☆世界一の臆病者が自分以上の臆病者に出会ったら
メティスという少女は、桔音の想像以上に臆病な少女だった。
喫茶店を出た桔音の後ろを何故か付いてくる彼女は、桔音としても普通に謎だったのだが――その少女の付いてくる様子が一々おかしかった。傍に人が近づく度に小さく悲鳴を上げ、転がっている石を警戒し、可愛い子犬が吠えたら桔音にしがみついてくる始末。最早この世の全てに怯えて生きている様な、そんなレベルの臆病だった。一番凄かったのは、白い壁に映った自分の影に涙目になったことである。流石に桔音も大丈夫かこの子と心配した。
しかし彼女は何故桔音を追い掛けてくるのだろうか。手錠で拘束された両手は相変わらずボロボロの兎のぬいぐるみを抱えており、細すぎる足を懸命に動かしてひょこひょこ追い掛けてくる。あまり運動させると死ぬんじゃないかと思い、桔音も度々立ち止まって待つのだが、桔音自身何故待っているのだろうかと思わざるを得なかった。
待つ桔音のすぐ近くまで追い付くと、ケホケホと咳き込んで荒い息を整えようとする。普通に歩く桔音に追い付こうとするだけで汗だくになって、足下も覚束ないようにフラフラしている。
『……この子大丈夫かなぁ?』
ノエルの言葉に桔音も確かにね、と返事をした。正直過酷な訓練を強いている様な気分になってくるから、どちらかというと命というよりは心臓に悪い子である。
なんにせよ、この少女が付いてくる以上桔音は寮に帰る訳にもいかない。何故なら、このメティスという少女自身が騎士団長の仇なのだ。それをあの聡いフランに隠し通したまま部屋に連れていく事は出来ない。
ならばどうするか。この何故か付いてくるこの少女の目的を果たすことが手っ取り早いだろう。正直、この少女からそのバックにまで手を届かせることが出来る気がしないので、先程出会ったメアリーに預けるのが一番なのだが――胸を揉んだ手前再会するのは少々避けたい所である。
「あー……メティスちゃん」
「はぁ……はぁ……め、メティで……コホッ、いいよ……」
「あ、そう……じゃメティちゃん、僕に何か用?」
故に桔音は、直球で聞いた。このメティスが、何を目的に桔音に近づいて来ているのか。
すると、彼女はたっぷり数分掛けて息を整えてから、ボロボロのぬいぐるみの中からこれまた綺麗なレースのハンカチを取り出して汗を拭いて行く。そしてそれをぬいぐるみの中に仕舞うと、大きく深呼吸してまたたっぷり桔音を待たせる。
息も整い汗も拭ってすっきりした所で、やっと話し出すかと――思いきや、メティスは次に桔音を少し見つめた後、またぬいぐるみからハンカチを出した。どうしたのかと思う桔音だったが、メティスはそれを桔音の顔へと押し付けて来た。そして丁寧に拭っていく。どうやら心臓に悪い彼女のせいで、少々汗を掻いていたらしい。親切にもそれを拭ってくれたようだ。ハンカチからはなんだか花の良い匂いと、メティスの汗の匂いが混じっていた。
「えへへ、これですっきり……だよ?」
「あ、うん。ありがとう」
「……特に、用は無いんだ、けど……貴方、『きつね』でしょ……? ステラちゃんが教えてくれたの……」
メティスは再度ハンカチを仕舞ったあと、そう切り出した。どうやら桔音がメティスを知っていた様に、メティスもまた桔音の事を知っていたらしい。情報元はステラの様だが、メアリーと違ってこの少女はステラに対して友好的なようだ。そうなると、本当に序列とは一体何の序列なんだと思いたくなるのだが――取り敢えずそれは置いておくことにした桔音だった。
「うん、僕がきつねだよ。ステラちゃんは元気?」
「げ、元気だよ……」
「それで……僕と会った感想は?」
特に用が無いということで、桔音はそのまま会話を繋げる。どうやらステラと会話出来るらしいので、少なくとも臆病なだけでメアリーよりはまともなのかもしれないと考え始めた。正直、桔音の中ではメアリーが彼女達の中で一番頭がおかしいと認識しているので、メティスはまだ平気な方じゃないかと思えるのだ。大きいマイナスの後に小さいマイナスを見れば、霞んで見えてしまう様なものだ。
メティスは少し考えてから、思い出すようにして答える。
「……ステラちゃんが言っていた通り、良い人だった」
「ステラちゃんはなんて言ってたんだ僕のことを……」
「えっとね……綺麗な心を持っている少年、って……い、言ってたよ……」
ああ、確かに言われたな。桔音はそう思いながら、メティスの中での自分の評価は結構上の方にいるのではないだろうかと溜め息を吐く。そして自分の預かり知らない場所で好感度上げないで欲しいと、内心でステラに文句を抱いた。
となると、メティスはただ桔音を見に来たということなのだろうか。にしては、騎士団長を殺したり、隊長達を重傷に追いやったり、取っている行動はおかしい。桔音に会いに来たというよりは、桔音に関してはたまたま見かけただけなのではないだろうか。寧ろそっちの方が辻褄が合う。
挙動不審に視線を彷徨わせながら、周囲をやたらと警戒するメティスを見て、桔音は眉をひそめた。
もしも、騎士団長を殺したことが何か目的の為に必要なことだったら――彼女はこれからまた別の行動を起こすだろう。それは恐らく、1人じゃ済まない死者を出す筈だ。
「……メティスちゃん」
「う、うん……な、なに?」
「君は、これから何をするつもりなのかな?」
「―――」
桔音の問いに、メティスはぴたりと身体の動きを止めた。彷徨わせていた視線はゆっくりと桔音の方へと移動していき、水色の瞳は桔音の漆黒の瞳と視線を交差させる。綺麗な水色の瞳ではあるが、その奥には何かへの怯えが見える。しかし、ただの怯えではない。怯え過ぎて、生まれてしまった恐怖の渦が混沌と何かを形作っていた。
恐怖は全て彼女の意識の奥底に潜んでいる。まるで、彼女自身が恐怖そのもので作られた存在であるような――そんな感覚を得た。
そして、メティスの水色の瞳から光が消える。何かに乗っ取られた様に空気を変質させた彼女は、おどおどとしていた態度を一変。桔音の顔にその両手を伸ばしてくる。手錠で繋がれたその手は、桔音の両頬に触れ、まるでキスをするように引き寄せた。
しかし、桔音の唇はけして彼女の唇に触れることは無い。彼女の顔の前で桔音の顔は止まり、少しあった距離がかなり至近距離まで近づいただけだ。
「―――怖いの」
「え?」
メティスはやけに落ちついた声音で話し出す。桔音はその声に怪訝な表情を浮かべた。しかしそれを気にも留めず、メティスは続ける。まるで溜まりに溜まった鬱憤を吐き出すように。
「何もかもが怖いの……髪を揺らすそよ風も、近づいてくる子犬も、地面に落ちているゴミも、飛んでくる蝶々も、転がっている小石も、近づいてくる人も、うろついている魔獣も、人を殺す魔族も、国を支配する王様も、誇り高い騎士さんも、格好良い魔法使いさんも、とっても強い冒険者さんも、照り付ける太陽も、映し出す影も、ピカピカの鏡も、美味しい料理も、珍しい飲み物も、楽しい行事も、仲の良いお友達も、優しい大人も、皆みーんな……とっても怖いの、凄く怖くて、食事も喉を通らないの」
「怖がりすぎだろ」
「私は全部怖い……私自身も怖い……両手が怖い、だから手錠で縛ったの。健康が怖い……だから不健康に過ごしたの……私自身が何も出来ない様に、私自身が怖いから、私自身を一番最初にダメにしたの。そしたらね? もっともっと怖いものが増えちゃった。水が怖くなっちゃった、火が怖くなっちゃった、空気が怖くなっちゃった、味が怖くなっちゃった、匂いが怖くなっちゃった、光が怖くなっちゃった、暗いのが怖くなっちゃった、何もかもが怖くなっちゃった……だからいつも身体が震えて仕方がないの」
「もう死ぬレベルじゃないかなそれ」
「だからね―――怖いもの全部なくなってほしいなって思ったの」
「今僕超理不尽だなって思ったの」
メティスの放つ空気が、どんどん異質な方向へと変質していくのに気が付きつつも、桔音は冷静だった。周囲の人々がその空気に当てられて嘔吐したり、立っていられなくなったり、過呼吸に陥ったりしているが、桔音はあくまで冷静だった。とりあえず死ぬ前に気絶しているので、周囲の人々に関しては大丈夫だろうと判断したのだ。
桔音が平気で居られるのは、それこそ桔音も人間らしさを捨て去った存在だからだ。異質な気配を持つ者同士、互いに耐性があるといっていいだろう。
桔音はメティスが想像以上の臆病者と思っていたが、更にその想像を超えた臆病者だと認識を改める。確かに、扱いを間違えれば爆発するとは良く言ったものだ。メアリーの言葉は真実だったらしい。
「それで、君はどうするつもりなのかな? 臆病なのは分かったから、その辺教えてくれない?」
「……怖いものがいっぱいだから、怖いものをこの世からなくしたいの。二度と私の視界に入らないようにしたいの……でも、私自身はダメになっちゃったから―――怖いものは怖いものに消して貰うんだ」
なんだその目には目を的な結論は、と桔音は眉をひそめたが、それはつまり彼女自身には何の力もないことを示した言葉だと理解出来る。
さて、やはり現れたのは化け物だったこの少女――怖いもの同士相討ちして消えてしまえという思想を持つ、凶悪な臆病者。
つまり想像でしかないが、このメティスの持つ神葬武装は『同士討ち』の性質を持ったものなのではないだろうか。
怖いから消したい。消したいから、消えて貰う。怖いものに、怖いものを、消して貰う。自分の手は一切汚さず、ただただ消えて貰うのを待つだけの彼女。もしも想像通りの力なのだとしたら、成程確かに庇護される側のお姫様だ。『神姫』、神を殺すお姫様という訳だ。
「でも、きつねさんは分からないや……ねぇ教えて? きつねさんは、私にとって怖い人? それとも怖くない人?」
「自分で決めれば?」
「……秘密にするの? 何考えてるか分からない……怖いなぁ……とっても怖い」
「逆に考えるといいよ、秘密にすることで君に怖いことを教えないようにしているんだよ」
「え……? ……そっか、じゃあ怖くない……のかな?」
桔音の言葉に、先程までは怖い怖いと言っていたメティスが困惑した様子を見せる。つまり、桔音は自分にとって怖い存在なのか、怖くない存在なのか、分からなくなる。一体彼が何を考えているのか分からず、それが怖いと思ったメティスだったが――桔音の言葉でまたソレが分からなくなる。
答えが見えない。そのことに恐怖を抱きながら、メティスは桔音の両頬から手を放した。恐怖で常に貧血気味なのか、冷たい手が離れていくのを見つつ桔音は屈んでいた上体を起こした。
「まぁ自分で決めると良いよ」
「……」
そしてメティスにそう言う。すると、メティスは水色の瞳で桔音をじっと見つめ続け、どちらなのかを見定める様な視線を送ってくる。だが、自分を駄目にしたメティスにソレが分かる筈も無い。
だがそこで桔音が言った言葉に、メティスは目を丸くした。消えた瞳の光も戻って来る。
「僕は君が怖いけどね」
怖がってばかりだった彼女は、初めて自分を怖がられたことで更に困惑する。
「怖い……? ダメになったのに……私が怖い……?」
「うん怖いよ。その視線が怖いし、言ってることも怖いし、佇まいなんか病的で超不気味だし、お人形さんみたいで怖いし、なんかもう全部怖いかな」
「……そうなんだ……ごめんね? でも、ほら……私怖くないよ? 泣かないで?」
「泣いてないんだけど」
「ど、どど、どうすればいいんだろう……お、落ちついて?」
「君がな」
「ほ、ほーら、私怖くなーい……えへへ……」
「引き攣ってるぞ笑顔が」
「……怖いなんて言われたことないから……ど、どうしたらいいのかかかか……」
「……成程」
桔音は内心でこのメティスの扱い方が分かった様な気がしていた。
世界一の臆病者、つまり彼女は自分で駄目にした自分以外の全てが怖い存在になる。故に、そんな自分を怖がる存在がいる筈がないと確信していたのだ。何故なら、自分が怖いと思うものが自分を怖がるなど、考えもしないのだから。
故に、桔音が自分を怖がっていると言った瞬間、その確信が瓦解する。自分が全てを怖がっている世界一の臆病者、なのにそんな自分を怖がっている存在がいた。
ならそれは―――世界一の臆病者以上の臆病者といえないだろうか?
そして臆病以外の部分は基本的に、ケーキを分け与えたり汗を拭いてあげたりと他人を思いやれる性格であるメティス。そんな彼女が、自分以上の臆病者である桔音(勘違い)を護ってあげないといけない、と思ってしまうのは仕方の無いことだろう。
桔音は内心で呟いた。
――メアリーちゃん、メティスちゃんのこと怖がれば良いみたいだよ、と。




