バレンタイン攻防戦
「聞いてませんけど!?」
「きっと、あんたのこと驚かそうと思って、黙ってるんじゃない?」
先輩はニヤリと笑った。
就職してから三年。
社内恋愛の彼氏と付き合い始めてから一年。
同棲はしていないのだが、今、彼の荷物の一部は私の部屋にある。
五歳年上で優秀な彼は現在、地方支部のアドバイザーとして長期出張中。
出張期間は半年。
帰ってすぐに家賃の更新があるので、それまで住んでいた部屋を出た。
家具類はトランクルームに預けたが、帰ったらすぐに使いたいような物やら何やらは私が預かることにした。
その彼が帰ってくるまで、後一か月はあるはずだったのに、なんと週末には戻って来るらしい。
今、情報通の先輩女子から聞いた。
帰ってくるのはもちろん嬉しいけれど、問題がある。
現在、この地で部屋を持たない彼は、当然、私の部屋へ帰ってくるのだ。
だが私は、ここのところ非常に仕事が忙しく、一言で言えば汚部屋の住人。
先輩の情報によれば、出社は来週の月曜日。
ということは、Xデーは金曜日の可能性が高い。
となれば木曜中か最悪、金曜朝の出社前までに片づけを済まさねばならない。
本日火曜日。
なんとかなる、なんとかする。
私は固く決意した。
受験目前の詰め込みのごとく、目の回るような三日間はすぐに去って行った。
完璧とはいかないが、まあまあの結果を達成できたと思う。
後は本日、金曜日の退社後にスーパーに寄って空っぽの冷蔵庫に食料品を補給すればいいはず。
駅に近い商店街の中のスーパーはごった返していたが、手早く調理してもまあまあご馳走っぽい得意料理の材料は揃った。
よっしゃ、これで行けるとマンションに向かうはずが、ふと目に入った特設店舗。
商店街の空き店舗に臨時で設けられたバレンタインコーナー。
『うわ、今日、バレンタインデーだった~!!』
……心の中に絶叫が響く。
彼氏がいるのに、バレンタインデーを忘れている悲しい女になってるよ。
しかも、去年のバレンタインは彼に告白された日なのに。
どんだけ仕事が忙しかったんだよ。
いや、仕事のせいにしている場合じゃないよ。
せめて、せめてチョコレートを用意して……。
重い食料をぶら下げて、特設店舗を覗いてみれば、お客の数のわりに混み合っている。
理由はすぐにわかった。
明日の土曜日に向けて、金曜日は品出しの日。
しかも、明日からはホワイトデー。
バレンタイン用の商品が片付けられ始めているところに、駆け込みの買い物客。
特設店舗では、店員と客との攻防戦が静かに繰り広げられていたのである。
働く身としては明日の準備をする店員さんの味方でありたいが、今日は私にも事情がある。
申し訳ないと思いながら、客として突入した。
売れ筋はとうに空っぽで、通路には新しい商品を積んだカート。
お客、店員、カート、その隙間を縫って残った商品を一通り確認。
あ、あれなら彼に合いそうと思えるものが見つかって、無事購入。
所用時間は十五分。
こんなに緊張感のある買い物はなかなかない。
「やった。これで準備万端!」
と、歩き始めたところで声をかけられた。
「ただいま~。久しぶり!」
「あ、お、おかえり~」
「あれ? あんまり驚いてないな。
もしかして情報漏洩か?」
「もちろん。私にも確かな筋の情報網があるんです」
「いい友達がいるんだ」
「そうそう」
「荷物、持とうか?」
「大丈夫。そっちも荷物重そうだし……お土産?」
「おう。奮発して海鮮ぶら下げて来た。鍋向きの奴」
「丁度いい。野菜と茹でうどん買って来たし」
「いいね。気が合うね」
「そうだね」
「……ごめんな。サプライズで帰って来ちゃって。
考えたら、仕事忙しい時期なのにさ」
「いや、いずれは片付けなきゃいけない部屋が片付いたのでよしとする」
「そんなに大変なことになってた?」
「結構。やっぱり誰も訪ねて来ないという気の緩みはよくないね」
「なるほどな……」
お互い荷物は重いし、週末やら旅の後やらで疲れている。
部屋までは黙って隣を歩いた。
お土産の海鮮はすぐに鍋に投入できる、ありがたいもの。
お高い野菜も、ケチらずに買って来て本当によかった。
「贅沢缶ビールで乾杯!」
缶同士が立てる軽い音も、相手がいなければ聞けない。
「……向こうでの仕事が大方片付いたんで、なんとか記念日に一緒にいられるようにしたくてさ」
「うん。私も、嬉しい。帰ってきてくれて、ありがとう」
「待っててくれて、ありがとう」
疲れてるせいもあるのか、少し涙が出そうになる。
「……あ、チョコあるんだ。……これ。ハッピーバレンタイン!」
「ありがとう。俺からは……」
「え? 何かあるの? 豪華な鍋セットお土産に買って来てくれたのに?」
「それはそれ、これはこれ……はい、これ、どうかな?」
彼が差し出したのは、ケースに入った指輪ではありませんか!
「え? え? え?」
「やだな、そんなに驚くこと?」
「だって。指輪って特別だから……」
「特別は特別だけど、まだエンゲージリングじゃないぞ。
一年前は、恋人として付き合ってくださいの花束だったけど、今日は、結婚を前提に一歩進んだお付き合いをしてくださいの指輪だ」
「……よ、よかった」
「ん? よかった?」
「ちゃんと掃除して、おかえりの準備しておいて、本当によかった」
「んん?」
「後悔なく、指輪を受け取れるもん。
嬉しい、本当嬉しい! ありがとう。これからも、よろしく」
「うん、よろしくな」
「よろしくね」
ぎゅーっと抱きしめ合って、すごく幸せなのに、だんだん眠くなってくるのが辛い。
「片付けは、明日にしよう」
「……うーん、せっかく綺麗にしたのに」
「明日は俺も、手伝うからさ」
そう言われたら安心して、ストンと眠りに落ちた。