し上げぬ内には心残りでした」

「これから!? では、あれからまた捜し当てられたのですな」

 数馬は驚いて声を上げた。この侍に襲い掛かっていた飴売り、数馬が間に入ったことで逃げられてしまい、気になっていたのである。今日ここで仇と聞いてなおさらに申し訳なく思っていた。しかし、侍は、

「いや。彼奴めが逃げるのに厭いたのでござろう」

 と言い、仇から接触があったことを告げた。おそらくは仇として長い間つけまわされるよりもこの侍一人を返り討ちにしてしまえば、ということなのだ。

「では…」

 侍が言った。彼らの道は二股に別れている。

「仇討ち免許状は?」

「ござらぬ」

 何か子細があるらしい。数馬の問いにかえってきっぱりと言い切った。

 仇討ちといえば当時の武家社会の重要な制度の一つである。しかし、そうやたらに免許状を乱発していたわけではない。もちろん父親や夫などが殺害された場合、残された子や妻は仇を討たねば家名を継ぐことさえ許されないのだが、目下の…例えば妻女が殺された場合の仇討ちは認められないことがある。

 そして、免許状がなければ幾ら仇だと言っても、それはただの人殺しに成り下がるのだ。

「そうですか。…よろしい。拙者も及ばずながら助太刀致しましょう」

「は? あの、それでは…」

「いえ、ご助成させて下され」

「しかし…」

「ご無礼は承知。さ、参りましょう」

 侍は何度も遠慮を見せたが、数馬は無理についていった。


 果たし合いの場所はとある草原であった。

 江戸の町は〈東京〉に比べて、かなり狭い。現代は都内とされている所も、当時は郊外、江戸の外だったのである。だから、少し道を外れただけで、こうしたうってつけの場所が幾らでもあった。

 草の原を渡る風にしばらく吹かれていると、数馬達の前に一人の男が現れた。

 姿勢すがたのよい壮年の侍。鋭すぎる眼光が気にいらぬ。今日は飴売りの格好をしていなかった。

「自然流、沢田左内! いざ、尋常に勝負!!」

 数馬の横の侍、沢田左内が名乗りを上げると数馬も、朗と宣した。

「儀によって助太刀致す」

 そして壮年の侍が、

「自然流、黒田孫兵衛」

 同じく名乗り、

「いざ」

「いざ」

 と、事は始まった。

「りゃりゃりゃ、りゃあー」

 気合い声を発して、沢田左内が打ちかかる。へっぴり腰とまではいかないが、あまり剣術は得手ではないらしい。数馬の助太刀がなければ、返り討ちは免れまい。

 キンッ

 黒田孫兵衛の沢田左内に斬りかかる剣を受けとめて数馬は、

「でやぁ!!」

 得意の三段突きを繰り出した。一突き目で相手の頬を掠め、二突き目で目の眩んだ奴の肩を浮かし、三突き目は喉元へ。

「う…?」

 ところが、これが躱されて、数馬は意外そうに片眉を持ち上げた。何故に躱されたのか、己に得心がゆかぬ。

「エイッ」

 黒田孫兵衛の振り下ろす剣に、すんでの所で斬られそうになり、数馬は顔色を変えた。沢田左内の気付かわしげな視線も気になるし、先程までは涼やかに感じていた風も肌寒さが気になってきた。


 とはいえ、もしこの場に孝広なり冬彦なりが居合わせたならば、数馬の戸惑いを一笑に付したであろう。数馬は朝倉道場にては両の指に入る程の腕で、彼に勝てるのは何人かの高弟の方々と、おそらくは朝倉友晋の一人娘・志保だけである(彼女の場合、勝因はその腕前にあるのでは無かったが)。五分で孝広、それぐらいのものだ。彼らは本気にさえしないに違いない。


そしてそれは―――


紛れもない事実としてこの場に示されたのだった。何故ならその数秒後には、数馬があっさりと黒田孫兵衛に一太刀浴びせていたのだから。

修練が理屈に変わらず、数馬は自分でも何が何やら分からない。

わからないままに黒田孫兵衛の腕をつかみ取り、

「さ、今です」

 と声をかけていた。

「う…お、おもよの仇、覚悟!」

 必死の形相で沢田左内は、剣を、身体ごと黒田孫兵衛にぶち当てたのだ。

「お見事」

 呟いて数馬は顔をしかめた。頬を少し斬られていたらしい。薄く血が滲んだ。

「ありがとうございます。あり…」

 沢田左内は言ったきり口を噤み、肩を震わせ…国を出て三年であった。

「お立ち下さい。さっ」

 数馬の声に、沢田左内はやっと頭を上げた。

「これでようやくに、ようやくに侍を捨てられまする」

「え、では、ご帰参は…?」

 問われて沢田左内は首を横にした。

「帰れませぬ。いえ、元より帰るつもりもございませぬ」

「江戸へおとどまりになるか」

「はい。生き馬の眼を抜く江戸も、今の拙者には郷里よりも暮らしようございます。貴方のよう…あっ、これは!? ご無礼つかまつった」

「?」

「お名前を伺うてございませぬ。命の恩人である御方に、何とご無礼な」

 数馬はこの言葉に大いに照れて、

「命の恩人とはまた大仰な」

「いえ、まことに。黒田は自然流の遣い手、それをいとも簡単にあしろうて下さりました。返り討ちも覚悟で臨んだこの場に、拙者が生き残れたのは貴方のお陰です。どうか、お名前をお聞かせ下さい」

 沢田左内が拝まんばかりにして言ったものだから、数馬は困ったように、

「同じ江戸においでになるなら、またいつかお会いする折りもありましょう。御免」

 慌てて言って、数馬は足速にその場を立ち去った。



それが昨日のことである。

しかしながら数馬は、その出来事そのものよりも、自分の得意技がかわされたこと、にもかかわらず勝てたことだけにただ思いを巡らせていた。

「エイッ、ヤァ!」

数馬は道場の床に汗のしずくを滴らせながら、雑念を払うようにただ黙々と木刀を振り下ろした。




――――― 8 ―――――


 角を曲がった。

 浪人剣客、杉坂又十郎である。

 杉坂は親代々の浪人者で、その父に死に別れ、その母に生き別れ、己の一剣を頼りに江戸へ出て…彼が金銭で人を(あや)めるようになるまで、そう長くはかからなかった。

「何処まで行く気だ、小僧め」

 杉坂の前方を少年が二人、歩んでいる。きゃらきゃらと小犬がじゃれるようにして歩いていた。

「チッ」

 舌打ちしてから、再びつけ始める。

 てくてく、てくてく

 何処までといって、家までだ。

 冬彦は普段は道場近くの父親の隠居所、伊勢屋の別邸に住み暮らしていたが、時折、日本橋のお店の方へ行くこともある。

 今日がその日であった。それ故、いつもよりもいささか早めだが、朝倉友晋にいとまを告げて帰途についている。

 冬彦が帰る時には、孝広はとっくに姿をくらましていたし、数馬はまだ熱心に木刀を振っていた。

 彼は迎えにきた佐吉とともに家までの道程を慣れた足取りで歩いている。

 ヂィッ

 鳥の声にしてはいやに鋭い声だった。

(蝉…か?)

「や、如何になんでも早すぎるな」

 杉坂がぽつりと呟いた。独り言は彼の習癖である。

「しかし、大したガキだ。ふっ…ふふふ」

 一人で含み笑い。通りすがりの町人が気味悪そうにしていった。

 先を歩く少年が、今回の彼の標的である。

 少年の名は冬彦、日本橋の大店伊勢屋の末弟である。上の兄とは大分に年齢が離れており、冬彦はまだ弱年であったが父親はすでに隠居の身で、店を長男に任せてあった。そのせいか、冬彦は大人達から目の中に入れても痛くないという程、可愛がられていた。普段は朝倉道場の近くに建てられた隠居所の父母と共に暮らしているのだが、月に何度か父の使いがてら兄達に顔を見せにいく。

 後をつける杉坂には期せずして好機となった。しかし、冬彦もさすがに油断していない。杉坂に襲撃されたのはつい昨日のことである。冬彦はお供の少年とふざけ合いながら、その身のこなしに一分の隙もないのである。

 チィー、チチチッ

 先程、杉坂が蝉と取り違えた野鳥がバタバタと近くの梢に降り立った。

 空は何処までも青く澄み、雲は胡散臭いまでに白く輝き、人の通りもやんでいた。

(よし…)

 心中で呟いた杉坂の足が急激に歩を速めた時、冬彦の気が殺気にまで膨れ上がった。

「ぬっ!?」

 杉坂が慌てて飛び退しさる。気付かれた筈はない。もちろん、そうだ。

「ウォーッ!」

 気合い声を発して斬りかかったのは、杉坂ではなかった。冬彦の小さな身体めがけて、ならず者共が喰らいつく。

「佐吉っ、お逃げ!」

 その声が杉坂の耳にも届いた。仰天したのは、佐吉と呼ばれた伊勢屋の丁稚である。

 襲い掛かってきたのは五・六人の薄汚いごろつき達で、浪人もいればやくざ者もいる。

「佐吉、お役人を呼んどいで!」

 タタタッ  

 と、少年の一人が駆けていった。駿足自慢だけあって、見事な走りっぷりである。

「ちっ」

 駆けていく少年に手を伸ばしかけたごろつきは、

 ドシュッ

 冬彦の手から投げ放たれた飛礫(つぶて)に顔面を強打され、

「うぎゃあ!」

 地面を転げた。

 手裏剣投げも相当の腕である。

(そういや、何やら小石を拾うていたな)

 遠くの物陰で杉坂は一人頷いた。

 彼は、自分の標的に襲いかかるごろつきどもの一人に見覚えがあった。彼の雇主である佐々木虎太郎の、やはり自分と同じ手駒の一人である。虎太郎は彼らを使って、これまでにもずいぶんと色々な真似をしている筈である。

「ぐうっ」

 冬彦がその悪漢の一刀を腕に受け、思わず声を漏らす。

 朝倉友晋から養子にまでと望まれている冬彦。確かによく戦ってはいたが、まだまだ未熟の上に如何せん六対一である。

 杉坂は心密かに冬彦の勝ちを願った。どちらに助太刀するつもりもないが、

(あれは俺の獲物だ)

 との思いが強くある。けれど、雇主への腹立ちを胸に杉坂がその場を去りかけたのは、冬彦の負けが予想されたからである。少年の受けた傷は右、利き腕であった。

 と、

 ピィーッ

 鳥の声ではない。無論、蝉でも。

(呼び子…役人か)

 杉坂はそれを認めると、今度こそふいっと立ち去った。

 そして、黙々としばらく歩く内に此奴、初めの頃こそムカムカと佐々木虎太郎に腹を立て気を腐らせていたが、

 ふっ、ふふ、くくく   

 途中から何故かひどく嬉しげであった。

(あの小僧…)

「ふふふ」

 冬彦とあのごろつき連中、もし一対一で遣やり合っていたならば、間違いなく冬彦が生き残っていたであろう。

「面白い」

 小さからぬ声で独り言を呟く。彼にはこんな事が面白いのだ。

 また笑った。

「スリだっ!」

 その時、急に人の声が聞こえた。人通りの少ないこの道だが、一本向こうは結構、賑わう。若い男(おそらく、スリ)が向こうの道から杉坂の方へ駆け足でやってくるところであった。

「そいつを捕まえとくれ!」

 追いかけているのは小太りの中年男。金はあっても、体力はなさそうである。追いつくまい。

 スリは杉坂の身体を突き飛ばすようにして逃げていった。

…一、二、三… 

 きっかり三瞬後、

「ヒッ、ギャーッ!!」

 スリの悲鳴が上がる。

 ポーン

 と財布を握り締めたまま、スリの右手が宙を跳び、それが杉坂の足元にどさりと落ちてくるまでの間に、

「………」

 スリは白目を剥いて倒れ伏した。

 杉坂にぶち当たっておいて、詫び一つ入れぬのが悪かった。スリには一生一度の不覚であったろう。

「はひっ…はっ、あひがと、ございまふ」

 中年男がようやくに駆けてきて言った。多少、動転しているようである。杉坂は不快そうに眉をひそめて、その持ち主達を眺めた。一人は半分くらい死んでいたし、もう一人は顔と態度が不快だった。

「有難うございます。あの、お名前は?」

 何処かの大店の主人であろうが、でっぷりと肥えた肉に贅沢な絹をまとっている。汗にまみれてテラテラと光る脂ぎった顔も走ってきたために荒い息がこちらに掛かりそうなことも、杉坂には何もかもが不快だった。

「お礼を…些少ではございますが…」

 ずっしり重い財布から本当に些少の金子(きんす)を取り出して中年男は、

「へぐゥ」

 断末魔の叫びも短く、杉坂の手から伸びた一筋の光芒に、脳天をかち割られていた。

「ふん」

 これで少しは気も晴れたとばかりに鼻の先で嘲るや、べっと唾を吐き捨てる。

 一本向こうの通りには人の賑わいも聞こえるというのに、実に悠然としたものだった。

(血が…)

「む、汚い」

 つかつかと用水桶に近付き、水桶に袖を突っ込む。じゃぶじゃぶと洗い続け、

「…落ちぬな」

 天そらは青く、蒼く、碧く、何処までも澄み渡り、雲は眩いばかりに白かった。

 薄紅色の飛沫が道の端に細い流れを刻む。 傍らには一人と半分の死骸。

 異様な光景であるという他なかった。




――――― 9 ―――――


「何だ。数馬はまだやっておるのか?」

 自室で寛いでいた朝倉友晋が、住込みの高弟に言った。

「はぁ」

 と高弟が苦笑顔で頷く。

「誰しも一度はああして壁にぶつかるものですが、数馬殿は…その、熱心ですな」

 言葉を選び選び答えたのへ、

「彼奴はガチガチじゃからな」

 師匠は身も蓋もなく言って、片目をつぶってみせた。

「ふむ」

夕餉の膳から杯を取り上げながら朝倉友晋、

「…今宵は数馬に相手をさせるとしようか。ちと、呼んで参れ」

 しばらくして、廊下の向こうからハタハタと足音が聞こえ、数馬が顔を出した。

「先生。お相伴に預からせて頂けるそうで」

 二人で膳を並べる。師弟でさしつさされつ、給仕にきた娘の志保も邪魔だといって追い返された。

 数馬が箸を漬物の鉢に伸ばし、中途でとめて、焼き魚をつついた。

「………」

 そして、汁碗を持ち上げて、飲まずに下ろし、漬物を口に運んだ。

 朝倉友晋は黙念と、杯を唇に当てたまま数馬を眺めて、とうとう、

「それ、またじゃ。…此奴、箸まで迷うておるわ」

「は?」

 言われて数馬、初めてそれに気付いた様子で、

「はっ、あ、いや…」

 慌てて箸を下げる。

「クックッ」

 こらえ切れずに朝倉友晋、

(まったく、此奴ときたら…)

 迷った時には本当に迷ったような顔をするのが、可笑しい。その生真面目さに、思わず笑みが込み上げた。

「数馬」

 それでも精一杯真面目な顔を作り、

「数馬、千本も振ってみい。型を百遍もつこうてみい。それで解けねばもう千本、もう百遍じゃ」

 笑いをごまかし、ずずっと音を立てて酒を啜り込む。

 すると、数馬は雲の晴れたような面持ちで、

「は…はいっ!」

 大声で言った。その声に耳を押さえながらの朝倉の哄笑もしばらくはやまなかった。

 その師匠がふと、

「…何じゃ?」

 障子の外へ声をかけるのと、

「数馬様」

 朝倉の一人娘、志保がスッと障子に手をかけたのが同時であった。この娘もこれでいっぱしの女剣士である。力量の程は、冬彦には勝てぬながらも、何故だか数馬には勝ててしまうというくらいであるから、中々どうして大したものである。

「数馬様、冬彦殿のところの…伊勢屋の手代が参っておりますが?」

「何、伊勢屋の!?」

 はたと数馬が膝を打ち、

「はい。何やらひどく取り乱しておりますようで…」

「何、取り乱して!?」

「はい」

 志保の返事を聞いて数馬は、朝倉への挨拶もそこそこに、腰を浮かした。

 それに向かい、

「またか。おまえら、今度は一体、何をやらかしたのだ」

 と朝倉友晋が呟いたかどうか、数馬には知る由もなかった




――――― 10 ―――――


「おたみ、もう一本」

 妙法寺の広い庭の片隅に建てられた離れ屋で、孝広は空になった徳利を振っていた。

「まぁだ飲むつもりですか? 孝広様。およしなさいませ。そんな赤いお顔なさって…」

 答えた少女は、年の頃なら十三・四。可愛らしい顔立ちの娘である。

「これ、おたみ。そんな意地悪を言うものではないぞ。おまえの作る肴が旨すぎて、酒もすすむのだ」

 少女の名はおたみと言った。幼い時に火事で焼け出され、両親も亡くし、孝広と同じく妙法寺の叡周和尚に拾われたのである。

 孝広は、ともに親無し子として育ったこの娘を妹のように想っていた。

「仕方ありませんねえ。でも、これでお終いですからね」

 おたみはまるで年上のような口利きで、さっさと熱燗を縁台の孝広の所へ運んできた。

 最初から用意してあるのだ。

「………」

 孝広が酒を飲む横で、おたみは縫い物をした。小さな手をせっせと動かし、細々とした世話をしに毎日、通ってきてくれるのである。

「おたみ」

 不意に孝広が声をかけ、おたみは顔を上げた。

「…誰か来たようだぞ」

 言われて耳を澄ますと、

「御免」

 成程、人の声がする。慌てて玄関へ立った。

「孝広様っ、数馬様ですよォ」

 まだまだ少女(こども)らしい様子の大声である。

「おお、上がれ、上がれ」

 と孝広。それに応えて、数馬がずかずかと上がり込んできた。

「大分、飲んでいるな」

 何故か咎めるように言う。

「飲んで悪いか。何だ、怖い顔で…見ろ、あれを」

 スーッと舞いを舞うように手を縁側から表へ差し出した。

 見れば、一面の桜である。

桜花(はな)も今宵で終わりだ」

 孝広の言葉通り、風の吹く今夕ですべて散るだろう。妙法寺の桜木、ざっと二百本。孝広の離れから一望にできる。

 寺には桜が似合う。桜には何処か不可思議で妖しげな雰囲気があって、染井吉野などが群生している様は、空気そのものが淡い桜色に煙って、まるで幽玄世界に迷い込んだかのようである。

 生憎と妙法寺の桜は八重が主であったが、これは染井吉野よりも色が濃く、それが二百本ともなれば、これはもう見事という他ないであろう。

「桜花どころではないぞ、孝広」

「無粋な奴だな。どうした、数馬。何ぞ…志保殿に噛みつかれでもしたか?」

 孝広のしゃあしゃあとした台詞に、数馬はきょとんとなったが、一瞬後、

「ばっ!」

 ボウッと耳まで赤くして、

「俺とっ、志保殿はっ、そんなんじゃない!」

 怒鳴り立てた。そこへ、

「…誰が、何に噛みつかれたんですって?」

 おたみである。数馬の杯などを用意してやってきた。いつの間にやら、肴も増えている。数馬はなおさらに赤くなった。

 孝広がムッと大仰に顔をしかめ、

「こどもには関係のない話だ。あっちへ行っていろ」

「あたし、子供じゃないもん」

 ぷっとおたみが膨れる。

「ほれほれ、それが子供だと言うのだ。ああ、もう良いから、向こうへ行っていろよ」

 邪険な事を言うので、ますます角を出す。つんと頭をそびやかし、口も利かずに出ていった。

「後で送ってゆくから、帰るなよ」

 その背中を孝広の声が追いかけると、

「一人で帰れます、もう子供じゃありませんからっ!!」

「クスッ」

 と孝広、思わず忍び笑い。

「送ってやる。帰るなよ!」

 再び声をかけてから、孝広はようやく数馬の方へ顔を向けた。こちらもかなり怒っている様子だ。血の色を薄く頬へ上せて、孝広を睨んでいる。

「怒るな、数馬」

「怒りたくもなるわっ、この一大じ…」

「分かっている」

「!?」

「おたみの奴、このところ妙に聞きたがってな。…何があった?」

 数馬はかすかに頷くと、

「冬彦がやられた。あ、おいっ!? 慌てるな」

 大刀をわし掴んで立ち上がりかけた孝広を制してから、

「かすり傷だと言うていた。伊勢屋の使いがな。まあ、聞け。冬彦の口上だ。『まずはお見舞いご無用に』と。言うとくが口上通りだぞ。『これではっきりしたようですね』とさ」

「あの…阿呆ぅ」

 と孝広が苦々しげに呟いた。

 それから二人はおよそ半刻程もぼそぼそとやって、数馬は帰っていった。

「おたみ、おたみ、数馬が帰る。ついでに送って貰え」

 おたみはまだ膨れていたものの、それでも折角、送ってくれるというのを断る理由もなかった。

「もう暗い。やはり送ってゆこう」

 数馬の台詞におたみは素直に従い、

「有難うございます。…あの、数馬様?」

「うん? 何だ?」

「孝広様…ううん、お二人とも、変じゃありませんか?」

 彼女の台詞に数馬は黙った。おたみのよく気のつくことに、実のところ些か感心したのである。

「あたし一人で帰してくれなかったり、じっと考え事をしていたり」

「そう、か? だが、いくら孝広とて時にはもの思うこともあろう。そうおかしなことではあるまい」

 と結構、ひどいことを言う。

「でもっ…そう…そうですか」

 何か言いかけたおたみは、それ以上を言葉にしなかった。

 暗い夜道、数馬はおたみを送っていった。




――――― 11 ―――――


 翌朝。

 日本橋、伊勢屋・奥の間。

「もう大丈夫だ。大した傷じゃないのだから、そう世話を焼かなくてもいいよ」

 冬彦が、老いた女中の過ぎる愛情に辟易しているところであった。

「うんにゃ、駄目だァ。わだしゃ、旦那様方から、くれぐれも気を付けてくれろと、言われとりますけん。したっけ、坊っちゃんもゆうるりと養生しなすって、はァ」

 老女中の言葉を、『ああ、ああ』と生返事でかわしている冬彦の耳に、

「まっ」

「あれ、いけません」

 遠くの方で立ち騒ぐような物音が聞こえた。

「何の騒ぎだい?」

「さあてェ、何だべか」

 言ったところへ、

「冬彦っ!」

 孝広であった。後ろから数馬が追ってきている。

「坊っちゃんはお休みになってらっしゃいますと申し上げましたのに…」

 そのまた後ろから、伊勢屋の女中達がぷりぷりと言った。拗ねたように見上げる彼女達に普段は孝広、人気がある。

「孝…広…殿…」

 途端に冬彦は、夜着を頭から引き被り、恐る恐る、

「お見舞い無用と申し上げたじゃありませんかぁ」

「だぁ~れが見舞いに来ただとォ!?」

「まあ、孝広。相手は怪我人だ」

 いつもと反対、今日は珍しく数馬が仲裁役である。

 ボコン

 布団の上から、冬彦がいるだろうと思われる辺りを、剣の鞘で軽くぶっ叩き、

「これ、この坊主。懲りたかよ」

 ボコン、ボン

 孝広は軽々と振り回すが、真剣というのは鉄の塊だ。案外、重いものである。分厚い綿布団の上からとはいえ、さぞ痛かろう。

「イタッ!! そこっ、傷があるんですよ」

「あれ!? 坊っちゃんに何なさるだね!?」

 老女中が割って入るのを、

「あ、おさき。俺、濃ぉく淹れた茶と〈玉屋の落雁〉な」

「へっ? へえ…只今」

 と孝広、体よく追い払った。

「よく聞け、冬彦」

 孝広がパクリと落雁を口中で溶ろかしながら言った。麦の粉を白砂糖で練って作ったこの菓子は、見掛けよりも存外、美味である。彼の好物であった。

「確かに、おまえは筋が良い」

 珍しく孝広が弟分を褒めた。

「俺よりも、数馬よりもな」

 褒めすぎかとも思えるが、それでも孝広は真実を語っているのである。だからこそ、彼らの師である朝倉友晋が度々、冬彦を養子にと望んでいるのだ。どうやら道場の跡継ぎに据えるつもりであるらしい。

 冬彦の素質は実のところそれ程のものだった。

「………」

 だが、その少年も今は布団の中でもぞもぞとやっているばかりである。

「道場でやりあったのなら、俺から一本取っていくこともあるだろう。だがな、筋の良いのと強いのとは違うのだ。そして、強いのと勝つことも、また。真剣でやったなら…人の一人も斬ったことのないおまえなぞ、俺や数馬の足元にも及ばぬわ」

 計らずも、それは杉坂が虎太郎に言ったと同じ台詞であった。

 それでも、孝広は決して冬彦をなじっているのではない。

 何とはなれば、冬彦はまだ十四。戦国の世ならいざしらずこの太平の時代に、十四で初陣は早すぎる。ただ、その自己過信を戒めているのである。

「そうと…分かってるんだろう、冬彦」

 布団がもそっと動いて、中で頷いた気配がした。

「分かったなら出てこい、暑苦しい。出てきて話を聞かせぬか」

 笑って見ていた数馬が夜着をめくると、目の縁を赤く染めて冬彦、

「昨日の事です」

 口を開いた。

「昨日、用事がありまして、ここへ来る途中でした。五・六人? いましたか。先日の浪人者とはまた別の奴らで…浪人もおれば、町人…やくざ者でしょうね、それもおりました。佐吉が自身番に居合わせたお役人を呼んでくるのが今一歩遅かったのなら、これぐらいでは済まなかったでしょう」

 着物の袖を抜いて見せる。右腕に白い晒が幾重にも巻き付けてあった。

 自身番というのは地主自身で番をするというその名の通り、現在の交番とはその根本からして違う。地主が番に詰めているのが本来の形であるが、大抵の場合は人を雇って番小屋に詰めさせている。これらの一切の費用は町内で賄われており、奉行所の役人達も市中巡回の途中などに立ち寄りはするが、決して彼らのための施設ではなかった。

 つまり、役人がいない場合がほとんどだということである。

「利き腕か。油断したな?」

 ぼそっと孝広が呟くと、弟分は『すみません』と小さくなった。

「しかし、これではっきりしたな。標的は冬彦だ」

 と数馬が断定した。いくら冬彦が敵を作りやすい性格だとて、あちらからもこちらからも狙われるわけはあるまいと言うのだ。

「…其方、本当に覚えはないのか」

「さて、そのことですが…」

「やはりあるのか」

「あの日の昼のことなんです」

 あの日というのは、妙法寺の裏手の坂道で三人が刺客に襲われた日のことである。

「時日は合うな。だが、何故に黙っていた」

 孝広が呟いて、先を促す。

「大したことじゃないと思いましたし、他人の醜聞を言い散らすようで気が進みませんでしたので」

「ほう、醜聞とは。誰のだ?」

「ええっとォ、佐々木様です」

 冬彦が答えるのに、数馬はすぐさま、

「まさか。あれは抜け目のない男だ。奴が其方に弱みを見せたとは思えぬが」

「数馬、佐々木とはどこの佐々木だ?」

「はぁ?」

 数馬が呆れたように孝広を見やってから、

「虎太郎だっ、佐々木虎太郎!!」

 と言った。

「ああ、虎か。数馬が抜け目のない、などと申す故分からなかったのだ」

「だが、そうであろう?」

「ふん。あの虎太郎がか?」

「虎太郎の剣は、孝広、おまえほどではないが十分遣えるぞ」

 数馬の台詞に孝広は、もう一度嘲笑うと、

「しかし、奴は俺達と一度も立ち合うたことがないではないか。それとも、おまえ達、虎太郎と立ち合うたことがあるか?」

 孝広の問いに数馬は首を横にし、冬彦は、

「入門当初に何度か…私が勝って以来は一度も…」

 と言った。

「それみろ」

「何を言うか。それ故、奴は弱みなど見せぬというのだ。絶対に人前でしくじらぬ」

「違うな、そんな上等なものではない。奴は負けず嫌いなのさ」

「負けず嫌い!?…それこそ買いかぶりではないか」

「まあ、聞け。負けず嫌いにも色々ある。一つはおまえや冬彦のようなのを言う」

「悪かったな」

 ぼそりと数馬が茶々を入れた。

「そして一つは、負けも負けだが、負けたのを他人に見られるのが嫌だというものだ。虎太郎はそれだよ」

「そうさ、弱みを見せぬ抜け目のな…」

「馬鹿な。負けずしてどうして上達がかなうのだ。おまえとて冬彦とて、そうしてきた筈。それ故、虎太郎は伸びぬのだ」

「………」

 数馬が黙り込んだ。

「やあ、孝広殿、さすがですねえ」

 急に冬彦が場違いな嘆声を上げた。

「私なぞは佐々木様をそんな風に思ったことなどありませんでしたよ。旗本の道楽息子、権力を嵩にきての空威張り、まったくのうすのろだとそんな風にしか思ってませんでしたから」

「「………」」

「…でっ?あれが何だって?」

 冬彦の言いぐさに孝広は、力なく話を元に戻した。

「はい、実は…」

 と冬彦が話し出したのは次のようなものであった。




――――― 12 ―――――


 江戸の真中、日本橋。その橋の、そのまた中央にて、

「むっ、無礼な!」

 居丈高な怒声に人々が首を巡らすと、

「武士の面体に貴様っ!!」

 侍である。怒声の主は一人の若侍で、それを向けた相手は隣りを通っていった飴売りらしい。

「おい、何とか言わぬか」

 侍は一人ではなかった。身なりのよい何処ぞの名家の子弟とでもいったような男。年の頃なら二十といくつか、いかにも坊っちゃん坊っちゃんしたその侍と、

「若に土下座してお詫びせぬか」

 その子分が二人ほどである。もちろん、侍で、どれも赤い顔をしている。いささか酒気を帯びているらしかった。

 事の起こりは、飴売りの商売道具。あっちへこっちへ長く延びた様々な動物の形をした飴、その内の一本が若侍の小鬢をひっかいたところにある。それだけのことを大仰に言い立てているのだ。百姓・町人の模範となるべき武士が、たかだかそれしきのことに…。

 また、飴売りも飴売りですぐにペコリとやってしまえばよいものをただ無言で若侍を睨みつけている。壮年の、飴売りというには少々体格のよすぎる感もあるが、身形は確かに見紛いようがなかった。

「謝れ! さあ、手をつかぬか」

 口惜しいが仕方がない、飴売りが土下座をすれば済むだろう、と集まった見物の中で、一人、冬彦が軽く溜息を吐いた。

(あの方も、このような場所では大したこともなさいますまい)

 若侍を見知っていたからである。もちろん、冬彦の考え通りに事は済む。侍達の方とてそれで済ませるつもりであった。手をつかせ、二・三発も殴れば気は晴れよう、と。

 ところが、その飴売り。見物人の心配もよそに、若侍をもう一度ギッと睨みつけ、そのままスタスタと行き過ぎようとしたのである。

「きっ、きっ、キキ、キッ貴様!」

 きれいに撫で付けた髪を浪人のように乱された上に、飴売りの人を小馬鹿にした態度。武士の意気地にかけても許されぬ。

―――酒の勢いもあったろう。

「下郎、そこへなおれ」

 ズラリと刀を抜いてしまった。抜いてしまったことが、さらに彼の興奮をあおる。

「若っ!?」

「いけません。ここは、ここは我らに」

 供の侍達がさすがに慌てて、

「待て、おい!!」

 飴売りを追った。町人とも思えぬ姿勢(すがた)のよい男は一瞬、逃げる素振りを見せたが、足をとめた。

「………」

 まだ口を利かぬ。顔の色も変えずに、侍達が彼を捕らえるに任せておく。

「あ!?」

「げっ!!」

 その時、何が起きたのか、誰にも分からなかった。

 飴売りは橋の上に立っている。

 そして、二人の侍は何処にも…

「あぷっ、おっぷ…た、助け…」

 川の中だった。一人は川の中へ叩きこまれ、いま一人もはじき飛ばされて欄干にかろうじてへばりついていた。

(いつの間に…見事)

 冬彦がそんな呟きをもらし、見物人達からはやんやと拍手がわき起こった。

「くそっ」

 残された若侍が飴売りに猛然と斬りかかるが、これもあっけなく投げ飛ばす。

「うぐ~」

 若侍が凶暴な目付きで唸った時、

「もうおやめ下さい、佐々木様」

 冬彦はとうとう声をかけてしまった。

「あっ、だ、ふゆ…」

 佐々木虎太郎であった。彼は目を白黒させて蒼白になり、次の瞬間にはカーッとそれまで以上に顔から耳から頭から真っ赤に血をのぼせた。

(失態だ)

 失態である。酒に酔って町人に絡んだだけでも恥ずべきものを、下郎のように投げられて泥にまみれ、それをよりによって…

「お家の名に傷がつきましょうぞ」

 虎太郎は人垣の中から進み出てくる冬彦の、不遜な言動を咎めることも忘れ、一目散に逃げ出していた。

「見ろよ、あれ」

「へっ、みっともねえ」

 聞こえぬとなると強気の見物人も、後難を恐れてか、その内にパラパラと解散していった。

「大丈夫ですか? 申し訳ありません。代わってお詫び致します。…けれど、見事なお腕前で…」

 冬彦は口を閉じた。

「あの?」

 飴売りの双眸に殺気がみなぎっている。

「………」

「あ、お待ちを」

 飴売りは黙って去っていった。




――――― 13 ―――――


 これが一昨日のことであった。

「話は分かった。だが…それしきのことで刺客などを送って寄越すものか?」

 数馬が言うと、布団の上に起き上がっていた冬彦も、

「そうなんですけどね」

 と首を傾げる。

「それよりも、話に出てきた飴売りの方がよほど怪しげだ」

「私もそう思いました。ですが、そちらとは本当に通りすがりで何処のどなたともわかりませんもの。もちろん、あちらとて同じことです」

 冬彦の説明に数馬は、

「そうか…。孝広っ、今の話、おまえはどう思う?」

 と孝広に問いかけた。孝広は黙っていたが、しばらくして、

「それしきのことと申したな、数馬」

 逆に数馬に問い返す。

「ああ。言うたが…」

「では、おまえと冬彦の申す『それしきのこと』とはどのようなことだ。言うてみよ」

「何?」

 要領を得ないといった顔で数馬が呟く。

「数馬。冬彦に答えてやれ。もし、おまえが酒に酔うたあげく、飴売りに因縁をつけ…」

「拙者はそのような…」

「もし、だ。飴売りに因縁をつけ、果ては其奴に下郎のように投げ飛ばされたとする…もしだというのに…それを己の身分姓名をよく知る、ついでに己が毎日毎日いびっていた小僧に見られたとしよう。その小僧が己の醜態を声高に言いふらしたとしたら、どうなる? 数馬。冬彦に答えてやれ」

「………」

「数馬殿?」

 黙ってしまった数馬を、冬彦が促した。

「よくて謹慎。悪くすれば廃嫡、か」

 と数馬はゆっくりと口にした。

「そんなことって…」

「虎太郎の家は二千五百石の大身故に、な」

 孝広がそう言って頷いた。頷いてから落雁をもう一かけ口に放り込む。

「吹聴しようなどと思いもしませんものを」

 冬彦が呟く。

「まったく迷惑な話だ。ありもしないことを自分勝手に恐れて、あげく刺客を送ってよこすなど…」

「そりゃ仕方あるまい。己のものさしだけで他人を見ているのだもの、彼奴は。かえって冬彦がゆすりでもかけてやった方がよほど安堵致したかもしれぬよ」

 孝広のこの台詞に、冬彦はムッと眉根を寄せて、

「はばかりながらこの伊勢屋の冬彦、小遣い銭に困ったことなどございませぬよ」

 と、妙なところで威張ってみせた。




――――― 14 ―――――


 三河以来続いた家柄である佐々木家の嫡男、佐々木虎太郎ははなはだしく不機嫌な様子で部屋にこもっていた。

(畜生! あのガキめがっ)

 虎太郎は立ち上がり、また座り込んでから、再び立ち上がった。

(邪魔な山代や妙蓮寺もおらなんだというのに…何処までも命冥加な奴)

 立ち上がってうろうろと歩き回り、脇息(きょうそく)を蹴り飛ばす。

 虎太郎は、冬彦が彼の醜態を吹聴して回らぬ内になんとしても口を封じねばならぬと思い定めていた。そのために杉坂も雇ったし、他のちんぴらも何人か雇った。だが、それらが二度とも失敗に終わり、彼は焦っていた。

 爪を噛みながら考え込んでいた虎太郎だが、冬彦の前で己の醜態をさらした時のことを思い出して、カッと頬を染めた。

(酔うてさえいなければ、あんな飴売り、あんなガキ、あんなガ…畜生っ、冬彦め!)

 確かにこの男も酔ってなどいなければ飴売りごときに遅れを取りはしなかったろう。ただし、素面で立ち合って、朝倉道場三羽烏の一人である冬彦に勝てるかどうかは…

 冬彦には冬彦の見解があろうし、虎太郎にも虎太郎の見解がある。だが、それでも両者の年齢を比べてみると、やはり、

(畜生!!)

 なのである。

 ふと、虎太郎の面上に陰湿な笑みが広がった。

(あの小僧の運がどれほど強かろうとも、杉坂にはかなわぬわ。ふんっ、ざまをみろ)

 杉坂は虎太郎が悪仲間に連れられて行った博打場で知り合った浪人である。薄気味の悪い得体の知れぬ男だが、腕の方は確かだった。一度は失敗したものの、あの男ならば間違いなく冬彦を始末してくれるであろうと、虎太郎はにんまりとほくそえんだ。


「…ほれ、ごらんなされませ、奥方様。まあ、ほんにご利発な」

 突然、障子を隔てた庭の方からそんな声が虎太郎の耳に入った。

 彼は音を立てずに障子を引きあけた。

 障子を開けると廊下が続き、その向こうは庭である。庭の奥では植木職人がのんきそうに鋏を使っている。

 声の主は奥女中のかえでであった。かえでともう一人の女、そして八つ・九つぐらいの男の子が庭に出ている。その子供が丁度、外に放り出してあった虎太郎の木刀をいたずらしかけているところであった。

「馬鹿者! それに触るな!!」

 虎太郎が大声で怒鳴った。ふいの怒声に子供は驚いて大きく目を見開いた。側に付き添っていた二人の女も、虎太郎の姿に気付いていなかったらしく、同じく驚いた様子で振り返った。『奥方様』と呼ばれたもう一人の女は、彼の姿を認めるなり、かばうように子供を抱き寄せた。

 虎太郎の義母であった。虎太郎は忌々しげにそれを見やって、

「かえで、弟殿がいかにご利発であろうともな、佐々木家の嫡子はこの俺なのさ。残念であったな」

 と嫌味たらしく言い放つ。

「若様っ、いいえ! 私はそのような…」

「ふん」

 虎太郎の義母はそんな彼に無表情なまま、

「お騒がせ致しまして申し訳ございませぬ。虎太郎殿…これ、かえで。戻りますぞ」

 軽く頭を下げた。そのままくるりと背を向け、子供の手を引き歩き去る。

 と、

「兄上。今度、私に剣術をお教え下さいませ。この屋敷で一番強いのは兄上だと山本が言うておりました」

 子供は兄の顔をさも親しげな様子で覗き込む。

「………」

「兄上はお忙しいお体なのですよ。無理を申し上げてはなりませぬ」

「母上、でも…」

「さ、あちらへ参りましょう」

 義母達が弟を連れ去るようにして虎太郎の前からいなくなると、彼は庭へ下り、木刀を手にとった。

 それは朝倉一刀流独特の素振り用の木刀で、鉄が入った重いものである。子供が知らずに悪戯すれば、怪我をしかねない代物であった。

 虎太郎は木刀を軽々と大上段に構えて、ビュッと振り下ろす。意外に鋭いその剣先は、子供の頭ならば一撃でかち割れるくらいであった。

 暗い顔つきで彼は、何度も何度も重い木刀を振り下ろした。




――――― 15 ―――――


 妙法寺から伸びた石段は、八重桜の並木を抜けて坂下の表通りまで続いていた。

 その石段が終わる坂下には一軒の団子屋がある。屋号はなく、訪れる人々には『坂下団子』の呼び名で知られていた。米の粉で作った団子を焼いて醤油を塗ってまたあぶる。工夫も何もない団子だが、それが何故か評判になるほど旨いのである。

―――お寺の経文知らねども、

   団子の旨さはよう分かる  

   『ああ、坂下団子の妙法寺(おてら)さんか』―――

 と戯れ言がまかり通るほど評判なのである。

 茶店の中には愛嬌よしの女房と、無愛想だが作る団子は天下一品の亭主と、客が二人ほど。そして、手伝いの小女が一人いた。

「おたみちゃん、おたみちゃん。ここはもういいからお寺へ行ってきなよ」

 女房が声をかけると、

「すみません、小母さん。…じゃ、ちょっと行ってきちゃいますね、小父さん」

 おたみはいそいそとたすきを外して、無口な亭主にペコンと頭を下げた。ついでのことに二人の客にも軽く会釈し、慣れた足取りで妙法寺の石段を上っていった。

 その後ろ姿を見送った客の一人が、

「…あれは、石原町の扇屋の娘だろ? 十年前のもらい火で一人焼け残ってお寺さんで引き取ったんだったね。大きくなったもんだ」

 と女房に話しかけた。この客は近くに住んでいる小間物屋の隠居である。

「ええ。そうなんですよ、ご隠居さん。今はうちで住込みの手伝いをしてくれてますけどね、ほんっとにいい娘! よく気はつくし、働きもんだし…ねっ、おまえさん」

 女房が相槌を求めると、

「………」

 団子を焼いている亭主もこっくりと頷く。

「…お寺さんへ使いに出したのかい?」 

 団子を食べ終えた隠居が、湯呑みを両手に挟み込んで熱い茶をすすって言った。

「いえ、あれは違うんですよォ。ほらっ、境内の外れの庵にお侍様が住んでることはご隠居さんもご存じでしょ? そちらの身の回りのお世話も引き受けてるんですよ、おたみちゃんは。なにね、世話たって大したこっちゃない、家ん中を片したり、時には夕げの膳をこさえたり…孝広様は無精な方ではありませんしね」

 女房は亭主の分までとばかりによくしゃべる。だが、ふと口をつぐみ、

「…ほんとに可愛い娘ですよ…このままあたしらの本当の娘になってくれりゃいいんだけどねえ、おまえさん」

 終りの言葉は再び亭主に向けたものであった。

「………」

 亭主がまたこっくりと頷く。

「でもさ、おまえさん。あたしらに勝ち目はなさそうだよねえ」

 女房はいそいそと出かけたおたみの様子を思い出して、そう呟いた。

「………そうさ、なぁ………」

 亭主は顔も上げずに頷く。

 すると、隠居が目を瞠って彼を振り返った。隠居の後ろ側で腹ごしらえに団子をムシャムシャと頬張っていた職人風体の客までが、ギョッと亭主を見ている。二人とも、今の今までこの店の亭主は口が利けぬのだとばかり思っていたのである。

 

おたみは石段を半分まで上っていくと、途中から脇の坂道へ入った。こちらの砂利道の方が孝広の家に行くのに近回りなのである。

 それは先日、孝広達が刺客に襲われたあの場所でもあった。

 おたみは、昨夜から何度となく孝広に『暗くなったら出歩くな』だの『人気のない場所は避けろ』だのと言われてはいた。けれど、彼女にとってこの坂道は通い慣れた道なのである。

「!」

 突然、はじかれたようにおたみが後ろを振り返った。

「………」

 さやさやと葉ずれの音がする。

 雲が切れて、道の両側の雑木が急にキラリと緑色の光を放った。

「………」

 ひらひらと黄色い蝶がおたみの顔の前を通り過ぎていく。

「あら、やだ。…もうっ、孝広様があまりおかしなことばかり言うからだわ」

 彼女は自分自身を笑うように呟くと、前を向き歩き出した。

 その時、

 ふふふ…ふ…

(おもしろい)

 何処からともなく聞こえたのは、杉坂の声であった。




――――― 16 ―――――


「おたみ、金蔵とおきちがてんてこ舞いしていたぞ」

 孝広はそう言いながら、我が家の戸を引き開けた。

「? おたみ…」

 孝広がもう一度おたみの名を呼んだ。だが、その声に答える気配はない。おたみも、また他の誰かのいる様子は感じられなかった。

「何だ、いないのか。また、和尚の長話にでもつかまって…んっ?」

 孝広は足元に落ちていた紙切れに初めて気付き、それを拾い上げた。戸にはさまっていたものらしい。二つ折りになった紙切れを開き、ざっと一読する。

 顔色が変わった。

「………」

 無言でもう一度読む。ほんの数行のそれが、まるで理解できないかのように、孝広はまた目を走らせた。

 三度読んでやっと意味が分かったように、孝広はよろよろとおぼつかない足取りで二・三歩後退さった。まるで深酒でもしてきたようだ。ズッと上体が沈み込んでいった。壁に背を押し当てて、ずるずると土間にしゃがみ込む。

「おい、孝広? いかが致した」

 戸口をふさぐように現れた数馬が、へたり込んでいる孝広に驚いて声をかけた。

 冬彦を見舞った帰りである。今後の対策を練ろうとやって来たのだ。悪巧みをするのに妙法寺(孝広の住む離れ)ほど都合のよいところはない。うるさい家人はいないし、おたみがいれば旨いものも出てくる。

「…おたみが…」

 ぼんやりとした口調で孝広が呟いた。

「おたみちゃんがどうしたんですって?」

 冬彦の声がしたが、数馬の背に隠されていて姿はない。見舞われた当人の彼も、『佐々木様をやりこめる算段でしたら、私も混ぜて下さい』とついてきたのである。

「数馬殿、どうしたんです? 孝広殿、何があ…」

 冬彦が体を戸口の中へ入り込ませると、数馬が土間に落ちた手紙を拾い上げたところであった。

「何です、それ」

「いや…」

 数馬は呟いて、中を見る。

『女を預かっている

 明朝、千本ヶ原に伊勢屋の末弟の

 首を持って一人で来い』

 差出人はなかった。

「おたみが!?」

 数馬の驚く様子に冬彦もその文面をひょいと覗き、

「…!」

 絶句した。

「私のせいでおたみちゃんがっ!?」

 泣きそうな叫びであった。

「違う。おまえのせいではない。彼奴の狙いはこの俺なのだ、この俺。…あのようなことを思うのではなかった」

 あのようなこと―――

先日、妙法寺の裏手の坂道で彼らを襲った刺客。かなり腕のたつ男だった。孝広は一瞬の対峙でそれだけは見て取った。―――あの男ともう一度立ち合ってみたい、そう思ったのは果たして彼だけだったであろうか―――と。

 孝広は頭を抱え込んだ。その腕を数馬が取り、

「おい」

 持ち上げるようにして孝広を立たせた。

「で、どうするんだ。この書面通りにするとでも言うのか」

「それでおたみちゃんが戻るのならば、私は構いません!」

 冬彦が叫んだ。

 二人の言葉に孝広がようやく我に返る。すっくと立ち上がり、

 びしゃん

 と、跡が残るほど自分の頬を叩きつける。

「馬鹿を申すな」

「では、どうするのだ? 孝広」

「だって孝広殿、おたみちゃんが」

 と、数馬と冬彦が両側から孝広に問いかける。

「冬彦。おまえの首を持っていったとて、おたみが戻るとは限るまい。…わかるな?」

「…はい」

 孝広の言ったことがもっともであったため、冬彦は不承不承頷いた。動転してはいても、そこまでの判断力を二人とも失ってはいない。

「孝広殿、では、それでは…」

「まずは数馬に寺へ行ってもらおう。和尚に伝えてくれ、おたみを借りているとな。使いに出してと…とりあえず、伊勢屋にでも泊まらせると言うておけ。茶店へは俺が言ってこよう」

「分かった」

 数馬が力強く請け負った。孝広は言葉を切って、冬彦の顔を見た。彼の次の言葉を待ち受けて目をキラキラさせている顔を。

「それから…」

「それから?」

 孝広が溜息をつく。

「…冬彦…俺にもしばし考える時をくれぬか。なっ、おまえはここで待っててくれ」

「えェ~」

「すぐ戻る…」

 冬彦の文句を防ぐように短く言った後で、孝広は出ていった。

 残された二人は互いに顔を見合わせ、

「…数馬殿」

「…ああ」

「孝広殿はおたみちゃんがお好きなんでしょうか」

 冬彦が言った。

「それはそうであろう」

 当然だと言わんばかりに数馬が答える。しかし、冬彦が聞いているのはそういう意味ではない。

「いいえ。たとえば数馬殿が志保様に対するのと同じように、ということなんですけど」

 その言葉に数馬は、

「拙者を引き合いに出さずともよい!」

 と一度怒鳴ってから、

「それは…なかろう、と…思うがなぁ」

 呟いた。

「私もそう思って安心…いえ、その、そう思っておりましたが、今の孝広殿の様子を見ますと、どうも…」

「………」

 数馬は黙った。あまりこういう問題は得手ではないのである。

 その時、

「冬彦殿には分かるまいのう」

 不意にかかったその声は、穏やかな老人のものであった。

「和尚様!?」

 冬彦が慌てて戸口の外へ飛び出すと、表に立っていたのは妙法寺の住職・叡周和尚であった。孝広とおたみの育ての親でもある。

「すまぬが、皆聞いてしもうた。数馬殿、そういうことでな、わしへの使いは無用じゃよ」

 叡周和尚の姿を見て数馬がきりりと唇を噛んだ。彼ら二人とも、和尚の気配にまったく気付かなかったのである。

「あの、和尚様。先程の私には分からぬだろうというのは?」

 冬彦が言うと、和尚は少年の方へ顔を向けやわらかく微笑んだ。

「冬彦殿には(てて)御も母御もおろう」

「あの?…はい」

「兄御もおるし、姉御もおろう」

「はい」

「孝広殿には誰もおらぬ。おたみだけじゃ」

「………」

 冬彦は黙りこくった。

「父御と母御と兄御と姉御、その人々が一度にかどわかされたとしたら、冬彦殿なら何とするかのう。…わしには神仏に祈るしかできぬようじゃて、数馬殿にも冬彦殿にもよろしゅうに頼む。二人を、二人をよろしゅうに」

 深く何度も頭を下げ、叡周和尚は去っていった。再び残された二人は互いに顔を見合わせ、

「…数馬殿」

「ん?」

「私…私、孝広殿を迎えに行って参ります」

 冬彦は坂道を駆けていった。その後を、数馬もまた黙って追っていく。




――――― 17 ―――――


 数馬と冬彦が坂道を下っていくと、その途中で孝広の姿が見えた。かがみこんで子細げに小砂利を調べている。

「孝広殿、どうなさったんですか?」

 冬彦が慌てて駆け寄った。

「こら、冬彦、踏むな。争った跡だ」

 孝広に怒られた冬彦は飛びのき、

「では、ここで?」

 と意味ありげに辺りを見回した。孝広が調べているそれは、言われなければ気付けないようなものであった。

 おたみという娘は茶もたてれば花も生ける、料理も上手いし行儀もよい、今すぐ大家へ奉公に出したとしても立派に勤め上げるような娘である。おまけに兄貴分の孝広から護身の術もそこそこ仕込まれている。

 その彼女が大した抵抗もできずこうやすやすとかどわかされたというのは、争った両者間にかなりの実力の違いがあったからだろう。

「………」

 孝広は、あの刺客浪人の仕業に間違いないと確信した。

「数馬、寺へは?」

「いや、それが…」

 問われて数馬が説明すると、

「そうか。和尚には知れてしまったか」

 孝広はふっと溜息を漏らした。

「ならば茶店へは和尚の方から使いを出してもらおう。その方が信頼も厚かろう」

 彼は立ち上がり、来た道を戻っていった。

 家にたどり着くと孝広は、何やら言いたげな顔をしている数馬と冬彦に向かってこう言った。

「実はな、虎太郎に張り付けておいた男がおる。先ほど伊勢屋から使いを出してもらったろう? 其奴からの知らせを待って、すべてはそれから考えるとしよう」

 それ故、三人は落ち着かない様子ながらもそれぞれ無言で待っているのであった。冬彦はむやみやたらとそわそわしていたし、何も出来ずに待っていることが大の苦手の数馬は庭へ下りて素振りをしていた。そして、孝広はただじっと目をつむっている。

 やがて時が経ち、男が一人訪ねてきた。

「もし、妙蓮寺の旦那。おりやすかい?」

 やってきたのはいかにもやくざ風な頬傷の男であった。

「弥太! 虎太郎はどうしていた?」

 数馬達に遠慮してか戸口から入ってこようとしないその男に、孝広は大股に近づいていった。

「へい、旦那から言いつけられた通り見張っておりやしたら、奴ァ半刻ほど前に屋敷を出て、汚ねえ裏長屋に入っていきやした」

「うむ」

 孝広が先を促す。

「ところが、目当ての野郎がいやがらなかったとみえてすぐに出てきちまいまして」

「何だ。では、そのまま屋敷に戻ったのか」

「いえ、すぐに出てきて反対の日本堤の方へ」

「日本堤…吉原か。何だ、おまえの古巣ではないか」

「その通りでサ。けど、ただ遊びにいったという様子でもなく、脇目も振らずまっすぐに一軒の女郎屋へ入っていっちまったんで。ありゃー、あそこに馴染みの妓がいるのか…でなけりゃ目当ての野郎を探しにいったのか」

「弥太、最初のその長屋は調べたか」

「ちょいと聞き込んだところ、そこに住んでいるのは杉坂ってえ浪人者らしいんで」

「そうか。よし、分かった。俺を虎太郎のいる店まで案内しろ」

 それを合図に、数馬も冬彦も急いで立ち上がった。それに気付いて孝広、

「待て、二人とも。おまえ達には今しばらくここにいてもらいたいのだ」

 と押しとどめた。

「えっ!?」

「何!? どういうことだ! 拙者らとておたみを案ずる気持ちは同じ、何故ともに参ってはいかぬ」

「そうです! 孝広殿一人で行かせるわけには参りません。私どもも…もとはといえば私のせいなのに」

 数馬と冬彦が両側から孝広に怒鳴り立てた。孝広は思わず指で耳をふさぎ、

「ええい! 慌てるな。虎太郎のいるところに必ずしもおたみがいるとは限らんだろう。このまま明朝までにおたみの所在が分からねば…」

 そこで孝広が言葉を切ったので冬彦は、

 ごくり

 と唾をのみ、自分の首筋を撫でた。

「その時は数馬、冬彦も。俺の代わりに約定の場所へ行ってくれ。俺はあの浪人を何としてでも探しだし、張り付いておる故に。頼めるのはおまえらしかおらぬ。よいか?」

 言いながら顔を曇らせていく孝広に、数馬と冬彦の二人はこっくりと頷いた。

「では、弥太っ、行くぞ」

 孝広は頬傷の男と一緒に妙法寺を出ていった。




――――― 18 ―――――


 孝広は連れの男とともに〈大門〉をくぐり吉原に入った。

 夕闇が濃くなっている。

 吉原は明歴の大火で焼け出されて江戸の外れへ移されて以来、夜間の営業も許されるようになっていた。

「キャッ、キャッ」

「ちょいとォ、お兄さん、寄ってきなよ」

 妓達の嬌声が鳴り響く中、孝広達は中之町通りをしばらく進み、

「旦那、こっちでサァ」

 二丁目の方へ曲ってからまた少し進んで、大きくもなく小さくもない一軒の女郎屋の前でぴたりととまった。

「寄っておいきなね、おにーさん」

 赤い格子の前でちらりとその女郎屋を見上げた孝広に、妓達がひっきりなしに声をかける。

「やぁだァ、こちらイイ男じゃないか!!」

「うるせえよ、今、忙しいんだ」

 孝広が思わずはねつけると、店の中から一人の妓がずかずかと出てきて、

「…すかすんじゃねえよ、タコッ!! 忙しけりゃ来んなっ、バァ~カ」

 えらく威勢よく言ったと思いきや、

「っと、あら!? 孝広様じゃない?」

 がらりと態度が変わった。顔を見れば、孝広の知ってる妓である。『吉原細見』というこの当時作られていた〈吉原ガイドブック〉にも名の載った、中々の美女だ。

「何だ、おまえか。何故、ここに?」

「大黒屋の奴、ここの主に賭け碁で負けたのさぁ」

「アハハ」

 と陽気に笑い飛ばす。以前に孝広に危難を救われた時にはこの妓、大黒屋の抱え女郎であった。

「そんなこたぁ、どうだっていいじゃないか。久し振りにお上がりな」

「いや、今は…」

 一端は断りかけたが、

「いや、丁度よい。…佐々木虎太郎という侍が来ておらぬか?」

「えっ?」

 妓が聞き返したのと同時に、孝広の連れの頬傷の男が後ろからひょいと顔を出し、

「さっきの野郎だよ」

 と妓に向かって言った。

「あれ? 弥太さん」

 この男はもともとが吉原にいたちんぴらであるため、妓とも顔見知りであったようだ。

「何だい、さっきおまえが見張っていてくれと言ったあのさんピン、孝広様の用事でだったのかい」

 彼女は二人の男を見比べ、

「先に言ってくれりゃ、もっと気ィ入れて見張っといたのにさ」

 けらけらと笑った。

「チェッ、言いやがらぁ」

「何だ。おまえが見張っててくれたのか。では、聞くが、虎太郎はここの馴染みなのか?」

「虎…? ああ、さっきの侍か。そうさ、ま、馴染みの客だろうね」

 妓は答えた後で、

「あんたほどじゃないけどね」

 つけ加えた。苦笑いで孝広、

「余計なことを言うなよ。で? 相方は? 誰が出てる」

「このあたし」

 女はけろりと答えた。

「?」

「いつもはね。何だか、今日はもう一人、やっぱりうちの馴染みの客に用があるんだと、一人で飲んで待ってやがったよ」

「客? で、其奴は?」

「ああ、ついいましがたやってきたっけ。男のくせに香の匂いをぷんぷん、臭いくらいに匂わせた嫌な野郎さ」

「そいつだ」

 孝広がうめくような声を出した。

「?」

 妓は不思議そうに彼を見ている。

「其奴はどんな様子だった? いつもと変わったところはなかったか」

「変わった?…別にいつもと同じように薄っ気味の悪い…ああ、そうだ。小娘みたいのを駕籠で連れてきたっけ。何だろね、アレ。うちに売り飛ばしにきたのかねぇ」

 それを聞くや、孝広はくるりと連れの男に振り返り、

「弥太郎、今日はご苦労であったな。最後の使いだ。すまぬが、また寺へ戻って数馬達にここへくるよう伝えてくれぬか」

「へい、お安い御用で」

「使いの駄賃は数馬にもらってくれてよいぞ。旗本の跡取り息子は金持ちだ、いくらほど吹っ掛けようと払ってくれるだろう」

 孝広は上機嫌であった。

「よし、おこん。その二人のいる隣へ連れていってくれ」

 孝広は妓の肩を抱くようにして店へ入った。




――――― 19 ―――――


 佐々木虎太郎が女郎屋の二階で飲んでいると、そこへ杉坂又十郎がやってきた。

「まだ冬彦を仕留められんのか」

 開口一番に虎太郎は言った。そもそもの原因である飴売りとのいざこざからすでに三日目の夕べである。冬彦があのことを吹聴する気ならば、もうとっくに手遅れだ。しかし、虎太郎の中ではもはや目的と理由が入れ替わっていた。

「わけは自分の胸に聞いてみるがいい」

「何だと!?」

「余計な真似をしおったのは、そっちだ。絶好の機会をつぶしおって」

 杉坂はちんぴら達の冬彦襲撃のことを言っているのである。

「む…」

「あれでは何もかも…」

 杉坂が頭をゆっくりと横に振る。

「貴様がしくじるからではないか」

 虎太郎は強く言ったが、途端にじろりと睨まれる。

「ふっ、まあよいわ。明朝には片が付く」

 杉坂は短く答えて、クックッと笑った。

「その娘は?」

 虎太郎は話を逸らすように言った。杉坂が、連れてきたおたみを縛り上げて、部屋の隅に転がした。

「こいつか。…ヒヒヒッ…あの寺におる浪人の、大事な娘だとよ」

「?」

 虎太郎が訝しげな顔をする。杉坂は懐から何やら書いた紙切れを取り出した。それを無造作に虎太郎につきつける。孝広が受け取ったものと同じことが書いてあるが、こちらは冬彦の首ではなく身柄をとなっている。習作のようだ。

「…おい、貴様! まさか、かどわかしてきたのではあるまいな!?」

 虎太郎は叫んで、パッとおたみの転がされている方へ顔を向けた。縛られて気を失っているのだから、もちろん尋常な手段で連れてきたのではなかろう。

「馬鹿な! 俺は冬彦をと申したのであって、妙蓮寺なぞ何の用もないわ。勝手な真似をしおっ…」

 そこで彼が唐突に黙り込んだのは、杉坂の所業を認める気になったからではない。杉坂が蛇のような眼を光らせて大刀に手を伸ばしたからである。

 虎太郎は丸腰、そもそも吉原では店に上がる時には腰の刀は預けるのが決まりなのだ。

「………」

「受けた仕事をどんなやり方で片付けようとも俺の勝手、そうだな?」

 杉坂の不気味に静かな声音で念を押されると、

「…ああ、そうだ」

 虎太郎は頷いた。

「だが、あんたの腕なら女を人質に取ることなどなかろう。こんな…まだ少女(こども)ではないか」

 虎太郎のかすかな非難を杉坂は鼻の先で笑い、

「世の中にはな、臆病な人間が多いものよ。自分とて俺と命のやりとりをしてみたいと思うているくせに、理由が…我こそが正義であるとの理由がなければ人も斬れぬという、臆病者がな」

 そう言った。

 確かにそれは一面真実ではあったし、またその逆を返せば臆病な人間ほど理由さえあればいくらでも無辜(むこ)の人間を斬って捨てられるものだということでもある。そんな『人』としての弱さをふっきった杉坂は、自分こそが強者なのだと思っていた。

 そうして恬として恥ずることのない彼を見て虎太郎は、

「ふん、ばかばかしい。盗人にも三分の理はあるさ」

 と呟いた瞬間、

「!?」

 ざっと顔から血の気が引き、彼は思わずのけぞった。

(斬られた!)

 と思ったほどの殺気が彼を襲ったのである。しかし、目の前に悠然と構えた杉坂は、口元に薄笑いさえ浮かべ、おもむろに懐から白粉を取り出した。

「こう、な。こうするとよいのだ」

 酒に溶いた白粉を、耳の後ろ、手首、胸すじなどに塗りつける。

 ぷ~んと化粧の匂いが漂った。部屋に置いてある妓の持ち物から匂ってくるのではない。杉坂からである。

 こうして吉原で遊ぶ金とて虎太郎の懐から出ている筈である。

(チッ)

 と、虎太郎は安堵の溜息の代わりに、舌打ちを漏らした。

「妓にもウケがよい」

「よさぬか、気色の悪い」

 杉坂の進めるそれを、虎太郎は言下に断り、吐き捨てるように言った。

「…ふん」

 杉坂はさして怒ったようでもなく、

「貴様には分からぬさ。己の体から血の匂いがするのだ。これまでに俺が斬って捨ててきた者どもの、血の()がな」

「ふん」

 と虎太郎も笑った。毎日毎日、湯屋だ吉原だとやっていて、血の匂いのするわけもなかろう、と…。

 その時、

「誰だ!」

 突然、杉坂が怒鳴った。その反応の素早さはさすがである。すでに鯉口も切っていた。

「ちっ、やはり気付かれたか」

 隣りの部屋からであった。

「まさか」

 虎太郎が慌てて立ち上がり、勢いよく襖を開け放った。

「冬彦っ! 山代! 妙蓮寺っ!」

 ご丁寧にそれぞれの名を呼び上げた後で、虎太郎は臍を噛んだ。

「孝広様!」

 おたみが喜色を見せて叫ぶ。気絶したフリで様子を窺っていたらしい。そのおたみに向かって孝広がにっこり微笑んで頷いた。

「きさっ、貴様らっ!」

「おい、虎太郎。いい加減にせぬか」

 と数馬。

「あきらめろと言うのだ。俺は何もしゃべらん。数馬も冬彦もな。…それ故、おたみを返せ」

 かすかな哀れみとともに言われた孝広の言葉は、虎太郎の面をすべって、消えてなくなった。

「何の話だ」

 その瞳の中にちらちらと憎悪の炎が揺らめいている。

「貴様が飴売りに投げ飛ばされた話だ」

「………」

 口元を歪めた虎太郎は、ぎりぎりと爪を噛んで、ちらりと杉坂を振り返る。杉坂は身動き一つしなかった。ただ黙って、寸分の隙もない。

「ぐぬっ」

 ますますの憎悪が虎太郎の双眸に漲る。

 本来、自分を投げ飛ばした飴売りに向けられるべき怒り、悔しさまでが三人にぶつけられていた。だが、しょせんはお門違いの逆恨みである。

「何の話だというのだ。証は? 確かな証も無しに拙者、二千五百石の嫡子を訴えて出ようとでも言うか?」

 問うに落ちず語るに落ちるとはこのことである。けれど、やはり証拠はない。旗本の言葉と親無し子のおたみとどちらを信じるか、大店の息子の冬彦と旗本の息子の数馬がおたみについたとて難しい話である。孝広では論外だ。

「はぁ…」

 と孝広が溜息を吐き、

「往生際の悪い奴だな。ならば、仕方もない」

 物証を掴んでいるのかと思われるほど、傲然と言い出した。

「…待っていろ。今、そこの…」

 ひょいと顎をしゃくる。孝広の視線の先で杉坂がゆらりと立ち上がった。

「証しを捕らえるから」

 孝広が言った途端に、

「ふざけるな!! 調子づきおって、この痩せ浪人が。よかろう、こうなっては致し方ない。杉坂さんっ」

 今度は虎太郎の怒声が上がる。

 杉坂は名を呼ばれたのを不快そうに見やり、

「捕らえる? 俺を?」

 ヒッヒッ

 例のひきつけたような笑い声を発した。

 その横で虎太郎が、杉坂の注意が新来の三人に向けられたのを見て、そっとおたみに近づき、その縄を解いていた。

「………」

 おたみは起き上がった。

「もうおまえの用は済んだ、いけ」

 おたみは一目散に数馬の後ろへ駆け込んだ。孝広は一瞬たりと杉坂の動きから注意を逸らさないでいる。

「数馬」

 孝広が鯉口を切りつつ言った。戻ったおたみにかすかに身を寄せる。

「虎太郎を逃がすなよ」

「承知」

 と、数馬が大刀を抜き払った。

「冬彦」

 孝広がもう一度。

「おたみを頼んだぞ」

「はい」

「よし。―――手出しはするなよ?」

 冬彦はいぶかしげに孝広を見やる。言われずともこれからの闘いは冬彦では手を出したくとも出せないようなものになるに違いないというのに。孝広は杉坂から一瞬たりとも目を離さない。

「……なあ、冬彦。見えるか?―――血臭が陽炎のように此奴の身体を取り巻いているのが―――見えるかっ、冬彦!」

 言いざま、はったと杉坂を睨み据えた彼の顔には、紛れもない殺気が浮かんでいた。

 バシン

 杉坂の身体が襖戸を打ち破り、二階廊下へ転げ出た。ごろごろと転げて、ダッと蹴るように逃げ出す。

 そして、杉坂のいた空間を薙ぎ払っていた孝広は、

「約定よりちと早かったろうがな。俺は気が短いのさ」

 にやりと、緊迫感の一かけらもないような顔で言い、杉坂を追って出ていった。

「きゃあ」

「うわあぁー!」

 大勢の悲鳴が上がる。

 孝広と杉坂が、所構わず立ち合っているらしい。

「こんなところでようも堂々と振り回すな、奴ら…」

 数馬が独り言ちる。

 残された彼らがひょいと廊下を覗くと、下帯一つで逃げ出す男や、薄物を羽織っただけの妓達。

 中には、身に付けている物は簪一つという妓のまでいる。誰も彼も、孝広と杉坂にそれぞれの小部屋から追い出されてきたのである。

「嘆かわしい」

 数馬が思いっきり舌打ちした。部屋の中へ振り返り、

「虎太郎、ああはなるなよ」

 だが、

「ふん」

 と、虎太郎は『相手になるか馬鹿馬鹿しい』とでも言いたげに、顔を背けた。此奴も、数馬と冬彦の二人を相手に遣やり合おうとは、さすがに思わぬらしい。

「あ」

 小さく数馬が呟いたので、冬彦はその視線の先を追った。店を出ていこうとしている中年の侍であった。これはきちんと着物も着け、袴を手に持っていた。

「馬鹿者ォ!」

 数馬の大喝が飛んだ。

「ぶっ、武士の魂を忘れる奴があるかァ!」

 侍は大小を差していなかった。


 一方、部屋を飛び出した孝広の瞳は、すぐさま杉坂の姿を捕らえた。もちろん、奴とて逃げるために逃げているわけではない。闘うために逃げたのだ。

 ズダダダッ

 二台の重戦車がキャタピラ鳴らして走り回っているようなものである。

 抜刀した長い刀を引っ提げ、孝広はそろりと足を運んだ。何処へ隠れ込んだのか、杉坂の姿は見えない。妓達が、

「きゃあっ」

「いやぁー」

 孝広を鬼ででもあるかのように悲鳴を上げ、逃げ去っていく。

「っ!」

 ビュッと襖の中から突き出た切っ尖きを、孝広が紙一重で躱し、

「せぃやあ!」

 真っぷたつに襖を斬り割った。そのまま部屋へなだれ込むと、小汚い男の尻が妓の腰巻を巻き、慌てふためいて出ていった。

 ギィン

 杉坂の太刀に白刃をとめられ、飛び散った鉄粉が目に降り懸かる。

「うっ」

 怯んだ隙に押し戻された。

 押し戻されてぶち当たったのが、件の腰巻男の尻である。災難というのは重なる時には重なるもので―――腰巻男はズデデンデンと階段から真っ逆さまに落ちていった。

 そして、孝広はかろうじて階段の手すりにしがみついたものの、ひやりと胸中で汗を拭った。そこへ杉坂、

「ヒィヤッ!」

 光る切っ尖き喉元めがけ。

 間髪、孝広は反対側へふわりと飛んだ。階段の手すりを乗り越え二階から階下へ、跳んだ。

「………」

 杉坂も孝広を追って階下に下り立った。

 睨み合う両者。孝広の剣が大上段に構えられ、にやっと杉坂の面に不気味な笑みが浮く。




――――― 20 ―――――


 佐々木虎太郎はイライラと爪を噛んでいた。

「振りかぶりましたよ、孝広殿」

 冬彦が二階の手すりから身を乗り出すようにして言った。虎太郎を捕まえて、二人共、すっかり見物を決め込んでいる。

「…ああ、だが…孝広の奴、正気か? 腕は五分と見た」

 大上段に振りかぶれば脇がガラ空きになる。余程の自信がなければ出来ぬ真似であった。

「ふん」

 これは虎太郎。

 おたみは青い顔で声もない。

「…孝広、捕らえる気なれば…死ぬぞ」

「………」

 四人の間に沈黙が流れた。その空間に存在したのは、ただ佐々木虎太郎の勝ち誇ったような冷笑のみであった。

「うわっ!?」

 突然、冬彦は叫び、両手で顔を覆った。

 振りかぶった孝広の一撃が、案の定、躱されたのである。

 冬彦が叫んだのは、大上段に構えたなら、もちろんそれは一撃必殺の剣でなければならぬからである。

「数馬殿、数馬殿、どうなりました?」

 そろりそろりと薄目を開ける。

「…まだだ。見ろ、孝広も避けた」 

 苦々しげに答えた数馬は虎太郎に、

「あのような化け物を、己は何処で拾うてきたのだ」

 そう言った。

 必殺の剣を躱され追い詰められた孝広は、太刀を上段から中段、下段へと構え直した。反対に、杉坂の方がその剣を上段に振り上げている。

「ぺっ」

 孝広が口中の唾を吐き捨てた。

「きぇえい!!」

 居合声とともに、杉坂の剣が閃き―――

 ピシャッ

 生温かい血ものが、孝広の頬に触れた。

 攻撃に出る寸前の、その一瞬の隙を突いた孝広の剣は、下段から急速に翻り、杉坂の顎骨を斬り割った。そして、

「でぃやぁ!」

 その返す刀も鋭く、稲光りの如き、真っ向袈裟掛け。

 ドッ

 声もなく、杉坂の身体は床板の上に転がった。

「はっ、ふう~」

 孝広は、大仰に息を吐くや、ビュッと血刀を振り払い、鞘に納めた。

「ひっ、ひひ、ひ」

 地の底から響くような風音に目を向けると、

「…しょ…しょうっ、ガフッ」

 杉坂である。即死には至らなかったらしいが、既に虫の息だ。

「…証…こ、拠、を挙げっ、グッゲッ」

 ゴボリと、いやらしい(モノ)を吐き散らしながらも、杉坂は喋り続け、

「損な…った、な」

 やっとの思いでそこまでを言った。この血狂い浪人の初めての敗北の、最後の意気地なのである。

 にもかかわらず孝広は、

「んなこたぁ、最初(はな)から承知の上だぁな」

 平然と、負け惜しみにも見えない。杉坂の瞳が裂けんばかりに見開かれた。

 杉坂にとって己の死など、血にまみれて生きた時から常に背中合わせであった。それ故にこそ、死に瀕しての最期の刻まで彼は、己の勝ちをではなく、相手の負けを意識していたかったのだろうに。

「何? 何だと!?」

 一瞬ばかり正気づく。

「てめえに教える義理はないな」

 死出の旅路を安らかに、とは一片たりとも思わなかった。怪訝な表情のまま黄泉路へと発った杉坂を見下ろし、

「ふん」

 と不機嫌に呟くだけであった。

「孝広っ!」

 大声で呼ばれて、二階を振り返ると、数馬と冬彦が手を振っている。

「捕らえられなかったか。そうか」

 数馬の声はいささか残念そうであったが、同時に予想していただろうことを感じさせた。他の者には孝広の勝ちはまったくの偶然と、運のよい偶然と見えただろう。

 だが、違う。

 孝広が勝てたのは、彼我の力量もわきまえず、『捕らえる』などと広言してみせたからである。その過信のせいで杉坂に一太刀も浴びせられず、常に紙一重で躱されていたから。身の程知らずにも大上段に構えてみせたから。

 だから、孝広は勝てたのだ。

 わざとそうして見せた孝広を甘く見た杉坂の、その死は必然であったと、数馬はそう思っていた。

「仕方あるまい?」

 孝広の返事に、数馬の手が捕まえていた虎太郎を離した。

「貴様ら、このような真似をして、ただで済むと思うておるまいな」

 虎太郎は鬼の首でも取ったようである。

「何ですって、佐々木様!? 証拠はなくとも元はと言えば貴方様の…」

 言いつのる冬彦の肩に数馬の手が置かれる。

「冬彦っ」

 下から孝広が声をかけた。

「だって、お二方!」

「冬彦、その馬鹿を俺の所へ連れてこい」

「なっ!? おい、孝広?」

 数馬の制止の暇もあらばこそ。冬彦はおたみを数馬に預けると、嬉しげに虎太郎の腕をぎゅうっと捩じ上げた。そのまま、階段をトタトタと降りていく。まるで軽々と孝広の前に虎太郎を突き出した。

「よぉし。…虎太郎」

「離せっ、離さぬか! これ以上、貴様らにつきおうていられぬわっ!!」

 などと大層に鼻息が荒い。

「歯ァ喰いしばれよぉ」

「何を言…」

 バキィッ

 喰いしばる間などあったものではない。虎太郎の顔面に、孝広の右拳が見事に的中ヒットしていた。

「ぐぎゃん」

 奇妙な声で叫ぶと、虎太郎は杉坂の死骸の横に倒れ伏した。

「あ~あ、孝広殿。やりすぎじゃありませんか?」

 さすがの冬彦も少々驚いている。

「孝広!」

 数馬など、もうすでに叱りにかかる態勢である。おたみと一緒に階段を駆け下りてきた。

「でも、でも、孝広様。この人、あたしの縄を解いたんです。孝広様達さえ来たならもう用はないと言って…」

 おたみが孝広にしがみつきながら小さく呟いた。

「何…?」

 ところが四人のやり取りもすまない内に、

「南町同心、江口新八。役儀によって参った」

 捕り方の声である。派手に暴れていたため、店の者が呼んだのであろう。

「や、喧嘩如きでつかまるのは御免だぞ。それっ、急げ急げ」

 三千石の旗本の嫡男の数馬とて捕まるわけにはゆかぬ。しかも、南町奉行なのだ、数馬の父は。

「あ…ああ。―――虎太郎は?」

「馬鹿」

 孝広達四人は部屋に虎太郎を残し慌てて逃げ出していった。




――――― 21 ―――――


 後日、妙法寺。

「噂になっているぞ」

 数馬は茶を啜り、冬彦手土産の落雁を一つつまんだ。

「何の?」

 孝広が問い返すと、数馬は憮然となって、

「吉原での一件に決まっておろう」

「ああ、そう…噂、ね」

「呑気な方ですね」

 冬彦はすっと孝広の手元に落雁を勧めた。薄桃色の菓子を勧めながら、これも十分に呑気である。

「ならば、あの時、他にどんな仕様があったというのだ」

「え?」

「そうであろう。虎太郎の恨みは深いぞ、冬彦。俺達が跳ね返せば返す程、恨み、逆恨みも深くなる。虎太郎はそういう奴さ」

「はあ、まあ、それは…」

 冬彦もそれは分かっている。しかし、確たる証拠がない以上、こちらの負けなのである。

「成程。他に仕様はなかったな」

 かえって数馬の方が納得顔なのがいぶかしい。

「だが、喧嘩ならば、な。しかも、場所は吉原だ」

 孝広は言葉を切り、

「数馬、吉報があるのだろう? 顔に書いてある」

「うむ。あの喧嘩騒ぎ、事が事だけに…というより、当事者が旗本の息子故、公にならなかった」

 故にこそ、大したお調べもなく、孝広達の身元すら割れなかったのだ。

「存じてます、が?」

 怪訝顔の冬彦に、うんうんと頷いている孝広。

「公にならなかったというのに、なぜか噂がもれた。かなり広まったのだろう。広めたんだろ?」

「あっ…それでは…?」

「虎太郎の奴、家督廃嫡になりおった」

「だろうな。仮にも旗本の子息があのような場所で浪人相手に喧嘩沙汰。しかも、一発くらって伸びていたのだ。お上の方でも、そりゃ考えるだろうて」

「虎太郎の親父殿、佐々木兵吾様にいたっては頭を丸めさせようかという勢いだそうな。…ようも計ったな、孝広」

 孝広は知らぬ顔で横を向いた。

「………」

 ぺこん、と冬彦が二人に頭を下げた。元はといえば彼一人が狙いだったのである。

「これですべて終わりましたね。…それにしても、まだひとつわからぬことがあるのですが…」

 と冬彦、のんびりと言った。

「はん?」

「飴売りですよ、あの。あちらの方が怪しいかとも思ってたんですのに…何だったんでしょうねえ」

「はて、なぁ…」

 ポンと数馬も手を打って言い、孝広は、

「さて、確かなことは言えぬが。話を聞くにその飴売り、元は侍ではないか?」

「侍? それが何でまた」

「それは分からぬ。分からぬが…仇討ち、もしやすると、敵持ちかもしれぬ。…いや、やはり分からぬな」

 考え考え、口に出してみる。

「侍、ですか。そうです、確かにそんな気もしますよ」

「成程な」

 冬彦と数馬が感心して呟いた。それならば、あの怪しさも納得がいく。身分を隠しているのであれば…。数馬はうんうんと深く頷き、この時、己が斬った黒田孫兵衛の顔など思い出しもしなかった。

「それにしても、孝広。今回のおまえの活躍、実に見事であったなぁ。今の推量といい、案外、向いているのかもしれぬな」

「は?」

「まことに。お手並みの冴えは本職裸足で、ほとほと感心致しましたよ」

「へ?」

 数馬が言い出せば、冬彦も同じく言った。孝広はといえば、

「よせよ、ふざけるな」

 照れている。

「まったく、妙なところで才能が…ああ、そうだ。おい、孝広。おまえ、浪人に厭いたら役人にならぬか? 町方同心。なっ」

「はあ?」

「良い考えであろう」

 数馬の台詞に、孝広は何故か大慌てで、

「な、な、なな何を言っとるか、おまえはっ。おかしなことを申すな、馬鹿。俺が同心になって一番に困るのは奉行なんだぞ!」

 言ってることが滅茶苦茶である。不可解なまでに慌てた孝広に、しかし、南町奉行の息子はあたかも他人事のような顔でにっこりと、

「いいさ、なれ、なれ―――一番風呂にも入れるぞ」

 本気とも冗談ともつかず、そう言った。

 当時、町奉行所の役人になると、いつ如何なる場所にも着流しで構わないという特例と、江戸ご府内であれば何処の銭湯でも一番風呂に入れるという特典(!?)がついていたのである。



趣味爆発で書いてしまいました。「バカだなあ、この人…」と思って楽しんでいただけると本望です。

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