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第5話 初めての食卓と、辺境の騎士

「うわぁ、いい匂い……!」


 食堂の扉を開けた瞬間、鼻孔をくすぐる芳醇なバターとミルクの香りに、私は思わず感嘆の声を上げた。


 高い天井に吊るされたシャンデリアが、磨き上げられた長いマホガニーのテーブルを照らしている。


 母に手を引かれ、私はその温かな空間へと足を踏み入れた。


「あ、おねえちゃん! ここ、ここ!」


 テーブルの一角で、ちょこんと椅子に座ったデイルが、満面の笑みで手を振っている。


 そして、その上座には――まるで巌のように大きな背中があった。


「おお、エルシア。デイルから聞いたが、体調は大丈夫か?」


 振り返ったのは、野性味溢れる髭を蓄えた、精悍な顔立ちの男性。


 私の父、ローウェン・ラーザン・アシュレインだ。


 丸太のように太い腕に、厚い胸板。


 ゆったりとした室内着を着ていても、その服の下に鋼のような筋肉が隠されているのが見て取れる。


 相変わらず、熊のような人だ。


 エルシアの記憶にある父は、優しくて、とてつもなく強い。


 それもそのはず。彼はかつて王国最強と謳われた『四大騎士』の一人だった男だ。


 剣を振るえば竜をも断ち、戦場では千の兵を指揮した英雄。


 しかし、その輝かしい経歴は、王宮内の泥沼のような派閥争いによって閉ざされた。


 王妃派の筆頭騎士だった彼は、対立する宰相派の策略により失脚。


 「無実の罪」と「政治的責任」を押し付けられ、魔物が蔓延るこの北の辺境へと左遷されたのだ。


 事実上の都落ち。


 けれど、彼は腐ることなく、この過酷な地で領民を守り続けている。


「はい、お父様。すごく元気です」


「そうかそうか! それは良かった!」


 父は豪快に笑う。


 私は席につき、部屋の隅に控えている人物にも視線を向けた。


 壁際で直立不動の姿勢を保つ、黒髪ショートカットの女性。


 凛とした涼やかな目元に、一切の無駄がない所作。


 彼女はアミナ。この屋敷のメイド長であり、エルシアの専属世話係も務めてくれていた女性だ。


「エルシア様、お加減が良くなられたようで、安堵いたしました」


 アミナは表情を崩さずに恭しく一礼したが、その瞳が僅かに和らいだのを私は見逃さなかった。


 彼女は若くしてメイド長に抜擢された才媛だ。


 前のエルシアがふさぎ込んでいた時も、いつも静かに寄り添ってくれていたらしい。


「さあ、冷めないうちにいただきましょう」


 母が席に着き、私たち家族の昼食が始まった。


 目の前に置かれたのは、湯気を立てる白いクリームシチューと、焼きたてのパン。


 スプーンで掬うと、トロトロに煮込まれた野菜と鶏肉が顔を出す。


 一口食べると、濃厚なミルクの甘みと野菜の旨味が口いっぱいに広がった。


「……おいしい」


「ふふ、でしょう? エルシアの好きな鶏肉を多めにしてもらったのよ」


 母が嬉しそうに微笑む。


 前世で私が錬成していた「紫色で泡立つシチュー」とは、もはや別の次元の食べ物だ。


 温かい料理を、家族みんなで囲む。


 ただそれだけのことが、千年の孤独を生きた私には、どんな高等魔法よりも尊い奇跡のように感じられた。


「ぼくね、きょうはおにわでむしさんつかまえたの!」


「ほう、すごいなデイル。どんな虫だ?」


「えっとね、みどりのやつ!」


 デイルが口の周りに白いソースをつけながら、一生懸命に話している。


 父と母はそれを慈愛に満ちた目で見守り、時折アミナがナプキンでデイルの口元を拭ってやる。


 平和だ。


 けれど、この平和が「薄氷の上」にあることを、私は知っている。


「ぼく、もっとおおきくなったら、お父様みたいにつよくなるんだ! それで、このりょうちをまもるの!」


 デイルが小さな拳を握って宣言した。


 その純粋な言葉に、父ローウェンが一瞬だけ、複雑な表情を浮かべた気がした。


 眉間の皺が深くなり、視線がふと窓の外へと向けられる。


 やはり、状況は良くないのか。


 私はパンを千切りながら、意を決して切り出した。


 ただ守られるだけの子供でいるつもりはない。


 現状を知らなければ、対策も立てられないからだ。


「お父様。……最近、魔物が増えているというのは本当ですか?」


 私の問いかけに、カチャリ、と食器の音が止まった。


 母の顔が曇り、アミナの視線が鋭くなる。


 父は少し驚いたように私を見た後、ゆっくりとスプーンを置いた。


 六歳の娘にする話ではないと迷ったのだろうが、私の真剣な眼差しを見て、子供扱いせずに答えることを選んでくれたようだ。


「……ああ、そうだ。エルシアも気づいていたか」


「はい。屋敷の使用人たちが話しているのを、少し」


「そうか……。確かに、ここ数ヶ月で森の魔物の活動が活発化している。村が襲われる頻度も、例年の倍以上だ」


 父の声は重かった。


 魔物は瘴気に引き寄せられる。


 おそらく、私の弟子がばら撒いた魔法書の影響で、世界全体の魔力バランスが崩れ、この辺境にも歪みが生じているのだろう。


「でも、心配はいらんよ」


 父は努めて明るい声色を作り、力強く頷いてみせた。


「我が辺境伯領の騎士たちは、屋敷を守る近衛も、村を巡回する駐屯騎士も、皆が熟練の手練れだ。ここの複雑な地形も、森の植生もすべて頭に入っている」


 「地形を、利用しているのですか?」


 「ああ。村ごとに避難経路を地下に確保し、狼煙による合図も徹底させた。魔物の行動パターンを読み、先回りして討伐隊を巡回させている」


 なるほど、と私は心の中で舌を巻いた。


 正面からの物量作戦ではなく、ゲリラ戦術に近い防衛戦。


 少数精鋭で広大な領地を守るための、苦肉の策であり、最適解だ。


 さすがは元・四大騎士。


 指揮官としての能力は超一流らしい。


「王都からの援軍は……期待できんがな」


 父は自嘲気味に笑い、ワイングラスを傾けた。


 その言葉の裏には、中央への諦めと、それでもここを守り抜くという強烈な自負が混じっていた。


 政治闘争に負けて左遷された身だ。


 中央の宰相派は、むしろこの地が魔物に蹂躙されることを望んでいるのかもしれない。


「だが、この地を守るための手は、まだ残っている。私の剣も、まだ錆び付いてはいないさ。必ず乗り切れる」


 そう言って微笑んだ父の顔は、一人の騎士の顔だった。


 その瞳に宿る光は力強い。


 けれど、私には見えてしまった。


 その逞しい肩にのしかかる、あまりにも重すぎる重圧が。


「あなた……」


 母が不安そうに声を出す。


 後ろに控えるアミナも、痛ましげに唇を噛んでいた。


 父の戦術は完璧だ。


 だが、それはあくまで「通常」の魔物が相手の場合だ。


 もし、変異種や、知恵をもった魔人が攻めてきたら?


 人の力だけでは、騎士の誇りだけでは、どうにもならない暴力的な魔法の前では、この平穏は容易く崩れ去る。


 王都の援軍がないなら、私もやるしかないな。


 私はシチューを口に運びながら、密かに決意を固めた。


 父の負担を減らすため、そして、デイルの「がんばる」という可愛い決意を守るため。


 今の私の魔力は空っぽに近いが、知識はある。


 何かしらの手は打てるはずだ。


「ごちそうさまでした。とっても美味しかった!」


「お粗末様でした、エルシア様」


 アミナが皿を下げる。


 私は満腹になったお腹をさすりながら、父に向かってニッコリと笑った。


「お父様、お母様。私も、辺境伯家の娘として、できることを探します。……まずは、健康になりますね!」


「ははは! ああ、それが一番の親孝行だ」


「そうね、元気でいてくれることが、私たちの何よりの願いよ」


 食卓に再び笑い声が戻る。


 この温かい時間を、絶対に壊させはしない。


 まずは魔力の修復、そして――領地の防衛戦力の底上げだ。


 魔女の知識を総動員した、極秘の領地改革計画が、私の頭の中で静かに動き出したのだった。

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