すいか
すいかの香りがした。
私はまわりを見渡す。まだ十時を過ぎた頃だ。お昼にはまだ早いし、なにより、ランチにすいかを食べる人などいない。
「ねえ、今、すいかの香りがしなかった?」
私は隣に座っている美歩に尋ねてみた。
「すいか? ううん、気づかなかったけど」
美歩はパソコンから目を離さずに言った。その直後、そういえば、と言いながら私の方を向いて、こう付け加えた。
「由貴がこの前、すいかの香水を買ったって言ってたよ。めずらしいよね」
座ったまま由貴の姿を探すが、見当たらない。その様子を見た美歩が、ついさっき人事部に呼ばれて行ったよ、と教えてくれた。
「舞子がすいかの話をする直前だよ。すぐ後ろを通って行ったから。きっと今日、すいかの香水つけてるんだね」
そう言って美歩は微笑むと、再びパソコンに向かった。
私はなかなか仕事に戻る気持ちになれなかった。心がざわざわしている。すいか。三年前の夏。あの頃の記憶を、私は無意識のうちに封印していたのだ。ひさしぶりに嗅いだすいかの香りは、自分の意志とは裏腹に、あの夏の日へと私を誘う。
三年前、私は大学二年生だった。その頃付き合っていた相手は、同じ農学部の男の子だった。必修科目である農業実習がきっかけで親しくなり、彼から告白されて、私たちは付き合うようになった。
彼は茨城の、すいか農家のひとり息子だった。大学を卒業したら、実家の農業を継ぐのだと、たびたび話していた。彼が農業を心から愛し、情熱を傾けていることは、彼の言葉の端々から汲み取ることができた。彼は口には出さねど、将来実家に嫁いでくれる女性を大学生のうちに見つけようとしていること、そしてその女性に私を考えていることが、私には手に取るように分かった。だけど、付き合ったのは彼がはじめてで、ましてや大学生の私にとって、結婚なんて先の話だった。農家に嫁ぐなんて、尚更だった。それでも私は彼を傷付けまいと、彼に理解を示すふりを続けた。それが思いやりだと、当時の私は信じていた。
付き合って三ヶ月ほど経った八月の暑い日、私は彼に誘われて、彼の実家に遊びに行った。はじめて見た一面に広がるすいか畑。食べやすく三角形に切られたすいか。甘い甘いすいかの汁が、白いスカートに小さな染みを作ったこと。彼が発した言葉。私が取った行動。
あの日の記憶が、すいかの果肉色のように鮮やかに蘇る。