夜空の星と、地上のお星さま
大きな洋館にただ一人。
夜になると、少女はその館中のロウソクに火を灯します。
なぜ火を灯し続けなければならないのか。なぜ自分はこの館に一人なのか。そんなことはわかりません。
わかっていたのは、館の外には絶対に出ないこと。そして、夜に明かりを灯すこと。この二つだけは何があっても絶対に守らなければいけないということだけ。
少女はその決まりを守り、この館で暮らしていました。
そんなある日の夜。
いつものように館中のロウソクに火を灯して回っていた時のこと。ふと手を止めた少女は、窓の外の夜空を見上げました。
天にはまんまるなお月さまが輝いています。強い月の光に星々が霞んで見えました。そんな中で一つだけ。月の光にも霞むことなく輝く星を見つけ、少女は笑顔になります。
夜空で青白く銀色に輝く孤高の星はとてもきれいで、少女の淋しさをひっそりと慰めてくれていました。
少しだけその星を見つめ、少女はまたロウソクに火を灯し始めます。一つ、また一つと。最後の一つをやっと灯し終え、少女はふぅと息を吐き出しました。
「おまえ、ここを出ようと思わないのか?」
突然、声が聞こえてきて少女は慌てて辺りを見回します。
けれど、見える範囲には誰もいません。
「……誰? 誰かいるの?」
少女が小さな声で言いました。
この館には少女の他に誰もいません。そのはずなのに、どうして人の声が聞こえるのでしょう?
「小さなお嬢さん。こっちだよ。窓の外を見てごらん」
少女をからかうような声。
いつからいたのか、窓の外にある大きな木の上に座る少年がいました。
「……お星さま?」
少年の髪は銀色で、月の光をはじき、まるであの青白い孤高の星のようでした。
まんまるに目を見開き自分を見つめる少女に、少年はお腹を抱えて笑い出します。
「お星さま、か。そんなこと言われたのは初めてだなぁ」
大笑いする少年に少女はぷうっと頬をふくらませて、
「だって、お星さまと同じ髪の色なんだもの」
言い返すと少年が笑うのを止めて窓から館の中へ、そして、少女の側へと来ました。影になってよく見えていなかった少年の顔を初めて見た少女は驚きます。
少年の瞳は紅い色をしていました。それは、人が持つはずのない瞳の色です。
「この紅い色を見ると、みんなおびえて逃げていく。おまえもそうか?」
それでもかまわない。逃げたければ逃げればいい。少年の声はそう言っていました。けれど、その瞳はとても悲しそうに少女には見えました。
少女は首を横に振ります。初めて見た瞳の色でしたが、怖いとは思いません。むしろとてもきれいな色だと思っていました。
少年はありがとうとでも言うように、やさしく少女の頭を撫でます。
「ねえ、あなたは誰? 何をしにこの館に来たの?」
「何をしに来たんだと思う?」
この館で誰かと話すのは初めてです。少年のことを知りたくて少女は話しかけましたが、返ってきたのは問いかけでした。
「わからないから聞いているのに……。じゃあ、名前は?」
「さあ」
少年は答えをはぐらかし笑います。
「いじわる」
ふくれる少女に、少年は囁くように告げました。
「……天狼さ」
何を言われたのかわからず、少女がキョトンとなりました。
「俺の名前だ。天の狼と書いて“てんろう”」
口の中で聞きなれない言葉を繰り返す少女に、少年も聞きました。
「小さなお嬢さん。あんたの名前は?」
少女は困りました。
わたしの名前。わたしの名前は――?
「ごめんなさい。わからないの。いくら考えても思い出せない」
少年は俯いた少女の頭をやさしく撫でます
「ま、いずれ思い出すだろ。気にするな。ここには俺とおまえしかいないんだ。どうってことないさ」
顔を上げた少女が見たものは、笑う少年の顔とその後ろの窓から見えるやさしい光のまんまるな月でした。
* *
その日から毎日、少年は夜が訪れると館に現れ、日が昇る前に外の世界へと帰っていきました。
外の世界の話を聞きたがる少女に、少年は自分が今まで見てきた、聞いてきたもののことを話します。少女はそれらを熱心に聞き、楽しい話には大笑いをして、悲しい話には涙を流しました。
少女は何も知りませんでした。
この館からは出られません。出てはいけないのです。
そうずっと思い込んでいました。けれど、その理由すらも知らなかったのです。
外の世界がどんな場所なのか、誰も教えてくれませんでした。そもそも、この館には初めから少女しかいなかったのです。
そう。誰もいませんでした。
それがどうしてなのか。今まで少女はそのことを不思議にも思いませんでした。
少年は何度も少女に聞きました。「おまえ、ここを出ようって思わないのか?」と。その言葉に、少女は何度も首を横に振りました。「ここから出ちゃいけないの。約束だから」と。
けれど、今日は続きがありました。
「約束って、誰との?」
少年の問いに、少女は答えられませんでした。初めから少女は答えを持っていなかったのです。何も知らないのですから当然ですよね。
黙る少女に少年はいつものようにその頭を撫でました。無理に答えなくてもいい、とでもいうように。
少女は考えていました。少年の問いかけに、ここに来て初めて疑問を持ったからです。
誰との約束?
わたしは誰?
どうしてここにいるの?
どうして館を出てはいけないの?
どうして火をロウソクに灯し続けているの?
次から次へと疑問はわいてきます。けれど、それに対する答えは一つも思いつきませんでした。
少年との出会いが少女を少しずつ変えていました。誰としたかもわからない約束を守ってこの館の中に一人でずっといるよりも、何もわからなくても外の世界に出たいという思いが、徐々に少女の中に生まれていったのです。
次の日。
少女はいつもの少年の言葉に、いつもとは違う答えを返しました。
「わたし、ここから出たい。館からじゃ見えない外の世界を見に行きたい」
少女の答えに、少年はやさしく笑いました。少女の手を取って、いつも自分が出入りしている窓に連れていきます。
「今ならおまえは自分の名前を思い出せる。小さなお嬢さん、名前は?」
少女は考えました。
わたしの名前。わたしの名前は……。
「シリウス」
あれほどいくら考えても思い出せなかった名前を、やっと少女は言うことできました。
「シリウス。目覚めの時間だよ。おまえを待っている人のところへ帰ろう」
少年が少女の手を取ったまま、窓から身を躍らせました。銀色の髪が月の光を浴びてキラキラと輝き、紅い瞳が少女をやさしく見つめています。
少女はふんわりとあたたかなもの自分が包まれたのを感じました。そうして、少女は自分のいるべきところへと帰ることができたのです。
* *
少女が目を覚ますと、そこは見覚えのある自分の部屋のベッドの上でした。
なんだか長い夢を見ていたような気がします。その夢はとても淋しい、独りぼっちな世界でした。
「やっとお目覚めか。もうこんなことするなよ」
ぼんやりしていると声がかけられ、頭を撫でられました。
その人はベッドの側を離れて部屋から出ていこうとします。
「待って」
少女が小さな声で言いました。その人は立ち止まらずドアを開けます。
「待って、天狼」
少しだけ大きな声でもう一度、少女は言いました。やっとその人の、少年の足が止まります。
「あなた、天狼でしょ? 銀色の髪でも紅い瞳でもないけど、あなたは天狼でしょ? 夢で会った、わたしを外の世界に連れていってくれる人」
少年は開けたドアを閉め、少女の側に戻ってきました。
「もの覚えのいい小さなお嬢さんだ。よく覚えていたな。というか、よく俺だとわかったな」
顔は夢で見た時と同じでしたが、今の少年は髪も瞳も淡い茶色でした。けれど。
「同じだから。銀色の髪に紅い瞳でも、淡い茶色の髪と瞳でも、あなたは変わらない。わたしには同じに見えるの」
少女が笑います。
「天狼。わたし、外の世界に行きたい。今はまだ何もできないけど、自分で何ができるか見つけたいの。一緒に連れていってくれる?」
少女の言葉に、少年がイタズラっ子のように笑いました。
「ダメだ」
その瞬間、少女の顔から笑みが消えてしゅんとしぼんだ花のようになりました。
「……って言ったらどうする?」
少年が言葉を続け、少女の様子に声を出して笑います。少女は頬をふくらまし、けれど結局少年と一緒に笑い出しました。
「まあ、今は本当にダメだけどな。おまえがもう少し大人になったら、連れていってもいい」
「どうして?」
「そりゃ、おまえ。『お嬢さまが起きない』ってあたふた心配するばあさんにこれ以上、心配をかけるのは気が引けるだろ。それにおまえはまだ小さい」
「天狼だって大人じゃないのに、旅人なんでしょ?」
少女が夢の中で聞いた話は、少年が今まで旅してきた中で見聞きした話ばかりでした。旅人なのだと、少年が自分のことを言っていたのを少女は覚えています。
「俺はいいんだよ。元から帰る家なんてないんだから」
わざとらしく明るい声で少年は言いました。
「ほら、うるさいばあさんのおでましだ。俺は退散するよ」
閉まっていたドアが外から開きました。そこには長年この館に仕えるばあやの姿がありました。
「まって、天狼。絶対に迎えにきてね。約束よ。忘れちゃダメだからね」
少年はこのまま旅に出る。それがわかっていた少女は少年と約束しました。
「わかってる。五年後にもう一度ここに来る。そのときでもまだ、おまえが俺と行きたいと言うのなら一緒に連れていってやる。じゃあな、小さなお嬢さん」
少年はドアから出ていきます。入れ代わりにばあやが部屋の中に入ってきました。少女が目を覚ましていることに気づき、ばあやは慌ててベッドに近づいてきます。
「お嬢さま。お嬢さま、目を覚まされたんですね。三日も眠っていたんですよ。よかった。本当によかった」
涙を流して喜ぶばあやに少女は小さな声で言いました。
「心配かけて、ごめんなさい」
「いいえ。お嬢さまが無事に目を覚まされて安心いたしました。三日も眠っていらして、お腹が減っておいででしょう。何か食べられるものをお持ちいたしますね」
涙を拭って、ばあやはテキパキと食事の用意を頼みに部屋を出ていきました。
少女は部屋に一人になり、ぼんやりと夢について考えました。
夢の中の館は、少女を閉じ込める檻。冷たく凍った心。毎日灯す火はその中でかすかに抱いていた小さな希望でした。現実では三日。けれど、あそこではその何十倍の夜を過ごしていました。
多くの人に傅かれて不自由なく暮らそうと、この家は少女にとって温かみのまるでない世界でした。
覚えていないほど小さい時に死んでしまった母。仕事でほとんど家に帰らない父。いつでも独りぼっちだった少女は、その淋しさから自分なんていなくてもいいんじゃないかと考えるようになっていました。
眠ったまま、目覚めることなくずっと夢を見ていられたら。そうして、少女は夢に逃げたのです。このまま現実を生きることが辛くて――。
けれど、逃げた夢の世界でも少女は独りぼっちでした。そこは現実と同じ、淋しい世界でしかありませんでした。
少女が欲しかったものは、自分を自分として見てくれる、抱き止めてくれる少しの温もり。それだけでした。少女の凍りかけていた心は少年の訪れによってヒビが入り、夢の世界から少女を連れ戻しました。そして――。
「旦那さま。お嬢さまが目をお覚ましになりましたよ」
廊下からばあやの声がしたかと思うと、ドアが開きました。そこに立っていたのは、しばらくは帰れないと言っていた少女の父でした。
速足で少女の側まで来ると、驚きに目を見開いた少女の顔をマジマジと見つめて深く長い息を吐き出します。力なく側にあったイスに座り、父は少女に話しかけました。
「心配をかけさせるな。……いや、心配はかけてもいいから、親よりも先に死ぬなよ。おまえの母は病弱だった。けっして長い人生だとは言えなかった。だから、おまえはその分も生きろ。幸せになれ」
大きな手が少女の頭を撫でます。
頭に乗る、温かな手の感触。少女の大きな瞳から涙が転がり落ちました。ポロポロと。ポロポロと。
手を伸ばせば温もりはすぐそこにありました。けれど、小さな意地がそれをわからなくしていたのです。
少女はずっと独りぼっちだと思っていました。でも、ようやくそうではなかったと、必要とされていたのだと気づいたのです。
涙と一緒に、すべてが消えていきます。わだかまりも、淋しさも。少女の凍りかけていた心はついに溶け、あとに残ったのは温もりと、少年との約束だけでした。
* *
そして、月日はあっという間に過ぎて五年が経ちました。小さかった少女は成長し、大人への階段を一歩また一歩と上っていました。
今夜は満月。あの時見た夢の中の月のようにまんまるで、星々が霞んで見えるほど輝いています。その星々の中から一つだけ月の光にも負けない輝きを見せる星を見つけて、少女は笑いました。
静かに青白く銀色に輝く孤高の星。
「シリウス……。いいえ、天狼」
「小さなお嬢さん。俺を呼んだかな?」
からかいを含む声が窓の外から聞こえました。庭にある大きな木の枝に銀色に輝くものを見つけ、少女は叫びます。
「天狼? そこにいるのは天狼なの?」
窓から身を乗り出して、少女はその姿を見ようとしました。
「そんな風にしてると落ちるぞ。ちょっと、待ってろ。今、そっちに行くからさ」
軽い身のこなしで青年は枝の上を動き、開いている窓から室内に滑り込みました。
少女の目の前にいるのは、記憶にある少年の面影を残した青年でした。その髪は銀色で月の光を弾いて輝き、瞳は紅い色でイタズラっ子のようにキラキラしています。
「小さなお嬢さん。約束通り迎えにきたよ。どうする? 俺と一緒に行くか?」
「もちろん、行くわ。あの日から、ずうっとこの日をわたしは待っていたんだもの」
少女は差し出された手を取りました。
「ねえ、天狼。あなたの髪と瞳はどっちが本当の色なの?」
「さあ。どっちも本当だろうさ」
少女の手を引き、青年は苦笑します。
「はぐらかさないでよ」
小さな子供のようにふくれる少女に、
「満月の夜だけ俺の髪は銀に染まり瞳は紅くなる。そして、日が昇ればたちまち淡い茶色の髪と瞳になるのさ。なぜそうなるかなんて俺にもわからない。産まれた時から、ずうっとこうだからな」
月の光を浴びて輝きを増す銀色の髪。やさしい色を浮かべた紅い瞳。その姿はまるで……。
「月の化身みたい。……いいえ、違うわね。天狼はお星さま。月の光にも負けないで地上に輝くお星さまよ」
「おまえくらいだよ、俺をそんな風に言うのは」
天狼の呆れたような、くすぐったそうな声。
「だって、そうでしょ。あなたはあの星にそっくりなんだもの。わたしとあなたの名前と同じ星に」
まんまるな月の輝く夜空で、どの星々よりも輝く孤高の星。
シリウス。またの名を、天狼。
青年と少女の旅立ちを祝うように、その星は静かに輝きを増したのでした。