婚約破棄された悪役令嬢は辺境の地の赤字を立て直す
婚約を破棄されてから、ちょうど三十日が経っていた。
馬車の荷台に揺られること七日。辿り着いた辺境の街は、石畳が割れ、商店の半数が板を打ちつけて閉じている。王宮の舞踏会場とは、あまりにも遠い場所だった。
ここが、「悪役令嬢」の行き着く先。
(……悪役令嬢、か)
あの夜会での光景が、まだ瞼の裏に焼きついている。
王太子ディートリヒが、満座の貴族の前で私に向けた言葉。
──リーネ・フォン・アールベルト。お前との婚約は、本日をもって破棄する。
その隣で、男爵令嬢のセレーナが泣き崩れていた。「リーネ様に帳簿を改竄されました」「私の仕事を妨害するために」と、涙ながらに訴えて。
帳簿を改竄したのは、私ではない。
私は改竄を見つけた側だ。財務長官の管轄する帳簿に三年分の不正な支出が紛れていることに気づき、上申した。その翌週に、すべてがひっくり返された。
罪状は「公金横領および王太子への背信」。身に覚えのない罪。
けれど証拠は巧みに差し替えられていて、私の言葉を信じる者は誰もいなかった。
王太子は、数字に興味のない人だった。
帳簿の中身より、隣で泣いている美しい令嬢の涙の方が、彼にとっては雄弁な証拠だったのだろう。
(……もう、終わったこと。いや──終わらせてたまるものか)
馬車を降りる。荷物は革鞄ひとつ。中身は着替えと、書記官時代に使い込んだ計算用の筆記具。帳簿は没収された。けれど数字は、全部覚えている。
前世──この世界に生まれる前の記憶のおかげで、数字の扱いだけは誰にも負けない。
領主の館は質素だった。装飾のない石造り。庭には花ではなく薬草が植わっている。
(……飾る余裕すらない領地。実用だけで生きている)
玄関で待っていたのは、白髪の老人だった。背筋がまっすぐに伸びている。
「リーネ殿ですな。お待ちしておりました」
その声に蔑みはなかった。「悪役令嬢が来た」という目でもなかった。それだけで、張り詰めていた肩の力が少し抜けた。
「トーマと申します。どうぞこちらへ」
◇
辺境伯ヴェルナーは、貴族らしくない人だった。
執務室に入った瞬間、最初に目に入ったのは日焼けした腕だった。袖をまくり上げ、机の上に領地の地図を広げている。軍人あがりだと聞いていたが、なるほど、その体つきは宮廷の文官とはまるで違う。
「座ってくれ」
短い言葉だった。敬語でもなく、見下す調子でもない。
「単刀直入に言う。うちの領地は火の車だ」
彼はそう言って、帳簿の束を私の前に置いた。
「俺は剣なら振れるが、数字はさっぱりだ。王都から来た書記官なら、帳簿は読めるか」
「……王太子に背いた悪役令嬢ですが、よろしいのですか」
自嘲ではなく、確認だった。この人がどういう目で私を見ているのか、知っておきたかった。
「悪役かどうかは知らん。帳簿が読めるかどうかを聞いている」
三十日ぶりに、自分の能力を求められている。
胸の奥で、何かが小さく灯った。
「読めます」
「なら頼む」
それだけだった。握手もなく、契約書もなく、ただ帳簿が手渡された。
不器用な人だと思った。そして、不器用さが嫌いではない自分に気がついた。
◇
帳簿を開いて、三十分で状況は把握できた。
収入の柱は農産物と鉱石。しかし支出が収入を大きく上回っている。
私は前世の記憶にある複式簿記で、収支を整理し直した。この世界の帳簿は単式──入った金と出た金を並べるだけだから、全体像が見えにくい。
けれど「資産」「負債」「収益」「費用」に分類し直すと、景色が一変する。
(……おかしい)
上納金の項目に、二重の記載がある。同じ月に同じ金額が二回。一回目は通常の徴税記録。二回目は「特別交付金返納」という聞いたことのない名目。
過去三年分を合算すると、辺境領の赤字額とほぼ一致する。
つまり──この領地が苦しいのは、領主の無能ではない。存在しない「交付金」の返納として、不正に金を吸い上げている者がいる。
背筋が冷えた。
これは、王都の帳簿で私が見つけた不正と同じ構造だった。
翌朝、ヴェルナーに報告すると、彼は静かに拳を握った。
「……それだけあれば、東の堤防を直せた」
怒りではなかった。悔しさを押し殺した、低い声。
「証拠を揃えられるか」
「帳簿がある限り」
ヴェルナーは引き出しから小さな鍵を取り出し、私に差し出した。
「書庫の鍵だ。十年分の帳簿がある。好きに使え」
少し錆びた鍵だった。けれどそれは、三十日ぶりに誰かから差し出された信頼だった。
受け取る手が、わずかに震えた。
◇
書庫に籠って五日目の朝、トーマが茶と一緒に知らせをくれた。
王都から視察団が来る、と。
トーマは毎朝、盆の端にさりげなく栞紐を添えてくれる人だった。帳簿のページに挟むのにちょうどいい細さ。何も言わずに必要なものを差し出すこの老執事を、私はすでに信頼していた。
「王国監査院のクラウス様がいらっしゃいます。それと──」
トーマは少し間を置いた。
「財務長官の代理として、セレーナ様も同行されるとのことです」
セレーナ。あの夜会で泣き崩れて見せた女性。私を「悪役令嬢」に仕立て上げた偽証者。
指先が冷たくなった。
けれど帳簿から目は離さなかった。
(……来るなら、来ればいい。今度は私が数字を見せる番だ)
三日後、視察団が到着した。
館の広間に通されたクラウスは、銀髪を後ろに撫でつけた長身の男だった。薄い灰色の目には感情が読めない。公爵家の次男と聞いていたが、纏う空気は貴族というより裁判官に近い。
その隣に、セレーナがいた。
金髪の巻き毛。きらびやかな髪飾り。そして──インクの染みがない、白い指先。
(……書記官を名乗っているのに、帳簿に触っていない手だ)
セレーナは私を見た瞬間、息を呑んだ。それからすぐに、被害者の顔を作った。
「まさか、こちらにいらしたんですね。……あの方に帳簿を任せて、大丈夫なのでしょうか。王太子殿下を裏切った方ですのに」
クラウスは何も答えず、ヴェルナーに向き直った。
「辺境伯。本日は領地財務の定期監査です。帳簿の提出をお願いします」
ヴェルナーが私に目配せをした。短い視線だった。
(……信じている、と。あの目はそう言っている)
私は用意していた書類を携え、広間の机に向かった。
「監査官殿。帳簿はこちらです。併せて、一点ご報告があります」
セレーナの目がわずかに揺れた。
「この領地の帳簿に、過去七年にわたる架空の支出が計上されています」
広間が静まった。
「名目は『特別交付金返納』。しかし対応する交付金の受領記録は存在しません。実態のない名目で、年間金貨八百枚が王都へ送金されています」
「何を根拠に──」
セレーナが口を挟んだ。
「根拠はこちらです」
一枚目の紙を広げた。七年分の架空支出の一覧。日付、金額、送金先。時系列で整理してある。
「単式帳簿では見落としやすい構造ですが、収支を左右に対照させると矛盾が浮かびます。支出に計上された金額に、対応する収入項目が存在しない。交付金を受け取っていないのに、返納だけが発生しています」
クラウスが一覧を手に取り、指で数字を追い始めた。その目は冷徹で、どちらの味方でもなかった。
「続けてください」
「二点目です。この架空支出が始まったのは七年前──現辺境伯の就任直後。帳簿に不慣れな時期を狙ったタイミングでした」
二枚目。年表形式の対照表。
「三点目。全ての送金記録に、同一の仲介商の名が記されています。この仲介商は──」
一呼吸、置いた。
「──王都の宮廷財務帳簿にも登場します。私がかつて不正を指摘し、その結果婚約を破棄され追放される原因となった、あの帳簿に」
セレーナの顔から血の気が引いた。
「でたらめです! この人は悪役令嬢ですよ! 王太子殿下が直々に断罪なさった──」
「セレーナ殿」
クラウスの声は平坦だった。しかし、その一言で広間の温度が下がった。
「数字の真偽は、発言者の身分や評判とは無関係です。帳簿の数字が合っているか、合っていないか。私が見るのはそれだけです」
セレーナは口を閉じた。唇が震えていた。
クラウスは一覧と帳簿を交互に確認し、やがて顔を上げた。
「辺境伯『特別交付金返納』の名目で計上された支出は、王都の正規の徴税記録と照合が取れません。これは私の権限で、即時凍結を指示できます」
ヴェルナーが深く頷いた。
「ただし」
クラウスは私を見た。灰色の目に、感情はまだ浮かんでいなかった。
「この証拠で確認できるのは、辺境領の帳簿における不正支出の存在のみ。王都側の関与や、あなたの断罪の件については、別途の審理が必要です」
「承知しています」
一瞬、クラウスの目が何かを測るように細められた。
「……この帳簿を複式で整理し直したのは、あなたですか」
「はい」
「見事な仕事です」
それだけだった。褒め言葉ではなく、事実の確認。けれどそれは「悪役令嬢」と呼ばれてから初めて、私の仕事が正しいと認められた瞬間だった。
セレーナは視線を泳がせ、何か言いかけたが、結局何も言えずに広間を出ていった。
(……彼女を責めても意味はない。彼女もまた、使われている駒だ)
本当の相手は、王都の財務長官。その背後にある利権の構造。
けれど今日、ひとつだけ確かなことが起きた。
この領地から不正に奪われていた金は、止まる。
◇
視察団が去った夕方、館の廊下で窓の外を眺めていた。
荒野に夕日が沈んでいく。王宮の庭園から見えた夕焼けとは違う、飾り気のない赤い光。
足音がして、振り返るとヴェルナーが立っていた。
その手に、湯気の立つ茶碗が二つ。
「トーマに頼まれた」
「……辺境伯が自らお茶を運んでくるんですか」
「ヴェルナーでいいと言っただろう」
茶碗を受け取ると、指先がかすかに触れた。
日焼けした、大きな手。剣を振るう手で、茶碗を運んでくる人。
「今日の報告、見事だった」
「まだ入り口です。王都の本丸には手が届いていません」
「それでも」
ヴェルナーは窓の外に目をやった。
「東の堤防が直せる。それだけで、来年の雨季に泣く農家が減る」
その横顔には、勝利の高揚ではなく、ただ領民への安堵があった。
ああ、この人はずっとこうだったのだ。数字も政治もわからないまま、それでも領民のために歯を食いしばっていた。
王太子は、泣いている令嬢の涙を見て判断を下した。
この人は、帳簿の数字を見て私を信じた。
どちらが誠実かなど、比べるまでもない。
「ヴェルナー様」
「ん」
「……帳簿の仕事、続けさせてください」
ヴェルナーは少し驚いたように私を見た。
「当たり前だ。お前以外に誰がやる」
ぶっきらぼうな声だった。けれどその耳がわずかに赤いことに、私は気づいてしまった。
(……ああ、そうか)
夕日のせいだと思うことにした。今はまだ、そういうことにしておく。
窓の外では、荒野が茜色に染まっていた。割れた石畳も、閉じた商店も、崩れた堤防も。全部まだ、そのままだ。
けれど帳簿は正しくなった。
数字が正しければ、そこから先は変えられる。
温かい茶を一口飲んで、私は小さく息をついた。
隣に立つ人の体温を、右肩にほんの少しだけ感じながら。
悪役令嬢と呼ばれた私の武器は、剣でも魔法でもない。
インクと数字と、嘘をつけない帳簿だ。
──それだけあれば、きっと十分。
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