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009




 こぽり。


 こぽり、と。


 水音。


「──き!」


 水音に混じって、何か声がする。


「──月!」


 名前を呼ぶ声。

 俺の名前?

 違う。

 俺の、本当の名前は。


「目を開けろ! 起きろ! 宵月!」


 俺の、名前は──




「宵月!」


 そうだ、今の俺は、今は【宵月】だ。


「おい、起きろ!」

 耳が痛い。耳元で大声出すな。

 あと、頬を力一杯叩かないでほしい。すごい痛いんですけど。腫れたらどうしてくれる。


「頼むから……」

 ジェイスの声だ。あれ。珍しく、なんだか泣きそうな声。


「「やだ! 起きる! 青いお兄さん!」」

 レフとライの声もする。こちらはもう完全に泣いてしまってる。


 ああ。

 起きないと──




 俺は、やけに重たく感じる瞼を、どうにかこうにか、持ち上げた。


 すぐ目の前に、ジェイスの顔があった。

 うわっ、びっくりした。近い。

 その両脇には、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔をしたレフとライ。


 何だ。何事だ。


 ジェイスは、全身びっしょりと濡れそぼっていた。

 どういう訳か、灰色の瞳孔が縦に割れている。

 尖った耳元から頬、首筋にかけて、灰色の鱗が少し出てる。

 俺の肩を支えている手の甲にも灰色の鱗。

 そして鋭い爪。


 お前、変化しかけてるぞ。


「……あ、れ?」


 ジェイスがいる。なんでだ。潮の匂いするし。

 ここは、あの森じゃないのか?


「俺……死、んだ、んじゃ……」

「あほか! 死んでない」

「「死ぬ、ない!」」


 あれ。チビ共もいるや。何泣いてんの。しょうがないな。あれ。手が動かせない。

 それに、さっきから耳に痛い大きな音が鳴り響いている。

 人の不安をかき立てる音。サイレン? 船体の異常を知らせる警報音なのかもしれない。


 しばらくすると、船央の脇通路から、複数の慌ただしい足音が聞こえてきた。

 霧の向こうから、たくさんの話し声もする。


「……ですから、何か、とても硬い物が、スクリューにはさまったのだと思います。それが原因で緊急停止したのでしょう。何が挟まったのかは分かりませんが」

「もう! どこのどいつよ、船のスクリュー止めやがったのは! モンスターだったら、こてんぱんに熨してやるわ。まったく! こんな夜中に緊急停止なんて!」


 マゼンダとセオだ。


「とにかく。何が挟まったのか調べないとね。冒険者の皆、調査をお願いできるかしら?」

「うむ」

「まかせろ!」

「また嘆きの巨大魚だったりして……」

「おお! 幻の珍味をこんどこそ!」

「いやああ! もう勘弁して!」


「あら? 宵っちたち!?」

 マゼンダとセオがこちらに気づいた。

「ちょ、ちょっと! 宵っち!? 大丈夫!? それに、皆も! どうしたの!?」

 ずぶぬれの俺とジェイス、泣き顔のレフとライをみて、マゼンダが慌てた表情で駆けよってきた。


「だ、大丈夫ですか?」

 後方から、繊細そうな白い青年が小走りで現れた。


 誰だっけ。記憶をひっくり返す。そうだ。確か、【天駈ける白狼】の神官青年だ。

「大変だ……急いで回復しましょう! HPがレッドゾーンです。しかも、【体温低下(強)】に加え、【凍傷】にも罹ってる。……あああ、HPが急激に減っていっています!」


 ああ、そうなのか。

 最強装備は、炎獄の魔王の爆裂パンチダメージは防いでくれても、さすがに地形効果までは防げなかったらしい。

 ここの霧の海域は、何故か、氷海並に海水が冷たかった。

 一瞬にして、感覚と意識を失った。


 青年神官が、慌てて杖を構え、回復魔法を唱え始める。

「慈悲深き大天使マーシフェルよ。我らに癒しの手を差し伸べたまえ──【大天使の祝福】」


 上位回復魔法だ。

 【神官】がレベル80以上で覚える。

 【天駈ける白狼】って、かなり高レベルなパーティだったみたいだ。


 身体が、淡く白い光に包まれた。


 暖かい。

 俺は詰めていた息を吐いた。寒さで震えていた身体が溶けて緩む。

「ありがとう。助かった……」


 礼を言うと、青年神官の顔がくしゃりと歪んだ。


「すみません。僕が、もっとしっかりしていれば……こんなことには……」


 なんの事だ? 俺は身を起こそうとして、出来なかった。力が入らない。ジェイスの膝の上に抱きかかえられてる状態だった。どういう状況だこれは。


 首を巡らすと、壁際に、ノーフェが俯いて立っていた。泣いているようだった。


「すみません。本当にすみません。ノーフェの暴走が止められなかった。いや、僕がノーフェを不安にさせてしまったのがいけないんです。僕がいけないんです。僕の所為です」


 青年神官、けっこう自虐的な性格ですね。


「すみません。ノーフェには、きつく叱っておきました。罰は僕が受けます。僕のせいですから!」

「いや、それは……。そんなことより、君は……」


 青年が涙を拭く。

「申し遅れて、本当にすみません。僕は【ユート】。松崎裕斗。君と同じ──連れて来られた者、です」



 * * *



 熱いシャワーで海水を洗い流し、着替えてベッドに入ると、一気に力が抜けた。


 シャワールームまで入ってきそうな勢いで俺の後ろについて回っていた双子が、しゃくりあげながら今度はベッドに張り付く。

「痛い?」

「苦しい?」

「いや、もう平気」

「「よかった!」」

 双子が頭を俺の脇の辺りにぐりぐりと擦り寄せる。俺はほんわりした気分を味わいながら、なででやった。


「本当に、もう大丈夫なのか?」

 シャワールームから出てきたジェイスが、ベッドサイドの椅子に座る。変化しかけていた姿は、もう元に戻っている。

「うん。【衰弱】は、しばらく横になってれば治る」

「そうか」

「……ありがとう。助けてくれて」


 あの状況から推測するに、すぐさま飛び込んで助けてくれたのだろう。

 スクリューの直前に落ちたはずだ。よく巻き込まれなかったものだ──

 いや。

 巻き込まれたんだ。

 あれだけ近かったら、巻き込まれないはずはない。それで、ジェイスは仕方なく竜化したんだ。

 強固な竜の鱗なら、スクリューに耐えられる。

 でも、ばれたら大変どころの騒ぎではない。

 モンスターだと分かったら、討伐対象になってしまうかもしれないのに。


「……ごめん」

 ジェイスは笑って、俺の頭をかき回した。だからお前、俺の年齢忘れてないか。

「気にするな。お前が助かってよかった。──しかしお前……本当に、俺を怖がらないんだな」

 あの外見、結構気にしているようだ。まあ、あれは確かに怖い。大人でも確実に泣く。でもまあ、今の情けない顔とは全く連想できないけど。俺はなんだか可笑しくなって笑った。

「……なんで笑う」

「いいや。いまさら何言ってんだって思ってな。そんなことより、すげえタイミングよくてびっくりした」


「呼んだだろ?」


 ジェイスが片眉を上げて笑い、俺の頭上にあるサイドデスクの上を指さす。


 灰色の竜鱗。


 なるほど。

「これは、スーパーマンを呼べるアイテムだったのか」

「なんだそれは」




 部屋の扉が、静かにノックされた。

 起き上がりかける俺を制して、ジェイスが答えた。

「誰だ」


「……【天駈ける白狼】のユートです。入っても、宜しいですか?」


 俺はジェイスに頷いて見せた。


 ジェイスが扉の鍵を開けると、静かに白い影が滑り込んできた。

 扉をそっと閉め、こちらに寄ってくる。


 1人だった。


「……ノーフェは?」

「部屋に戻らせました。彼女も今、精神不安定で……すみません……明日、謝りにこさせますので」

 俺は内心ほっとした。今はちょっと、顔を合わせたくない。

「【吸命の魔種】も解除させましたから、大丈夫です。すみません。本当に、この度は大変な御迷惑を……」

「どういうことか、説明してもらえるか?」


「は、はい! すみません。僕は……10年ほど前に《こちら側の世界》に連れて来られました」


 ユートが手を組み合わせる。懺悔する巡礼者のように。


「じ、10年!?」


 な、長!


 ユートが手を組み合わせる。懺悔する巡礼者のように。

「ログアウトができない、と知った時の絶望は今でも忘れません」

 確かに。


「残してきた妻と娘を思うと……」


「お前、結婚してたんか!」


 この話の展開は予想外です!


「起きるな」

 思わず起き上がった俺を、ジェイスが押し戻した。お、押さえ付けんでくれ、地味に痛い。


「僕は、帰る方法を必死で探していました。そして西大陸の存在を知り、どうにかお金を貯め、渡りました。でも結局は、これといった手がりすら得られず……とうとう、あるダンジョンで行き倒れてしまった。そんな時、【天駆ける白狼】に救われました。そして、パーティに誘われ、彼女──ノーフェと出会った」


 静かな、というか、諦めきったような表情の、あの少女。


「彼女も孤独だった。僕も孤独だった。僕たちは波長が会ったんでしょうね。すぐに打ち解けました。彼女は僕の話を信じてくれたし、辛い時もずっと傍にいてくれた……」


 ユートが、丸くくりぬかれた窓の向こうに目をやる。俺も釣られて見る。霧で何も見えなかった。


「君の他にも、連れて来られた冒険者はいるのか?」

「いますよ。ウェイフェア・パレスに行けば。常時100人以上は街中にいるでしょう」

 結構な人数だ。

 ふと、あの銀髪のきざっぽい青年を思い出した。


 ──今回の規定枠は埋まってしまっているから、特別枠でね


 今回の、と言っていた。

 ということは前回もあったということ?

 一体、何人攫ってんだ、あの男。

 通報だ。警察は何処だ。


「……コンスタンスに、何人かずつ、連れて来られてるのか」

「はい。すみません」

 いや、お前が謝らなくてもいいんだが。

「なんで、向うで騒いでないんだろう……」


なっていたら、こんな事になっていなかった。


 人を攫っていくゲームと知っていたら。

 すぐにでもゲームを止めていた。


 なんでだ?


「そうですね。連れて来られた冒険者たちは、皆口を揃えて、『こんなに攫われてるのに気づかなかった』と言われます。僕たちも不思議に思って、多くの人に聞き込みをして調べたんですが──」


 ユートが辛そうに目を閉じ、俯いた。


「そうしたら、兄弟でゲームをしていて、単身赴任中の兄がまず先に、次いで1年後に実家にいた弟が、この世界に攫われてきた冒険者がいたんです。弟が言うには、『兄は消えていなかった』と」


 んん?


「どういうことだ? 兄、攫われてたんだろ?」


「はい。確かに。連れて来られてすぐに【魔導書探索本部】に入っていますから」


 どういうことだ。

 まさか。


「向こうの世界には、ちゃんと、《自分》がいるって事……?」


 ユートが頷く。


「はい。似たような話を、いくつも聞きましたから、間違いないでしょう。親しい友人同士で、年をあけて連れて来られた場合もそうです。普通に、リアルで生活していたから分からなかった、と言われます」


「いや、おかしいでしょ、それ。俺、ここにいるし」

「僕だって、ここにいますよ。でも、おそらく、あちらの世界にもいるんです──僕が」


「え。なにそれ。誰だよ、それ」

 ユートが首を横に振る。

「分かりません。ただ──もうひとつ。皆さんが口を揃えて言うことが。『あんなにこのゲームが大好きだったのに、ある日を境に、ぱったりとログインしなくなってしまった』『人が変わったように大人しくなった』『無口になった』」


「いや、おかしいでしょ。それ」

「ええ。おかしいですよ」


 俺は、1つの嫌な想像が頭をもたげてしまった。

 

「……元の世界にいるヤツの方が、コピーなんじゃないのか?」


 それも、どうも劣化コピーっぽい感じがする。

 とりあえず、空いちゃった穴に、適当に代わりを作って入れとけ的なものを感じる。


「誰だよ! そんな適当コピー作ったのは!」


「……すみません。わかりません。それこそ、神様だからじゃないですか?」

 ユートが冗談と本気が半々に混じった返答をした。

「街には、一つの噂が流れていました」

「噂?」


「《神の塔》にあった《神の創造物》である唯一無為の赤白黒の三冊の魔道書を揃えると、神様が出てきて願いを一つだけ叶えてくれる、と」


「それ、本当なのか?」

「わかりません。ですが……皆必死で探しています。それこそ、世界中を飛び回って」

 唯一の希望、というやつですか。

「赤本の所在はわかっているんです。所持者がウェイフェア・パレスにいますから。【お宝探し隊】のロッソさん、って知っていますよね?」

「ああ、あいつも連れてこられてるのか」

 一番最初に、333階の神の塔を踏破して、赤本を手に入れたレンジャーだ。最初の【暇を持て余した狩人】として名をはせた。


 赤本【炎躯の書】。

 所持していれば、飛躍的に身体能力がアップする。HPが毎秒1ずつ回復していく。

 魔法が使用できる職業なら、特殊な回復魔法を取得することも可能だ。



 2年前に、すっかりゲームのやる気をなくし、引退してしまった、と噂できいた。

 さっきの話からすれば。


 2年前に連れ去られ、劣化コピー版と入れ替わってしまったってこと……?


「はい。彼が、言ったんです。彼も、ずっと噂の真偽を調べていました。そして、間違いない、と」

「ロッソは何か、根拠を見つけたって事?」

「そのようです。古い文献を見つけた、と言っていました。過去に、三冊の魔導書を揃え、神に願った者が人たちがいたらしいんです。それで確信した、と」


 ずっと昔にも、俺たちと同じように連れて来られた人がいたんだ。


 オンラインゲーム【グラナシエールの創世】は、初期のプロトタイプであるベータ版で10年、正規版は今年で30年を迎える長寿ゲームだ。作り込まれた世界観と、日々進化するシステムは、多くの人に愛され、未だに高い人気を誇っている。


 そうか。

 俺の知らない過去にも、《天への塔》のクエストが配信されたのか。

 俺と同じく、777階の塔を上った人、いたんだ。変人仲間が、いた。嬉しい。

 できることなら、語り合いたいところだ。

 そして。


「その人たちも、俺たちのように、元の世界に還ろうと頑張っていたんだな」

 ユートが頷く。


「宵月さん。貴方は【暝闇の書】を手に入れた。メニュー項目に、何か新規で追加されたものがありますか?」


「新規で追加された項目……?」


 あ。


 もしかして。

 

 あれか。

 あの、ふざけてるとしか思えない項目。


「ログアウト、が消えて、【オラクル】っていう項目に置き換わってたんだ。もしかして、ユートには無い?」


 ユートは目に涙を浮かべて、安堵と感動の表情で微笑んだ。


「はい。ありません。オラクル……神託という名の項目。それは、赤白黒の魔導書の所持者にしかない項目なんです。所持者は、神と通じる権利を得た者。あの噂は、真実だったんですね……」


 ユートがハンカチを取り出して涙を拭い、鼻をすすった。

 俺は身を起こした。

「じ、じゃあ! その、三冊の魔導書を集めた人たちは──」


 元の世界に、帰れた!?


 途端に、ユートの顔が曇った。静かに、首を横に振る。え。なに。何故暗くなる。


「ロッソさんにが読んだ文献によると、三人の所持者は、全員の帰還を願おうとしていました。けれど──志し半ばで、亡くなった、と」


 亡くなった?


「ど、どうして!?」

「分かりません。何らかのトラブルがあり、帰還に失敗したんだそうです。その後の彼らの行方も分かりません。情報を集めていますが、どれも人づての噂ばかりで……」

 

 帰還に失敗。

 行方不明。


 ちょっと。なんだか不穏なんですけど。


「だから、ロッソさんは、彼らの意思を次いで、志を同じくする者を集め、元の世界に帰還しよう、と組織を立ち上げました。彼は今、魔道書探索本部のリーダーをしています」

 なるほど。

「白本ですが、これが……持ち主はわかっているんです。どこのパーティにも所属してない、コクトー、という人です。ウェイフェア・パレスで姿を見た、という者もいるのですが、それ以降、行方不明です。現在捜索中なのですが、噂すら集まっていない状態です」


 コクトー。

 二番目に、555階の神の塔を踏破したアサシン。【暇を持て余した暗殺者】として名をはせた。これ流行らせた奴、暗殺されるぞ。いや、もうされてるかもしれない。


 白本【魂魄の書】。

 所持していれば、飛躍的に魔法・スキル効果がアップする。MPが毎秒1ずつ回復していく。

 魔法が使用できる職業なら、特殊な精神魔法を取得することも可能だ。


「黒本は……手に入れた者がいるのかどうかすらもわかりませんでした。あの、777階の神の塔を踏破するような変人など、いないと誰もが思っていましたし。誰も口にはしませんでしたが。でも、あれがないと、神様は呼べない。だから、所持者捜索と合わせて、黒本が封印されている神の塔の捜索を合わせて行っていました。まさか、手に入れている者がいるなんて……」


「暇人でわるかったな」


 ユートが慌てて手を振った。

「す、すいません! ち、違うんです! すごいな、って!」

「いや、いいんだ。俺の通り名、【暇を持て余した変態学者】だから」


 これつけたやつ、絶対見つけ出してボコってやるからな。なんで俺だけ変態ってついてんだ。


「俺が黒本手に入れたの、ほんの1、2ヶ月くらい前なんだ」

「そうですか……なら、分からないはずだ」

 ユートが笑う。泣き笑いのような笑みだった。


「皆、必死に探し回りました。僕も探しましたよ。早く戻らなければ、妻と娘が待ってる。気が狂いそうでした。でも……一年経っても、2年経っても、白本も黒本も、情報の欠片すら見つかりませんでした」


 ユートが力なく、目を落とす。


「こんな状態がいつまで続くのか……一生涯かけても状況は変わらないのではないか。僕は、そう思うようになりました。2年は、短い時間ではありません。僕がもし戻れたとしても、妻はきっと許してくれはしないでしょう。そんな時、ノーフェがいつも元気づけてくれました。妻も娘も、新しい幸せを見つけてる、僕も此処で新しく見つけたらいい、と。一緒に静かな場所で暮らさないか、と誘ってくれました」


 それで、か。


「僕は……もう、疲れました。冒険者を辞め、住人としてこちらの世界に同化し、ノーフェと一緒に暮らそうと、決めた。そこに──」


「俺が黒本──暝闇の書を持って現れた」


「はい」


 俺はユートを見上げた。

「でも、状況が変わった。赤本、黒本は見つかった。残るは、白本だけってことだ。お前は、どうするんだ?」


 ユートは手を組み直し、ゆっくりと顔を上げた。


「僕は、あと一つ未達成の依頼が残っているので、それが終わったら、ノーフェと二人でウェイフェア・パレスに戻ります。そして、冒険者を辞めようと思っています。ロッソさんにもその旨を伝えてから。それは、貴方の黒本を見た後でも、変わりません。この世界の住人として生き、ノーフェと一緒に、この世界に眠るつもりです」

「それで、いいのか?」

 ユートが笑みを浮かべる。それは、何もかもふっきれたように、澄んでいた。


「はい。もう、いいんです。僕はもう、どうしても、諦めきれない大切な人をここで見つけてしまったから……」


 ユートは鞄から地図を取り出し、俺にくれた。

「新しいウェイフェア・パレス周辺の地図です。ロッソさんのいる本部の場所も書き加えていますから、是非、行って下さい。すみません。お願いします」


 地図だ!


「ありがとう!」

「いえいえ。すみません、こんな事ぐらいしかできなくて……。それと──」

 ユートが声を潜める。


「黒本は、あまり人に見せないほうがいいでしょう。心無い人も、少なからずいますから」


 まあ、善人ばかりが連れてこられたわけじゃないだろうしな。

「わかった。気をつける」

「すみません。こんな事があって言うのもなんですが……最後に、同郷の君に逢えてよかった。宵月なんて風流な名前……日本人じゃないと付けませんよね?」

「まあ、そうかも。そうかな?」

「ふふ。そうですよ。──じゃあ、僕はこれで」


「本当に、お前はそれでいいのか?」

「はい。お世話になりました。……お元気で。さようなら」


 ユートは深く一礼し、部屋を静かに出ていった。

 




 完全犯罪未遂事件、帰還に関する新旧情報、同郷の冒険者のリタイア宣言、他。あまりにいろんな物事が一度にありすぎて、頭がパンクしそうだ。

 多くの情報を得て、嬉しいはずなのに。

 なぜ、こんなにも、苦しいのだろうか。

 もう少し、彼を説得しても良かったのではないか。

 彼は、いや俺たちは、この世界に同化することなどできるのだろうか。

 わからない。

 俺には、どの選択が正しいのかなんて、わからないけど。でも。


 さようなら、なんて。


 ジェイスが俺の目を覆った。

「そろそろ、寝ろ。考えるのは明日でもいい。どうせ船旅は、あと20日もあるんだから」

「……そうだな」

「考え方も、選ぶ道も、人それぞれだ。諦めるのも、諦めないのも、個人の自由だ。お前が思い悩むことはない。だから、泣くな」

「はあ? 俺、泣いてないぞ。何言ってんだ」


 湿ってるのは、汗だろ。

 変な汗をいっぱいかいて、汗が目に入って痛いんだよ。

 声が震えたのも、変な姿勢でしゃべったからだ。


 俺は目を閉じた。

 なんだかひどく疲れていて、身体に力が全く入らない。

 さっきから、頭も痛い。


 ふと両脇に、二つの寝息が聞こえるのに気付いた。

 レフとライ。二つの体温。

 もふもふとした耳が、腕に当たる。


 俺は息をついた。

 冷えきっていた体に、ふかふかとした毛の肌触りと、じんわりとした温かさが心地良い。

 視界も覆われたまま、シャットダウンされている。


 真っ暗で、なにも見えない。

 

 けど、温かい。



 意識は、すぐに眠りの底へ落ちていってしまっていた。 

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