ウサギはそう、月に住む
深夜の公園のベンチを陣取ったミコトは、手に提げていたお買い物用のエコバックを傍らに置いた。やや乱暴に扱ったせいか、ベンチに乗せた際に中からガチャガチャと不穏な音を響かせたが、割れて中身が零れたらしき匂いは漂ってこない。
自販機でしこたま買い込んだワンカップのお酒、袋いっぱいに詰め込んだその中へ右手を無造作に突っ込む。瓶を一本取り出し、蓋を開けて一気に中身を呷った。
「……不っ味ーいっ!」
一気に喉から流し込んだお酒は、ミコトに爽快感ではなく舌と喉にアルコール特有の感覚を残してゆく。お酒が好きな人には堪らないものなのかもしれないが、匂いだけで吐き気を催すタイプのミコトにとっては、不愉快極まりない後味である。
では何故、お酒が苦手……有り体に言えば下戸なミコトが、わざわざ深夜の公園にワンカップのお酒をぎゅうぎゅうに詰めた袋を持参し、ベンチを占領して次なる瓶を開けているかというと……
一言で身も蓋もなく言ってしまえば、単なる自棄酒である。
「ちっくしょーーっ!」
いかに周囲に人気が無いとはいえ、深夜に大声で罵り声を上げるのは迷惑行為でしかない。
ミコトの叫び声に抗議するかのように、腰を下ろしたベンチの背後、鬱蒼と生い茂る茂みの向こうからそれをかき分けるような、ドザザザッ! と、謎の物音が響いた。気にせずグビグビとやっても、それ以上は何も起こらなかったので、声に警戒した野良猫が走り去っただけなのかもしれない。
さて。自棄酒を求め、勢いだけで深夜営業のバーへ向かったは良いが、未成年者だと勘違いされて丁重に入店をお断りされる、などという出鼻を挫かれる体験を経て、ワンカップ酒を大量に買い求め……明らかに買い込み過ぎて、その荷物の重みは自宅まで持ち帰る事が困難であると判断し、ミコトは急遽、公園へと足を向けたのであった。
こんな時に、真っ先に頼ったり話をしていた相手が今回の気鬱の元凶である為、友人宅に上がり込むつもりにもなれない。
二つ目の瓶の蓋を開け、再び一息に呷るも、アルコールに慣れていない喉ではゲホゲホとむせる羽目になって。
生理的に溢れ出てきた涙を皮切りに、怒りや苛立ちといった感情を上回る悲しみがミコトへと覆い被さってくる。ぼたぼたと、絶え間なく頬を零れ落ちてゆく雫と嗚咽に、どうしようもないやるせなさ。
中身が半分以上残っているカップをベンチの脇に置いて、ミコトは膝を抱え込んだ。
もう、何もかもどうでもいい、そんなやるせなさと投げやりな虚脱感に、ミコトはただギュッと瞼を強く瞑る。こんな苦しさも痛みも悲しみも、いったいどうすれば一過性の感情のブレとして忘れ去ってしまえるのか、そんな方法は知らない。
こうしてただ、耐えてやり過ごす以外には。
どれほど、そうやってじっとうずくまっていただろうか。生憎と、ミコトが感傷に浸れる静かな時間はすぐさま中断される事になった。
「……お~い……」
どこからともなく、人の声がする。それも、複数で談笑しながら通り過ぎてゆく通行人などではなく、誰かを探して呼び掛けてくる声。
しばらく無視し、新たに蓋を開けた自棄酒をかっくらっていたミコトだったのだが、三回目に聞こえてきた「そこに居る人、聞こえていないだろうか?」という呼び声に、飲みかけの瓶をベンチの上にダンッ! と乱暴に置くと、すっくと立ち上がった。
そしてズンズンと足音も荒く声が聞こえてきた方向へと歩み寄った。
ミコトが座っていたベンチ裏の茂みの向こう、舗装された遊歩道を回り込んでいくと結構な段差と階段があって、てっきり謎の呼び声の主はそちらに居ると思っていたのだが……ベンチからショートカットして芝生の上を横切り、階段付近を見渡しても誰の姿も見えない。
「何だよ……人の事バカにしやがって」
誰だか知らないが、一人虚しく自棄酒タイムに水を差すなど、八つ当たり対象にしてやろうと意気込んでいたミコトは、人気の無い公園を見渡して鼻を鳴らした。謎の呼び声の主はとっとと姿をくらませたのだろうと、酔いがだいぶ回ってきた頭で判断し、踵を返そうとしたところで、
「ああ、良かった。やはり人が居たんだな」
ミコトの頭上から、そんな落ち着き払った低い声が降ってきた。
首を傾けてゆくと、まず目に映るのは公園の外灯の支柱。金属製で太く、頂点で二つに分かれて夜を照らし出す丈夫そうなそれに沿って、徐々に視点を上げてゆくと……
「やあ、初めまして」
直視するには眩しい、煌々と夜の公園を照らし出す外灯の灯りを背負っているせいで、目鼻立ちは判別出来ない。声からして恐らく若い男性だろうと思われる彼は、暗い夜空と雲をたなびかせる三日月をバックに、足場も何もない空中を踏みしめたまま、片手を軽く上げて挨拶を寄越してきた。
「ひっ、人が宙に浮いてる!?」
ミコトは仰天して後退ろうとするも、酔いが災いして足をもつれさせて尻餅をついてしまう。地面から見上げて改めてマジマジと観察してみるが、やはり男は何度見直しても足はブランと空中に投げ出されているし、両手で外灯の支柱を掴んでもいない。
「ふむ……君の視点からでは一見、俺は空中浮遊をしているように見えるかもしれない。
だが、この現状は科学的に簡単に説明が付く状況と言えるだろう」
男は両腕を組み、重々しく告げてきた。
「か、科学的に説明だって……!? あんた何言ってるんだ!」
思わず、この怪しい男から距離を取ろうと尻餅をついたままズリズリと後退るミコト。ズボンが芝生の露で汚れるが、今はそんな事にいちいち構っていられない。
「簡単な事だ。俺を真正面からではなく、45℃ほど回転させた視点から眺めてみればいい」
「はあ……?」
回転って、あんたは円形ターンテーブルに筒状のネットにフックが付いてて、クルクル回して商品を探せる円柱回転棚か!? ……というツッコミは、生憎と慣れないアルコール摂取により、舌と頭の方の回転が鈍ったミコトでは、上手いこと言葉にならず。
変わりに、外灯を中心軸として自分の足を数歩分動かし、男の姿を右側から見上げてみた。
「お分かり頂けただろうか」
ひたすら無言のまま、しばし外灯と謎の男を見上げるミコトに向かって、彼は相変わらず淡々と落ち着き払った声音でそう声を掛けてくる。
「……あんた、そんなとこでいったい何してんの。何がしたいの?」
確かに男の言葉通り、『科学的に説明が付く』状態で宙に浮いている……ように真正面からは見える。が、要するにサイドから着目したらば、外灯から突起物が突き出していて、男が着ているベストの背中の部分を思いっ切り引っ掛けていた。ある意味では、商品棚のフックに引っ掛けて、陳列されている様子を再現しているように見えなくもない。
いったいどうやったのか、そしてまた、そんな状態に陥った男の真意や意図は全くもって不明なのだが、二股に分かれた外灯に何故か彼は引っ掛かっている。
「よもやこうして、タロットカードの『吊された男』を体験する事になるとはな……人生分からないものだ」
「そんなあんたに遭遇したこっちも十分、仰天人生な気がするんだけど」
何やら感慨深くしみじみと呟く男に、段々調子を取り戻してきたミコトはすかさずツッコんだ。
だが、相変わらず外灯を背にし表情が窺えないままの男は、気にした様子も無く顔をミコトの方へと向けてくる。
その些細な動作に伴って、男の方からビリッという何か不吉な音がした。敢えて例えるならば、ミカンのネットを強引かつ景気良く引き裂いた時のような……
「君に折り入って頼みたい事がある。見ての通り、俺は今非常に危険な状態だ」
焦りなど全く感じさせない、余裕綽々かつ冷静な声音で、男はそんな事を宣う。
「や、むしろ楽しそうに見えるけど?」
ミコトの合いの手に応えるようにして再び響く、ビリッと何かが裂けるような小さな物音。そして同時に、男の身体は外灯の支柱から僅かにズルリとずり下がった。
「ならば訂正しよう。俺の着ているベストが、再生不可能領域へ今まさに差し掛からんとする、非常に危機的状況下にある。付け加えるならば息苦しくもある」
「そいつは大事だ」
そんなやり取りを交わしている間にも、徐々に男の身体はビリビリと聞こえてくる不吉な音と共に、芝生の大地へ向かわんとしていた。
「で、梯子も踏み台も何も持ってないこの僕に、どうやってあんたのベストを救えって?」
「あちらのベンチを引きずってくる、というのはどうだろう?」
「固定されてるっての」
一度ずり落ち始めたら勢いが付いてきたのか、男の高度は徐々に下がってゆく一方……などと、酔っ払った頭でぼんやりと眺めていたミコトの目の前で、ついに持ち主の体重を支えきれなくなったベストは、命綱という降って湧いた大いなる使命を全うしておシャカになった。
要するに、即席ハングマンが芝生の上にドスンと尻餅を付いて落ちてきたのだ。
「あ~あ」
おもむろにのそのそとベストを脱いで、補修可能かどうかを確認しだした無言の男の背中には、気のせいか哀愁が漂っているような気がする。
頭上の外灯を確認してみると、成人男性を1人支えようが頑丈な支柱はびくともしていなかったし、男のベストを引き裂いたと思しき飛び出した金具が見て取れた。
「参ったな……せっかく編んでくれたのに」
どうやら誰かが編んだ手編みニットのベストだったらしく、男はがっくりと肩を落とし畳んで脇に抱えた。
別にミコトに落ち度がある訳ではないのだが、このまま立ち去るにはなんだかいたたまれなくて、男の肩にポンと軽く手を置いた。
「そう気落ちすんなよ。
それが外灯に引っ掛かったお陰で、あんたは大怪我せずに安全に地面に下りる事が出来たんだ。そのニットは本当によくやったよ」
支離滅裂な慰めではあったが、男はゆっくりとミコトを振り仰いで、淡く笑みを浮かべてみせた。
逆光が消えて、ようやく男の顔を真正面から眺める事が出来た。だが、その整った顔立ちに思わず内心で(イケメンめ……)と、恨みがましい感情が湧き上がってきてしまったのも、ごく平凡な顔立ちでモテた経験など無く苦い体験をしたばかりのミコトには、仕方の無い話ではある。
「……喉乾いてない?
向こうに僕が買い込みすぎた酒があるんだけど、あんたイケる口?」
勢いで買ってみたは良いが、アルコールに慣れない舌では不味くて飲めた代物ではない安酒を、体よく押し付けるつもりでそう誘ってみると、無駄に美形な元・ハングマンは意表を突かれたように幾度か瞬き、ややあって目元を和らげた。
「ああ、すまない……ありがとう」
こっちこっち、と、やや強引に男をベンチにまで引っ張って行き、ワンカップ酒の瓶を押し付けたミコトが「はい、カンパ~イ」と、なし崩し的に酒盛りに持ち込むと、男は戸惑いながらも瓶の蓋を開いた。
「……ところで、君の事は何と呼べば良いのだろう?」
棒読みの乾杯の後、一口飲んでやはり口に合わなかったらしき男は、気を取り直したようにそう尋ねてきた。
「僕? 僕はミコト。そっちは?」
やはり、一晩では消費しきれそうにないな……と、後に悔やむ物品となり果てたエコ袋の中身の行方を憂い、眉をしかめつつ問い返すと、何故か男は意外な質問をされたとばかりに「え?」と間抜けな声と共に首を傾げた。
「だから、あんたの名前だよ、名前。
別に、言いたくないならあだ名とか、通称で良いけど」
「ああ、その……名を尋ねられるのが久々だったから、少し驚いただけだ」
「……あんた、何年対人コミュニケーション取ってなかったんだよ……」
普通、初対面の相手にまず尋ねるのは名前ではなかろうか。
「俺はウサキだ」
「分かった、ウサギだな」
「いや、ウサギではなくウサキなのだが……」
本人的に、恐らくキリッとした表情のつもりなのだろうなぁ……と感じる真顔で名乗られたので、ミコトもまた大真面目に首肯しつつ答えた。
「絶対、あんたの小学校時代のあだ名は『ウサギ』だ。それに間違いない」
「……」
酔っ払って平素よりも大胆になり、ズケズケと思うところを口にしているミコトの重々しい推理に、ウサキことウサギは押し黙った。どうやら当たりであるらしいと気を良くしたミコトは、遠慮なくこのイケメン元・ハングマンを、ウサギと呼ぶ事に決めたのだった。
「で。ウサギちゃんはどうして、あんなところでぶら下がる羽目になってたんだ?」
そうして、目下のところ大いなる謎のヴェールに包まれていた真実を明らかにするべく、ズバリと踏み込んで尋ねた。そもそも、何をどうすればあんな高いところに引っ掛かる事が出来るのかも、ミコトには全く想像がつかない。
「ああ、それは……」
飲め飲め、と、ミコトから促されてウサギは二本目を開けつつ、口を開いた。
「あの外灯の脇に、階段があっただろう?あの上は比較的長くて真っ直ぐな遊歩道になっていて」
ウサギは軽く親指で背後の茂みの向こうを指し示し、
「深夜ならば人気が無く事故の心配も無いだろうと思って、スケートボードで疾走、階段前でジャンプして手摺りを滑り降りるつもりで踏み切ったら、気が付いた時にはああなっていた」
そう告げてワンカップをぐびりとやり、またしても眉をしかめた。
「は……?」
「だから、遊歩道をスケートボードで……」
「待て待て待て!」
疑問の声を聞きつけ、ウサギはご丁寧に再び説明してくれようとしたので、ミコトは慌てて彼の台詞を遮った。
飲み干した瓶をベンチ脇に置き、ウサギは両腕を組む。
「茂みに墜落するだろうと踏んでいたのだが、まさかああいった状態に陥るとは……やはり、慣れない事はするものではないな」
「……取り敢えず、ウサギちゃん」
「うん?」
勝手に幼少期のあだ名を連呼しようとも、ちゃん呼びしようとも苛立つ様子も見せない大人な筈のイケメンウサギを真っ向から見据え、ミコトは彼の両頬を指先でぐにっと摘んだ。
「あのニット編んだ子と、この公園の管理人さんに謝ろうか。
んなアホな真似を、いい年こいたオッサンがやるんじゃねぇぇぇぇっ!」
「ひほほ、ほれはをっはんれはらい」
容赦なくグイグイと引っ張るせいで、ウサギの発している言葉は意味不明だが、何となく抗議めいた雰囲気は感じ取れた。
思い切り引っ張ってミコトの溜飲は下がったので、やけに指ざわりの良い、つるつるスベスベ肌な頬から手を離して解放してやると、ウサギはやや潤んだ眼差しで自らの頬をさする。
「……いや、すまない。俺が衝動的に軽率な行動をとったせいで、大きな事故を招くところだった」
下手をすれば、勢い良く飛んできたスケートボードに衝突していたのか……と、ゾゾッと背筋に悪寒を走らせるミコトに、ウサギはシュンと萎んで深く反省を示した。
「つまりなんだ? ウサギちゃんのスケートボードは、あの茂みのどっかに吹っ飛んでいったのか」
「スケートボードだけではなく、頭に装着していた前照灯も、気が付けばどこかに消えていてな」
「……公園を歩いていたら、行く手の暗がりから物凄い勢いで光が近付いてくる……ホラー?」
無表情のウサギが薄暗い遊歩道をスケートボードで疾走する姿、そんな情景を想像してみたミコトは、ふと別の可能性に思い当たって戦慄した。
「なあ、ウサギちゃん。
もしも、もしもだけど……外灯に引っ掛かったあんたの打ち所が悪くて……ぶっちゃけ首をゴキッとかやって死んでたらさ……僕が第一容疑者になってたんじゃね?」
そのミコトの言に、三本目のワンカップを頬に当てて冷やしていたウサギは、キョトンと目を丸くさせた。
「何故だ?」
「だって普通、どうやってあんなところに人が事故って引っ掛かるとか思うよ?
むしろ殺人事件にしか見えねーじゃん!」
いい年した大の男が、スケートボードで疾走した勢い余って外灯に引っ掛かる? そんな推理よりもむしろ、別の誰かの手によってぶら下げられたと見るのではないのか。
きっと警察は、事故より殺人事件の線で調査するに違いない。
「なるほど……みようによっては、不可解な見立て殺人事件だな」
「……僕はただ、夜酒を呷りにきただけなのに……」
「ミコト、君に不名誉な嫌疑がかからないよう、事件を未然に防げた事は、とても喜ばしい事だと思う」
『事件』が発生していた場合、既にこの世の人ではなかったウサギは、実に大真面目にそう締めくくった。
「ところでミコト。人の趣味をとやかく言うつもりは無いが……どうせ飲むのならば、もっと美味い酒を出す店が、近くにあるが」
アイスノン代わりに頬に押し付けていたワンカップをしげしげと眺めやり、ウサギは不意に話題を変えてきた。
「こんな格好じゃ入店断られるし、いい」
己のラフな服装に視線を落とし、ミコトは遠回しな場所変えの誘いを遠慮した。
「そうか?」
その答えに納得したのか否か、ウサギは重ねて誘うような真似はせず、無言のままエコ袋からもう一本取り出し蓋を開けた。
「勧めておいてなんだけど、これ全部飲んだら流石に身体に悪いからさ、ムリはすんなよ?」
「自分の限界ぐらいは知っているさ」
「ウサギちゃんはさぁ」
初対面の相手と、何故か公園のベンチに座って酒を飲んでいるという謎の状態に、酔いが回っているミコトはさして警戒心も働かないまま、ペラペラと口を開く。
「そもそもなんで、こんな時間にスケボーなんかやってたんだ?
そういう趣味?」
「いや……スケートボードを乗り回した経験、というものがなかったのでな。参考になるかと思って、体験してみたんだ」
「後学の体験で死にそうになるとか、ウサギちゃんやっぱバカだろ」
バーカバーカ! と、幼稚な罵りを口にしつつケラケラと笑うミコトに、ウサギは酔っ払いの戯言だと割り切っているのか、特に苛立つ様子も無く首肯し、
「もう二度とするまい」
重々しく誓いの言葉を述べた。
「それで、ミコトはどうしてこんなところで飲んでいたんだ?
花見の季節には時期外れでは……」
「そうか、聞いてくれるか相棒!」
自分も聞かれたのだからお返しにと、何気ないウサギの問い掛けに、酔っ払いたるミコトはガッ! と彼の手首を鷲掴みにし、溜めに溜め込んだ愚痴を思いっきりぶちまける事にしたのだった。
チュンチュンと、小鳥のさえずりによって目を覚ましたミコトは、重たい頭をノロノロと動かし、もぞもぞと布団から這い出た。頭は多少ぼんやりするが、痛みも目眩も無く、二日酔いとまではいかないようだ。
「あー、なんか変な夢見たな」
口から出た声は寝起きの嗄れ声で、肩や首を動かすと、強張っていたのかゴキゴキと音がする。
寝室からキッチンへと移動しつつ自らの服装を確認すると、トレーナーにジーンズという、至ってラフだが快眠には不向きな格好。
はて、夕べはいつ帰ってきて、どうしてパジャマに着替えもせずに眠ったんだったか……
ふぁぁぁ、と、欠伸をしながら冷蔵庫のドアを開けると、みっちりと詰め込まれたワンカップのお酒が視界に飛び込んできて、思わずミコトは頬をひきつらせた。
なるべくそれらから目を逸らしつつ、ミネラルウォーターのペットボトルを取り出してごくごくとがぶ飲みする。
だが、どうしても冷蔵庫に堂々と鎮座している酒の存在が気にかかる。あれはいったい、どこからどこまでが夢だったのか……
「うん、考えてもよく分からん」
ミコトはじっくりと昨日の出来事を思い返してみるが、自棄酒をかっ食らいたくなった原因の辺りから既にもう、夢だったと思いたい心境である。
寝室に引き返して確認してみると、布団のそばのコンセントには携帯の充電器が差し込まれていて。ミコトは毎朝の習慣で、時計代わりと天気予報の確認に、テレビの電源を入れて朝のニュースチャンネルに合わせている。
今朝もいつものようにテレビをつけて、ニュースキャスターの声を半ば聞き流しつつ、充電完了済みの折り畳み式の携帯を取り上げて開いてみた。新着Eメールが一件届いているが、幾つか登録しているメルマガからの営業メールの類いだろうと後回しにして、目当てのメールを開く。
差出人:千尋
件名 :ごめん
本文 :やっぱり、赤ちゃん出来てた……ミコトにはずっと黙ってて、本当に申し訳ないと思ってる。
だけど、これで良かったんだと思う。あの人には私がどうしても必要だけれど、ミコトは私が居なくても――
それ以上は、目がメッセージを追う気力も出なくて、ミコトは電源ボタンを連打して、強制的にEメールを閉じた。
「居なくても大丈夫な訳、ないじゃんか。
僕はそんなに強くなんかないよ、千尋……」
恋人だと信じていた千尋からの、突然のおめでたと二股を掛けていました宣言、一方的に切り出された別れ……ミコトにとっては、自棄酒に走るには十分過ぎる程に衝撃的な出来事だった。
これからどうすれば良いのかも分からず、溜め息を吐きながら改めて待ち受け画面に視線を落とすと、しつこく未読メールの表示が浮かんでいる。
さっさと既読にして表示を消そうと何気なくクリックしたミコトは、次の瞬間思わず我が目を疑った。
差出人:ウサギちゃん
件名 :おはよう
本文 :おはよう、ハニー。そろそろお目覚めの時間だろうか。
それにしても、本当にハニーと呼ばなくてはいけないのか? 君は本当に変わっているな。
今日の仕事は21:30には終了する予定だ。良ければ一緒に夕食でもとろう。
「……ちょっと待て」
なんだ、このメール!? ってか、見知らぬ男に気軽に番号とか教えるなよ、酔っ払い! などと、自己嫌悪にミコトが頭をかきむしっている間にも、テレビのコーナーは切り替わり、お天気情報から続いて芸能ニュースへと移行していた。
「……それでは、主人公はティーンエイジャーの頃は、かなり活発な男の子だった訳ですね?」
「はい。大人になってからもその頃の冒険心が大いに影響している、そんな一面が魅力的な男です」
芸能人のゴシップやら熱愛報道になど欠片も興味を抱かないタイプであるミコトは、朝のお天気情報を確認したらサッサと電源を消しているのだが、今日は省エネを心がける気力も湧かない。
ひとまず落ち着いて昨夜の記憶を辿ろうと、ミコトは手にしたままだったペットボトルに口をつける。
「今夜の9時から放送のドラマ『プランナー』、是非観て下さいね」
だが、先ほどから何故かやたら聞き覚えのある声が聞こえてくる気がして、思わず寝室の壁からテレビへと視線を滑らせたミコトは、ブラウン管の中に見つけたくはなかった顔を発見してしまい、思わずブハッとミネラルウォーターを吹き出してしまっていた。
「今日のゲストは、俳優の宇佐木匡 (うさき・たすく)さんでした!」
思わずテレビ画面に掴みかかるミコトの事情など全く考慮せず、ニュース番組のコメンテーターは笑顔でそう締め括り、番組は呆気なく終了してしまう。
「ちょっと待て! 今のはなんの冗談だ!?」
CMを放送するテレビをガクガクと揺さぶり、そう叫ぶも、当然ながらテレビが答えてくれる筈もない。
だが、その代わりに携帯の方がピロリンと電子音を響かせ、メールの着信を告げた。
慌てて新着Eメールを開くと差出人は『ウサギちゃん』で、返事がないようだが、もしかして二日酔いか? と、ミコトの身を心配する内容と共に、起きたら連絡をくれと記されていた。
もしやと思い、アドレス帳を確認してみると、あ行には昨日まではなかった筈の『ウサギちゃん』が、携帯の番号もEメールアドレスもしっかりと登録されていて。
――そうか、恋人が友達と二股をかけていた上に、できちゃった結婚か……それは辛いな。
――俺か? 俺は、仕事が忙しくて恋人なんて作る暇も、出会いも無い。
――だが、そうだな。ふとした拍子に、考える事はある。
――ミコトが? だがその、君は……
――ははは、そうか、これもある意味運命的な出会いになるな。
――どうせ呼ばれるのなら『ハニー』が良い?
俺はそんな風に誰かを呼んだ事は無いし、呼ばれたいと思った事も無いが、そうすると俺は『ダーリン』だな。
ふつふつと、次々に蘇ってくる昨夜の酔った上での戯れ言に、思わずミコトは呻いた。
相変わらずつけっぱなしのテレビ画面では、様々な商品のCMが次々と流れていき……新番組ドラマの宣伝が挟まり、ウサギが昨夜とは別人のような何かを企んでいそうな表情で、暗がりから笑いかけてくる。
「……だって、仕方ないじゃん。僕は芸能人なんて興味無いんだから、あんたを知らなくても」
遠い、ブラウン管の向こうの相手の番号が登録されているらしい携帯を見下ろして、ミコトは思い切って電話を発信してみた。遠い、手が届かないような遠くにいる、そんな繋がりっこない筈のウサギへ。
「ああ、もしもし、ハニー? おはよう」
「芸能人だなんて聞いてないっ!」
しかしあまりにも呆気なく、ほんの3コールで応答した相手に向かって、思わずミコトは理不尽な苛立ちを覚えて開口一番に怒鳴っていた。
だが、ウサギは全く気にとめた様子もなく、電話の向こうからは朗らかな笑い声が聞こえてくる。
「どうやら、二日酔いにはなっていないようだな。元気そうで安心した」
「ウサギちゃん! いや、宇佐木さん!?」
「違うだろう、ハニー?
俺の事はダーリンと呼ばなくては」
ヒトの話を聞け! と、苛立ちをぶつけるミコトに、ウサギはやんわりと言い諭してくる。笑いを含んだその声音は、明らかに面白がっている。
「それで、今夜は空いているのか?」
ああ、どうしてこの人は、酒の席での戯れ言を大真面目に実行しようとするのだろう。それが、ミコトには今一つ分からない。
ウサギにとってミコトは、ただ酔っ払って、愚痴って、無駄に疲労させただけの行きずりの人間である筈なのに。
「……僕、周囲キラキラしてる人種に囲まれた芸能人さんに、弄ばれる趣味はないよ」
「ミコト。それは立派に職業差別だ。第一、交際を申し込んできたのはそっちだろう。
生憎と俺は、顔は千尋氏よりも整った美形らしいが……信用には足る男だと自負している」
「夜中にスケボー走らせた、やんちゃ坊主のクセに」
「そこはしっかりと反省した。もう二度と無謀な真似はしない」
「それに……」
まだ、何かあった気がする。ただの冗談や気紛れだと、疑いたくなる要素が。
疑惑のままにして、こんな後込みしてしまう相手へ執着心を抱く前に、傷付く前に離れられる何かが。
「それに、あの手編みのニットの子はどうするのさ」
「ああ、君はそれを不安がっていたのか?」
なぁんだそんな事か、と言いたげに、電話の向こうでウサギはやけに弾んだ声で答えた。
「あれを編んだのは妹だ。
次の現場に到着したから、もう切らなくてはならないが……今夜は迎えに行こうか?」
「デート、確定!?」
妹かよ! と、肩透かしを食らったミコトが思わず問い返すと、
「デート、楽しみにしてる。ではまたな? ハニー」
了承と受け取ったのか、ウサギは楽しげにそう告げて、通話を切った。
と、殆ど間を空けずに再びミコトの携帯は着信音を響かせ、新たなEメールを受信。マメというかなんというか、またしても差出人は先ほどまで電話を交わしていたウサギ氏。
差出人:ウサギちゃん
件名 :それから
本文 :昨晩、君に言った言葉は、嘘じゃない。
謎めいたメッセージに、ミコトは頭を抱えてしまった。
酔っ払っていて昨夜の記憶は殆ど曖昧なのだと、正直に告げたなら、流石にあの温厚そうなウサギも怒るか傷つくかしてしまうのではないだろうか。
「僕の、何が気に入ったって言うんだよ」
アルコールによって記憶の彼方に沈んでしまった謎の夜の出来事について、ミコトは頭を悩ませる羽目になった。
「ああ、てか、服どうしよう……いやそれより、今夜迎えに行くって何!?
僕、夕べ家まで送らせたのか!?」
一方的に別れを告げてきた彼の事など、今日これからはもう考えない。
「とりあえず、真っ先に『ハニー』呼ばわりを止めさせて……話はそれからだ、うん」
ただミコトの思考を占めるのは、その言動が嘘か本気か演技かも分からない、風変わりなウサギさんの事ばかり。