雪道を泳ぐ銀色の魚
「セイヨウシミになりたい」と彼女は言った。
古本屋で買った文庫本をぶら下げながら、僕と彼女は日の落ちた薄明かりの雪道を歩く。
踏み出す度に軋みをあげる新雪は、僕らがこれから通りすぎるであろうあの街灯や、その先に広がる田園を抜け、はるか遠くの山並みまで白銀に染めている。
音は、背後の国道を走る車の走行音が時折聴こえるのみだ。
車が一台、また一台通り過ぎる度に、静寂が雪と共に舞い降りてくる。
その静寂の合間を縫うようにして、彼女のその言葉は鏑矢のようにはっきりと僕の鼓膜を射止めた。
「セイヨウシミって?」
その質問に対して、足元を確認しながら僕の一歩前を歩いていた彼女は振り返る事なく「本の虫だよ」と答えた。
それは本が好きな人の比喩表現なのだろうか。
質問を繰り返そうと口を開きかけた僕の気配を察したのか、彼女は「古本を食べる銀色の虫のこと」と補足した。
どんな虫なのか、僕はセイヨウシミの事をよく知らない。
ただ彼女の言った『銀色の虫』という表現が、彼女の背景に降り積もる新雪と重なり、空から舞い落ちる雪の妖精のような幻想的な姿を惹起させた。
「この雪が溶ける頃、私達は離ればなれだから」彼女が立ち止まる。その小さな肩に積もった雪は、彼女の儚さを際立たせる「だから、私はこのまま、君の好きな本に棲みつく虫になって、ずっとずっと、君のそばにいたい」
春になれば、僕たちは別々の道を歩く事になる。それはオトナであっても大人ではない僕たちにとっては、あらがう事のできない激流であり、ただただその流れに身を任せていた。
舞い落ちる雪が彼女のコートを白く染める。
まるで銀色の鱗を纏うかのように。
「雪の神様、どうか、私を本を泳ぐ銀色の生き物に変えてください」
そう呟きながら僕の前を歩く彼女が、銀色に染まっていく。
それは雪道を泳ぐ銀色の魚のようだった。
そして、そんな彼女の足跡を、降り続ける雪が無慈悲にも消していく。
☆
あの夜から突然、彼女からの連絡が途絶えた。
動揺はあった。
しかし、心のどこかでは納得していたのかもしれない。
あの日の夜、銀色の鱗を纏っていく彼女が、1匹の銀色の生き物へと生まれ変わっていく。そんな光景が、妙なリアリティを持って僕の心に住み着き、僕を幻想と妄想へと誘っていく。
遅かれ早かれ来る事を覚悟していた彼女のいない日常に、僕は次第に慣れつつある。
地元に引っ越した僕は小さな会社の事務員として働きはじめ、楽ではないが充実した生活を送っている。
ふと、寂しさが心を過ぎる事がある。しかし本に囲まれた部屋の真ん中で寝そべっていると、そんな寂しさも少しは和らいだ。
もしかしたら、彼女は今、セイヨウシミとなってこの古本の中を泳いでいるのかもしれない。
そう思うと僕の心は不思議と落ち着くのだ。
★
「うわっ、なにこのキモい虫!」
私のアパートでマンガを物色している親友のマキが大声で叫んだ。
「あ、それセイヨウシミっていうの。古本の糊なんかを食べる虫」
「うへぇ」
「魚みたいに銀色の鱗があるから、英語でシルバーフィッシュって言うんだよ」
「銀色の魚ねぇ‥全然そんなふうには見えないんだけど。てか、フミカ何でそんなにこの虫に詳しいのよ」
「元カレと別れる時、ちょっとね」
「元カレって‥ああ、新潟に住んでた頃付き合ってたって言う文学青年!」
「そうそう。いい人だったんだけど、ちょっと繊細すぎるというかーーそんな人でね。傷つけずに別れを切り出そうと思って、ちょっと一芝居うったのよ」
「何それ、詳しく聞かせてよ」
「しょうがないなぁ‥」
マキはいつも私の話を驚いた顔で聞いてくれる。だから私は少しだけ自慢げな表情で、元カレと別れたエピソードを説明した。
「へー、なんか幻想的なシチュエーションを演出しながら、儚げな別れのシーンを演じ切った、ってカンジか。フミカ、女優だねぇ。しかし男ってそういう幻想的なファンタジーに弱いよね」
「彼は夢見がちな文学青年だったから、尚更ね」
「でも、そんな純粋な人、今時珍しいよ。別れるの惜しかったんじゃない?」
「だって、遠距離恋愛とかやっぱり無理でしょ。彼も地元で就職決まってたし、私もこっちで就職決まってたから、それを蹴って一緒に、とかはまだ考えらんないし」
「たしかに」
頷くマキに、私も頷く。
懐かしい思い出が、銀色の魚のように心の雪道を横切り、真っ直ぐな跡を残して行く。
「彼、元気にしてるかな」
そんな事を話している間に、セイヨウシミはどこかへ消えていた。きっと、どっかの古本の中を泳いでいることだろう。
悲しい別れはせめて綺麗な記憶として‥‥常にそんなふうに考えてしまう自分がいます。一方から見れば幻想的な別れの情景ですが、もう一方から見れば策略によって生み出したハリボテかも?
でも例えそうだとしても、知り得なければ、お互い幸せですよね。そんな話でした。