大統領執務室
宇宙戦艦ウィガニスは地球に接近しつつあった。
その全長およそ5km。最初は、太陽観測衛星が捉えた誤差のような異変に過ぎなかった。しかし現在では、空を見上げた肉眼でもはっきりと捉えられる巨大な影となっていた。
混乱はすでに世界規模に拡大し、各国政府は事実の隠蔽を諦めた。そして、皮肉にもこの事実は各地で起きていた紛争を停止させるに至った。思想の衝突も、領土をめぐる争いもウィガニスの前ではもはや、無意味な小競り合いに過ぎない。
ある者はこれを神の降臨と歓喜し、そしてある者は遂に訪れたハルマゲドンだと嘆き絶望した。
あらゆるメディアやSNSはこの迫り来る巨大な影を中心に回り始めていた。
某超大国、大統領執務室。
厚いカーテンに仕切られた重厚な空間。歴代大統領の肖像画が憐れむように見下ろす中、大統領はある男と向かい合っていた。
その男は数十年前、地球にやってきた地球外生命体の代表。今は人類に溶け込み、某巨大財団のトップとして君臨すると同時に、政府の影のアドバイザーとして活動していた。だが、その正体を知る者は、地球上でもごく限られた者しかいない。
「おい、イリス。貴様、知っていたのか?」
大統領が白髪混じりの金髪の頭を掻きむしりながら怒鳴った。その仕草には明らかな焦燥と苛立ちが滲んでいた。
イリスと呼ばれた男、イリウス・グッデンハイム。彼は普段と変わらない氷のような冷たい表情で静かに言葉を返した。
「いいえ、大統領。しかし、私はアレを知っています」
「何?」
「あれは、戦艦ウィガニス。いくつもの銀河を支配下に置くウィガンと言う男が操るギャラクシーウォーシップです」
初めて聞くその非現実的な言葉に大統領は天を仰いだ。視線の先にはあるのは神か、ただの豪華な天井だろうか。
「何とかなるんだろう?」
言外に何とかしろ、という意味を含んでいる。
「いいえ、大統領。ウィガンに標的にされたら終わりです。その星の支配層は死ぬか、他の星に逃亡すると言う選択肢しかありません」
「何のディールも無しにか?」
「はい、貴方が弱小国に対して行った、ディールという名のあらゆる脅迫的な外交が慈悲にすら思えるほど、彼の侵略は苛烈でしょう」
「なぜそんな事がわかる?」
その問いにイリスは少し視線を逸らしたように見えた。だが、それも一瞬、すぐに冷え切った声で答えた。
「それは……我々もウィガンの支配から逃げてきたからです」
「あ? なんてことだ! 頼みの綱のお前らが負け犬の逃亡者だったとはな!」
ビジネスの世界からのし上がった大統領はこれまで勝ちにこだわってきた。「ザ・マン」「ザ・ベストディーラーオブザワールド」自らをそう呼んで憚らなかった。その自分が頼る男が負け犬であることが我慢ならなかった。
「大統領、我々の技術が地球のそれを圧倒するものであることはご存知でしょう。しかも、我々はそれを小出しにして未だ全貌は見せていない。それでも彼らに戦いを挑もうなどとは思いません。まぁ、そういうことです」
イリスは事実を淡々と述べたに過ぎない。そこには虚勢や誇張もない。
「まさか、お前ら……また逃げる気か?」
「勿論、逃げられるかどうかはギャンブルですがね。あまり時間がありませんので、そろそろ失礼します」
イリスはあてのない逃亡のように言ったが事実は違う。彼らは長い時間をかけ、次の移住先を見つけている。
「待て! 私はどうしたら良いのだ!? これからどうなるのだ!」
「そうですね、彼らのやり方なら知っています。まず、問答無用で首都以外の主要都市を圧倒的な攻撃力で破壊するでしょう。それから支配層の排除、つまり処刑を開始し、資源の搾取を始めます。以上です。それでは大統領、good luck and have a nice day.」
「イリス、おい!」
イリウス・グッデンハイム、本当の名は誰も知らない男はその場から霧のように消え去った。