何者か分からないと出られない部屋
朝起きると、虫になっていた訳じゃないが、皮膚の下に生えそうで、生えない何本かの足があるような居心地の悪さがあった。
母親がカーテンを開き、部屋が白くなる。今日は午後からバイトだ。
起きて冷蔵庫の前に立つと、そのドアにつけられた小さな白板に「何者か分からないと出られない部屋」と書いてあった。その白板は、まるでミッキーマウスが持っているかのようなデザインで、笑顔のキャラクターはさらりと、手書き文字で、意味深なことを伝えている。
「何これ」
母に聞くと、「何にも書いていないじゃん。寝ぼけてんの」といわれた。嘘や冗談のようにみえない。忙しいんだから、そんなことで話しかけんなという顔をして、洗濯物を干し始めた。
とりあえず、冷蔵庫の中から、牛乳を出し、シリアルにかける。いつもの朝食だった。食べながら、外を見ると、空は青く、午後からのバイトを絶賛していた。
もしも、出られないのなら、ドアには鍵がかかっているはずだと思った。しかし、玄関に行くと、空気の入れ替えで、開け放されたドアがあり、あっさり外に通じている。
「ちょっと、犬に餌やってよ。それくらいできるでしょ」
嫌味臭い言葉を投げかけられ、庭にいる柴犬に餌を出して、撫でた。
「いいよなあ、飯食って寝るだけで可愛がられて。鎖につながれてるけど、何者かなんて考えることないもんな」
食べ終わった餌の皿を片付けた。庭から外へ出られる。
家の中へ戻り、スマホを見るために、自分の部屋へ戻った。LINEを見たり、ツイッターを見たりしたあと、「何者かになるためには」と検索をかけた。
映画のタイトルや、スピリチュアルっぽいブログが出てくる。元ニートだけど、アフィリエイトで稼げるようになった人のnoteもある。スクロールすると、有料だった。
うんざりして、スマホから顔を上げると、机の上の小さなカレンダーが目に入る。今日は自分の誕生日であることを突きつけてきた。ああ、何回目の誕生日だっけ、考えたくない。
何者かって何なんだろうか。正社員になれればいいんだろうか。パワハラやセクハラの愚痴しかLINEで送ってこない正社員になった同級生みたいな、非正規を見下す正社員みたいなのだろうか。
それとも、何か作り出せばいいのか。イラストでも、音楽でも、小説でも、何かを創作して、仕事にすればいいのだろうか。
就職活動をしていた頃のことを考えていた。自分が学生時代、何を頑張ったとか、御社に対して何ができるかだとかを話して、お祈りメールに呪い返したいほど見舞われた。
何度も考えたが、やりたいことなんて、なかったのだ。「好きなことを仕事にしろ」といわれても困る。好きなことは、ときどき海岸に行って、角が丸くなったガラス片を拾い集めることだ。一つ一つ手に取ったとき、その日の日差しや、海の色、波の音、潮の匂い、そのガラス片が丸くなるまでに流れた時間に思いをはせる。
四角い底が深いお菓子の缶を開けると、何百個のガラス片がある。元は一つの瓶だったが、バラバラになって、色も形も変わり、もう二度と瓶の形には戻れない。
アクセサリーにはしたくなかった。自分や誰かを輝かせるためのものにはならないからだ。どう考えても、原石を見出され、磨かれた宝石には劣る。役には立たない、何にもならない。でも、大好きだった。
ガラス片を見つめたまま、立てなくなった。バイトに行きたくない。外には、何者かになれた人ばかりいるのかと思うと、部屋の外にさえ、出たくなかった。
家を出なくてはいけない時間になっても、着替えもせず、座り込んだままだった。もう休んでもいいやと諦めていたのではなく、焦ってはいるのだ。うごめく足が、皮膚を突き破って、前進させてくれたらいいのに、背中に翼が生えて、飛ばせてくれればいいのに。ただ、むずむずして、イライラするだけだった。
バン、と扉が開く。「早くバイト行きなさいよ!」
「……今日は休もうかなと思って……」
「何いってんの、家で家事もしないんでしょ、邪魔なだけじゃないの」
母親の姿を見て、ときどき哀れに思った。母は仕事をしていたが、結婚して専業主婦になった。正社員になったことのある人は、今は家事に追われるだけだった。誰でもできると馬鹿にされ、お金にもならない。
「家事やりたくなきゃ、やんなくていいよ。自分でやるから」
「そういって、いつかやらなくなるでしょ。私が結局大変になるんだから」
少し、皮膚から足が出るようだった。望ましい形ではない。
「母さん、母さんは何者かになれたの? 仕事辞めて、ずっと主婦でさ」
「まだ白板の話してんの? 怖いよ」
「ごめん、難しい話は分かんないよね」
出た足を引っ込めようとすると、母はそれを引っ張る。
「何なのそれ。馬鹿にしてんの? 主婦だから? 女だから? 難しい話は分かんないよねって?」
「いや、そうじゃないけど……」
「あのね、その何者かになれたかっていう思想が怖いよ。気持ちとしては分かるけど。私も悩んだことあるからね。何者にもなれなかったら、生きていく価値がないと思う考えそのものが、呪いのような気がする」
「呪い……」
「生きてると、無意味さに耐えられなくなるでしょ。意味があることに逃げていたいんだよ。安心できるから。自分が存在していい許可があるような気がする。でも、それって呪いと変わんない」
「でも、何者かになれた方がいいじゃん。呪いでもさ」
「私も分かんない。でも、とにかく疲れるよ、その考え。病的で。何者かになった途端、誰かに搾取される気分」
足が引っ込んでいく。翼も生えない。
「早くバイト行きなさい」
「……うん」
着替えて、バイトの準備をした。閉まっていたドアのノブを掴むと、問題なく開く。外に出ると、母が大きな声でいった。
「今日、誕生日でしょ。あんたの好きなとこでいいから、ケーキ買ってきて」
「うん、分かった」
青い空の下、自転車を漕ぐ。初夏の空気を吸い込んだ。