私はお姉ちゃんですから
城に帰ってきてから、私はあまり良い気分ではありませんでした。
きつねさんをこの国から直接的に追い出したのはアリシアですが、つまりはこの国の王家が追い出したということですから。私も王族、私がアリシアに進言すれば、きつねさんをこの国から追い出すなんて結果にはならなかったかもしれません。
でも、私はアリシアに進言するだけの勇気がないのです。どれだけ本を読もうと、どれだけ知識を持っていようと、それを使うまでには至らない……私はただ知識を溜めて待っているだけでした。正直、アリシアの王としての器や仕事をしている時の覇気は、ちょっと怖い位です。とてもじゃないですが、話し掛けられるだけの勇気はとても持てそうにありません。
もう慣れた赤い絨毯の上を歩きながら、私は自分の部屋とも言える図書室へと向かいます。あの場所だけが、私の居場所。アリシアやオリヴィア姉さんは私に気を掛けてくれるけれど、それでも姉妹として最低限のもので、基本的には放置されている気がします。まぁ、引きこもりな上に拷問趣味な姉や妹なんて見放されても仕方がないかもしれませんが。
もう少し勇気があれば、もう少し努力すれば、なんて後悔を今まで一体何度したでしょうか。その度に、私は無力な自分を嫌いになる。つくづく、私は臆病者ですね。誰にも叱られないという環境が、余計に私を堕落させたのかもしれませんが、それは私が踏み出せば変わった筈です……つまりは、私がずっと殻に籠っていたから悪いのです。
「ん? ああ、アイリス姉様」
「! あ、アリシア……どうしたの?」
すると図書室へ向かう途中で、進行方向からアリシアが歩いて来ました。
私を無視せず話し掛けてくれる所は、変わらないみたいです。でも、彼女はもう変わってしまいました……そうでなければ、あんなに親しくしていたきつねさんを冷たく追い出したりはしないでしょう。何があったのかは分かりませんが、どうしたというのでしょうか。
「いえ、仕事も終わったのでそろそろ寝ようかと」
「……お風呂は?」
「む……疲れたので明日で良いです」
「ソレ昨日も言ってましたよ」
アリシアは女の子にしては珍しく、お風呂が苦手らしいのです。昔からお風呂に入ろうとしなかったのですが、私やオリヴィア姉さんが言い聞かせて、なんとか3日に1回くらいは入る様になりましたね。あまり入ろうとしないので、髪も少し癖っ毛です。お風呂に入った後は綺麗なストレートになるんですけど、何故髪が傷まないのか不思議な位です。引きこもりでも毎日お風呂に入っている私としては、ちょっと羨ましいですね。
でも、こういうところは変わらないみたいですね。あくまで変わったのはきつねさんに対する対応だけ、なのでしょうか。一体何故……?
「……はぁ、分かりました。お風呂に入ってから寝ます」
「そうですか……」
「それでは」
アリシアが私の横を通り過ぎて、去っていきます。
でも、違う。私が聞きたい事は別にあるのです……何故、きつねさんを追い出したのですか? そう聞けたら―――もう少し、勇気が欲しい。何故きつねさんは、王としてのアリシアを前にあんなにも堂々としてられるのでしょうか。不気味な雰囲気を持ってますし、あまり格好良い容姿をしているという訳ではないですが……私にとってはそれだけで十分、気高く、格好良く見えます。 あの姿のほんの少しだけでも、私に勇気があれば――……
―――違う。
勇気がないからじゃない。踏み出さないのは勇気がないからじゃない、私が臆病で動こうとしないからです。『勇気がない』なんていうのは、私の言い訳でしかありません。
勇気がないから無理、なんて言って……今までどれだけ後悔したでしょうか。踏み出さず、ただ成り行きに任せて、悪い結果になって後悔する。そんなの、後悔する価値も無い。
もう少しだけ……踏み出せれば……!
「……っ……アリシア!」
ぎゅっと目を瞑って、小さい声でしたけど、私はアリシアを引き止めました。ほんの少しだけ、踏み出して……あとは踏み切って、走るだけ―――頑張れ、私。きつねさんは私の大事な、お友達でしょう。
「……なんでしょうか?」
「き……きつねさん……!」
「……アレが、どうかしましたか?」
「っ……!?」
振り返って私の方を見たアリシアに、私はきつねさんの名前だけを口にしました。本当はきつねさんを追い出したのは何故? と聞くつもりでしたが、今の私にはこれが精一杯です。
でも、アリシアはその名前を出しただけで豹変しました。冷たい瞳、無感情な表情、淡々とした言葉……思わず息が詰まりました。言葉が出ません。
「な……なんで、追い出したの……?」
どうにか絞り出した言葉。震えてましたけど、なんとか聞けました。
すると、アリシアは少しだけ私を冷たい視線で射抜いたまま……数秒じっとしていました。正直、怖い……でも、眼を逸らしたらもう教えてもらえない様な気がして、足が震えるのを感じながら見返します。じんわりと涙が溜まって、喉がカラカラに乾いて行く感覚を感じながら、私は無意識にぎゅっと割烹着の裾を握りました。
「……」
「……っ」
すると、数秒の沈黙の後――
「……はぁ……分かりました」
――アリシアは溜め息を吐いた後に、降参とばかりに頭を掻きました。私も大きく息を吐いて、ドクドクと鼓動する心臓の音が聞こえてきました。息をするのを忘れていたみたいです。
「……私だって、好きできつねを追い出したかった訳ではありません……そうしなければならなかったのです……」
そして、アリシアはそう前振りを置いて――私につい数時間前にあった出来事を話してくれました。
そう、アリシアの目の前に暴虐の悪魔……魔王が現れた事を。
◇ ◇ ◇
時は遡り、数時間前のこと――
アリシアと魔王は対峙し、言葉を交わしていた。お互いに王としての器を持ちながら、その力の差は歴然。アリシアには魔王を退けるだけの力は無く、また魔王には実力行使に移っても良いという意思があった。
対話といいながらも、交渉といいながらも、最初の時点で魔王に圧倒的なアドバンテージがあった。
「争いの種、だと?」
「ああそうだ、争いの種だよ」
魔王の言葉を復唱する様に確認し、魔王はそれを肯定する。
「現在この国に居るきつねという冒険者……知ってるだろう? 奴を人間の大陸から追い出して貰いたいのだ」
「な……どういうことだ」
「理由を言う必要はない。コレはお願いではなく命令なのだから……出来るだろう? この国から追い出し、全ての国にきつねを受け入れない様に言うだけだ……なんなら、私の名前を使って奴を犯罪者にしたて上げてもいいぞ?」
アリシアは魔王の言葉に歯噛みする。
何故桔音を狙うのか、何故桔音を追い出させるのかの理由は分からないけれど、アリシアにとってきつねは大切な友人だ。その友人を、人間の大陸から追い出すなど……出来るわけがない。
だが、アリシアとて馬鹿ではない。お願いでは無く命令、その意味は……逆らえば殺すということだ。無論、アリシアだけではない……この国に住まう全員を殺すと言っている。
全国民と桔音、秤に掛けるには余りに重すぎる選択。自分の国に住まう民達を取るか、掛け替えの無い友人を取るか……アリシアにとっては、どちらも大切な存在なのだ。
歯噛みし魔王を睨み付けるが、魔王はその視線も何処吹く風といった様に不敵に笑っている。逆らえないことが分かっているからだ。一国の王として、友人の為に国民を見捨てるなど出来る筈も無い。まして、魔王は知りえないがアリシアはアリス・ルークスハイドの生まれ変わり……この国に対する想いは計りしれない者がある。
故に、
「……わ、か……った……!」
「それで良い」
アリシアは頷いた。その首を縦に振ることは、桔音の命を魔王に差し出すことと同義……それでも、自分の為だけに国民を見捨てる事など出来はしない。王女としての彼女が、アリスとしての彼女が、桔音の友人である彼女を押し殺した。
葛藤と苦悩に苛まれるアリシアを見て、魔王は満足気に笑った。にっこりと、凶悪に。
「だが、私に快く協力してくれる献身的で健気な王女に対して、この私が何もしてやらないというのは礼に欠ける……どれ、私も力を貸そう。共に手を取り合って、きつねという存在をこの大陸から追い出そうじゃないか」
どの口が言うか、とアリシアは楽しげに笑う魔王を見て悔恨と怒りで涙を流す。魔王を睨み付け、固く握り締められた拳からは血が滲んでいた。今ほど、誰かを殺してやりたいと思った日は無い。アリスとして、勇者を召喚した国を恨んだ時以来の強い憎悪の念を抱いた。
だが、反抗すればアリシアは桔音も国民も失う破目になる。溢れ出しそうな怒りで身体が爆発しそうだったが、無理矢理ソレを抑え込む。頭は冷静に、心の奥で怒りの炎に薪をくべる。
差し出された魔王の手を、アリシアは反抗する腕を強引に動かして握った。
「…………ああ……っ!」
「ッハハハ……! これだから人間は面白い……!」
憤怒の涙を流し、それでも尚恐るべき自制心で魔王の手を取ったアリシアを見て、魔王は高らかに嗤う。
そしてその後、アリシアに1つ魔道具を渡すと、魔王は転移で去って行った。アリシアは渡された魔導具を握り締めながら、決めた。
―――私はもう1度、罪を犯し……ソレを貫き通そう。
◇ ◇ ◇
「渡された魔道具は、精神干渉魔法を大規模に発動させるものでした……故に私は、『人類の敵』なんてありもしない称号を作って、それをあたかも普通にあるかのように全国の人々を洗脳したのだ」
「全国のって……」
「魔王が3日間掛けて魔力を注ぎ続けた代物だ……強制力は薄いが、その分広い範囲でちょっとした常識を刷り込む程度の効果がある……アイリス姉様が影響を受けていないのは予想外でしたが……」
時は現実に戻り、アリシアは全てを説明してアイリスにそう言った。アイリスが効果を受けていないのは、強制力が薄い為に『幸運にも』影響を受けなかったのだ。固有スキルが偶然抵抗した結果と言える。
また、この精神干渉魔法具の影響は違和感を覚えたりすると効かなかったりする。すると、桔音のことを良く知っている人間には効果は半減したりするのだ。
つまり、ドランの場合は『人類の敵』という称号があると刷り込まれたが、ソレに従ったりはしなかったという風に、効果が半減している。
更に、魔法抵抗力が高い人間も同じ様に効果は薄くなるだろう。
「でも、そうなるときつねさんは……」
「…………恐らく、魔王の狙いはきつねを殺すことだ。人間の大陸に居られなくなったきつねは……暗黒大陸へ向かうだろう」
「そんな……!?」
アイリスの声に、アリシアは更に俯いた。自分を責めているからこそ、アリシアは俯き、拳を固く握り締める。肩を振るわせて、ただただ自分を責めるしか出来ない。
「……アリシア」
アイリスはそんなアリシアを見て、思う。
何故、この子はこんなにも気高く、王なのだろうかと。全てを救う事など、誰にも出来ない。勇者にもだ。何かを救う為には、何かを犠牲にしなければならない。誰もが分かっていながらも、誰もが目を逸らす事実。アリシアだってソレは分かっている筈なのに、桔音を救えなかったことを責めている。
比べて自分はどうだろうか? アリシアの才能に嫉妬していたわけではない。寧ろ、自分は王女という立場に固執しているわけではない。アリシアがやってくれるのなら、王位継承などあげても良いと思っていた。図書室で延々本を読み、空想の世界に身を任せているだけで幸せだった。
しかし、アリシアはまだ7歳の少女だ。如何に内面が大人びていようと、たった1人で国民の命を背負うにはまだ、その背中は小さすぎる。
自分は何をしている? 勇気だの臆病だの言って、アリシアが抱えてくれていたものから逃げていただけではないか。アリシアが魔王と対峙し、苦渋の選択をしている時に、自分は図書室で空想の世界に逃げていた。
―――なんと情けない。
アイリスにはアリシアを責めるつもりはない。自分がその立場だったら、アリシアの様に判断する事は出来なかったからだ。恐らくは選択肢から逃げて、自分も国民も桔音も殺される道を選んだだろう。
アイリスには、アリシアの様に友人の為に自分を押し殺す様な真似は出来ない。アリシアの様に問題に真っ向から立ち向かう事など出来ない。
故に、アイリスはゆっくりとした動作で、俯くアリシアを抱き締めた。
「姉様……」
「自分を責めないでください、アリシア……貴女はこの国の王女として正しいことをしました。私は臆病で、何も出来ない情けない名ばかりの王女ですけど……貴女の行動は、正しかった……!」
「でも……私はたった1人の友人を切り捨てた」
「でも、貴女は多くの国民を助けた。それは誇るべき偉業です……誰が何と言おうと、私は貴女を誇りに思います……私の最高の、妹です」
手を伸ばさなかったから、零れ堕ちた。足を踏み出さなかったから、届かなかった。何もしなかったから、全部失敗した。妹に任せていたから、こんなにも情けない。
ならばこそ、今目の前にいる妹が1人で何もかも抱えているのなら、動き出さなければならないだろう。
俯き、肩を震わせている妹を抱き締めてやれないで、何が姉だ。
妹が決死の覚悟、自分を押し殺してまで選んだ偉業を、今本当に認めてあげる事が出来るのは、洗脳から逃れた自分だけなのだ。
ならば、今こそ図書館の中から出て、1歩踏み出す時だ。図書館で無意味に溜めこんでいた知識も、自分の持てる力も、今この時自分の腕の中にすっぽり収まってしまう程、小さな王女の為に使おう。
アリシアの為、桔音の為、何が出来るのかは分からないけれど――
「大丈夫、私はもう……逃げたりはしません」
―――姉として、出来る限りの事をしたい。
アイリス・ルークスハイド。
第2王女にして、アリシアの姉である彼女は今ようやく……前を向いた。勇気ある1歩と共に、自らの王である小さな少女の手を取り、進む事を決めた。
「私は貴女の、お姉ちゃんですから」
抱き締めた大切な妹を、今度はこの手で護ってあげる為に――
―――彼女はそう言って笑った。
アイリス――覚 醒 !