桔音の残したもの
真っ暗だ。
真っ暗で、何も感じない。目を閉じている様な感覚もないし、瞼の裏側を見ているっていう訳ではないんだろう。多分、僕は死んだんだと思う。死にたくないなぁ、とは思ったけれど、やっぱりあの状態あの怪我じゃ死んでしまうのが当然か。
約束、破っちゃったなぁ。遊園地、行きたかった。今思えばデートじゃん、しかも美少女とデートじゃん、僕の人生良い所でいつも駄目になるなぁ。
―――泣かせちゃったなぁ……
記憶に残っているのは、しおりちゃんの泣き顔。温かい涙がぽつぽつと僕の頬を伝っていく感覚が、今もしっかり覚えてる。
「きつねさん……なんでっ………私を置いていかないで……!」
声が聞こえた、しおりちゃんの声だ。でも相変わらず真っ暗で、肉体の感覚もないから指一本動かすことは出来ない。
瞼を開けばしおりちゃんの顔が見えるのかもしれないけど、僕には開く瞼の感覚が無い。
手を伸ばせばしおりちゃんに触れられるのかもしれないけど、僕には伸ばせる手が無い。
口を開けばしおりちゃんにいつもの軽口が言えるのかもしれないけど、僕には言葉を発する口がない。
悔しいなぁ、悔しいなぁ、女の子一人笑顔に出来ないなんて……なんて無力なんだろうか。
「きつ……さん! き―――ん……!」
しおりちゃんの声が遠ざかっていく。ああ、これは本格的に死んじゃうみたいだ。深く、冷たい海に沈んでいく様な感覚、意識がゆっくりと薄らいでいく感覚。これが死ぬってことか……初体験だね、なんて軽口を叩くのも無理そうだ。
まぁ、僕の人生は全然良いものじゃなかったけど……最後の最後に友達を護れたんだから良いとしよう。まぁそれで友達を泣かせてちゃ意味ないけどね。自己満足で、自己犠牲で、他人を顧みない。
それくらいが、丁度良いかな。
僕の意識は、そこで完全に深い闇の底へと溶けて、消えた。
◇ ◇ ◇
薙刀桔音は、生まれつき人に好かれる人間では無かった。
生まれたその日から、母親に優しく抱きしめられたことは一度も無い。それというのも、彼は望まれて生まれた子供では無かったからだ。
母親は桔音を生んだ時点で17歳の女子高生、相手は誰かも不明。では何故その母親は彼を孕んだのか。その理由は、援助交際を毎日のように行っていたからだ。お金欲しさに露出の多い服装で中年男性を誘惑し、数万円の『お小遣い』の対価に身体を売っていた。
勿論子供等欲しいとも思っていなかったのできちんとした避妊対策をしてはいたのだが、相手が強引に迫り、結果的に妊娠させられた。その時の相手が分からないのは、目隠しをされ拘束させられた状態でレイプされたからだ。
彼女は妊娠中絶しようとした。子育てなど面倒だと考えていたし、元々子供自体いらないと考えていたからだ。だが、それは彼女の両親が許さなかった。子に罪は無いのだと言って、下ろすことを許さなかった。桔音は彼の母親の両親が護ったおかげで、無事に生まれることが出来たのだ。
そして桔音を生んだ彼の母親は、自分で産んだ子供なのに子育てを放棄した。彼を育てたのは、彼女の両親―――桔音の祖父母なのだ。
だが桔音が愛情を持って育てられたのは、彼が幼稚園に入るまでのことだった。
桔音は幼稚園に入ってから急に雰囲気が変わった。元々良く笑う子だったのに、一切笑わなくなったのだ。祖父母はおかしいと感じてどうしたのかと聞いたが、桔音は力なく笑うだけで何も言わなかった。
彼は虐めに遭っていたのだ。他の幼稚園児から何故か嫌われ、先生達からも何故か敬遠されていた。いつも一人、仲間外れにされ、手加減を知らない幼児達の暴力に晒され、それらから護ってくれる先生もいない。日に日に彼の身体には痣が増え、口数や笑顔も減って行った。
そんな日々を送り、彼が年長組になった頃―――祖父母が亡くなった。
死因は事故死、桔音が幼稚園に行っている間に仕事に出かけた祖父母が電車のホームに転落し、やってきた電車に轢かれた。即死だった。
桔音は自分を祖父母に押し付けた母親に引き取られた。彼女はその時点で22歳、援助交際は流石に身に染みたのか止めており、生活する為にとりあえずバイトしつつのフリーターだった。
祖父母が亡くなって、祖父母が入っていた保険の保険金が母親に入ったので、桔音は小学校へ通うことが出来た。母親が桔音を小学校へ通わせたのは、世間体を気にしたからだ。
だが、桔音は小学校に通うものの、その表情や精神は見るに堪えないほど憔悴していた。愛情を送ってくれる祖父母の死と、自分を捨てた母親と二人暮らしになるということが彼にとって、精神的にストレスとなる要因だったからだ。
『なんでアンタみたいな子を産んじまったんだろうねぇ』
母親は事あるごとにそう漏らした。
まともに家事をせず、家のことは全て桔音がやっていた。無論、最初の頃は失敗続きで母親の怒りを買う。不味い料理を出せば叩かれ、何かを壊せば殴られる。そんな日々だった。幼稚園時代のトラウマが蘇り、服で隠れる場所は青痣だらけだった。なんど涙を流したのか分からないほど、泣いていた。
そして小学校では暴力こそ振るわれなかったが、また何故か仲間外れや陰口などの虐めを受けていた。精神的ストレスから体調は悪くなりがちで、学校ではずっと一人だった。
だが、そんな彼を支えたのはその小学校の一人の男教師だった。彼は毎日のように桔音に声を掛け、励まし続けた。
『いいか? 人生辛いことばかりに目を向けず、楽しいことを探せばいいんだ』
『何? 陰口を叩かれる? 気にするな、全部気にせず受け流してしまえば些細な戯言だ』
『お前……この怪我はなんだ!? 誰にやられた!?』
桔音に何かあれば率先して行動してくれる、とても誠実で、とても熱血で、誰からも好かれる教師の鑑のような人だった。だから、桔音は彼の言う通り陰口は気にせず笑い飛ばすようになり、身体をある程度鍛えるようになった。少しだけ挑発的な言動をするようになったが、それも成長だろうと思っていた。
だが、ある時母親から言われた一言が桔音の心に突き刺さった。
『アンタの笑顔、気持ち悪いのよ』
何故かはわからない。だが、その言葉は桔音の心に深く突き刺さった。それから、桔音は笑うことに躊躇するようになった。気持ち悪い、という言葉が桔音を笑えなくした。
だが、笑っていないとまた先生に心配を掛けるだろう。という思いもあり、心に刺さった母親の言葉と、先生へ心配を掛けたくない思いが桔音を板挟みにし、それから桔音は笑っている様で笑っていない、そんな曖昧な薄ら笑いを浮かべるようになった。
そんな状態の桔音は余計に気味悪がられ、小学校ではずっと虐めの対象として扱われた。
そして、小学校を卒業して上がった中学校。そこが桔音の転機だった。
支えだった教師から離れ、彼を虐めていた者が広めた証拠も無い噂が、中学でも彼を苦しめた。彼は、誰にも邪魔されない空間を求めて学校が終われば直ぐに近くの図書館に籠る様になった。幾つも本を読んだ、小説、随筆、漫画、哲学、歴史、洋本、雑誌、写真集、何でも読んだ。
そうする中で、桔音は考えるようになった。何故虐められるのかと。そして一つの答えを出した。
『虐めに理由は無い、人は誰かを排他することで捻子曲がった友情を作りあげているのだ』
つまり、自分はその『捻子曲がった友情』を作る為に排他される対象になっただけのこと。だから桔音は諦めた。何を、と問われれば―――『虐めに向かい合うこと』を、だ。理由が無い、つまり原因が無いということ。
なんとなく気に入らないから虐める
なんとなく弱そうだから虐める
なんとなく、なんとなく、なんとなく、本当に理由などなく、薄ら笑いを浮かべる桔音がなんとなく気持ち悪かったから、虐める。どうしようもないと思った。
だから、
桔音は全て受け入れることにしたのだ。虐められるということを、日常の一つとして享受することにした。そうすることで、虐めが辛いと思う考え方そのものを消し去ることにしたのだ。
その日から、桔音の薄ら笑いが気味悪さを増し―――桔音は図書館に行かなくなった。
そしてその翌日からだ。桔音に行われる虐めの雰囲気が変わった。
桔音が、虐めを自分から受ける様な態度を取り始めたからだ。へらへらと薄ら笑いを浮かべ、陰口を笑いながら肯定する。気持ち悪いことこの上なかった。
だから、虐めは止まった。桔音が『捻子曲がった友情』の作る仲良しこよしの中に入った訳じゃない。排他しようという気持ち自体が消えたのだ。
そして代わりに生まれたのが、『桔音に関わり合いたくないという気持ち』だ。
桔音はそれからの中学生活をいつも楽しそうにへらへら薄ら笑いを浮かべながら過ごした。
そして、それは家でも同じ。桔音の母親も同様に桔音に関わらなくなった。桔音の作る料理すら、手を付けなくなった。会話もなく、逆に母親は桔音に怯えるようになった。桔音は、誰からも好かれない代わりに―――誰からも嫌われなくなったのだ。
誰もかれもが桔音に対して、無関心で居たいと思うようになったからだ。
◇
そして高校時代。
一年、二年は中学時代と同じだ。寧ろ桔音の薄ら笑いから感じる気味悪さが、同級生、先輩、後輩、関係無く精神的ストレスを感じさせるほどになっていた。
そして桔音の高校生活最後の年―――桔音は陰口を叩かれるようになった。周囲に溜まった桔音へのストレスが溢れだしたのだ。無関心でいたいのに、陰口を叩くでもしなければパンクしてしまいそうなほど溜まったストレスが。そして、その陰口を桔音は薄ら笑いを浮かべて受け入れる。嬉々として、受け入れる。それがまた、彼らのストレスとなった。
そこへやってきたのが、篠崎しおり。
彼女は少しだけ変わっていた。彼女は人の感情の機微を感じ取る力に長けていた。
桔音に対して無関心でいたいのに、嫌うしかない周囲の状況の中で、ただ一人桔音に惹かれた。虐めに立ち向かわず、止めようともしない、なのに何故か弱者の立場にいない。そんな矛盾した存在である桔音に、歩み寄っていった。
彼女と関わって、桔音は少しだけ変わった。少なくとも、桔音を気味悪がっていた周囲の人々からすれば、大きな変化だった。
桔音はしおりと話している時だけ―――本当に楽しそうに笑っていたのだ。
付き合っているのではないかと思うくらい、仲の良い二人。だからだろう、周囲の目は少し前に戻った。そう、桔音を排他して『捻子曲がった友情』を作ろうとしていた、あの頃に。
桔音は誰からも嫌われずにはいられない存在で、
しおりは誰からも愛される優しい存在。
だから、周囲の人々は嫌わずにはいられない存在である桔音が、誰からも愛される優しいしおりと仲良くし、挙句周囲にストレスを与えながら幸せそうに笑っているのが――――許せなかったのだ。許せなかったから、その負の感情が爆発した。
その結果が、桔音を殺した。
文字どおりの意味で桔音という人間の命を、『捻子曲がった友情』の為に、ひいては自分達の欲望の為に、この世界から排他した。涙を流したのは、しおりだけ。その他の人々は、それを喜んだ。自分達が怯えていた存在が消えたことを、喜んだ。
―――だが、桔音が死んだ後も彼らは桔音から解放された気にはなれなかった。
薙刀桔音という少年の一生。愛され育った最初の五年間、憎まれ排他された小中学校時代、怯えられ過ごした高校二年間、そして憎しみと羨望から殺された最後の三ヵ月。
だが、それでも最期は好意を向けてくれる親友に見送られながら死んだ。なんの後悔も無く、親友を護って死んだ。これ以上なく、勇敢で素晴らしい最期。
だから、彼を殺した人々は無意識にそんな桔音に縛られている。
彼らはいじめをいじめと知っていた。そしていじめは虐められる方が悪いという理屈を捏ねて、自分を正当化していた。自分達は勝利者だと、格上の存在なのだと。だからこそ、だった。
桔音は最後まで笑っていた、満足気に死んでいった、彼らの虐めという排他行為は、桔音を確かに殺した。だが、彼らの理屈で言うのならばそれは負けだった。何故なら、桔音は最後まで虐めに屈しなかったからだ。桔音を本当の意味で排他出来なかった彼らからすれば、認めずともそれは敗北なのだ。
だから、彼らは桔音を殺して、自分達で作った理屈が生んだ敗北感と殺人という罪を背負わされた。これから先、彼らはずっと桔音という存在に縛られることになるだろう。
◇ ◇ ◇
目を開いたら降り注ぐ光が視界を埋め尽くし、少しだけズキリと痛みが走った。そしてそれから次に感知出来たのは、耳を撫でる風の音と後頭部や背中に感じる草の感触。
次々と感覚が戻ってくる、植物の匂い、冷たく澄んだ空気、心臓の鼓動、温かい体温、生きている―――感覚。
「……ここは、どこかな?」
声を出してみると、慣れ親しんだ聞き覚えのある自分の声が聞こえた。死んだと思ったのに、生きている。そして周囲は草木に囲まれた森のようだ。更に仰向けに天然の芝生に倒れている自分、どう考えても普通ではないと思う。
「……ん……」
上体を起こし、固まった身体を解すように伸びをする。コキコキと小気味いい音が鳴り、少しだけ思考を切りかえることが出来た。色々確認してみようか。
服装は学ラン、と。ベルトに見たことがあるナイフが刺さっていた。そして、しおりちゃんに貰った狐のお面がポケットに入ってた。
「……しおりちゃん、泣いてたなぁ……」
思い出すのは、暗闇の中で聞こえた嗚咽交じりの声。泣かせちゃったから少しだけ罪悪感を感じなくもない。
でも、こうして生きているんだからまた会いに行けばいい。まぁ、まずはこの状況を誰かに説明してほしい所だけどさ。
「さて」
しおりちゃんから貰った狐のお面を頭の横に来るように掛けて、ナイフを弄びながら立ちあがる。とりあえずは移動しよう、図書館で色々本を読んでいたからこういった場合のサバイバル知識も無駄に覚えちゃってるし、まぁなんとかなるでしょ。
という訳で、僕は訳も分からない森の中を何処へ向かう訳でもなく歩き始めた。