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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

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地下の井戸には、帰りの荷物がある

掲載日:2026/09/06

 井戸に捨てた男が、三日後、俺に朝定食を出した。


「ご飯、大盛りでよかったね」


 割烹着の紐を結び直しながら、春日さんは言った。


 顔も、声も、額の火傷の痕も同じだった。右の小指が少し曲がっているところまで、俺の知っている春日さんだった。


 ただ、味噌汁から花屋の水の臭いがした。


 切った茎を何日も漬けておいた、あの臭いだ。


     *


 当時の俺は、夜の街で花を回収していた。


 開店祝いのスタンド花や、店の周年祝いに届く胡蝶蘭。そういうものは、枯れたあとが厄介だ。大きな鉢も、鉄製の台も、普通のごみとしては捨てにくい。


 そこで俺が、軽の箱バンで引き取りに行く。


 看板には「店舗設備回収」と書いてあった。仕事をくれる矢代という男は、自分を不動産屋だと言っていたが、社員を怒鳴るときの声は、俺の知っている不動産屋と少し違った。


 それでも金はよかった。


 花を積み、床を掃き、受領票に店の人の名前をもらう。それだけで、以前働いていた運送会社より稼げた。


 花についている名札も、必ず回収した。


 会社名や個人名の書かれた、細長い板だ。


「個人情報だからな。勝手に捨てるなよ」


 矢代はそこだけ妙にうるさかった。


 回収したものは、湾岸の古い倉庫に運んだ。鉢は鉢、鉄の台は鉄の台で分ける。名札は、事務所の奥にある細長い箱へ入れる。


 花だけは分別しなくてよかった。


 まだ咲いているものも、腐ったものも、全部、床に口を開けた投入口に落とした。


 地下で機械が動いているのだと思っていた。


 ときどき、ずいぶん遅れて、水をかき回すような音がした。


     *


 春日食堂は、午前四時半に開いた。


 市場へ行く人や、夜の仕事を終えた人が来る、カウンターだけの店だった。俺も回収が早く終わると、そこで飯を食った。


 春日さんは五十代の、太った男だった。


 注文を覚えるのが早く、二度目に行ったときにはもう、俺が漬物を残すことを知っていた。三度目からは漬物の代わりに、卵焼きの切れ端がついた。


「松田君、これ好きだろ」


 好きです、と答えたら、次から切れ端ではなくなった。


 一度、俺が店で倒れたことがある。


 熱があるのに仕事に出て、倉庫まで荷物を運び、何か腹に入れようと椅子に座ったところで、記憶が切れた。


 目が覚めると、店の奥の畳に寝かされていた。


 春日さんは、客の注文を取る合間に俺のところへ来て、額の濡れタオルを替えた。


「車、あっちの駐車場に入れといた。鍵はそこ」


 俺は、助手席の封筒を開けなかったか、と聞いた。


 その月の給料が入っていた。会って間もない人に向けて、最初に口にしたのがそれだった。


 春日さんは一瞬だけ黙り、それから俺の靴を畳の端に揃えた。


「封筒ごと、ダッシュボードに入れたよ」


 夕方まで寝かせてもらった。


 礼を言って金を出そうとすると、春日さんは、朝定食の代金だけ受け取った。


「今度、車を停めた場所くらいは覚えてから倒れてくれ。あの通り、三往復したぞ」


 俺は笑った。


 そのあとも通ったが、封筒のことは謝れなかった。


     *


 春日食堂のシャッターが下りたのは、十一月の半ばだった。


 白い紙に、都合により、しばらく休みます、と書いてあった。


 その晩、矢代から電話が来た。


「一本、追加で頼む。箱バンじゃ狭いから、倉庫の車で来い」


 指定されたのは、後部座席を外したワゴンだった。


 荷台には、台車に載せた長い布張りのケースがあった。業務用の照明か何かを入れるような形で、台車には小さな車輪が四つついている。


 ケースの隣に、矢代の部下の久米が座っていた。


「運転だけでいい」


 そう言ってから久米は、


「降りたら、ちょっと手伝って」


 と付け足した。


 矢代は助手席に乗った。


 走りだす前に、封筒を膝へ置かれた。普段なら一か月かけて稼ぐ額だった。


「終わるまで開けるな」


 俺は礼を言った。


 ケースの中で、一度だけ咳がした。


 久米が靴の底で布を押さえた。


 矢代は何も言わなかった。


 俺も、何も聞かなかった。


     *


 その建物は、高架の脇にあった。


 外から見れば、窓のない小さなポンプ施設だった。緑色のフェンスと、傾いた「関係者以外立入禁止」の看板。昼間に通ったこともあるはずだが、注意を向けた覚えはなかった。


 矢代が車を降りると、建物の中から作業服の老人が出てきた。


 老人はワゴンの後部を開け、ケースの端に触れた。


 そのあと、布越しに耳を当てた。


「まだ大丈夫ですね」


 そう言って、入口を広く開けた。


 建物の中には、下へ続く業務用エレベーターがあった。階数表示はなかった。


 俺と久米がケースを押して乗り込むと、矢代が鉄の扉を閉めた。老人は地上に残った。


 降下は長かった。


 最初は機械の音がしていた。途中から、扉の向こうで水が落ちる音だけになった。


 矢代は携帯電話を見ていた。


 画面が暗いままなのに、親指だけが何度も動いた。


 地下の通路は、壁の途中で造りが変わった。


 最初は灰色のコンクリートだった。それがいつのまにか赤黒い煉瓦になり、頭上の配管だけが新しくなった。非常灯の下に、使われていない碍子がいくつも残っていた。


 台車の車輪が、継ぎ目を越えるたびに跳ねた。


 そのたび、中から息が漏れた。


 通路の突き当たりには、すりガラスの窓口があった。


 窓口の上に、小さな札が掛かっていた。


 地上返却口。


 返却、という文字を見て、俺は少し安心した。回収した鉢を返す倉庫にも、同じ言葉が書いてあったからだ。


 窓の奥で、人が椅子を引く音がした。


 矢代がそこへ封筒を差し込んだ。給料を入れたものとは違う、角の折れた茶封筒だった。


 書類をめくる音が続いた。


「付き添いの方は」


 女の声だった。


「今日、初めてです」


 矢代が答えた。


「では、お名前をこちらに」


 小窓から、クリップボードが押し出された。


 複写式の伝票だった。上には細かい字が並び、下に大きな枠が一つあった。


 受取人氏名。


 俺がペンを持ったまま止まると、矢代が言った。


「台車。帰りに持って上がるだろ。置いていかれると困るんだよ」


 日頃の仕事と同じ話だった。


 俺は、自分の名前を書いた。


 松田圭介。


 窓口の女が、小さく読み上げた。


 少し離れた場所で、もう一人、同じ名前を言った気がした。


「控えは返却の際にお渡しします」


 俺の目の前で、すりガラスが閉じた。


     *


 井戸は、窓口の隣の部屋にあった。


 学校の教室くらいの部屋で、壁際に折り畳み椅子が六脚並んでいた。椅子の下に古い週刊誌が一冊落ちている。


 中央には、腰の高さまで煉瓦を積んだ井戸があった。


 重そうな鉄板で蓋がされていて、天井から下りた鎖につながっていた。


 部屋へ入った瞬間、倉庫と同じ臭いがした。


 枯れた花と、腐った水。


 井戸の周りには白いものが点々と落ちていた。最初は紙屑だと思った。靴で踏みかけて、それが花びらだと分かった。


 まだ乾いていない菊の花びらだった。


「先に開けますか」


 久米が聞いた。


「こっちからだ」


 矢代はケースを指した。


 久米が長いファスナーを引いた。


 春日さんが入っていた。


 手足を帯で固定され、口に白い布を巻かれていた。汗で濡れた髪の間に、額の火傷の痕が見えた。


 俺は顔を背けた。


 すぐに、見ていないふりをしたことを後悔した。知らない男なら、驚いて当然だったからだ。


 矢代が俺を見ていた。


「知ってる人か」


「いえ」


 そう答えたとき、春日さんが目を開けた。


 俺を見た。


 それまで苦しそうに眉を寄せていたのに、ふっと力が抜けた。


 知っている顔を見つけた表情だった。


 助かった、と思ったのだ。


 俺には、それが分かった。


 久米が口の布を緩めると、春日さんはまず咳をした。


「松田君」


 矢代が、俺の背中に手を置いた。


 押しも、叩きもしなかった。ただ、手のひらがそこにあった。


 春日さんは息を整えようとした。


「この人たちに、言ってくれ。俺、店に――」


「知りません」


 思ったより大きな声が出た。


 春日さんが黙った。


 部屋の中で、どこかの水滴が落ちた。


 矢代の手が、背中から離れた。


「久米、開けて」


 久米が鎖を引いた。


 鉄板が、ゆっくり傾いていく。


 俺は壁の折り畳み椅子を見ていた。右端の一脚だけ、脚のゴムがなかった。


 あそこに座って待っていれば終わる。そんなことを考えた。


 井戸が開くにつれて、臭いが強くなった。


 水の流れる音はしなかった。


 代わりに、井戸の下で椅子を引くような音がした。


 何脚もの椅子を、床の上で少しずつ動かすような音だった。


「足、持て」


 矢代が言った。


 春日さんを、ケースから出さなければならなかった。


 俺は足首を持った。


 靴下の踵に、小さな穴が開いていた。店でも同じ靴下を見たことがあった。


 春日さんは抵抗しなかった。


 井戸の縁まで運ばれてから、俺だけに聞こえる声で言った。


「封筒、開けなかったよ」


 俺の手から、足が抜けた。


 水音は、一度だけだった。


 深いところへ落ちた音ではなかった。浅い水たまりに、重い布団を落としたような音だった。


 その直後に、咳が聞こえた。


 俺は井戸に飛びついた。


 まだ助けられる、と思ったのかもしれない。何かが終わる前なら、自分のやったことを取り消せると思ったのかもしれない。


 下を向くと、すぐそこに顔があった。


 井戸の縁から一メートルも離れていない。


 白く、濡れていた。


 鼻も口もあった。目のあるはずの場所には、薄い皮膚が左右に折り畳まれていた。


 皮膚の奥で、何か丸いものが動いた。


 そいつは両腕を上へ伸ばしていた。


 その下にも腕があった。


 白い肩と、白い背中が、井戸の中に折り重なっていた。床だと思った黒い面は水ではなく、濡れた髪だった。


 春日さんは、その中に仰向けに抱えられていた。


 顔の周りに、いくつもの顔が寄っていた。


 春日さんが息を吸うと、そいつらも息を吸った。


 春日さんが咳をすると、一拍ずつ遅れて、奥の方まで咳が続いた。


「松田君」


 春日さんが言った。


「まつだくん」


 目の前の白い顔が言った。


 その声は、まだ春日さんの声ではなかった。


 俺の声に近かった。


 矢代に襟を掴まれ、床へ引き倒された。


「顔、出すなよ」


 叱られた。


 怒鳴られたのではない。


 客の車に傷をつけた新人に言うような声だった。


 久米が鎖を戻した。


 鉄板が下がる間も、井戸の下では咳が続いていた。


 最後の隙間が閉じる直前、


「ご飯、大盛りでよかったね」


 と聞こえた。


 俺は吐いた。


     *


 帰りのエレベーターには、空のケースと台車を載せた。


 矢代は、まだ携帯の黒い画面に触っていた。


 俺が何か言いかけると、先に口を開いた。


「春日食堂、使ってたんだな」


 俺は答えられなかった。


「じゃあ、また行ってやれよ。じき開くから」


 久米は、エレベーターの隅を見ていた。


 昇っているあいだ、その右手がずっと震えていた。


 家に帰り、膝に置かれた封筒を開けた。


 金は約束どおり入っていた。


 俺はそれで、滞納していた家賃を払った。


 翌朝も、花を回収に出た。


     *


 三日後、春日食堂の明かりがついていた。


 行くつもりはなかった。


 ただ、シャッターが上がっていたので、車の速度を落とした。カウンターに客がいて、テレビがついていて、換気扇から湯気が出ていた。


 俺は車を停めた。


 店の中では、春日さんが鯖を焼いていた。


「おはよう。空いてるよ」


 いつもの席を示された。


 俺は座った。


 春日さんは、俺の前に水を置いた。注文を聞かず、冷蔵庫から小鉢を出した。


「ご飯、大盛りでよかったね」


 声は、もう完全に同じだった。


 味噌汁には、細く切った油揚げと葱が浮かんでいた。


 あの水の臭いがした。


 隣の客は、何も気にせず飲んでいた。


 俺の皿には、漬物の代わりに卵焼きが載っていた。


 箸を持ったまま、食べられなかった。


「具合でも悪い?」


 春日さんに顔を覗き込まれた。


 俺は、額の火傷の痕を見た。皮膚の引きつれ方も、光の当たり方も、知っているものと同じだった。


「あのときは、すみませんでした」


 何を謝ったのか、自分でも分からなかった。


 春日さんは、少し首を傾けた。


「あのとき?」


「熱出して、ここで寝かせてもらったとき」


「ああ」


 春日さんは笑った。


「気にしない、気にしない」


「封筒のことです」


 笑顔が止まった。


 ほんの一瞬だった。


「封筒?」


「助手席に、置いてあった」


 春日さんの目が、俺の顔を見たまま動かなくなった。


 厨房の奥から、湯の沸く音がした。


「どんな封筒?」


 俺は椅子を引いた。


「茶色の」


「何が入ってたの」


「いえ。いいです」


「どこに置いたって?」


 春日さんはカウンターの上に両手をついた。


「覚えてるよ。ちょっと待って。聞けば、分かるから」


 俺は千円札を置いて、店を出た。


 背中に、声が追ってきた。


「松田君、車、どこに停めた?」


 ドアが閉まった。


 そのすぐ向こうで、同じことをもう一度聞かれた。


     *


 それから二週間、できるだけ普段どおりに働いた。


 矢代には何も聞かなかった。


 警察へ行くことも考えたが、説明を組み立てると、どうしても俺が春日さんの足を持ったところに戻った。


 店へ行けば、春日さんは生きている。


 その事実に救われたかった。生きているなら、俺は人を殺していない。そう思おうとした。


 そのあいだも、花は枯れた。


 俺は鉢を回収し、台を畳み、名札を外した。


 名札の裏には、ときどき数字が書いてあった。


 倉庫の管理番号だと思っていた。けれど、その日は数字の横にも何か書かれているのに気づき、俺は一枚の札を車に持ち帰った。


 指で土を落とすと、数字の下に、小さな字が見えた。


 発声良好。


 札の表には、あるラウンジの支配人の名前が書いてあった。


 先月、病気療養から戻ったと聞いていた人だった。


「復帰のお祝いだから、これはまだ置いといて」


 少し前に、店のスタッフからそう言われた鉢だった。


 回収先で何度か会った。その人も、受領票に署名するとき、俺が書く手元をじっと見ていた。


 俺は札を助手席に置いた。


 仕事の途中で、久米に電話した。


 久米なら、と思った。あのエレベーターで、手が震えていたからだ。


「春日さん、戻ってきてます」


 しばらく返事がなかった。


「そうか」


「あれ、何なんですか」


「何が」


「春日さんです」


「本人だろ。店、開いてるんだろ」


 俺は、名札に書いてある文字のことを話した。


 久米が黙った。


 電話の向こうで、紙をめくる音がした。


「松田、お前、今日は何時まで回る」


「どうしてですか」


「何時までだ」


 俺は電話を切った。


 すぐに着信があった。


 出なかった。


 次に、矢代から短いメッセージが来た。


『帰り、倉庫に寄らなくていい。車の中のものはそのままで』


 続けて、もう一通。


『お疲れさまでした』


 まだ一軒、回収先が残っていた。


     *


 逃げることにした。


 車を路地に停め、財布と携帯だけを持って降りた。名札も持っていこうとして、結局、助手席に残した。


 証拠になるものから手を離すと、少しだけ楽になった。


 駅まで歩き、切符を買うために財布を開けた。


 中には矢代からもらった金があった。


 俺はそれで切符を買った。


 家に戻ったのは、通帳と着替えを取りに行くためだった。


 今思えば、そのまま遠くへ行けばよかった。


 ただ、それでどうにかなったのかは分からない。


 部屋のドアの前に、胡蝶蘭が置かれていた。


 背の高い鉢だった。


 三本の茎に、白い花が隙間なく並んでいた。花弁が外へ向いていない。どの花も、少し下を向き、鉢の内側を見ていた。


 名札には、こう書かれていた。


 御帰還


 松田圭介様


 玄関の鍵を開けようとして、手が止まった。


 自分の名前が、いつも俺が外していた札と同じ形の板に書いてあった。


 鉢の脇に、透明な袋が下がっていた。


 中には、薄い青色の紙が入っていた。


 窓口で書いた伝票の控えだった。


 右下に、俺の署名があった。


 圭の字の下半分が少し潰れていた。あのとき、ペンの先に何か引っかかった。俺はそれを覚えていた。


 伝票の一番上には、日付と管理番号。


 その下に、品名。


 松田圭介 一名。


 俺は、受取人の枠だけを見ていた。


 上に何が書かれているのか、一度も読まなかった。


 状態の欄には、赤い判子が押されていた。


 返却済。


 その下には、まだ空白の欄があった。


 旧品回収。


     *


 部屋に入り、鍵をかけた。


 チェーンもかけた。


 玄関に背中を押しつけたまま、しばらく息ができなかった。


 鉢は外に残した。青い伝票だけが、手の中にあった。


 俺はそれを広げ、写真を撮った。


 誰に送ればいいのか分からなかった。


 携帯に、回収先の店から電話が来た。


 残してきた一軒だった。


 何度も鳴るので、出た。


「松田さん、ごめん。さっきの忘れ物」


 店長は普段どおりの声だった。


「何ですか」


「札。一枚、置いてったよ。いつも全部持ってくじゃん」


 俺は青い紙を握った。


「俺、今日はまだ、そっちに行ってません」


「え?」


 店長が笑った。


「今、来たばっかりでしょ」


 店の奥から女の人の声がした。


「松田さん、今日なんか感じよかったよね」


 店長が電話を少し遠ざけ、何か答えた。


 笑い声がした。


「まあいいや。次でいいからさ」


 電話が切れた。


 俺は、ずっと玄関に座っていた。


 誰も、俺がいなくなったことを知らない。


 明日も車が走って、花が回収される。店長はいつもどおり名前を書く。春日食堂では、俺が朝定食を食うのかもしれない。


 漬物の代わりに、卵焼きをつけてもらって。


 外の廊下で、車輪が鳴った。


 小さな硬い車輪が四つ、床の継ぎ目を越える音だった。


 俺の部屋の前で止まった。


 携帯で話す声がした。


「着きました」


 俺の声だった。


 咳払いも、文の終わりで少し鼻にかかるところも、同じだった。


「はい。返却は済んでます」


 俺は、ドアから背中を離した。


「これから回収します」


 鍵束が鳴った。


 玄関の鍵が、外側から回り始めた。


 ドアのそばで、白い花が擦れ合う音がした。


 チェーンの長さだけ扉が開いた。


 隙間に顔は見えなかった。


 ただ、俺と同じ指が、下から一本ずつ入ってきた。


 俺の指よりずっと先まで曲がって、チェーンの留め具に触れた。


 外から、俺が言った。


「すみません。回収でーす」

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