蝉時雨
「もういい、出てってやるよ、こんな家!!」
そう叫び、近くにあった財布と携帯電話だけをポケットに詰め込んだ僕は、そのまま靴を履くや否や、転げるように家を飛び出した。
そのまま、ゆっくりと安全対策で閉まる、鈍いドアを力任せに押して、音を立てて閉じる。そのまま最後にドアを蹴り飛ばして靴跡を残してやろうかとも思ったけれど、そんな気力すら起きないほど、先程言い放たれた言葉が僕の胸に深くまで突き刺さり、生きる力を奪い取っていく。
あまつさえ、追い打ちを掛けるように、行くアテすら、今の僕には何処にもない。
今が昼間ならば近くの図書館も開いているのだが、夜の十一時に空いている図書館は、生憎と僕の近くには存在しないのだった。
それでも、喧嘩をしつつも愛していた母に、「もっといい子が生まれてくれば良かったのに」と言われてしまえば、こうしてバイト帰りの服装のままでも、家を飛び出したくもなる。
そんな事を頭の片隅で考えながら、僕はポケットに詰め込んだ携帯電話と財布を、近くの駐輪所で調べる。
バイト帰りで充電中だったものを持ってきたため、携帯電話の電池残量は、三割二分。そして、財布の方も、最近は学校をサボっていたため、昼御飯と夜御飯を毎日のように外で食べていたため、一万円と小銭が少し。
そんな僕をあざ笑うかのように、曇っていた空が、僕の頬へ一滴の雨を降らした。
「このタイミングで雨とか……死にたい」
吐き捨てる様に呟き、そのまま家から遠ざかる。先程大口叩いて家を飛び出した癖に、今更、傘を取りに家の中に戻るわけにもいかない。いや、流石にバイト先の鍵と家の鍵と自転車の鍵を繋いでいるカラビナを家に忘れていたなら、明日、明後日のバイトの為にも、恥を我慢して取りに行かなければならないが、その必要は無いらしい。帰って来る前にベルト穴にカラビナを引っ掛けてそのままだったらしく、三つの鍵が、チャラチャラと僕の腰辺りで音を立てている。
タイムカードは財布の中、シフトは僕の頭の中なので、これでバイトへは家を経由しなくても迎える。だが、早くも本降りになってきた雨はそんな僕を容赦なく濡らす気らしく、瞬く間に小雨から、土砂振りになった。
これには優雅に道を歩いていた老若男女も度肝を抜かれたらしく、あちこちで悲鳴と共に走る通行人の姿が見える。だが、僕はどうせ家以外で向かえる場所なんてどこにもない為、諦めて、アテもなく、とぼとぼとバイト先に向かって歩く。どうせ、行くアテもないから、頭の先からつま先までずぶ濡れにされるのは明白だった。
それでも走っておかないと、まるで雨の日に傘も差さない狂人みたいに思われるかもしれないが、母に嫌われた今、赤の他人の目などどうでもいい――いや、願わくはこの姿をクラスメイトや友達に見られる事は避けたいが、既に単位を数個落としてしまうほど学校をサボっている今、どうせ僕はこの先も学校をサボり続ける。ならば、今更、そんな事で交友関係が崩れようが、後で忘却されて消滅しようが、結果的には同じ事なのだから。
ともあれ、このまま雨の中を歩き続けると、流石に携帯電話と財布、そして何より僕が風邪を引いてしまう為、一刻も早く、行きつけのうどん屋へ到着したい所である。
バイト先のスーパーの近くにあり、帰る方角にあるそこで晩御飯を食べてから帰るのが日課になっており、今では一人しかいない、二代目店主の墨染ゆかりさんと仲良くなっていた。
と言っても、ゆかりさんは二十三歳、対する僕は十七歳で、ゆかりさんはうどん屋、僕は学生。なので僕がうどんを食べている間だけ会話をしていて、別にプライベートで会う事は無い。僕もそもそも誘った事が無いし、ゆかりさんから誘ってきた事も無い。そんな
あくまで店員さんとお客さんの、薄弱な関係。それが少しだけ厚く強くなった。と言うだけである。
と言っても、僕は別にゆかりさんを嫌っている訳では無い。むしろ好いていると言っても過言では無い。
独特のゆっくりおだやかな喋り方と、ふわふわとした雰囲気が、どこか母親のようで――実母、母さんは正反対の、男気あるシングルマザーなのだが――ゆかりさんと話していると、それだけで心が落ち着く。故に何でも話してしまいそうになるが、向こうが僕の事をどう思っているか分からないのに、僕だけが心を開いて、勝手に信頼を寄せていても、何だか滑稽なので、あくまでそこそこの態度を取っている。
そうして歩いていると、そのうどん屋が反対車線に見えた。この都会のビル群の中、一件だけ木造の、そこだけ江戸時代から切り取って無理矢理貼り付けたようなミスマッチ感。そして、群青色の暖簾の上の看板には、木の板に筆の書体で「すみだ屋」と書いてあった。
信号が青の状態で点滅している所を僕は駆け抜けつつ、こんなずぶ濡れで上がっても迷惑じゃないだろうか。取り敢えずタオルを貸してくれるだろうか。そんな事を考えつつ、そのままの勢いで暖簾をくぐって、障子戸を開ける。
「あ、いらっしゃ――ど、どうされたんですか、卯月さん!! 全身ビショビショじゃないですか!」
「あっ、すいません、急に雨が降って来たもので……」
そういって後退しようとしたが、カウンターから割烹着のまま飛び出してきたゆかりさんは、そのまま僕の手を握る。
「と、とにかく上がって下さい、すぐにタオルをお持ちいたしますから!!」
身長百七十三の僕に対し、身長百五十位のゆかりさんは、なぜか僕にタオルを渡すのではなく、カウンター席に僕を座らせ、背後から僕の頭をわしゃわしゃと拭いていた。
別に僕一人でも頭を拭けるのだが、どうやら世話焼きのゆかりさんの性格らしく、なぜか凄く楽しそうに僕の頭を拭いていた。
扱いが完全にずぶ濡れで捨てられていた子犬である。
「あ、卯月さん。頭を拭き終わったら、持ってきた浴衣に着替えて下さいね。そのままでは風邪を引いてしまいますからね」
「ほんとすいません、何から何まで……」
流石に遠慮するべきかと思ったが、しかし折角ゆかりさんが浴衣を用意してくれたのだから、ここは善意に甘えて着るべきだろう。少なくとも、家出している今は、凄くありがたい。
そういって音をたてて二階へあがっていくゆかりさん。それから程無くして帰って来るまで、僕は適当に店内をグルリと見渡したが、どうやら客はいないらしい。こんな雨だから、雨宿りがてらに駆け込んでくる客が一人位いても良さそうな物だが、やはり大手のうどん屋に客を取られているのだろうか。と思ったが、そういえば休日はそれなりに繁盛している為、その線は薄いだろう。
何せ、来店する客は大抵、うどんを食べに来たのではなく、ゆかりさんのおっとりとした優しい性格に癒されに来ているのだから。まあ、僕もその一人であることは否めないけれど。
と、そこで再びドタバタと、ゆかりさんにしては珍しく焦って降りてきたその手には、何故かタオルのほかに、恐らく男物の浴衣が一着、乗せられていた。ゆかりさんのお父さん――は数年前に鬼籍に入られたと訊いたから、ゆかりさんの彼氏のものだろうか。
少しジェラシー。
「あの、ゆかりさん。その浴衣って……」
「あっ、これは卯月さんの浴衣です。そのままでは風邪を引いてしまいますので、取り敢えず着替えて下さいね」
「そ、そんな、悪いですよ! ど、どうせうどん食ったらお暇させて頂きますし……」
「えっ、そうなんですか……。何か御用時でも?」
「いえ、ただ、用も無いのに居座るのは申し訳なくて……」
バケツをひっくり返した。というよりバケツそのものが降ってきているような豪雨ではあるが、しかしゆかりさんに迷惑を掛ける訳にはいかない。そう思って断ろうとしたのだが、しかしゆかりさんはやや怒ったように、僕の両手を握りしめる。
「こんな雨の中、帰るつもりですか? どうせ今日は店を閉めますから、雨が止むまでゆっくりして言って下さい。御風邪、引いてしまいますから」
「……わかりました。店仕舞いというなら、居座らせて頂きます。すいません……」
「もう、何言ってるんですか。お得意さんの卯月さんが困っているのに、お助けしない訳無いじゃないですか。ゆっくりして言って下さいね」
最後ににっこりと微笑み、それから握っている僕の手を引き、椅子に座らせる。僕は椅子が濡れるので地べたに座ろうかと考えていたが、そうなるとどうせゆかりさんが怒るか、あるいはゆかりさんまで地面に座りかねないため、ご厚意に甘えて座る事にする。
「はーい、じゃあ、頭拭いて行きますから、じっとしていてくださいね」
「それくらい自分でも出来るんですけれど……」
「まあまあ、遠慮なさらずに。どうせ今日は誰も来ませんし、わたしも退屈していたんです。だからカウンターの奥でさっきまで読書をしてたんですよ」
「思いっきりサボってるんじゃないですか、それ」
「む、心外ですね。晴耕雨読という四字熟語もあるんですから、雨が降っている時は、読書日和なんですよ?」
てっきりふわふわとしていてアホの子っぽいな。と思っていたが、意外にゆかりさんって、頭が良いらしい。伊達に二十余年生きていないというわけか。いや、晴耕雨読くらいなら僕だって知っているけれど。
「ちなみに、何の本を読んでいたんですか?」
「えーっと……らぶこめ、って言うんですか? 純愛物です」
「ラブコメ、Love&comedyの略称ですね」
「おーっ、外国人みたいな発音ですね! わたし、英語はさっぱりで……えへへ」
そう言って枝垂れ柳のように項垂れるゆかりさん。確かにここはうどん屋で、ゆかりさんも割烹着だとか浴衣だとか着物ばかりであったが、どうやらもともとそういう家庭らしく、英語はめっぽう弱いらしい。ラブコメを正しく発音できていないのだから、当然だろう。
概ね、ゆかりさんのお父さんが横文字大嫌いな人間だったのだろう。
「へー、純愛物、ですか。僕はあんまり、純愛は読まないですね。というか、本自体あんまり読む機会が無いというか、時間が無いというか」
「あっ、確かにバイト、沢山入ってますよね、卯月さんって。週に五日、でした?」
「そうなんですよ。だから、日中は学校、その後間髪入れずにバイトで、帰って来ると夜の十時で、そこからご飯食べて帰って風呂入ってってしていると、自由な時間がほとんどなくて……」
言った後で、そういえば最近は学校をサボっていたな。と我に返る。
「大変なんですねぇ……ご愁傷様です」
「でもそれを言うなら、ゆかりさんだってしんどいんじゃないですか? 定休日の水曜日以外、一日中店番してるじゃないですか」
「いえ、一応、お昼に一時間ほど休憩挟んでますし、それに楽しいですからね」
仕事が楽しい。そう思える事が、どれだけ幸福で恵まれている事か。そうやって、胸を張って仕事が楽しいと言い切れる紫さんを、素直に羨ましいと感じてしまう。
僕が働いているスーパーは、別に苛烈な環境でもないし、同僚や上司や部下も、良い人たちばかりである。それに、給料だって時給八百円と、平均少し上の、良い所だ。
ただ、それでも、学校は楽しくない。それに、バイトだって楽しくない。毎日四時間、自分の人生を売って、三千二百円。ただそれだけのはした金を稼ぐために、自分の不可逆的な人生を四時間換金していると思うと、背筋が凍り付くような恐怖に襲われる。
それに、学校に行っていると、換金すらない。むしろ金を払って、学校に向かう。そして、毎日八時間を棒に振る人生に嫌気がさし、最近では学校にも行っていない。
もちろん、それが間違っている事だと分かっている。誰かに言われるまでも無く。
その事で幾度も母から注意を受けた。しかしそれでも僕は、准看護師から正看護師になるために四十になっても看護学校に向かい、休みの日は仕事という苛烈な生活を送っている母のようにはなりたくない。いつしか、そう思っていた。
そんな気持ちが僕にあるからか、母が学校でのストレスを僕に八つ当たりしてくるからか、そのどちらも、だろうか。僕と母は明確な対立をしてしまい、弟ともその一環で話をしなくなった。
以来、母は僕に対して、まるでいないような態度を取ったり、僕に突然嫌味を言ったり、リビングのテーブルに置いてある僕の椅子だけ僕の部屋に隔離して、居場所を無くしたり、突然僕の部屋のドアを閉めたり。とにかく、僕が母を嫌うように、母も僕を嫌う様になっていった。それでも僕は母の嫌いな部分は嫌いで、しかし好きな部分は好きだった。
熱心に勉強をし、家事もこなし、仕事もこなす。完璧な自慢の母だった。だが、母の方は本当に、僕を嫌いになってしまったらしい。
罪を憎んで人を憎まず。という諺があるけれど、とうとう母は僕が学校をサボったり、単位を落としたり、バイトに没頭したり、反抗したり。そういう罪を憎むのではなく、僕自身を憎み始めた。そのお蔭で母のストレスは僕に向き、だから弟は被害を被る事も無かったが、果たしてそれが主因で、僕はとうとう参ってしまった。
夜中、気が付けば泣いていた。無意識に頬を自分で殴っていたらしく、手と頬が次の日、腫れていた。机の角にぶつけて折ろうとしたらしく、右腕には痣があった。手首も、リストカットの後がいつの間にか増えていた。
そんな最中、母に言われたのだ。
「お前なんか、もう出て行け」
そう言われて、しかし僕の心を支配したのは、怒りでも憎しみでも悲しみでもなく、安堵だった。
ああ、これで母に嫌われたから、僕が出て行っても母は捜索願を出さないだろうし、僕を施設に連れて行こうともしないだろう。
そして何より、母に迷惑を掛けずに済む。その事が一番、嬉しかった。
考え事をしている内に僕の怒りもふつふつと、熱された湯の如く苛立ってきたが、しかしある意味家より落ち着けるうどん屋で、ゆかりさんとこうして二人きりになっているという状況が僕のココとを安心させたのだろう。ゆかりさんの素敵な笑顔を見るだけで、苛立っていた心が静まっていくようだった。
「うん、似合ってる似合ってる。格好良いですよ、卯月さん」
「そ、そうですか? 凄い不格好になってません?」
「いえいえ、凛々しい男性って感じで、格好良いですよ。お父さんの若かった頃みたい……」
うっとり、というよりは昔を懐かしむ様な顔をするゆかりさん。しかしすぐに苦笑いで誤魔化す。浴衣を着た僕を、今は亡き父と重ねているのだろう。
そう言えば、ゆかりさんがお父さんを無くしたのは、つい数年前だという。それ以来、ひたすら一人でうどん屋を経営しているのだろう。
父の形見である、うどん屋。例え繁盛していなくても、潰す訳にはいかない。そういう使命感に駆られて、働いているのだろうか。
「さ、さて、それではご注文は何に致しますか? 卯月さん」
「そ、そういう所はしっかりしてるんですね」
「そりゃあまあ、わたしはこの店の店主ですから、営業しておかないと。……ま、卯月さんなら、ただ雑談してくれるだけでも十二分なんですけれど」
「そうですか? いやまあ、僕を話し相手として受け取ってくれるのは嬉しいですね。てっきり、お客さんって感じで一線引かれているのかと思っていたので」
「いやいや、わたしはそんなひどいことしませんよ。いや、もちろん卯月さんが突然わたしへセクハラを働くようなら、一線引きますけれど、卯月さんはそんなことしないって、私知ってますから」
「豪く信用されてますね……僕。そんな出来た人間ではありませんけれど、まあ頑張ります」
それから、僕はいつも食べているうどん定食、では無く、その上位互換、うどんカツ卵閉じ定食を注文した。値段は五百三十円と、カツ卵閉じにしては良心的である。
「はい、お待ちどうさま。うどんカツ玉子閉じ定食です」
そういって、数十分後、目の前に出された定食。その豪華さにも驚いたが、しかしそれ以上に、何故か二つ、同じ物がカウンターに並べられた。
「え、僕、二つも頼んでないですよ?」
「あ、いえいえ、片方はわたしの分です。お腹空いちゃったし、店も今日は閉めたので、いいかなーって」
「あ、なるほど」
普段はゆかりさんが作ってくれたうどんを食べながら、カウンターを挟んで会話しつつ食べていたため、こうしてゆかりさんと並んでご飯を食べるというのは、何と言うか、正直恥ずかしい。
正直ついでに、僕は正直、ゆかりさんの事を恋愛対象として少なからず見ている。そのゆかりさんが、僕の隣に座っていると考えるだけで、テンパってしまうのは、男の性だろう。
すっごい良い匂いするし。石鹸だろうか。
「んっ? 卯月さん、食べないんですか? おうどん、伸びちゃいますよ」
「……え? ああ、はい。ちょっと考え事してました」
「考え事、ですか?」
「ええ。ま、大したことないです」
言うか、言うまいか悩んだが、しかしすんでの所で僕は口を噤む。先程、ゆかりさんはお父さんの浴衣を着た僕を見て、お父さんを思い出していた。それ程に慕っていた家族の話を、あまつさえこちらは親子喧嘩の話をしたら、おそらくゆかりさんは思い出してしまうだろう。
そう思っての判断だったが、しかしゆかりさんは箸を置き、僕の目をジッと見つめる。
「……な、なんですか? 何かついてます?」
「ええ、吐いてますよね、嘘」
見透かすような眼光から、呆れたように溜息を吐く紫さん。その姿を見る限り、僕の嘘はバレたみたいだ。
僕にとっては大した事も無いのだが、家出したというのは、それだけで大したことらしく、大事らしい。
「……やっぱりバレましたか。身内話なんで、出来ればバラしたくなかったんですけれど……」
「何言ってるんですか。常連の卯月さんのお悩み位、聞きますよ」
そういって、優しく微笑まれては、僕としても無下に扱えない。
果たしてその悩みを打ち明ける事により、沈んだ気持ちの人間が一人から二人になる事が目に見えていても、ゆかりさんは頑固なのだ。
その頑固さは、どうやら全てに共通しているらしく、僕が悩みを全て話し終えるや否や。
「では、しばらくわたしの家に住んでみてはどうでしょうか?」
と、追い返されると思っていた僕の予想とは真反対の提案をしたゆかりさん。
「……はい? え、住む、え?」
「ですから、卯月さんのお母さんに卯月さんの大切さを身にしみて分からせるため、こうしてしばらくわたしの家に住んでみてはどうでしょう?」
「ど、どうでしょうって……そりゃあ、家出してきた僕にはありがたいというか、願っても無い幸福と言うか……」
宝くじを買おうとしたら頭上から金塊が降ってきた。みたいな出来事にしどろもどろになりつつ、一度深呼吸する。
「でも、ゆかりさんは迷惑を被るでしょう? 人一人、それも異性が増えたら、この浴衣の彼氏さんだって……」
「え? わたし、彼氏なんていませんよ?」
「は?」
「それ、お父さんのですし、それに今はこの家にわたし一人ですから、むしろにぎやかになって楽しいです。どうでしょう」
「ど、どうでしょうって言われても……ほ、本当に、ほんっとうに迷惑じゃないですか?」
「何言ってるんですか、他ならぬ卯月さんですよ? 卯月さんはそうでもないかもしれませんけれど、わたし、卯月さんの事、お慕いしているのです。だから、こうして住んでいただけるなら、卯月さんのお母さんには悪いですけれど、正直嬉しいです」
と、そこまで言われてしまって、今更引き下がるわけにはいかない。
僕としても、公園でホームレスのような生活を送るより、こうして憧れのゆかりさんと、一つ屋根の下で暮らす方が良い。というか、願っても無い幸福である。
と、半ば――もとい、完全に押し切られる形で、ゆかりさんと同居をすることになった今日。
外では、アスファルトを雨が打ち付けていた。
何だか流れのまにまにゆかりさんのお世話になる事となってしまった僕。どうやら食費などは別にいらない、とゆかりさんが言ってくれたのでそれは助かるけれど、しかし僕だって、高校にも行かずに、休日の留守を守っているだけと言うのも申し訳ない。
留守番だけで、後はゆかりさんのお世話になるなど、まるでゆかりさんのペットではないか。いや、というよりもヒモか。
そんな事を考えている内に、うどんを食べ終わって、僕はゆかりさんに案内されて二階に上がっていた。
二階に上がってすぐにみえる、畳の床の部屋。ここがどうやらリビングらしく、壁際には二人分の食器などが並べてあった。
たとえ紐でもペットでも、どちらにしても同じような事で、とどのつまり、僕は意地でもゆかりさんの手助けとなり、ゆかりさんに負担ばかりを押し付ける訳にはいかない。それは頭で理解していても、しかし実際実践しようとすると、凄く難しい。
既に学校の単位はほとんど落としてしまい、今更学校にまた通い始めようとは思わない。例え学費の無駄だとしても、所詮僕では無く弟を取った母への、ささやかな反抗だとすれば、構わない。
「な、なので、何か僕にお手伝いできることがあればいいんですけれど……ありますでしょうか?」
「お手伝い……といっても、既に洗濯物とかは終わらせてるし……でも、また用事が出来た時に呼ぶって言うのも申し訳ないですし……ふむ」
二階の住居スペース、そのリビングで食後のお茶を啜っていたゆかりさんは、口元に手を当てて考え始める。しかし、これまで一人で済ませていた用事を下手に分けると、その後のバランスが逆に崩れる可能性もあるため、慎重に選ばなければならない。
例えるなら、そう。洗濯物を洗濯機で回している間に料理を作るという家庭一つにしても、その料理を僕が受け持った場合、むしろスピードダウンに繋がる。なので最善策としては、余程ゆかりさんの手が間に合わないようなことや、どうしてもできるロスタイム時、その僅かな時間に完遂できる仕事だけを僕が受け持ち、こなす。それが考えられる最善策だというのだから、ますます僕の存在価値が無くなっている気がする。
「あっ、じゃあ、何もしないってのは申し訳ないから、それじゃあ少し手伝って貰っていいですか? ……って、もう同居して、家族みたいなものなのに、敬語ってのもおかしな話ですね」
ふふ、とほほ笑むゆかりさん。
「じゃ、差し当たっては、取り敢えずお姉ちゃんであるわたしはやめる――ね? わたしも、貴方に対して敬語は使わず、あくまで弟として接するから、貴方も私の事を、お姉ちゃんだと思って頼って、ね」
「お姉ちゃん……」
そう反芻してみると、やはり恥ずかしい――目の前のあこがれの人をお姉ちゃんと呼ぶ、まるで何かのプレイのようなやり取りも勿論恥ずかしいけれど、それ以上に敬語を使わない事により、店員さんとお客さん、という間柄から、一歩前進したような感覚が、妙に恥ずかしい。
これが恋だとか、胸キュンだとかほざくつもりはさらさらないけれど、しかし悪い感覚では無かった。
「そそ、わたしは貴方の、お姉ちゃん。だから、甘えてくれていいのよ?」
そう言うや否や、ゆかりさんはややとろんとした声のまま、隣に座ってお茶を啜ろうと手を伸ばした僕の手を取ると、その手を自分の口元に引っ張っていく。
その唐突で意味不明な行動に、僕は反射的に手を払いのけてしまいそうになったが、すんでのところで堪える。
果たして、そのままゆかりさんは僕の腕をグイッと力任せに引っ張り――ひっぱったところでその力はか弱く、僕が少し踏ん張るだけで簡単に引き返せるような力であったが――僕はそのまま紫さんの方に倒れてしまう。
別に、ゆかりさんが引っ張って来たのだから多少のボディタッチは許してくれるだろうという希望があった訳では無い、と言えば嘘になるけれど、かといって抵抗するのも、それはそれでゆかりさんに悪いと思ったのだ。
「そうそう、力を抜いて、何も考えずわたしに委ねちゃいなさい?」
催眠術のように優しく耳元で囁かれ、僕はそのまま深みへ落ちていくような感覚を憶える。それはどうやらゆかりさんも同じらしく、寝ぼけ眼のようにとろんとした眼のまま、僕の頭を自分の膝の上に乗せる様にして、所謂膝枕の姿勢を取らせる。といっても、姿勢はゆかりさんに背を向けて寝転んでいるような状態なので、僕が拗ねているような恰好になっているが、それでも今現在、上を向くわけにはいかない。
上を向いたら最後、ゆかりさんに膝枕されて、あまつさえ耳元で囁かれた事により、思いっきり怒張して浴衣の裾から飛び出しそうなアレを見られてしまう。ナニとは言わないけれども。
もちろんゆかりさんはあくまで僕をリラックスさせる為にこうしているのであって、そこに性的な思考は一切、ミジンコほども含まれていない事は分かる。ただそれでも、女の子にボディタッチされるだけで「あれ、こいつ僕のこと好きなんじゃね」的思考に陥ってしまう派閥の人間としては、こんな事をされてエロい事を考えられない訳が無い。
と、みっともなく言い訳をしてみたものの、しかしそういう性的な思考とは別に、僕は、まるで身体から力が抜けていくように、リラックスしていた。目を瞑ったら最後、そのまま熟睡してしまいそうである。
そんな僕の強張った肩に優しく手を置き、とん、とん、と、あやすように叩いたり、擦ったりしてくれるゆかりさんの優しく小さな手を感じていると、何故か、頭の片隅で、母さんの事を思い出していた。
「……色々、辛い事があったんでしょう?」
と、優しく囁くような声で話しかけてくるゆかりさん。
「分かるよ。といっても、わたしは君の家庭事情は分からないけれど、その辛い、死にたくなるような気持ちは、分かる」
「死にたい気持ち……に、ゆかりさんも?」
「うん、そりゃあわたしだって、もう二十歳と――まあ数十ヶ月だから、それまでに何回も、辛い思いをしたもの。……高校を中退して、パパに頭を下げてうどん屋で働かせてもらった当初は、本当にしんどかった」
昔を懐かしむ様に、そんな事を言うゆかりさん。
痛いほど静まり返った部屋の中、外でコンクリートを打つ雨音と、断続的なゆかりさんの声だけが響き渡っていた。
「……わたし、高校一年生の頃から、クラスメイトに、苛められていたんだ。……といっても、大した事は無い――とは言えないか。うん、結構酷かったし、教師もそれを見て見ぬ振りだったから、わたしはすっかり人間不信に陥って、友達も信じられなくなって……で、次第に学校へ行くのが嫌になった。それからはあっという間に授業の欠席数が溜まって単位を落として、学校を辞めて……パパには凄く怒られるかと思ったけど、でもそんななか、パパはね、泣いたの」
「泣いた?」
「パパ、『そんな辛い思いをしてたのに、助けてやれなかった。すまない』って言って……。パパ、普段は仕事中でも仕事外でも、凄く無口って言うか、怖くて、わたしも苛められた当初から、パパとはすぐに口を利かなくなった。でも、わたしが学校を辞めるって言って、その理由を離した瞬間、パパはちゃぶ台を丁寧に壁に立てかけて、その部屋の中央で、私に向かって、土下座したの」
恐らく、そのちゃぶ台とは今僕とゆかりさんの湯呑が置いてある、このちゃぶ台なのだろう。
「それから、パパはわたしにうどんの打ち方とか、レシピとか、そういうのを一から全て、教えてくれた。それでも苛めのトラウマで人間恐怖症、みたいになってた私は、接客じゃなくて、あくまで裏方で作る側だったんだけれどね」
「……で、でも、今はお店を経営してますけれど……」
「そりゃあ、パパが亡くなったもの。例え怖くても、他人が全員怪物に見えても、接客しないと。もうパパは、何処にもいないものね」
まるで自分に言い聞かせる様にして、そう閉め括ったゆかりさん。その後、それとなく聞いた話によると、どうやら余程横暴な客でもない限りは普通に接することが出来ると言っていた。
だが、もしかしたらゆかりさんは僕を怖がっているのかもしれない。そう思うと、一刻も早く帰らなければならないのでは。という葛藤に苛まれる。
もちろん、だからと言って帰る訳も無く、というか帰ろうとしたらゆかりさんに猛反対された。いや、反対、と言うよりはむしろ、心配と言った方が正しいのかもしれない。
どうやらゆかりさんは、その愚痴の件で僕が愛想を尽かして家に帰ると言った。そう勘違いしたらしく、僕がその提案をするや否や、いつもの物静かでおしとやかなキャラをかなぐり捨てて、あろうことか僕に抱き着いてきた。
腰を上げようとしたところへ背後から抱き着かれたので、まだ背中にゆかりさんの控えめな胸が当たる程度であったが、これが真正面からなら少し、いや、かなり危なかった。
マンガのように鼻血を拭きだして死んでいたかもしれない。
無論、それなら後ろからでも抱きしめられている時点で僕の顔は真っ赤に紅潮しているのだが、それすらも見えない位に、ゆかりさんは満身の力を込めて僕へ抱き着いていた。
「ご、ごめんなさいっ! 見捨てないで……!」
「いやいや、見捨てるなんて、そんな――」
「でもっ、摩耶くんさっき帰るって……。わたしの話を聞いて、呆れたんでしょう!? 嫌だ、行かないでよ!!」
幼い子供のように泣きじゃくり、僕の背中にしがみ付くゆかりさん。その姿を背中で感じている内、そういえば僕もこうして、母さんに甘えたかったのかもしれない。と、そんな事を思っていた。
僕はとにもかくにも、取り敢えずゆかりさんを宥めて、僕がいなくならないという事を教えなければならない。そう感じ、取り敢えずゆかりさんの方は向けないにしても、僕の胸部に回されている腕と、細い手に手を添える。
「落ち着いて下さい、ゆかりさん」
「お、落ち着いても、どうせいなくなるんでしょう!? 嫌、嫌なんです……!」
「大丈夫です。大丈夫。僕は、いなくなったりしません」
「ぱ、パパもそういっていたのに、すぐに死んじゃったし……ど、どうせ、君もいなくなるんでしょう!!」
悲痛に歪む金切声を上げ、更に僕の胴体へ力を込めるゆかりさん。その手を僕は無理矢理剥がすと、右手を両手で、今度こそぎゅっと握った。
ゆかりさんの細い腕、小さな手。それを僕が包み込み、優しく包み込む。果たしてその程度でゆかりさんのパニックが収まるとは思わないが、対話できるようにはなるだろう。
「ほら、何処にもいきません。こうして手を繋いでいる内は、どこにも、行きません」
「……手を……で、でも、わたし、不安で……分かってる。君が行かないってことは分かってるけど、でも……!」
そういって、僕の背中に頭を埋めて泣きじゃくるゆかりさん。その感触を背中で感じつつ、僕はゆっくりと、しかし絶対にその手を離さない様に気を付けながら、ゆかりさんの方を向く。
泣きじゃくる声が聞こえている時から予想はしていたが、やはりゆかりさんはボロボロと大粒の涙を流し、ただただ悲しそうな目で、僕の機嫌を伺う様に、見つめている。
そのゆかりさんの手を今一度優しく握りしめ、僕はその繋がれた手をゆかりさんに見せた。
「ほら、安心して下さい。ちゃんと、繋いでいます。分かります?」
「……うん、繋いでる」
「ええ。だから、これがある限り僕はどこへも行きません。でしょう?」
「……で、でも、それでも寝る時とか……」
「それも不安なら、一緒に寝ましょう。ご飯だって隣で食べればいいですし、それにそもそも不安じゃないときは離しても良いじゃないですか。不安な時とか、好きなタイミングで繋いでくれて構いません」
とどのつまり、同じ布団で寝るという事になるのだが、まあそれは僕が性欲を我慢すればいい話であるし、それにゆかりさんがいやならそもそも言うだろう。問題など、何もない。
「どうです? 納得してくれます?」
果たして、ゆかりさんは小さく頷く。それでも手を離そうとしない辺り、いじらしいというか、可愛らしいというか。
正直な所、人の温もりを求め、他人に飢えていたのは僕だったのかもしれない。と、今になって思い返す。
それから、所縁さんに連れられて一通り部屋の中を案内してもらった僕は、最終的に自室として、ゆかりさんと同じ部屋で寝る事になった。
でも、正直ゆかりさんの隣で寝ていて、理性を保っていられる気がしない。いや、保つけれど。死守するけれど。
そんな事を考えただけでもテントを張っている股間を隠すように、体育座りで本を読んでいる――というより、気を紛らわせるために活字を目で追っているだけなので、さっきからページが進まない。結局、ブライト博士はどうなったんだよ。
そんな馬鹿な僕の肩を、後ろからトントン、と叩く誰か。
「摩耶くん、終わったよ。……寝よっか」
とは言いつつ、僕の隣に正座で座るゆかりさん。それから少し恥ずかしそうに、チラチラと僕の本を支えている右手を見ている事に、普通に読書していたなら気付かなかっただろう。
しかし不幸中の幸いと言うか、僕は現在活字を目で追うという、軍隊の訓練みたいなことをしていため、その視線に気づく。
別にもう少し意地悪をして、ゆかりさんが自分から言い出すのを待つのも一興である。が、そんな事をしてもしもゆかりさんが拗ねてしまっては元も子もないので、僕は本を閉じた。
「ええ、寝ましょうか。……手、繋ぎます?」
「あっ、うん……じゃ、じゃあ、繋がせて貰おうかな」
まるで付き合いたてのカップルのようなぎこちなさを発するゆかりさん。その美貌なら彼氏と手を繋いだこともありそうだが……いや、もしかしたらないのかもしれない。
僕としては、非常に嬉しい。
「でも、寝るにしてはやや早いような……」
時刻十時半。僕は普段、二時位までひたすら携帯を弄るか、PCで趣味の小説を書いているか、読書の三種類しかしていないので、出来ればもう少しこの本を読んで、ブライト博士の行方を知りたいのだが……しかしここは自分の家では無い。
「いえ、寝ましょう。ゆかりさんの家ですし」
既にゆかりさんには多大なる迷惑を掛けているので、これ以上迷惑を掛けたくないという気持ちが五割、ゆかりさんの自室を見たいというのが一割。残り四割は、全てゆかりさんの隣で寝たい、そしてあわよくばラッキースケベ的なモノを期待しての四割。
自殺しよっかな。
「いやいや、もうここは君の家でもあるんだから、別に君が起きていたいなら私も起きるし、私が邪魔なら、先に寝ておくよ?」
「じゃ、邪魔だなんて、そんな訳無いじゃないですか!!」
思わず大声で反論してしまう僕。しかしゆかりさんはその大声に驚きこそしたものの、しかし突拍子もない事を言いだす。
「で、でも、摩耶くんも男の子だから、てっきりそういう事をしないと収まらないのかなって……」
言った直後に顔を真っ赤に染めるゆかりさん。何故言うのか。
そういうこと、とはつまり、自慰行為の事だろう――いや、僕だってそりゃあ男だから、性欲も溜まる。しかし、他人の家で一日目からそういう事をするほど、発情していない。
「しませんっ!」
「そ、そうだよね、ご、ごめんね、変な事言っちゃって! あはは!」
普通に恥ずかしさを紛らわすために笑うゆかりさん。いやだから耳が真っ赤なんだって。
「じゃ、じゃあそろそろ寝た方がいいね!」
もう完全に恥ずかしさでパニックに陥ってるゆかりさん。しかしそれでも何も知らない僕を案内する気はあるらしく、僕の手を引っ張って、階段を昇って行く。残念なことに紫さんは浴衣姿なのでパンチラを拝む事は出来なかったけれど、しかし先程の赤面を見れただけでも、十二分に嬉しい。
果たしてゆかりさんの部屋は凄く片付いており、本棚もベッドも、テーブルも勉強机も、全て綺麗に整頓されていた。ちなみに僕の部屋は、この部屋内で台風と地震とテロリズムが発生した後のような惨状である。
その綺麗にベッドメイキングされてあるベッドを前に、どうしたものか分からずに突っ立っていると、ゆかりさんは部屋の電気を操作するリモコンと、ティッシュを枕元のテーブルに並べ終わった所らしく、突っ立っている僕の事を不思議そうに眺めていた。
「……別に、横になっても良いんだよ?」
「え? あ、はい。いや、ただ、ちょっと緊張しちゃって……お、おじゃまします」
自分で思っていたより緊張しているらしく、僕はお邪魔しますなどと訳の分からない事を言いながら布団へ潜りこむ。それからすぐにゆかりさんも布団へ入ったのだが。
狭い。とにかく狭い。
というより、僕がゆかりさんに当たらない様に奥へ行って、ゆかりさんは何故か僕へ密着しようとするため、結果として僕がぎちぎちになっていた。
「……あの、ゆかりさん? もう少し感覚を開けて頂けると非常にありがたく……」
「ん? あ、ご、ごめんごめん! 君、どんどん端に寄ってっちゃうから、詰めちゃったよ。ほら、もっとこっちこっち」
僕は貴方の貞操を思って自分から離れている。等と言える訳も無く、言いなりになってゆかりさんと密着するような姿勢になってしまう僕。しかしゆかりさんは流石、年上と言うだけあり、こうして同じ布団で横になっていても、落ち着き払っていた。
すでに、男の人と寝た事もあるのだろうか。だとすればかなり悔しいが、しょうがない。それ程にゆかりさんの美貌は男を引き付けるのだろう。
それにしても、こうしてゆかりさんが離れた傍から僕の手を引いてしまっては、先程とあまり変わらない。いや、ゆかりさんと密着する事が嫌だとか、そういう訳では無い。ただ、気恥ずかしい。
高校生で、つまりそういう事に敏感なお年頃の僕は、こうしているだけでも理性が崩れそうになる。いや、初対面の美人なお姉さんと同じベットで寝ていると、恐らく全国の男性は僕と同じような気持ちにはなるだろう。
その事を微塵も理解していないゆかりさんは、しかし下心はそれほど無いらしく、何故か悲しそうな瞳で僕の手を握ったまま、ぼーっと僕の瞳を眺めていた。
「あの、ゆかりさん? 大丈夫です?」
「……え? あっ、ごめんね。パパが死んでから、こうして人の温もりを感じることがめっきり減って……正直な所、寂しかったんだ」
僕の手をギュッと握り締めたゆかりさん。その眼は酷く悲しそうに伏せられ、うっすらと涙も浮かんでいた。
ああ。そうか。
ゆかりさん、営業中は客に何も感じさせない様に笑顔を作っていたけれど、本当は寂しかったのだ。
そんな事を今更理解したものの、しかしだからといって、どうすることも出来ない。所詮僕はゆかりさんにとって、何かに成れるわけがない。ただただこうしてゆかりさんの話を聞く、一客でしかない。
いや、こうして家に上げてくれ、家族として迎え入れてくれたのだから、少しは他の客よりゆかりさんに信頼されていると思っても良いのかもしれない。けれど、それでも。
もう誰だって、ゆかりさんの父の代替にはなれない。
その事はもちろんゆかりさんが一番、誰よりも理解しているだろう。それは、こうして僕を抱きしめ、他人の温もりを感じようとしている今この瞬間ですら。だからこそ、ひしひしと、痛い位に理解しているのかもしれない。
人は誰かを救えても、誰かにはなれないのよ。
昔、幼馴染に言われた一言が、あの時の声のまま、再生される。
いくら誰かを救えても、だからといって誰かの代わりにはなれない。その真似が出来ても、その人にはなれない。その事を幼い頃に知っているとは、一体彼女はどういう人生を送って来たのか、僕は知らない。
恐らく幸せな高校生活を送っている彼女と、こうして学校を辞めようとしている僕。まるであつらえたように対になっている僕たちも、やはりお互いがお互いの欠けた何かにはなれない。
しかし、それでも目の前でこうして苦しそうにしている人を、放って置くことが出来ない。たとえそれが根本的解決にならなくても。
僕は、涙を隠すように僕の胸元に顔を埋め、嗚咽を漏らしているゆかりさんの頭を、少し悩んだ末に優しく腕で覆い、抱きしめた。
「……僕は、ゆかりさんの涙を止めるとか、ゆかりさんを幸せにするとか、そんな漫画の主人公みたいに格好良いことは出来ません。僕に出来る事と言えば、ただただゆかりさんの話を聞くこと位です。でも……ゆかりさんの話なら、ゆかりさんが満足するまで幾らでも聞きますし、ゆかりさんの言う通りにします。それで涙が止まるなら、そうしますし、いっそ、落ち着くまで泣くなら、傍でずっとこうしてます」
自分で言って置いて恥ずかしくなるようなセリフだ。果たしてそれと同じ事をゆかりさんも思ったらしく、嗚咽はいつの間にか、堪えるような笑い声になっていた。
「……ふっ、なにそれ、告白のつもりなの?」
「ま、まあ、一応、告白ですよ。好きですし」
涙を流して真っ赤になった目ではあったが、可笑しそうに微笑むゆかりさん。僕は顔を赤らめながら、その質問に頷く。
既に顔を上げて泣き止んだというわけではなく、その目からは未だに留まることなく涙が次から次へと枕へ流れ、沁み込んで言っていた。
「ゆかりさんに同情して、告白した――とかじゃありませんよ? 僕は、ただ泣いてるゆかりさんを、最終的に笑顔にして、その笑顔を一番最初に見たいなと思って……」
「へー、じゃ、君がわたしを笑顔にしてくれるんだ?」
「そう、ですね。それを望むのでしたら、粉骨砕身の覚悟で頑張ります」
「……そっか」
「ええ。そうです」
決して、なあなあの覚悟ではなく、ゆかりさんの為なら文字通り何でもする覚悟で頷く。そんな僕の目をじっと、確かめる様に凝視していたゆかりさんは、ややあってから優しく微笑みを浮かべる。
その微笑みは、これまで店で僕がゆかりさんと話している時のような、調子を合わせた微笑みでは無く、心の底から安堵したようなそれであった。
その微笑みをこの目で確かめ、僕も無意識的に安心したのだろう。返事を訊くよりも早く、口角が弛んでしまう。そして、その二人の向かい合った微笑みが、すでにゆかりさんの肯定を意味しているのだが、ゆかりさんはどうやら言葉に出さなければ気が収まらないらしい。
恥じらうような微笑みの後、僕の後頭部に手を回し、自分の方へ引き寄せると同時に、自分も顔を僕の顔に近づけ、そうして唇と唇が触れ合うギリギリ、本当に間一髪、髪の毛一本が間に挟まりそうな程の距離にまで近づけた後、ゆかりさんは、
「分かったわ。じゃ、わたしが幸せになって、その後も恋人として、最期まで一緒にいてね? 摩耶くん」
そういって、優しく僕の唇に唇を重ねた。
どうも、みなさんこんにちは。マイケルです。
二ヶ月ほど前から書いていた小説で、実はUPするつもりなかったんですが、気が向いたので投稿しました。
続きは、多分書きません。一通でも要望があれば、嬉しがって本気出して書きます。