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第53話 おまじないは、最強の魔法

 診療所に戻った私たちは、ハンク医師を驚愕の渦に叩き込むことになった。


 アミナが籠いっぱいの『ヒールグラス』を机の上に広げると、ハンク医師は目を丸くして、眼鏡の位置を何度も直し始めたのだ。


「こ、これは……なんとも立派なヒールグラスだ……! 葉の色つやといい、茎の太さといい、私が知っているものとはまるで別物じゃないか」


 ハンク医師が震える手で薬草を一本持ち上げ、光に透かして見ている。


「魔物被害で森は荒れていると思っていたが、こんな良質な株が残っていたとは……。これなら、あるいは……」


 彼の目に、諦めの色ではなく、職人としての情熱の火が灯るのを私は見逃さなかった。


 素材は揃った。あとは料理人の腕次第だ。


 そして今日のシェフは、この私である。


「ねえねえ、ハンク先生! お薬作り、やってみようよ!」


 私はハンク医師の白衣の裾を引っ張って急かした。


 善は急げだ。摘みたてのハーブは鮮度が命。


 時間が経てば経つほど、葉の中に蓄えられたマナが大気中に霧散してしまう。


「し、しかし、私の力では……」


「私がやるの! 本に書いてあった通りにやりたいの!」


 私は駄々っ子モードを発動させながら、準備しておいたアイテムを指差した。


 それは、アミナにお願いして持ってきてもらった踏み台だ。


 今の私の身長では、大人が使う作業台は高すぎて手元が見えない。踏み台は必須アイテムなのだ。


「アミナ、あれセットして!」


「はいはい、お嬢様。お怪我をなさらないでくださいね」


 アミナが苦笑しながら踏み台を作業台の前に置く。


 私は「よっこいしょ」と掛け声をかけて、その上に登った。


 これでようやく、ハンク医師と同じ目線で机の上を見渡せるようになった。


 用意された道具は、真鍮の鍋、濾過布、木べら、そして水の入った水差し。


 最低限だが、ポーション作りにはこれで十分だ。


「し、仕方ありませんな。では、お嬢様。火を起こしますぞ。強火で一気に……」


 ハンク医師がカマドに薪をくべようとするのを、私は「待った!」と手で制した。


「だめ! 強火はだめなの!」


「え? しかし、煮沸しないと……」


「本に書いてあったもん! 『薬草さんは熱いのが嫌い』って! だから、お風呂くらいの温度にするの!」


 私は指を三本立ててみせる。


 タンパク質が変性を起こす手前の、酵素が最も活発に働き、かつマナが活性化するギリギリの温度帯だ。


 これを「天使の温度」と、かつての私は呼んでいた。


「お風呂、ですか……。そんなぬるいお湯で成分が出るのか……?」


 ハンク医師は首を傾げつつも、私の剣幕に押されて火力を弱めた。


 鍋の水が温まっていく。


 湯気が立ち上り始めるが、ボコボコと沸騰はしていない。


 私は鍋の中に指を突っ込んだ。


「お嬢様! 危ないですぞ!」


「んー、これくらい!」


 指先で温度を測る。


 うん、熱いお風呂くらい。完璧だ。


 私は満足して、ハンク医師に向き直った。


「じゃあ、薬草を入れるね。見てて!」


 ここからが本番だ。


 私は籠から選りすぐりのヒールグラスを取り出すと、まな板の上に並べた。


 従来の方法では、これをすり鉢で親の仇のように磨り潰していたようだが、それは駄目だ。


 細胞壁を破壊しすぎて、雑味やエグみが出てしまう。


 私はナイフを手に取った。アミナが悲鳴を上げそうになるのを視線で制し、トントントン、とリズミカルに葉を刻んでいく。


 繊維を断ち切らず、マナの通り道を残すように。


 その手つきは、おままごとの延長に見せかけて、完全に熟練の薬師の所作だった。


「ほーら、お風呂だよー」


 刻んだ葉を、鍋の中にパラパラと投入する。


 瞬間、ふわっと爽やかな香りが立ち上った。


 ミントとレモンを合わせたような、清涼感のある香り。


 今まで診療所に充満していた腐臭のような煮汁の匂いとは、雲泥の差だ。


「おお……なんと良い香りだ……」


 ハンク医師が鼻をひくつかせ、うっとりとした顔をする。


 まだだ。まだ驚くのは早い。


 私は木べらを手に取り、鍋の中をゆっくりと回し始めた。


 ここからが、魔女の秘技……魔力撹拌マナ・ステア


 ただ混ぜているわけではない。


 右回りに三回、左回りに一回。


 鍋の中に小さな渦を作りながら、私は木べらを握る指先から、ほんの微量の魔力を流し込んでいた。


 誰にも気づかれないレベルの、細い細い魔力の糸。


 それを鍋の中に広げ、お湯に溶け出した不純物だけを絡め取り、分解していくイメージだ。


 同時に、ヒールグラスから溢れ出した有効成分を魔力でコーティングし、熱による劣化を防ぐ。


 ……くっ、やっぱり六歳の体だと制御が難しいわね。


 額にうっすらと汗が滲む。


 魔力が少なすぎればポーションの品質が落ちる。


 この繊細なコントロールこそが、最高級ポーションを作るための鍵なのだ。


 私は「おいしくなーれ、おいしくなーれ」と、無邪気な呪文を口ずさみながら作業を続ける。


 周りから見れば、可愛らしくおまじないをかけているようにしか見えないはずだ。


 すると、変化は劇的に現れた。


 最初は透明だったお湯が、徐々に色づき始める。


 くすんだ緑ではない。


 まるで森の妖精が溶け込んだような、透き通るようなエメラルドグリーン。


 鍋の底が見えるほどに澄んでいるのに、光を吸い込んで内側から発光しているかのような輝きを放ち始めたのだ。


「な、なんだこれは……!?」


 ハンク医師が身を乗り出した。


 眼鏡が鼻先までずり落ちていることにも気づかず、鍋の中を凝視している。


「色が……変わっていく。濁りが全くない。それに、この光は……」


「本に書いてあったの! 『キラキラしてきたら出来上がり』って!」


 私は最後の仕上げに、魔力の波動を一瞬だけ強めて定着させた。


 よし、完成だ。


 私は火から鍋を下ろすように指示し、用意しておいた濾過布へ、ざばーっと液体を注ぎ込んだ。


 布を通ってビーカーに落ちていく液体は、宝石のように美しかった。


 黄金色の粒子が混じった、鮮やかな翠色。


 部屋中に、深い森の中にいるようなリラクゼーションの香りが広がる。


 それだけで、周りで作業を見ていた看護婦さんたちの肩の力が抜けるのがわかった。


「……できた!」


 私は踏み台の上で両手を挙げた。


 ビーカーの中で揺れる液体は、私が前世で作っていたものと比べても遜色のない出来栄えだった。


 むしろ、素材の良さのおかげで、最高傑作かもしれない。


「これが……ポーション……?」


 ハンク医師は呆然と立ち尽くしていた。


 彼が知っている泥水のような液体とは、存在としての格が違いすぎる。


 彼は恐る恐るビーカーに手を伸ばし、小皿に少量を移した。


「……毒、ではないな。この香りは、確かにヒールグラスのものだ」


 医師としての責任感か、彼はゴクリと喉を鳴らし、自分自身で味見をしようとした。


「先生、飲んでみる?」


「あ、ああ。患者に飲ませる前に、私が安全性を確かめねばなるまい」


 ハンク医師の手が震えている。


 無理もない。


 常識外れの製法で作られた、見たこともない色の液体なのだ。


 未知への恐怖があるだろう。


 彼は意を決して、小皿の液体を一気に口へ流し込んだ。


 瞬間。


 カッ! とハンク医師の目が限界まで見開かれた。


「――んんっ!?」


 彼は口を押さえ、よろめいた。


 アミナが駆け寄ろうとする。


 しかし、次の瞬間、ハンク医師の体からボキボキッという音が聞こえてきそうなほどに、背筋がピンと伸びたのだ。


「……あ、甘い……いや、爽やかだ! 苦味が全くない!」


 彼は自分の喉や胸をさすった。


「飲んだ瞬間に、胃の腑から熱い力が湧き上がってくる! なんだこれは、体が……体が軽いぞ!」


 連日の激務でドス黒く澱んでいた彼の顔色が、みるみるうちに血色の良いバラ色へと変わっていく。


 目の下のクマが消え、濁っていた瞳に精気が戻る。


 極めつけは、彼の手だった。


 水仕事と薬品の扱いでガサガサに荒れ、あちこちにささくれや小さな切り傷があった彼の手指。


 それが、見る見るうちに塞がっていったのだ。


 皮膚が再生し、古傷さえも消え去り、まるで赤子の肌のようにツルツルになっていく。


「ば、馬鹿な……! 傷が、消えた? 一瞬で!?」


 ハンク医師は自分の手をまじまじと見つめ、それから私を見つめ、そしてビーカーの中身を二度見した。


「疲労が一瞬で吹き飛んだ……。今なら、山一つ越えて走れそうだ」


 あまりの衝撃に、彼は腰の力が抜けたのか、その場にへたり込んでしまった。


 ドサリと尻餅をつき、口をパクパクさせている。


「な、なんじゃこりゃあぁぁぁーーっ!?」


 診療所中に響き渡る絶叫。


 患者たちも、看護婦たちも、何事かと一斉にこちらを注目する。


 その視線の中心で、私は踏み台の上からハンク医師を見下ろし、小首をこてんと傾けてみせた。


「えへへ、うまくいった?」


 あくまで無邪気に、あくまで偶然を装って。


 こうして、アシュレイン領の運命を大きく変えることになる、『アシュレイン式ポーション』が爆誕したのだった。

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