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枯れ専

作者: 西順

 良く磨かれ、鏡のように周囲の様子を映す樫のデスクには、懊悩する老年の男の姿が映し出されていた。白髪に髭を伸ばした男は、樫のデスクに置かれたパソコンの前で頭を抱えている。


「…………枯れた」


 暫く懊悩を続けた男であったが、脳が焼き切れたかのように頭を抱えていた両手をだらんと垂らし、天を仰ぐ。


 この男、藤波亮は小説のみで生活費を稼ぐ、プロ小説家をしている。20歳で新人賞を受賞してより50年、藤波の小説は世間より評価され続け、長い小説家人生で、幾多の賞を受賞してきた、小説を読まない層にもその名が知れた小説家だ。


 そんな藤波の前に置かれたパソコンの画面は真っ白だった。早く自分に文章を入力せよと、画面の中でアンダーバーだけが明滅している。それが藤波の心をざわつかせ、何か書かなければ、と動悸が逸るも、頭も真っ白で文章どころか平仮名さえ思い浮かばない。思い浮かぶのは、酒と夕食の事くらいで、ただこの無為な時間が1秒でも早く過ぎてくれる事を祈るぐらいしか、今の藤波には出来なかった。


 何故己がこのような事に懊悩しなければならないのか、画面のアンダーバーを睨みながら、思い起こすも、何度となくこれまでの自分を反芻するも、出てきた答えは「枯れた」の一言だ。


 小説家として生きる為に、出来る事は全て尽くしてきた。20代はアウトプットにばかり時間を割いてきた為に、同じように何も出て来なくなった事もあったが、その時の担当編集から、「アウトプットと同じくらいインプットも大切ですよ」と言われ、本を読み、音楽を聴き、映画を観て、旅にも出掛け、様々な体験をして、それらを自分の糧として、執筆に活かしてきた。


 それが実を結んだのか、藤波の評価は30代から世間に認められるようになり、まるで本当に体験しているかのような読書、読む映画などと世間より評価され、様々な小説賞を受賞するようになってきたのもこれ以降だ。


 が、それにも限界があった。世間からの評価が下がった訳ではない。事実年齢を重ねる程に、藤波の小説は円熟味を増し、評価を盤石なものへとしてきた。しかし、それと比例するかのように、本を出版する頻度が減っていった。


 一冊の本を書き上げるのに、時間が掛かるようになってきた、と本人自身が感じるようになったのは、40代も後半に差し掛かった頃からだ。それまでと同様に、本を読み、音楽を聴き、映画を観て、旅に出る。様々な体験をして、それを小説に落とし込む。そんな今までと変わらぬ生活は、脳を刺激しなくなってきていた。


 本を読んでもその内容がこぼれ落ち、頭に入らない。音楽を聴いても、昔に聴いたような気がして、新鮮味を感じない。映画を観ても細かな欠点ばかり目に入り、文句ばかりが頭の中で繰り返される。旅に出て、地のものを食し、観光地に足を運んでも、その感想は今まで行った土地との比較となり、ここは良いがこちらはあちらのものの方が良い、とどうにも脳への刺激を妨げる。


 そんな日々から、何とかこぼれ落ちなかった、心に残った情景や体験を文章に込めて、苦しみの中から本を書き上げる工程をこの歳まで続けてきたが、それにも限界が来たのだ。本も、音楽も、映画も、旅も、藤波の刺激とならなくなり、藤波の小説家としての源泉は、藤波自身の言葉と共に「枯れた」。


 何も書けなくなった現実に、打ちのめされるように身体は脱力し、仰ぎ見る天井は、何ら新しいシンスピレーションを与えてなどくれない。そんな無為な時間が延々と流れ、自罰的に自分を責める心も、枯れたインスピレーションと共に霧散していき、何も出来なくなった自分を苦しめ、無理矢理にも執筆に向かわせる気力も失わせていく。


「…………もう7時か」


 ふとパソコンに目をやれば、時間は午後7時を過ぎていた。漸くこの無為な時間ともおさらば出来ると、藤波は真っ白な画面のパソコンの電源を切り、書斎を後にする。


 さて、といつものようにビールとつまみを用意した藤波は、一人侘しくテレビの前を陣取ると、サブスクで何度となく観た映画を流しながら、ふと、スマホに目を向ける。スマホの画面を開くと、担当編集から着信があったらしい。藤波は小説を書く時にはスマホやテレビなど、情報を遮断して書くので、ここに来て今気付いた。


 着信メッセージの内容を確認すると、新作を催促するような内容でなかった事に一安心した後、担当編集が新しく担当するようになった新人の話と共に、その新人が書いたと言う新作の一端が添付されていた。本来ならこんな情報漏洩とも取れる行為は諌めるべきだが、新人が藤波の大ファンで、自分の意見も聞きたい! との事で新作の一部を送って来たようだ。


 頭を殴られたような体験。それが藤波が名も知らない新人の小説を読んで受けた衝撃だった。自分に感銘を受けて小説を書いた? そんな訳がない! この小説は自分の小説を既に上回っている。流していた映画はいつの間にか終わっており、勝手に別の映画に切り替わっていた。時間が飛んでいた。藤波が知らず知らずのうちに何度も読み返していたからだ。短い一端を読んだだけだと言うのに、その小説の衝撃は、それ程までに強烈なものだった。もっと欲しい。もっと読みたい。そう思わせる強烈な文章がそこには美しく並べられていた。


 藤波の小説は映画のような体験と揶揄されるが、この小説を例えるなら、映像化不可能、それでありながら何故か映像が脳裏に焼き付く不可思議体験を体現していた。きっと100人が100人、1000人が1000人、いや、これを読んだ全ての読者が、別のものを想像するだろう。それでいて強烈に、鮮烈に、その観た事がない映像を脳裏に焼き付けるだろう。


 羨ましい……。憎い。悔しい。恨めしい。こんな小説が書きたい! 自分を超える圧倒的な才能に、羨望と嫉妬の情念が藤波の中を渦巻き、藤波はその日、ビールだけでなく、ワイン、ウイスキー、日本酒、焼酎と、家にある酒を片っ端から呑み干して、浴びる程酒を呑んで、次に目を覚ました時、藤波は書斎のデスクでうつ伏せになっていた。70にもなって、何をしているのか。と宿酔いで痛い頭を押さえながら、キッチンで水を飲んでいると、いきなり電話が掛かってきて、それが頭に響いてイライラしながらも、スマホに出れば、担当編集だった。


 編集は「感動しました!!」と開口一番元気良く口にしてから、宿酔いで脳が働かない藤波に、あれやこれやと訳の分からない事を一方的に捲し立てると、「それでは失礼します!!」と言って勝手に通話を切ってしまった。


 何だったのか。訳の分からないままの藤波が、今日も書斎で無為な時間を過ごすのか、とリビングの戸棚から一口サイズの羊羹を幾つか持ち出し、それを一つ噛りながら、重い足取りで書斎に戻ると、先程は気付かなかったが、パソコンが起動していた。いつもなら真っ白なその画面が、何やら文字で埋め尽くされている。


 誰が書いた? きっと自分だろう。酒を呑み過ぎて、その勢いでどうやら何か書き殴ったらしい。我ながら馬鹿な事をしたものだ。と思いながら、何を書いたのか気になり、画面を覗き込む藤波。そして画面に並べられた文章に集中するあまり、藤波は齧っていた羊羹が気道に入って咽る事で我に返る。


 画面に書かれていたそれは、今までに自分が書いてきたどの小説とも違っていた。昨夜の名も分からない新人の小説からインスピレーションを得たのは分かる内容ではあったが、その小説ともまるで違っていた。自分が書いたとは信じられない、真新しい小説に、脳からドーパミンが溢れ出るのが分かる。今までの自分の小説とは明らかに違う、新人に触発されて書いた、それでいて自分の系譜に連なる小説が眼前に存在する興奮は、藤波の脳に新鮮で鮮烈な刺激を与えるのに十二分なものであった。


 何度も読み返した。何十回も、何百回も読み返し、藤波はその1行、1節、1段落、1章から、余す事なくインスピレーションをインプットしながら、「いや、これならこう表現した方が良いんじゃないか?」「この1行、この言葉だけで新しく小説が書けるぞ?」「この表現! これが書きたかったんだ!」と興奮のままに発奮し、更に別の小説を描き出す。藤波は眠るのも忘れて小説を書く事に専従し、その日、分量にして5冊分の連作短編集を書き上げた。


 それは後に世間を席巻する大作となり、日本人どころか世界に波及し、歴史に残る名作となり、藤波の終作となったのだった。


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