008
苦悶の顔をした巨大魚を無事討伐完了した、次の日。
今夜の見回りは、無事、何事もなく終了しそうです。
ふう。
俺たちは船内外の巡回を終え、次の見回り番である【美食の求道者】の部屋へ、鍵を渡しに行った。
彼らの部屋からは、甘い匂いがした。
これは。
何か、焼き菓子っぽいものが焼き上がる匂いだ。
もしかして、もしかしなくても調理してるんじゃなかろうか。
部屋、火気厳禁ってセオさんに言われてたんだけど。
「甘い匂いが……」
「おお! 君たち、良いところに来たね! 今、丁度焼き上がったところなのだよ。君たちにもおすそ分けしてあげよう」
シェフのリーダーが、【ナッツゴーゴー☆フィーバークッキー】を4袋くれた。
おおお!
これは、七種の高級ナッツと七種の高級チョコレートが見事なハーモニーを奏でる、激うまクッキー!
【調理】レベルも最高のSSSでないと作れない代物だ。
これ、食べてみたいと思ってたんだ。
「ありがとう! これ、食べてみたかったんだ! 長年の夢が叶いました!」
「「ありがと! おじさん! クッキー!」」
「うむ!」
俺たちは、がっしりと手を握りあった。
「受け取るなよ……」
ジェイスが背後で、額を押さえて溜め息をついていたけど、気にしない。
部屋に機材を持ち込んで【調理】していたのは、黙っておいてあげることにした。
「お前ら、賄賂受け取っちまったしな」
「しいっ」
美味しいものは正義です。
次の見回り番に鍵を渡し、部屋に戻る。
俺は部屋には入らず、ジェイスたちと扉の前で別れた。
見回りが終わったあと、後部甲板でノーフェと待ち合わせしているからだ。
「じゃあ。ちょっと、俺出てくるから。先寝ててくれ」
「なんで? 寝る、しない?」
「なんで? 寝る、しよう?」
双子が目をこすりながら、首をかしげる。俺は双子の頭をなでた。
「ちょっとだけ、用事。すぐ戻るから」
「「うん……すぐ、戻れ……」」
双子は納得したのか、部屋に入っていった。
じゃあ、と手を振って後部甲板に足を向ける。
腕を掴まれた。
「ジェイス?」
「……あの少女は、お前の同郷の者なのか?」
なにを今更な。
「多分」
ジェイスが黙る。なんなのだ。昨日からやたら無口だし。いや、いつも言葉少ないけどな。
「1人で行くのか」
「そうだけど」
ジェイスが黙る。
だからなんなのだ。
ジェイスはジャケットの内ポケットから何かを取り出し、俺に差し出した。
そこには、親指大ほどの、灰色の厚い鱗。
「持ってろ。何かあったら、俺の名前を呼べ。分かる」
何かって、何もないと思うけど。でもまあ、心配してくれているようなので、素直に受け取っておく事にする。
手にすると、手の平に結構重みを感じる。金属とも、動物性ともいえない材質の手触りがした。グレー、というにも微妙な、しいていうなら、灰色の。
……もしかして、ジェイスの鱗ですか? じゃあ、竜鱗? こ、高額素材だ!
「サンキュー」
「気をつけて行け」
「心配性だな、お前。顔に似あわず」
「……顔は余計だ」
俺は笑った。最後にもう一度だけ、ジェイスに礼を言い、手を振って廊下を駆けた。
* * *
少し軋む金属の扉を開けて、後部甲板に出る。
全てが白濁しているかのように見えた。
空気が肺に重い。水を多量に含んだ潮風が頬をなでる。
「霧……?」
やっと、例の霧の海域に入ったのだろうか。
東大陸と西大陸の間に横たわる、濃霧地帯。
この辺りは頻繁に、風も波も気紛れに向きを変え、来る者を拒絶する。
普通の帆船では、絶対に通れない海域。
2メートル先すら、すでに真っ白だ。
俺は急いだ。こんな所に、女の子を長く待たせておく訳にはいくまい。
霧の中、ノーフェは壁に背中を預けるようにして立っていた。
タービン音や機械音が耳に痛い。振動が床を伝って足から全身を震わす。
船尾の行き止まりに造られた手すりの、すぐ真下には大型のスクリューがあるからだ。これがないと、霧と無風の中、進む事が出来ない。
俺が近づくと、ノーフェは気づいて手を小さく振った。
「ごめん、待った?」
「ううん。今来たところだから」
なんか、カップルの待ち合わせのようですね。ちょっといやかなり嬉しいです。 側に寄らないと話が聞き取りずらいから、顔を寄せないといけないのも、ちょっと嬉しいです。そして少し緊張します。彼女いない暦長いからね。勉学一筋だったからね。
「霧が出てきてるね」
「ええ。出港から10日以上経ったもの。そろそろ霧の海域に入ったんでしょう」
「霧の海域……」
「もう10日間ぐらいは、ずっとこんな感じよ」
そうなのか。結構広域なんだな。
「……ねえ。貴方は知ってるの?」
「何を?」
「その魔道書が、3冊組みになってること」
「ああ、これ? 白本【魂魄の書】、赤本【炎躯の書】、黒本【暝闇の書】。《神の塔》の試練を耐え抜いた者に与えられる、神の叡知。だろ?」
ノーフェが頷く。
「なら──三冊揃えば、神様がどんな願い事でも、一つだけ、叶えてくれるっていうのは?」
それは初耳だ。
「え、何それ。初めて聞くよ」
どんな願い事でも叶えてくれるなんて。どんなのでも良いのか?
「どんな願い事でも、いいの?」
「ええ。神様だもの。出来ない事なんてないでしょう?」
じゃあ。それなら──
「元の世界に帰して下さい、ってのも、叶えてくれる、って事か?」
ノーフェが目を閉じる。
気を抜けば爆発してしまいそうな感情を抑えるように。
「ええ。きっと」
「やった!」
帰還方法が全くない訳ではないのだ!
希望の光が見えてきた。
「黒本は俺が持ってるから、残り2冊の所有者を探せばいいってことだよな!」
俄然、やる気が出てきたぞ。
ノーフェが静かに目を開く。
薄紫色の、澄んだ瞳が俺を見つめた。
「あなたも、やっぱり帰りたい?」
「当たり前だろ!」
「こちらの世界も、良いところだと思わない?」
「面白そうだとは思うけど、俺がいるべき世界は、あっちだから」
ノーフェの口元が震えた。
「どうして? 面白そうなら、ずっといればいいじゃない」
「ずっとは無理だよ。あっちの世界には、家族とか、友人とか、待ってるし」
「こっちで作ればいいじゃない」
「そういう訳にはいかないよ。そうだろ?」
なんだか様子がおかしい気がする。
「ノーフェ?」
「希望なんて……なんで、今更……あの人に見せるの……」
少女が俯いて呟く。その後に続く言葉は、タービン音にかき消されてよく聞こえなかった。
「ノーフェ? どうしたんだ?」
肩に触れようと手を伸ばしたら、振り払われた。
薄紫の瞳が、俺を射ぬく。
口元には笑みを浮かべたまま。
「ねえ。《あちらの世界》の冒険者が死んだら、どうなるか知ってる?」
「……知らない」
考えないようにしてたからね。怖いから。だって、怖いじゃないか。
ゲームだったら、パーソナルスペースに強制的に帰還させられるだけだけど。ここの場合は、どうなんだろう。最悪、死んだまんまだったら、泣けてくるんですけど。なにそのデスゲーム。
「教えてあげる。《最初にいた場所》に戻るの」
俺は息を飲んだ。
「じ、自分のパーソナルエリアに戻る……んじゃ、ないんだ。やっぱり」
ないもんな。ここに俺のパーソナルエリア。
アイテム保管庫や、獲得した家具類、調度品などがある、ゲーム内にある俺の第2の自室。
てことは。
俺は、またあの暗い森に戻るってことか──?
独りで。
ぞっとした。
凶悪兎は、もう、結構です。
「ねえ」
今度はなんだ。
「【吸命の魔種】って魔法って、知ってる?」
【吸命の魔種】
闇属性の魔法スキル。
特殊な魔の種をモンスターに植え付け、魔法が発動すれば、HPとMPを徐々に奪い、自分のHPとMPに還元できる。その効果は、モンスターが力尽きるか、術を発動した者が解除するまで続く。
「知ってるけど、それが?」
ノーフェが一歩、俺から離れる。
「あの可愛い犬のチビちゃんたちに、種を付けたわ。あとは、発動するだけ」
「……何だって?」
ちょっと。お前はなにを言ってるんだ。
「ねえ。《こちらの世界》の住人が死んだら、どうなるか知ってる?」
「こちらの世界の、住人……?」
ノーフェが、笑みを浮べた。
「そう。この世界に元々いるひとたち……私や、チビちゃんたちのことよ。私たちは、死んだら、それまで。終わりなの。まあ、それが当り前の事なんだけどね。《神様の特例措置》が、私たちにはないのだから。あなた達のほうが、おかしいのよ。死んでもやり直しができるなんて。ありえないわ。共に、死ぬ事すらできないなんて……」
「…ノーフェ。何を考えてる?」
ノーフェが手すりの前に立ち、俺をじっと見据えた。
「貴方に消えて欲しいの」
「は? 消えるって……ここ、船の上だよな?」
「そうよ。だから、ここから飛び込んで」
いよいよ深くなった霧の中、轟音を響かせるモーター音とスクリュー音。
いや、死ぬよね、それ。確実に。
何も言ってないのに、少女が頷く。
「大丈夫よ。スクリューに巻き込まれたら、一瞬で死ぬわ」
痛くないから、大丈夫よ、って。
「は? ちょっと待て。なんで、俺が、消えなきゃならないんだよ」
少女の瞳に、剣呑な光がきらめいた。
「あの人の前から、消えて欲しいの! せっかく、ここで生きる決心をしてくれたところなのに、あなたがまた希望を与えてしまった! ここまで辿り着くのに、何年かかったと思う!? 私と一緒に生きてくれるって、言ってくれたのに……」
「あの人って、誰?」
この子は、俺と同じじゃない。さっき、そう言っていた。
それはすなわち、この子は、こちらの世界の住人だということ。
俺たちとは違う、この世界の人。
それなら何故、俺たちの事情を、そんなに詳しく知っているんだ……?
一体、誰から、どこで知ったんだ……?
「君は、」
「なんで今更、現れたの。なんで暝闇の書を持っているの。あなたが、持ってさえいなければ、こんなことにはならなかったのに!」
「いや、そんなこと、俺に言われても」
「貴方の所為じゃないわ。私にだってそんなこと分かってる。でも、消えて欲しいの。この船から。あの人の前から。消えて」
なんて勝手な。
「飛び込まないんなら、【暝き呪種子】を発動するわ。解除してほしかったら、言うことを聞いて」
「聞けるか! そんな勝手な要求!」
「じゃあ、仕方ないわね」
ノーフェが紫水晶がついた黒い杖を構える。
「ま、待て! ちょっと待って! ストップ! 止めてくれ!」
「なら、飛び込む?」
「皆にはどう説明する気だ!」
「慣れない霧の中、足を滑らして海に落ち、スクリューに巻き込まれたって言うわ。可哀想な事故でしたって」
完全犯罪する気、満々だよ、この子!
どうする。
どうするよ、俺。
俺は、ノーフェの話を信じるなら、消滅しない。
でも、その真偽は不明だ。
「その情報、本当なのか?」
「本当よ。だって、私がこの目でみたんだもの」
な、何だって──!?
じゃあ、この子が俺と同じなんじゃなくて、その人の方が俺と同じなんじゃないか!
「ま、待ってくれ! 君の言ってる、《あの人》って……」
「貴方は知らなくてもいい事よ」
一刀両断。
ぬう。
さて、どうするか。
俺は手を握りしめた。何か右手にもっていることに気づいた。
握りしめすぎて真っ白になった手の平。
そこには、灰色の竜鱗があった。
ジェイスから受け取ったまま急いで来たから、ずっと握っていたんだな。忘れてた。
「あ」
そう言えば、ジェイスがさっき、言っていた。
呼べば分かる、って。
この竜鱗には、よく見てみると、幾何学みたいな文字が刻まれている。
何らかの術が施してあるようだ。
だったら。
いちかばちか。
俺は灰色の鱗を強く握りしめた。
名前を、呼ぶ。
「──ジェイス」
ほんのりと、竜鱗が光った。
頼む。
伝わってくれ──。
「何をしているの?」
ノーフェが眉根を寄せて、不審そうな視線を俺に向けた。
「別れの言葉を、ね」
間に合うかどうかはわからない。
でも、何もしないよりはマシだ。
後は、とにかく時間を稼がないといけない。
もしもの時の手段も考えておかなければ。
頭はさっきからフル回転オーバーヒート直前状態だ。
なかなか動こうとしない俺に、ノーフェがいらいらと腕を組む。
「どうするの。チビちゃん達を死なせたいの!?」
「そんな訳ないだろ!」
「じゃあ、飛び降りて!」
癇癪を起こした子供のように、ノーフェが杖で床を叩いた。
「わ、わかったから、まあ、落ちついて」
詰め寄るノーフェに押されるように、俺は後ろに下がった。
背中に冷たい手すりが当たる。
嫌な汗が、頬と背中に流れた。
黒本を出せないから、魔法が使えない。
アイテムすらも、取り出すことは許してくれないだろう。
だったら。
「ノーフェ……」
「なに」
俺は、ノーフェに灰色の竜鱗を見せた。
「お願いがあるんだ。俺の形見代わりに、この御守をジェイス達に、渡してくれないかな……?」
ノーフェは少し考えた後、頷いた。
「いいわ。それくらいなら」
ノーフェが近づき、手を伸ばした。
──今だ。
「【足払い】!」
「きゃあ!?」
【足払い】は綺麗に決まった。
伊達に、兄妹相手に日々攻防を繰り広げていたわけじゃない。
ノーフェが転倒する。
ダメージはない。
なぜなら、俺は【武闘家】じゃないから。
そもそもこれは【攻撃技】ではないし。
あくまで、【ジェスチャー】なのだ。
このゲーム、なかなか面白いところがあって、これもその1つだ。
コメント以外のコミュニケーションツールとして、【ジェスチャー】がある。
敬礼をしたり、座り込んだり、落ち込んだり、踊ったりするやつだ。
それも種類がかなり豊富で、デフォルトで入っているもの意外は、宝箱に入っていたりする。何故か。
まあ、それを見つけるのも結構楽しかったりするけど。
【ジェスチャー】の中には、【技】っぽいものもある。
相手のキャラに作用する類いのものも。
それは大抵、宝箱に入っている隠し【ジェスチャー】だ。
但し。
攻撃技ではないので、ダメージは全くない。
技発動中断や詠唱中断もしない。
だからか、首を絞められながら詠唱、なんて不思議な現象も起こる訳だけれど。
これはあくまで、挨拶の一環なのだ。
ダメージがあるとすれば、心の方に受けるだけだ。
【足払い】もその1つ。
相手を転倒させる。
ただそれだけ。
「な、何を……」
「【袈裟固め】!」
柔道の基本の押込技です。他にもあります。結構沢山。
製作者に、柔道好きがいたのかもしれない。
「【横四方固め】!」
あ。これは女の子にはまずかったか。
「いやあああ!」
「うう、このっ……!」
ノーフェの薄紫の瞳が、怒りで真紫に変化した。
心に、相当ダメージを受けたらしい。
詠唱を始めた。
上に乗っかる俺を吹き飛ばす為に。
【吸命の魔種】とは違う魔法を。
よし、さあ来い!
例え、まともに魔法をくらっても、ダメージは《最強装備》がほとんど防いでくれるだろう。
このまま戦闘に持ち込めれば、なんとでもなる。
「炎獄の魔王よ、彼の者に獄炎の鉄槌を下したまえ──【ステュクス・フレイムブロー】!」
え。
「ちょ、なんでそんな上位魔法!?」
【ステュクス・フレイムブロー】
属性:火属性
取得レベル:魔道士 レベル70以上
炎獄の魔王の、燃え盛る巨大な拳が振り下ろされる。
受けた者は、消し炭さえ残らないだろう。
「待て待て待て──! それヤバい、船が──!」
それは地面がしっかりした所でやる魔法だ!
俺も魔道士時代にしたことあるけど、しばらくの間、地面が焦げてたもんな!
ノーフェも少し我に返ったのか、瞳に一瞬戸惑いが浮かんだ。
「あ」
慌てて、エリア防御魔法を詠唱しはじめる。
魔道士では間に合わない。
俺は黒本を装備した。
【魔導学者】は、【魔道士】よりも詠唱が早い。長々滔々とした前振り呪文がないからだ。
【詠唱短縮】も合わせれば、もっと早くなる。
急げ!
「我、アイテールを通して、天と水の元素に干渉!」
開かれた魔導書の上に、正8面体と正12面体が現れて、回る。
「守護の円となりて、我らを守らん──【天涙の円環】!」
人1人潰せそうなくらい大きな、燃え盛る拳が振り下ろされるのと、
きらきら光る、薄い水の膜のドームが後部甲板全部を覆うのは、
同時に近かった。
そして。
獄炎の拳の爆風が、エリア守護魔法を唱え終わった俺を、吹き飛ばす方が一秒ぐらい早かった。
え。
またこのパターン?
俺って、本当、リアルラックが低いよね。
吹き飛ばされ、手すりを飛び越える。
見下ろすと、轟々と水をかき分ける大きな三つのスクリュー。
これは、もう、間に合わない。
滞空中に詠唱はできない。
痛いんだよね、この世界。
痛覚あるんだよ。
ダメージを受けると、リアルに痛い。
鬼だ。鬼設定だ。鬼畜設定だ。
責任者はどいつだ。
クレームのメールをかいてやる長々と。
俺は目を閉じる。
「──宵月!」
「あ」
振り返る。
霧の中、左通路から駆け込んでくるジェイスが見えた。
来て、くれた!
俺のSOS、届いたんだ。よかった。
でも──
海面に打ちつけられる衝撃。
肌を刺す、海水の冷たさ。
視界を埋め尽くす、白い泡と深い青黒。
予想していた痛みは、なかった。
冷水によって、痛覚が一時的に麻痺したのかもしれない。
ああ。
死ぬのかな。
この世界に来て、初めて。
また、あの凶悪兎の森に戻るのかな。
勘弁してください。本当、マジで。