君に捧げる婚約破棄
無数の蝋燭が灯されたクリスタルのシャンデリアは、凍てついた涙を集めたような輝きを床に落としていた。
甘美なワルツの旋律の中で絹とレースが擦れ合う音が揺れる。ルクメニル王国の宮廷で催されている夜会はいつもと同じように華やかだった。
広間に集う貴族たちの表情、笑顔に隠された緊張と、剣戟にも似た乾杯の音。
大広間の中心、人々が自然と道を開けた先に二人の男女が対峙している。
ルクメニル王国の第二王子、クリストフ・ド・ラファイエット。命の脈動を感じさせる金髪と、夏の湖のような知性の光を宿した碧眼を持つ穏やかな青年。
もう一人は隣国フェルブレグントから親善大使の名目で婚約者として送られた、辺境伯令嬢マルグリット・ド・オルレアン。
漆黒の髪をルクメニル風に結い上げて飾り気のない藍色のドレスを纏った彼女は、赤褐色の瞳から鋭利な美しさを放っていた。
楽団の演奏が唐突に止んだ。静寂がホールを支配する。誰もが息を潜めて二人の動向を見守っていた。
「マルグリット・ド・オルレアン令嬢」
「はい、殿下」
彼女はまっすぐに婚約者を見つめ返す。彼が次に紡ぐ言葉を悟っているかのようだった。
「俺は、この場で貴女との婚約を破棄する」
公衆の面前での婚約破棄など、相手の家門に対する最大の侮辱であり、許されざる醜聞である。
本来ならば、マルグリットは怒り狂うか、泣き崩れるか、あるいは扇で王子の頬を打つ場面だった。
しかしマルグリットは深々と淑女の礼をしただけだった。
「謹んで、お受けいたします」
この婚約がすでに破綻していることを、この場にいる誰もが本当はずっと分かっていた。
マルグリットがこの宮廷にきて二年になる。彼女と第二王子クリストフとの婚約は和平を象徴するものとして歓迎された。表向きは。
女性であるがゆえに爵位は継げずとも、辺境伯の娘として父から戦略と戦術を学んだ彼女には和平の裏側で燻り続ける戦火の灯火が見えていた。
この二ヵ月間、ルクメニル王国の軍備は急速に整えられた。国境沿いの村々から若者が徴兵されている。
そして国境線に張り巡らされた鉄条網の向こう側で、大国フェルブレグントの軍靴が今まさに大地を震わせている。
彼らの婚約破棄は二人が背負った二つの国家が託した宣戦布告の挨拶に過ぎなかった。
クリストフは苦痛を嚙み潰すように目を伏せて、ただマルグリット一人に向けて言葉を続ける。
「貴女は自由だ。……城門は開いている。我が精鋭兵が国境までのルートを護衛しよう。夜明けまでなら、まだ間に合う」
あと数時間もすれば国境での砲撃が始まる。そうなれば、王都にいる敵国の令嬢など格好の人質か、あるいは暴徒と化した民衆の血祭りにあげられる運命しかない。
主戦派である父王も兄も止められなかった無力な第二王子にできる、精一杯の抵抗。愛する女性への最後の贈り物だった。
燃え盛る鉄に喩えられるマルグリットの瞳が潤んでいることに気づいたのは、おそらく至近距離にいたクリストフだけだっただろう。
「ご慈悲に感謝いたします、殿下」
――さようなら、クリストフ。
迷いのない足取りで彼女は広間を去っていく。躊躇うことを自分に許せば振り向いてしまいそうだった。
***
ルクメニルの馬車を乗り捨て、騎乗にて国境の山脈を越えたマルグリットは故郷フェルブレグントの土を踏む。開戦の狼煙となる最初の重砲が轟いたのはまさにその朝のことだった。
峻厳な山々と凍土に閉ざされた鉄と氷の国。砦に翻るオルレアンの黒狼の旗を見た瞬間、マルグリットの頬が蒼白に染まる。
練兵場に漆黒の軍服を纏った兵士たちが溢れかえっていた。
フェルブレグントの冬は長く、夏は短い。痩せた土地からは充分な麦が採れず、増えすぎた人口を養う方策は常に外へと向かった。
隣国ルクメニルは陽光溢れる肥沃な平原を持つ戦士の国だ。彼らはむしろ広大な土地を切り拓く人間という資源を求めていた。
誇り高く生きるため、敵の膝を折るまで戦いは終わらない。
「戻ったか、マルグリット」
砦の司令室で彼女を迎えたのは岩塊のような巨躯を持つ初老の男だった。
国境を守護する辺境伯、ジュール・ド・オルレアン。彼は娘を一瞥もせず、机の上に広げられた地図を睨む。
「報せは届いている。あの甘ったれ第二王子らしい気障な宣戦布告だ」
「……婚約破棄は殿下の意志ではございませんわ」
マルグリットは道中で泥に汚れたドレスの裾を引き裂き、傍らに控えていた従卒から軍服の上着を受け取って羽織った。
クリストフ。貴方の国を焼きます。貴方の民を殺します。どうかわたくしを許さないで。わたくしを憎んで。
我がフェルブレグントの民よ。わたくしは我々の勝利を願えない。それでもわたくしは戦いましょう。
願わくば、最後に敗者を断罪するのがクリストフでありますように。
「父上。敵軍の布陣は?」
「主力は王都防衛に集中している。国境付近には第二軍団のみ。だが、抜くには骨が折れるぞ」
ルクメニル王国は精強な騎兵隊を有していたが、フェルブレグントの歩兵は頑強だ。彼らは防御陣地の構築に長けている。
「私に騎兵二個連隊をくださいませ」
「ほう? 迂回するか」
「彼らは私の宮廷での顔を知っています。そして殿下から婚約破棄を突きつけられたことも。悲嘆に暮れているべき小娘が騎兵を率いて側面を食い破れば、必ず動揺が走ります」
自分に向けられた情すらも盤上の駒として利用する。息子であれば跡を継がせたものを、と口惜しそうに、しかし誇らしげにジュールは娘を見つめた。
「愛した男の国だぞ。心を痛めぬか」
父の試すような視線に、マルグリットは表情一つ変えずに答えた。
「私はオルレアンの娘です。我が領民が飢えている時、感傷で腹は膨れません」
腰にサーベルを佩き、踵を鳴らす。
「フェルブレグントの冷たい雪のように、王都を押し潰すといたしましょう」
***
敵の補給路を断ち、退路を塞ぎ、包囲して殲滅する。捕虜は取らない。取れば自軍の食糧が減る。
血に染まった剣を握りしめたマルグリットの眼前にはルクメニルの若い騎士が倒れ伏していた。おそらく二十歳そこそこだろうか。
クリストフに似た金の髪からは、もう生気の名残さえも消え失せている。
フェルブレグントの進撃は迅速にして無慈悲だった。村々は焼かれ、家畜は奪われ、抵抗する者は容赦なく銃剣の錆となった。
彼女は略奪を推奨こそしなかったが、止めることもなかった。兵站が維持できない以上、現地調達は必然だ。泣き叫ぶルクメニルの農婦を切り伏せて小麦の袋を得る兵士を見ても、彼女は眉一つ動かさずに馬を進めた。
その小麦がなければ、故郷で待つフェルブレグントの罪なき子供たちが冬を越せずに死ぬのだから。
一方、ルクメニル軍の抗戦も苛烈であった。
徹底した遅滞戦術と焦土作戦が展開され、やむなく撤退を余儀なくされる時でも彼らは自国の村に火を放ち、井戸に毒を投げ込み、橋を落とした。敵に一粒の麦も渡さないために。
数で勝るフェルブレグント側の戦死者は数千にのぼり、マルグリットの二人の兄も戦死した。父ジュールは悲嘆を活力に代えてさらに激しく戦い続けた。
「お前たちの葬儀はルクメニルの王都で執り行う。かの地を敵の血で染めよ!」
やがてフェルブレグントの物量と執念が徐々にルクメニルを追い詰めていった。
互いに手の内を知り尽くしている元婚約者。緋色のカーペットの上で軽やかにダンスを舞うかのごとく、戦況は一進一退を繰り返す。
婚約破棄より一年。
季節は巡り、再び冬が訪れる頃、マルグリットの軍はついに王都を包囲する丘の上に達していた。
***
ルクメニルの王都が燃え上がる。
かつて大陸の宝石と謳われた美しい街並みは巨砲の雨によって瓦礫の山へ変わり果てた。
運河は死体で埋まり、淀んだ赤色に染まっている。空を覆う黒煙が黄金の太陽を隠していた。
「マルグリット。王宮攻略の第一陣を任せる」
「父上」
「お前が最も優れた指揮官だ。そしてお前は城の内部を知っている。二年間、あそこで過ごしたのだからな」
「……承知いたしました」
総攻撃が始まって三日目、城壁の一角が崩落した。
雪崩れ込んだフェルブレグント兵は、飢えた獣の群れのように市街地を蹂躙する。
マルグリットは直属の騎兵大隊を率いて混乱する市街を一直線に王宮へとひた走った。
軍服は煤と返り血で汚れ、サーベルの刃は幾度もの斬撃で毀れ、愛馬の白い毛並みも灰色に染まっている。
彼女の赤褐色の瞳は王宮の最奥、愛しい者が待つ場所だけを見つめていた。
大勢は決している。ルクメニル国王は既に自害し、王太子も前線で戦死した。
残る指揮官は一人だけ。
王宮の大広間。かつてマルグリットが婚約破棄を告げられたあの場所。
クリスタルのシャンデリアは落ちて砕け、ガラス片と薬莢が床に散乱している。崩れた壁の向こうで砲撃の轟音が響いていた。
そこでマルグリットを迎えたのは第二王子クリストフだった。
煌びやかな軍服はぼろ布のように引き裂かれ、左目に巻いた包帯から血が滲む。しかし残された右の碧眼には、慣れ親しんだ静かな知性の光が煌めいていた。
最後まで主君を守ろうとして倒れた近衛兵の遺体が横たわっている。中にはかつて彼女を国境へと送り届けた彼の精鋭兵の顔もあった。
マルグリットは部下たちを控えさせ、一人で彼に歩み寄る。軍靴の音が広間に響いた。
互いの剣の間合いの、わずか外側で彼女は足を止めた。
「……よくきた、マルグリット」
彼の声は掠れていたが、遅れてきた恋人を迎えるかのように穏やかだ。
「クリストフ……」
一年ぶりに発したその名前に、喉が熱くなった。
駆け寄って抱きしめたい。生きていてくれたことを喜びたい。
けれどわたくしの手には、彼の民の血を吸ったサーベルが握られている。
そして彼もまた、わたくしの民の返り血を浴びている。
「君がどこかに逃げてくれたらと思っていた。俺の婚約者でなくなれば、政略の軛を外して、どこか遠くの平和な国で……」
クリストフが自嘲気味に微笑んだ。マルグリットがそうしないことを、彼は誰よりもよく知っていた。
「わたくしは辺境伯の娘。敵を討ち果たすまで戦いますわ」
誇り高く、降伏を是としない互いの国。死ぬまで戦い続ける彼の国と、栄すぎて国土が足りない彼女の故郷。
フェルブレグントが生きるには、ルクメニルを喰らうしかなかった。ルクメニルが生きるには、フェルブレグントを殺すしかなかった。和平が不可能なのは婚約した時から分かっていた。
「……俺も、この国の王の息子だ。国を守り抜くまで戦おう」
クリストフが構えた剣の切っ先がマルグリットの心臓に向けられる。
「お相手いたします」
マルグリットもまた、剣を構えた。
***
静寂が戻った広間にマルグリットは立ち尽くす。
崩れ落ちそうになる体を抱き留めると、クリストフの口から鮮血が溢れて互いの軍服を濡らした。
「……見事だ」
薄れゆく意識の中で、クリストフはマルグリットの頬に手を触れた。どろりとした真紅が彼女の頬を染める。
「泣き虫なマルグリット。もう泣くのを我慢するな」
「クリストフ、わたくし……わたくしは……」
「……願わくば、君が心から泣き、笑える国を……」
「わたくし……必ず、叶えますわ。大好きな貴方のために」
そうしてルクメニル王国最後の王子の手から力が抜けた。
冷たくなっていく彼の亡骸に顔を埋め、マルグリットの表情は誰にも見えなかった。
勝利の歓声が王都に響く。
ゆっくりと立ち上がり、敵国の王子の亡骸を床に横たえる。そしてマルグリットは血塗れのサーベルを鞘に納めた。
黒煙に覆われた空から新しい時代の始まりを告げる雪が降り落ちる。
「……さようなら、クリストフ」
この婚約破棄は政略を逃れて二人の恋人たちの手に戻された。マルグリットは喪った愛に泣くことが許される。
戦争は終わり、勝利という罪を背負って彼女は生きてゆくだろう。




