地下の井戸には、帰りの荷物がある
井戸に捨てた男が、三日後、俺に朝定食を出した。
「ご飯、大盛りでよかったね」
割烹着の紐を結び直しながら、春日さんは言った。
顔も、声も、額の火傷の痕も同じだった。右の小指が少し曲がっているところまで、俺の知っている春日さんだった。
ただ、味噌汁から花屋の水の臭いがした。
切った茎を何日も漬けておいた、あの臭いだ。
*
当時の俺は、夜の街で花を回収していた。
開店祝いのスタンド花や、店の周年祝いに届く胡蝶蘭。そういうものは、枯れたあとが厄介だ。大きな鉢も、鉄製の台も、普通のごみとしては捨てにくい。
そこで俺が、軽の箱バンで引き取りに行く。
看板には「店舗設備回収」と書いてあった。仕事をくれる矢代という男は、自分を不動産屋だと言っていたが、社員を怒鳴るときの声は、俺の知っている不動産屋と少し違った。
それでも金はよかった。
花を積み、床を掃き、受領票に店の人の名前をもらう。それだけで、以前働いていた運送会社より稼げた。
花についている名札も、必ず回収した。
会社名や個人名の書かれた、細長い板だ。
「個人情報だからな。勝手に捨てるなよ」
矢代はそこだけ妙にうるさかった。
回収したものは、湾岸の古い倉庫に運んだ。鉢は鉢、鉄の台は鉄の台で分ける。名札は、事務所の奥にある細長い箱へ入れる。
花だけは分別しなくてよかった。
まだ咲いているものも、腐ったものも、全部、床に口を開けた投入口に落とした。
地下で機械が動いているのだと思っていた。
ときどき、ずいぶん遅れて、水をかき回すような音がした。
*
春日食堂は、午前四時半に開いた。
市場へ行く人や、夜の仕事を終えた人が来る、カウンターだけの店だった。俺も回収が早く終わると、そこで飯を食った。
春日さんは五十代の、太った男だった。
注文を覚えるのが早く、二度目に行ったときにはもう、俺が漬物を残すことを知っていた。三度目からは漬物の代わりに、卵焼きの切れ端がついた。
「松田君、これ好きだろ」
好きです、と答えたら、次から切れ端ではなくなった。
一度、俺が店で倒れたことがある。
熱があるのに仕事に出て、倉庫まで荷物を運び、何か腹に入れようと椅子に座ったところで、記憶が切れた。
目が覚めると、店の奥の畳に寝かされていた。
春日さんは、客の注文を取る合間に俺のところへ来て、額の濡れタオルを替えた。
「車、あっちの駐車場に入れといた。鍵はそこ」
俺は、助手席の封筒を開けなかったか、と聞いた。
その月の給料が入っていた。会って間もない人に向けて、最初に口にしたのがそれだった。
春日さんは一瞬だけ黙り、それから俺の靴を畳の端に揃えた。
「封筒ごと、ダッシュボードに入れたよ」
夕方まで寝かせてもらった。
礼を言って金を出そうとすると、春日さんは、朝定食の代金だけ受け取った。
「今度、車を停めた場所くらいは覚えてから倒れてくれ。あの通り、三往復したぞ」
俺は笑った。
そのあとも通ったが、封筒のことは謝れなかった。
*
春日食堂のシャッターが下りたのは、十一月の半ばだった。
白い紙に、都合により、しばらく休みます、と書いてあった。
その晩、矢代から電話が来た。
「一本、追加で頼む。箱バンじゃ狭いから、倉庫の車で来い」
指定されたのは、後部座席を外したワゴンだった。
荷台には、台車に載せた長い布張りのケースがあった。業務用の照明か何かを入れるような形で、台車には小さな車輪が四つついている。
ケースの隣に、矢代の部下の久米が座っていた。
「運転だけでいい」
そう言ってから久米は、
「降りたら、ちょっと手伝って」
と付け足した。
矢代は助手席に乗った。
走りだす前に、封筒を膝へ置かれた。普段なら一か月かけて稼ぐ額だった。
「終わるまで開けるな」
俺は礼を言った。
ケースの中で、一度だけ咳がした。
久米が靴の底で布を押さえた。
矢代は何も言わなかった。
俺も、何も聞かなかった。
*
その建物は、高架の脇にあった。
外から見れば、窓のない小さなポンプ施設だった。緑色のフェンスと、傾いた「関係者以外立入禁止」の看板。昼間に通ったこともあるはずだが、注意を向けた覚えはなかった。
矢代が車を降りると、建物の中から作業服の老人が出てきた。
老人はワゴンの後部を開け、ケースの端に触れた。
そのあと、布越しに耳を当てた。
「まだ大丈夫ですね」
そう言って、入口を広く開けた。
建物の中には、下へ続く業務用エレベーターがあった。階数表示はなかった。
俺と久米がケースを押して乗り込むと、矢代が鉄の扉を閉めた。老人は地上に残った。
降下は長かった。
最初は機械の音がしていた。途中から、扉の向こうで水が落ちる音だけになった。
矢代は携帯電話を見ていた。
画面が暗いままなのに、親指だけが何度も動いた。
地下の通路は、壁の途中で造りが変わった。
最初は灰色のコンクリートだった。それがいつのまにか赤黒い煉瓦になり、頭上の配管だけが新しくなった。非常灯の下に、使われていない碍子がいくつも残っていた。
台車の車輪が、継ぎ目を越えるたびに跳ねた。
そのたび、中から息が漏れた。
通路の突き当たりには、すりガラスの窓口があった。
窓口の上に、小さな札が掛かっていた。
地上返却口。
返却、という文字を見て、俺は少し安心した。回収した鉢を返す倉庫にも、同じ言葉が書いてあったからだ。
窓の奥で、人が椅子を引く音がした。
矢代がそこへ封筒を差し込んだ。給料を入れたものとは違う、角の折れた茶封筒だった。
書類をめくる音が続いた。
「付き添いの方は」
女の声だった。
「今日、初めてです」
矢代が答えた。
「では、お名前をこちらに」
小窓から、クリップボードが押し出された。
複写式の伝票だった。上には細かい字が並び、下に大きな枠が一つあった。
受取人氏名。
俺がペンを持ったまま止まると、矢代が言った。
「台車。帰りに持って上がるだろ。置いていかれると困るんだよ」
日頃の仕事と同じ話だった。
俺は、自分の名前を書いた。
松田圭介。
窓口の女が、小さく読み上げた。
少し離れた場所で、もう一人、同じ名前を言った気がした。
「控えは返却の際にお渡しします」
俺の目の前で、すりガラスが閉じた。
*
井戸は、窓口の隣の部屋にあった。
学校の教室くらいの部屋で、壁際に折り畳み椅子が六脚並んでいた。椅子の下に古い週刊誌が一冊落ちている。
中央には、腰の高さまで煉瓦を積んだ井戸があった。
重そうな鉄板で蓋がされていて、天井から下りた鎖につながっていた。
部屋へ入った瞬間、倉庫と同じ臭いがした。
枯れた花と、腐った水。
井戸の周りには白いものが点々と落ちていた。最初は紙屑だと思った。靴で踏みかけて、それが花びらだと分かった。
まだ乾いていない菊の花びらだった。
「先に開けますか」
久米が聞いた。
「こっちからだ」
矢代はケースを指した。
久米が長いファスナーを引いた。
春日さんが入っていた。
手足を帯で固定され、口に白い布を巻かれていた。汗で濡れた髪の間に、額の火傷の痕が見えた。
俺は顔を背けた。
すぐに、見ていないふりをしたことを後悔した。知らない男なら、驚いて当然だったからだ。
矢代が俺を見ていた。
「知ってる人か」
「いえ」
そう答えたとき、春日さんが目を開けた。
俺を見た。
それまで苦しそうに眉を寄せていたのに、ふっと力が抜けた。
知っている顔を見つけた表情だった。
助かった、と思ったのだ。
俺には、それが分かった。
久米が口の布を緩めると、春日さんはまず咳をした。
「松田君」
矢代が、俺の背中に手を置いた。
押しも、叩きもしなかった。ただ、手のひらがそこにあった。
春日さんは息を整えようとした。
「この人たちに、言ってくれ。俺、店に――」
「知りません」
思ったより大きな声が出た。
春日さんが黙った。
部屋の中で、どこかの水滴が落ちた。
矢代の手が、背中から離れた。
「久米、開けて」
久米が鎖を引いた。
鉄板が、ゆっくり傾いていく。
俺は壁の折り畳み椅子を見ていた。右端の一脚だけ、脚のゴムがなかった。
あそこに座って待っていれば終わる。そんなことを考えた。
井戸が開くにつれて、臭いが強くなった。
水の流れる音はしなかった。
代わりに、井戸の下で椅子を引くような音がした。
何脚もの椅子を、床の上で少しずつ動かすような音だった。
「足、持て」
矢代が言った。
春日さんを、ケースから出さなければならなかった。
俺は足首を持った。
靴下の踵に、小さな穴が開いていた。店でも同じ靴下を見たことがあった。
春日さんは抵抗しなかった。
井戸の縁まで運ばれてから、俺だけに聞こえる声で言った。
「封筒、開けなかったよ」
俺の手から、足が抜けた。
水音は、一度だけだった。
深いところへ落ちた音ではなかった。浅い水たまりに、重い布団を落としたような音だった。
その直後に、咳が聞こえた。
俺は井戸に飛びついた。
まだ助けられる、と思ったのかもしれない。何かが終わる前なら、自分のやったことを取り消せると思ったのかもしれない。
下を向くと、すぐそこに顔があった。
井戸の縁から一メートルも離れていない。
白く、濡れていた。
鼻も口もあった。目のあるはずの場所には、薄い皮膚が左右に折り畳まれていた。
皮膚の奥で、何か丸いものが動いた。
そいつは両腕を上へ伸ばしていた。
その下にも腕があった。
白い肩と、白い背中が、井戸の中に折り重なっていた。床だと思った黒い面は水ではなく、濡れた髪だった。
春日さんは、その中に仰向けに抱えられていた。
顔の周りに、いくつもの顔が寄っていた。
春日さんが息を吸うと、そいつらも息を吸った。
春日さんが咳をすると、一拍ずつ遅れて、奥の方まで咳が続いた。
「松田君」
春日さんが言った。
「まつだくん」
目の前の白い顔が言った。
その声は、まだ春日さんの声ではなかった。
俺の声に近かった。
矢代に襟を掴まれ、床へ引き倒された。
「顔、出すなよ」
叱られた。
怒鳴られたのではない。
客の車に傷をつけた新人に言うような声だった。
久米が鎖を戻した。
鉄板が下がる間も、井戸の下では咳が続いていた。
最後の隙間が閉じる直前、
「ご飯、大盛りでよかったね」
と聞こえた。
俺は吐いた。
*
帰りのエレベーターには、空のケースと台車を載せた。
矢代は、まだ携帯の黒い画面に触っていた。
俺が何か言いかけると、先に口を開いた。
「春日食堂、使ってたんだな」
俺は答えられなかった。
「じゃあ、また行ってやれよ。じき開くから」
久米は、エレベーターの隅を見ていた。
昇っているあいだ、その右手がずっと震えていた。
家に帰り、膝に置かれた封筒を開けた。
金は約束どおり入っていた。
俺はそれで、滞納していた家賃を払った。
翌朝も、花を回収に出た。
*
三日後、春日食堂の明かりがついていた。
行くつもりはなかった。
ただ、シャッターが上がっていたので、車の速度を落とした。カウンターに客がいて、テレビがついていて、換気扇から湯気が出ていた。
俺は車を停めた。
店の中では、春日さんが鯖を焼いていた。
「おはよう。空いてるよ」
いつもの席を示された。
俺は座った。
春日さんは、俺の前に水を置いた。注文を聞かず、冷蔵庫から小鉢を出した。
「ご飯、大盛りでよかったね」
声は、もう完全に同じだった。
味噌汁には、細く切った油揚げと葱が浮かんでいた。
あの水の臭いがした。
隣の客は、何も気にせず飲んでいた。
俺の皿には、漬物の代わりに卵焼きが載っていた。
箸を持ったまま、食べられなかった。
「具合でも悪い?」
春日さんに顔を覗き込まれた。
俺は、額の火傷の痕を見た。皮膚の引きつれ方も、光の当たり方も、知っているものと同じだった。
「あのときは、すみませんでした」
何を謝ったのか、自分でも分からなかった。
春日さんは、少し首を傾けた。
「あのとき?」
「熱出して、ここで寝かせてもらったとき」
「ああ」
春日さんは笑った。
「気にしない、気にしない」
「封筒のことです」
笑顔が止まった。
ほんの一瞬だった。
「封筒?」
「助手席に、置いてあった」
春日さんの目が、俺の顔を見たまま動かなくなった。
厨房の奥から、湯の沸く音がした。
「どんな封筒?」
俺は椅子を引いた。
「茶色の」
「何が入ってたの」
「いえ。いいです」
「どこに置いたって?」
春日さんはカウンターの上に両手をついた。
「覚えてるよ。ちょっと待って。聞けば、分かるから」
俺は千円札を置いて、店を出た。
背中に、声が追ってきた。
「松田君、車、どこに停めた?」
ドアが閉まった。
そのすぐ向こうで、同じことをもう一度聞かれた。
*
それから二週間、できるだけ普段どおりに働いた。
矢代には何も聞かなかった。
警察へ行くことも考えたが、説明を組み立てると、どうしても俺が春日さんの足を持ったところに戻った。
店へ行けば、春日さんは生きている。
その事実に救われたかった。生きているなら、俺は人を殺していない。そう思おうとした。
そのあいだも、花は枯れた。
俺は鉢を回収し、台を畳み、名札を外した。
名札の裏には、ときどき数字が書いてあった。
倉庫の管理番号だと思っていた。けれど、その日は数字の横にも何か書かれているのに気づき、俺は一枚の札を車に持ち帰った。
指で土を落とすと、数字の下に、小さな字が見えた。
発声良好。
札の表には、あるラウンジの支配人の名前が書いてあった。
先月、病気療養から戻ったと聞いていた人だった。
「復帰のお祝いだから、これはまだ置いといて」
少し前に、店のスタッフからそう言われた鉢だった。
回収先で何度か会った。その人も、受領票に署名するとき、俺が書く手元をじっと見ていた。
俺は札を助手席に置いた。
仕事の途中で、久米に電話した。
久米なら、と思った。あのエレベーターで、手が震えていたからだ。
「春日さん、戻ってきてます」
しばらく返事がなかった。
「そうか」
「あれ、何なんですか」
「何が」
「春日さんです」
「本人だろ。店、開いてるんだろ」
俺は、名札に書いてある文字のことを話した。
久米が黙った。
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
「松田、お前、今日は何時まで回る」
「どうしてですか」
「何時までだ」
俺は電話を切った。
すぐに着信があった。
出なかった。
次に、矢代から短いメッセージが来た。
『帰り、倉庫に寄らなくていい。車の中のものはそのままで』
続けて、もう一通。
『お疲れさまでした』
まだ一軒、回収先が残っていた。
*
逃げることにした。
車を路地に停め、財布と携帯だけを持って降りた。名札も持っていこうとして、結局、助手席に残した。
証拠になるものから手を離すと、少しだけ楽になった。
駅まで歩き、切符を買うために財布を開けた。
中には矢代からもらった金があった。
俺はそれで切符を買った。
家に戻ったのは、通帳と着替えを取りに行くためだった。
今思えば、そのまま遠くへ行けばよかった。
ただ、それでどうにかなったのかは分からない。
部屋のドアの前に、胡蝶蘭が置かれていた。
背の高い鉢だった。
三本の茎に、白い花が隙間なく並んでいた。花弁が外へ向いていない。どの花も、少し下を向き、鉢の内側を見ていた。
名札には、こう書かれていた。
御帰還
松田圭介様
玄関の鍵を開けようとして、手が止まった。
自分の名前が、いつも俺が外していた札と同じ形の板に書いてあった。
鉢の脇に、透明な袋が下がっていた。
中には、薄い青色の紙が入っていた。
窓口で書いた伝票の控えだった。
右下に、俺の署名があった。
圭の字の下半分が少し潰れていた。あのとき、ペンの先に何か引っかかった。俺はそれを覚えていた。
伝票の一番上には、日付と管理番号。
その下に、品名。
松田圭介 一名。
俺は、受取人の枠だけを見ていた。
上に何が書かれているのか、一度も読まなかった。
状態の欄には、赤い判子が押されていた。
返却済。
その下には、まだ空白の欄があった。
旧品回収。
*
部屋に入り、鍵をかけた。
チェーンもかけた。
玄関に背中を押しつけたまま、しばらく息ができなかった。
鉢は外に残した。青い伝票だけが、手の中にあった。
俺はそれを広げ、写真を撮った。
誰に送ればいいのか分からなかった。
携帯に、回収先の店から電話が来た。
残してきた一軒だった。
何度も鳴るので、出た。
「松田さん、ごめん。さっきの忘れ物」
店長は普段どおりの声だった。
「何ですか」
「札。一枚、置いてったよ。いつも全部持ってくじゃん」
俺は青い紙を握った。
「俺、今日はまだ、そっちに行ってません」
「え?」
店長が笑った。
「今、来たばっかりでしょ」
店の奥から女の人の声がした。
「松田さん、今日なんか感じよかったよね」
店長が電話を少し遠ざけ、何か答えた。
笑い声がした。
「まあいいや。次でいいからさ」
電話が切れた。
俺は、ずっと玄関に座っていた。
誰も、俺がいなくなったことを知らない。
明日も車が走って、花が回収される。店長はいつもどおり名前を書く。春日食堂では、俺が朝定食を食うのかもしれない。
漬物の代わりに、卵焼きをつけてもらって。
外の廊下で、車輪が鳴った。
小さな硬い車輪が四つ、床の継ぎ目を越える音だった。
俺の部屋の前で止まった。
携帯で話す声がした。
「着きました」
俺の声だった。
咳払いも、文の終わりで少し鼻にかかるところも、同じだった。
「はい。返却は済んでます」
俺は、ドアから背中を離した。
「これから回収します」
鍵束が鳴った。
玄関の鍵が、外側から回り始めた。
ドアのそばで、白い花が擦れ合う音がした。
チェーンの長さだけ扉が開いた。
隙間に顔は見えなかった。
ただ、俺と同じ指が、下から一本ずつ入ってきた。
俺の指よりずっと先まで曲がって、チェーンの留め具に触れた。
外から、俺が言った。
「すみません。回収でーす」




