黄泉の川辺で
暗い川面を死者の魂が流れてゆく。
永久に続く青い薄闇の中、淡い燐光を放ちながら無数に水面に浮かんでいるのは、肉体という肉体の軛から解放された魂の群れだ。
ここは――煉獄、と人間たちが呼んでいる世界。
物質界と冥界の狭間、曖昧で虚ろ、それでいて確かに存在する場所。
数多の銀河宇宙、重なりあう次元領域も含め、あらゆる時間と場所で生命が育む「命」。それが尽きた時、本質である魂が抜け出して、ここへ至るという。
目の前を流れる煉獄一の大河には、無数の白い魂が流し灯籠のように揺らめいている。流れに身を任せるもの、浮き沈みを繰り返すもの、沈んだまま二度と浮かんでこないもの――。大きさこそ違えどもどれも、皆一様にオタマジャクシのように白い尾を懸命に動かして、何処かへ向っている。
流れの先にあるもの。それは魂の審判所と呼ばれる関門、新たなる受肉へと至る通過儀礼であり、輪廻する魂の浄化への旅路の始まりだ。
――と、川の岸辺を二つの影がゆっくりと動いていた。
薄闇の中に浮かび上がるのは鬼火の灯火。それが青白い光を発し、二人の足元を照らすようにふわふわと浮いている。
地面――と呼んでいいかも怪しいが、足元に広がっているのは暗緑色をした半透明の水晶の砂地。目を凝らすと無数の銀河団や星々が、位置を変えながら動いているのがぼんやりと透けて見える。
「エンマさま、遅いですよー」
川岸で歩みを止め、振り返り声をかけたのはあどけなさを残す少年だった。
たまご型の綺麗な輪郭に、杏の種のような大きな目、かたちの良い小鼻。髪は美しい銀色で、顎に近いラインで切り揃えられている。
その場で二度、三度と幼子のように跳ねると軟らかな銀色の髪が頬で揺れた。ふっくらとした薄紅の唇は、少年とも少女ともつかない柔からな雰囲気を漂わせている。
「……はいはい、お待ちよヨミル。急くのではないさねぇ」
少し後ろを歩いていた「エンマさま」と呼ばれた人物は、気だるげ答えた。その声は鈴音のように軽やかで若く、まるで少女のそれだ。しかしどこか凄みのある声色は、恐ろしく齢を重ねた人物にも思える。
やがて鬼火が照らすヨミルを追うように、闇の中からゆっくりと姿を現したのはゴシック調の漆黒のドレスを身に纏った美しい顔立ちの少女だった。
怜悧で整った顔立ちにすっと通った鼻梁、切れ長の目に柳葉の眉。よく手入れされた艶のある黒髪は腰に届くほどに長く、見事な姫カットに整えられている。その容貌は、夜空に星を散らしたようなドレスと相まって闇から生まれた陶器人形のようだ。
肌は透けるように白く全体的にモノトーンな色調の中、瞳だけが紅水晶の鮮やかな色を帯びている。
人間世界の基準で言えば「人間離れした美少女」といったところだろうか。
「はやくしないと美味しい魂、逃げちゃいますよ」
「あぁ、ベテルギウスとプロキオンの交わる良き夜さ。急かずとも、逃げやしないよ魂は。何処にもね」
「もう、言い訳ばっかりなんだから」
銀髪の少年――ヨミルは少し頬をふくらませ、視線を足元に落とす。暗緑色の地面の向こうでは、赤い光と黄色い星の光がゆっくりと重なりあい、交差してゆく。それを見つめるヨミルの黒曜石のような瞳には、人ならざる妖しい光が見え隠れしていた。
「堕ち魂拾いの当番なんて、気が進まないねぇ……と言ったまでさ」
「エンマさま、それに夜っていうのは人間界の言葉でしょう? 惑星の自転と恒星の位置関係と公転周期で生じる、光の当たる領域に対する影の領域の事。この場所にはそんなものありませんし」
「……おまえは見た目は可愛らしいけれど、実に鬱陶しい子だね、ヨミル」
「そんな事言ってもだめですよ、エンマさま。さぁはやくはやく。ボクはお腹がすいてきました」
「やれやれだねぇ」
二人はそんなやりとりのあと、再び静かに川べりを歩き始めた。まるで闇が二つ、人の形を纏って歩いているといった風に。
シャリシャリと足元の砂が乾いた音を立てる。向こう岸が見えないほどに広い川は、何も変わらずに静かに魂を運んでゆく。
と――。
ポチャン、と近くで水音がした。
見ると、水面から離れた位置に、飛び出した魂が一つ。白い尾を引いて、ぱたぱたと尻尾を揺り動かしている。
「あ、いたいた。見つけましたよ、エンマさま」
ヨミルが少年らしい素早さで駆け寄って、川べりでふわふわと浮かんでいた「はぐれ魂」をキャッチ。嬉しそう微笑むと、エンマに向かって手を振る。
「『流れ』から弾き出されるとは、余程……複雑な罪を背負った魂かねぇ?」
しなやかな仕草で黒髪を耳にかき上げると、エンマはヨミルの手の中で暴れる魂に手をかざした。途端に魂の光が増し、見る間にそれは人の形を浮かび上がらせる。
『こ、ここは……何処だ!? 俺は……死んだはず……? お前らは……なんだぁあ!? あぁ、わかったぞ地獄、地獄かぁあ!?』
「いや、地獄でも天国でもないさね。煉獄、その狭間さ」
『煉……獄?』
それは、ガマガエルのような顔つきの、背の低い中年男だった。その瞳は濁り、全身から嫌な臭いがした。おそらく何か罪を犯して、その直後に「特別な事情」で死んだのだろう。
でなければ、煉獄の川辺に打ち上げられるはずなど無いのだ。
罪人も清らかな魂も分け隔てなく、浮き沈みしながら川を流れてゆくのが煉獄の川の理なのだから。
淡く透けるような人間の姿となった男は、生前の記憶と意識を持っているようだった。きょろきょろとあたりを見回して、美しいゴシックドレスの少女と可愛らしい少年を目にし、再び腰を抜かしたかのように口をパクつかせる。
「あ、質問はしなくていいよ、答えないし。どうせ答えても分からないだろうから」
ヨミルが小馬鹿にしたように笑う。
「はいはい、説明は後。ちょいとお待ちよ……早速、審査するからね」
はぐれ魂を前に、エンマは懐から小さな手帳のようなサイズの「四角い板」を取り出した。
片面は星屑や宝石で可愛らしくデコレーションされた板のようなそれは、ガラス面にいろいろな文字や記号が浮かび上がり、指先で操作できる。人間界のスマートデバイスによく似ていた。
――煉獄デバイス『ジャッジペディア』。
あらゆる時間と空間を超越し魂の記憶に直接アクセスする煉獄科学の結晶。
魂がここにやってくる経緯や、その者が生前に行った行為すべてを、閻魔十尊と呼ばれる煉獄の審判査定員たちが時空を超越して審査を行い、申請側としての体感時間は僅か数分――本当に僅かな時間で「審決」を出してくれる優れものだ。
エンマは目の前の中年男に向けるとパシャリと魂を写す。細い指先で片面をスイスイと鼻歌交じりになぞり、次いで何かをちょんちょんと打ち込んだ。その時間もわずか5秒ほど。
「……最近は煉獄も人間界の知恵やらを取り入れてねぇ。随分便利になったんだよ。昔なら――おじいちゃん……真閻魔大王様と十王様の『十尊裁判』を受けなきゃならないから、惑星自転周期換算なら何百日もかかったとか言うけれどさ。それが今じゃ……これでおしまいさね」
意外と饒舌なエンマだが、ペペペと気軽な様子でデバイスを指先操作すると手続き完了。あとは審査を待つばかりだ。
『な、なぁ……俺はどうなるんだ?』
「急くのでないよ。――人間界、人間族のさまよえる魂。名前は……伊坂トモノリ38歳独身。天の川銀河オリオン腕、第18管区辺境――ヒーペリオン級恒星系143惑星アース3出身。現地名:地球。って当たり前さね、ここがアタイの管轄惑星だもの」
『い、え……?』
「なになに罪状は、婦女暴行? 犯行後、逃亡中にズボンが脚に絡まって下水に落ちたところを飲酒運転の車が突っ込んできたために跳ねられて溺死……。その際に水棲生物数匹を殺害……なんだいこれ?」
エンマが呆れたように手に持った煉獄デバイスから、鋭い視線を伊坂に向ける。
確かに許されざる罪を犯したが、その後は不慮の事案が重なり、魂は迷い、この場所――煉獄の川辺に打ち上げらたという事情らしい。
『そ……それは……その、俺は……うっ』
伊坂が胃のあたりを押さえて、何かを思い出したかのように顔をしかめる。溺れた際にいろいろと飲み込んだらしい。
魂のゲージというグラフは「ややマイナス」を指している。これは犯した罪の質により魂は変質し、重さが変化する。
しかし、罪と言っても時代や文化、世界情勢によっても変わるものだ。
惑星に生じる知的生命体の育む文明中で、定められた規律や規範は、実に様々だ。
だが、この煉獄では『ジャッジペディア』を経由することで、それらを十分にに勘案したうえで、公正な審判が行われている。
弱い者を強い者が食うのが当然とされる文明圏の罪状と、他の個体の殺傷が重い罪になる文明圏では当然、判断基準もすべてが異なるからだ。
とはいえ――絶対的に変わらないものがる。
それは、エンマの持つ感覚だ。
「要はアタイが気にいるか気に入らないか。それがここの基準でもあるんだよ」
『そ、そんな!?』
普通の暮らしを営んでいた魂ならば、正当な転生のサイクルへと向かう権利がある。だから種族や人種の壁を超えて、魂は転生のサイクルへの川を流れてゆく。
だが、時に、罪人の中でも川の流れの淀みに捕まったり、弾き出されたり……流れてゆく事ができない魂も存在する。
伊坂という男の場合、最後に下水で他の生き物を殺した罪か、女性に傷を負わせ苦痛を与えた罪か、あるいは、不確定の事故によりその生命を終えたこと。それらが複雑に絡み合い魂が流れから押し出されてしまったのだろう。
「でもさ、死んでよかったんじゃない?」
ヨミルが慰めにならない事を言い、背の曲がった伊坂の肩を叩く。
『う、うるさぁあああい! あの女……あいつが悪いだ! 俺を……俺をバカにしやがって! 全財産を……全財産をつぎ込んだのに! あぁああ! だから……! 俺は悪く無い! あぁああ! あっあー! 悪くないぃいいったらぁああ!』
ギリギリと歯を食いしばり、真っ赤に充血した目をむく伊坂と呼ばれた男の霊は、まるで怒り狂ったガマガエルように震え、今にも暴発しそうな色合いに変化していた。
「……ふぅん? まぁ、お前程度の罪人なんて、掃いて捨てるほどいるさね。それが煉獄。それそこ銀河中から流れてくるんだからねぇ」
『じゃ、じゃぁ俺は……地獄に行かずに済むのか?』
どうやら、ここがまだ地獄と天国の狭間であると伊坂は解釈したようだ。しかも自分には情状酌量の余地があり、犯した罪は軽微。
そこまで重い罪のはずはない……とも考えているようだ。
と、ピロリン♪ 軽い音とともにデバイスに『審議終了』の文字が浮かぶ。
「どうやら、審決が出たようだね」
エンマが手元の煉獄デバイス『ジャッジペディア』を、嬉しそうに眺める。まるで友人からのメッセージを喜ぶ人間の少女のような顔で。
『早ッ!? 早すぎないか? ちゃ、ちゃんと審査したのかよ!?』
「あぁ、したともさ。嬉しいだろう? 僅か一分もかからないスピード判決。煉獄の審判も、宗教戦争で大量虐殺した男の公判やら何やら、最近は色々忙しいんだ。おまえごときのはぐれ魂なんて、一々相手にしてられないのさ」
『煉獄でもこの扱い……。俺の人生って……』
色々な意味でうなだれる伊坂。とはいえ煉獄の住人である二人は、同情する気など皆無だ。
「確かに『ジャッジペディア』の出した審決は……地獄行きじゃぁないさね」
すこし残念そうに煉獄デバイスを伊坂に向けると『転生可』と表示されていた。
『て、転生? じゃ、じゃぁ俺は地獄行きじゃなくて転生できるんだな!? あぁ……知ってるぞ、そういう仕組み! アニメで見たことあるもんな、あはは! ギヒャハハ!』
歪んだ喜色をエンマとヨミルに向ける伊坂。
「ご明察。でも、あたしゃ罪状審判よりも、どちらかといえば、転生審判を司る役どころでねぇ」
エンマが暗く声を潜めた。淡いルージュを塗ったような唇の端が、僅かに持ち上がる。
『な、なら頼む……! 俺の人生はずっと酷いものだったんだ、だから次の世界ではもう少しモテモテに、いや……贅沢はいわない! せめてマトモで幸せに……! な、なっ!? いいだろう? 頼む! いや、お願いします』
擦り寄り懇願する伊坂。しかし、汚いものでも見下すような目線を向けるエンマ。
「……何か、忘れてやしないかい?」
『え……?』
「どういう事情であれ。お前のしでかした事さ。女の感じた恐怖と痛み……それは償うべきだと思うんだよ。どういう転生をさせるかは、あたいの裁量なもんでねぇ」
『……! で、でも悪いのは……あの女なんだ!』
「あぁ、決めたよ。お前の転生ジャッジメント!」
エンマは細く白い指先を差し向けると、伊坂を指弾する。ゴゥオオン! とまるで鉄板を叩きつけるような音と光が炸裂し、空間を揺るがすような衝撃に伊坂は吹き飛ばされた。
『ぐは、あぁあああ!?』
伊坂の身体は渦を巻きながらぐるぐると回転し、オタマジャクシのような魂の姿に戻る。
「エンマさま、いただきます」
「おたべ」
エンマの短い言葉に、ヨミルが頷く。そして、吹き飛ばされた伊坂の魂を追うように駆け出すと、足元から湧き上がる黒い霧に包まれた。次に黒い霧を突き抜けたヨミルは、銀色の産毛に覆われた耳と、長い尻尾を生やした妖狐のような姿へと変化していた。
『――んなはっぁあぁぁぁ……!?』
妖狐姿のヨミルが吹き飛ばされた伊坂の魂を空中でパクリとキャッチ。まるで「踊り食い」のようにそのまま飲み込んだ。
ぱくり、もぐもぐ……ごくり。伊坂の魂は跡形もなくヨミルの胃袋の中へと消えた。妖狐姿のヨミルがもう一度口を開けた時、ブラックホールのように渦を巻く暗黒の穴が見えた。
着地と同時に元の可愛らしい少年の姿へと戻るヨミル。
「……お味はどうかしら?」
「下の中かなー。後味悪い」
けふ、とちいさなゲップをする。
「まぁ、大した魂じゃなかったからねぇ」
「で……エンマさま。何処に転生させたの?」
好奇心に満ちた黒い大きな瞳を瞬かせる。
「同じ銀河内の第237管区――未分類辺境惑星ヴァサーゴァの奴隷種族さね」
「ふぅん?」
エンマは手元の『ジャッジペディア』を再び操作すると、その惑星の生態を映し出し、横に寄って来たヨミルに向けてみせる。
「えぇと、なになに? 『惑星ヴァサーゴァの知的生命は二種。上位フーハルトと奴隷生物ゲッシュハルト。ゲッシュハルト属は上位生物の苗床として幾度も体内に卵を産み付けられ、幼生に徐々に体内を食い荒らされる苦痛と恐怖、そして生命を育む喜びに身を委ねる』って、うわ……これ地獄?」
「なんてことを言うんだろうね、失敬だよ。生命の溢れる住み良き惑星さ。そこであの男も望み通り。ようやく喜びに満ちた清らかな生を送ることだろうさ」
「ふぅん……温情判決ですね」
「あぁ、そうかねぇ?」
二人は白く輝く川面に視線を向ける。銀河を流れる「天の川」にも似た魂の大河では、何も変わった事など無かったかのように、おびただしい数の魂がゆっくりと流れてゆく。
「行きましょうエンマさま、まだ食べ足りないよ」
「やれやれだねぇ」
無邪気な笑顔を見せるヨミルがエンマの手を引き、二人は再び川辺を歩き始めた。
ぽちゃん……!
暗い水面の何処かでまた音がした。
<つづく>