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新しい仕事

作者: 鷲宇 良

   

「副館長、電話が入っています」

「あ、回してくれ」

 平日午前の研修中の時間なので事務室に人もまばらだった。私は考え事から日常に引き戻され電話をとった。

「おい聞いたか」

 名乗りもせずに、いきなりである。

「何を、だ」

「テレビ、テレビ。十一時半からのニュースだ」

 もう昼に差し掛かったか。オフィスにある大画面のテレビは、かつての我が社の製品だが、それをつけるのは、さすがにはばかられた。

 パソコンでもテレビは見られる。ネット上のテレビニュースを適当に選んだ。

 我が社のニュースが流れている。これで何度目だろうか。ここ二~三年は業績低迷、不祥事、会計操作、隠れ損失の発覚、経営陣の交代などニュースには事欠かない。新聞や週刊誌のトップを何度も飾った。電車の中吊り広告にも毎週のように載る。会社の外に出る時に背広の襟にバッジを着けなくなってからどれくらいの期間が過ぎただろう。 

昨年までは通勤で外しても会社や取引先では着けていたが、今年になってからは一切着けなくなった。また、それを注意する社員もいなくなった。

 社員手帳の社員心得に「グループ社員としての誇りの証としてバッジは常時着用」と書いてあったはすであるが、社員であることを公言しづらい状況となっては、それは何の意味もない。

「ああ、買われちゃったのか」

 受話器を耳に当てたまま、いくつかのニュースを見た。

 テレビで見る「彼」の顔は疲れていた。場所は本社広報課の記者会見室だろうか。髪の毛の白さと薄さは、ここ数ヶ月でもずいぶんと目立つようになった。

 もう独身寮や中央研究所にいたときの面影は思い出せない。あちらがこちらを見てもそう思うだろうか。私がテレビや新聞に出ることはまずないし、そもそも「彼」は私を覚えているだろうか。

 本社は否定しているものの台湾の会社による企業グループ丸ごとの買収が進んでいるとのニュースだった。

「買ってもらえただけありがたい」

「テレビで知るというのも情けないものだ。もう慣れてしまったが」

「君は、工場長だから社員の動揺を抑えるのがたいへんだろう」

「まあ、悪いニュースは散々流れているから、みんな慣れている。動揺せずに勤務に励めという工場の朝礼での訓示も定型ができていて、それを使えばいいぐらいだ」

「こちらも淡々とやるしかないな。とりあえず給料がきちんと払われる限り、みんな働くだろう」

「今夜、市の偉いさんと意見交換会という飲み会がある。変に気を遣われるのがつらい」

「こちらの相手をする小学生は正直で困る。会社が潰れてもここだけは続けてくださいと真顔でいわれた」

 電話口で乾いた笑い声を交わして電話を切った。

 


 ヤマザキから電話を受けて数日後、ようやく駅の近くの居酒屋で会えた。ヤマザキの工場長というポジションは役員一歩手前であるが、この混乱で五年目を迎えている。

 かつて会社を持ち上げた経済誌は特別号まで出して、その多岐にわたる不祥事を特集した。ハードカバーさえ何冊か出ているはずだ。

「なじみの記者もいるのだが、お互い気不味いな」

「リークは君ではないのか」

「俺がしなくとも、誰かがするだろう」

 事実上、認めたも同然だが、私はどうこうすることもできないし、する気もない。

「怪文書もずいぶん飛びかっているようじゃないか。科学館は、そのルートからは外されているようだが」

「マスコミや銀行には発信元不明のファックスやら匿名アカウントのメールが送られているようだ。ネット上に内部情報をリークする掲示板もできている。傾く企業にはよくあることだが、本当に困ったことは、書かれていることのほとんどが事実ということだ」

 そうなのかもしれないが、笑えない。

「誘ってもらっておいて言うのもなんだが、いいのかね。こんなところで飲んでいて」

「工場も長くなってね。内部はがっちり固めてあるから。新聞やらテレビで初めて情報がわかるようでは現場を固めるしかない。本社に乗り込んでもどうにもならない。台湾の買収の件も、マスコミに向けた否定の会見とプレスリリースが出されただけだ。社員には何のメッセージもない」

「取引条件は悪くなっているだろう」

「逃げる取引先は既に逃げている。一蓮托生の取引先は残っているが、こちらに頼らなくてもいいように手は尽くしている。マスコミも業界も買収を既定路線として扱っている。本社は全く信用されていない」

「我が社は叩かれるだけ叩かれているな」

「自業自得ということだ。身から出た錆だ」

 慣用句を並べて、ヤマザキは酒をあおった。

 この駅のある町は、我々が入った新入社員用の寮があったところだが、寮は二○年前に無くなっている。しかし、その時代になじみとなった個人経営の居酒屋にヤマザキと時々来る。

 寮は売り払われ,跡地には賃貸マンションが建った。そのマンションは、会社の借り上げ社宅として一時は使われていたらしいが、その制度もなくなった。居酒屋の店主によれば、我が社の関係の人間は不思議と来ないらしい。 

 私が独身寮にいた時代、店で飲み客の間をちょろちょろしていた娘が結婚して夫婦で店を経営している。前の店主は近場の老人福祉施設に入っているそうだ。

「あ、冷酒をもう一杯」

「ここも古くなったなあ」

「私が入ったとき既に古かったですから」

 焼き鳥をひっくり返しながら、すっかり居酒屋の店主らしくなった夫が答えた。

「おい若旦那、この雰囲気は好きなんだがな。やっぱり初めての客は入りづらいぞ」

 ヤマザキは乱雑に積み重ねられた段ボールやビールケースに目をやりながら言った。冷蔵ショーケースに入った日本酒はよく管理されているが、その他は、芳しい整理状況とは言えない。

「私ももう若くはないです。この店も、もう少しきれいにしたいとは思うのですが」

「ヤマさん、工場をやっているんでしょう。少し指導してやってよ」

 二人目が生まれるとのことで、腹部の膨らみが目立ち始めた娘が言った。

「工場をやっている、か。町工場の親父みたいな呼ばれ方だな。うん、それはそれでいいな」

 ヤマザキが工場長として仕切っている工場はリストラがあったとはいえ一○○○人を超える従業員がいるはずだ。

「あ、俺、お子さんの自由研究をみてあげられる。高校時代の奥さんの勉強もみてあげたけれど」

「お前も、少しは役に立つか」

「小学校の自由研究は三年生から。うちの上の子は今年一年生に上がったばかりだから」

おなかの大きい奥さんが言った。

「夏休みに自由研究の講座をやると、抽選をしなければならないほど応募があるんだ。自由研究は親御さんたちの悩みの種だな」

 その時になったら、まかせとけ、と言おうとして私は言葉を飲み込んだ。二年後に、私の勤め先の科学館はあるだろうか。



 科学館の館長は、本社の役員クラスの天下りなので、実務は副館長である私と事務局長が回すことになる。事務局次長と事務員二名が経理を、運営部長と営業部長、そして、それぞれの次長が運営を担っている。

 科学館に営業部があるというのも不思議に思われるかもしれないが、科学館は開館しておけばいいというものではない。

 企業グループの広報の一環として設置されたので、当初は開けて置けばよいということだったが、ここ十五年ぐらいは社会貢献部門として位置づけられ入場者数や講習会・研修会の受講者数が評価されるようになった。また、科学教育のための地域の拠点としての役割も与えられ、県市や大学との連携も求められる。それで営業をかける担当が必要となっている。

 一方では企業グループの顔として国内・海外からの視察も受け入れなければならない。開館時には皇族も訪れ、東京で先進国首脳会議が行われた時には各国首脳の配偶者の見学コースに組み込まれたこともある。

 そのような時には本社の総務や広報と連絡を密にすることが求められるが、それは事務局長に任せてある。いわゆる「偉いさん」を迎えるのは、館長と事務局長であり、こちらは説明コースの設定と館長の説明ペーパーの作成ぐらいが役割となる。

 ここ数年のごたごたで、そういう視察もほとんどなくなってしまったので、学習プログラムの開発に集中できるのでありがたいが、予算がこのまま続くとも思えない。思えないが、企業グループの中ではあまりに片隅の存在なのでリストラの指令が下ることもなく、なんとなくそのまま流されていく日々が続く。

 新しいプロジェクトをはじめるわけにもいかず宙ぶらりんであるが、見知った小中学校からの見学や研修の申し込みは受け、休日にはイベントを開いている。大学生のボランティアが研修やイベントの講師を引き受けてくれており、その数にはさしたる変化はない。状況がわかっているのか、いないのか、それともボランティアにやりがいを感じているのか。かつては、ボランティアの大学生を連れて仕事の終わった後、ビアホールに繰り出したこともあったが、そういうこともなくなっている。

 いずれにせよ、日々は淡々と回る。

 科学館は、企業グループの広報部門なのか社会貢献部門なのか、そこのところも詰め切れずに運営されている。その隙間で私は生き延びてきた。研究者としては失格で、サラリーマンとしても中途半端であり、経営者にも全く手が届かなかった。

 「彼」のように研究者としても成功した上で、会社の収益にも貢献し上司からかわいがられ業界内でも一目置かれる、というのとは全く異なる。同じ大学の研究室に属したとは思えない彼我の差を改めて思い返してみる。

 しかし、今の仕事に不満があるわけではない。むしろ、よくぞこの地位に回してもらえたと思う。閑職ではあるが余人をもって代えがたいと見られる。科学教育という世間的にはあまり知られていない分野だが、それなりの人的なネットワークも築けている。

 大学で学問的な業績を上げたからといって教育者として優れているとは限らない。一方、科学にも洞察があり教育にも優れた教師は、小学校の教諭にも多数いる。多くの尊敬できるそうした人達と交流できたのは人生の幸福といえる。

 大企業グループに在籍するので、いろいろいわれても給与はよい。多分、公立小学校の校長よりは年収がある。申し訳ないと思うが、返上しようとも思わない。ここにいる人間をリストラしてもたいして費用は浮かない。

 新聞や雑誌を賑わせる千億円単位の損失などと比べれば、だ。

 かつては、名誉館長という肩書きで宇宙飛行士がいたが、マスコミに会社の不祥事が伝えられるようになると自ら退任を申し出てきた。大きな顔写真の載った垂れ幕とパネルを作ったばかりだったが、お蔵入りとなった。



 両側に紫陽花がある道の坂が尽きるところから海が見える。海辺に山が迫った地形だからこうした景色ができるわけだが、海のない平坦な地域で育った私には来るたびに新鮮さを感じる。今の勤め先の科学館も港の近くではあるがコンクリートで固められた都市なので、海の青と木々の緑が同時に見える景色ではない。

 この坂は高齢者にはつらいだろうなと思うが、初めてここに来たときから二十数年経っており、自分も初老に差し掛かっていることを軋む膝からいやでも知る。

 天気は良く、水平線がくっきりと見えて、もう夏も近い。遠くにコンテナ船が見える。

 上り坂は海の見えるところで曲がり、さらに急となる。坂を曲がったところのコンクリートの擁壁に階段が打ってあり、そこを上った方が家には近い。しかし、その先の家にはヤスイの母親しか住んでおらず、もう長いこと使われていないようだ。

 子どもを持つようになってから、見る風景に子どもの様々な姿を置いてみるようになった。小学生の子どもがその階段を登るところを思い浮かべた。かつてヤスイもここを登ったり降りたりしたのだろう。

 次からはタクシーで家の前まで来ようと思いながら、階段を使わず大回りの坂道を登った。

 事前に電話を入れていたので、ヤスイの年老いた母親は庭先で待っていた。前年に会ったときと比べて一層歳をとったように思う。

 この坂の多い町で、坂の上の家に一人で住むことは不便だと思うが、どのように生活をしているのだろうか。

「今年も参りました」

「ありがたいことです」

 なぜ、このような挨拶が交わされるのだろうか。自分でも不思議ではある。

 自分は、ここを訪ね続けなければならない。その思いは確固としたものであるが、ヤスイの母親との関係はどうあるべきかはわからない。

 例年のように、仏間に通され線香を上げる。ヤスイの写真は変わらず二十代のままであり、若い笑顔をこちらに向けている。

 企業の中央研究所から研究グループの若手が資料を持ったまま失踪先で自殺、研究の行き詰まりが原因か、という形でヤスイの死は報じられた。

 当時「彼」とヤスイと私が属する研究班は学会発表のために、泊まり込みで研究を続けていた。もう一桁上の精度を実現できれば、当社の技術は確実に業界トップ、世界的にも傑出した地位を占められるはずだった。

 文字通り時間との闘いであり、研究班のメンバーは追い詰められていた。論文は、数字とグラフの部分を空白にしたものができあがっていた。

 「彼」と私は三歳違いであり、「彼」は研究リーダー、私はサブリーダーだった。ヤスイは三人いる研究室の新人の中の一人の扱いだった。

 繰り返される実験の中で数字が出ない日々が続いた。皆の疲労が極限に達した朝、研究の試料と資料、そしてヤスイが研究室から消えた。資料はともかく、試料は時間をかけて精製したものであり実験は中止せざるを得なかった。

 ヤスイの行方を手分けして捜し、ヤスイの実家に電話をかけたのは私だった。手をつくしても見つからず、電話ではらちがあかないので、実家へ訪問することになり、それも私が引き受けた。

 当時は携帯電話もなく、私は何も知らないでヤスイの実家の玄関のベルを押した。それがこの家を訪れた最初だった。

 実家には、既に自殺したヤスイが発見されたとの知らせが届いていた。その後のやりとりについては、記憶は定かではないが、母親が悲しみに顔をゆがめながらも畳に手をつき申し訳ありませんと謝ってきたことは覚えている。

 私は、電話を借りて会社にそれを確認し、立ちすくんだ。

 当時の理解としては、ヤスイは裏切り者だった。

 研究室の状況は過酷だが、会社のために世界と戦っているという一体感はあった。そこから外れ、あまつさえ妨害した。死ぬなら勝手に周囲に迷惑をかけずに死ね、というのが正直な気持ちだった。ヤスイの母親が謝るのが当然と私と周囲も思っていた。

 ヤスイの葬式は自宅で少数の近親の者だけで行われた。私が訪れたのは通夜だったのか告別式かは忘れた。曹洞宗なので線香は一本などと細かいところにこだわったことだけは覚えている。若者の自殺ということで、親族も参列者も黙ったままで読経も短く終わった。梅雨が明ける前の陰鬱な天気であり、話すこともなく早々に散会になった。

 雨がいきなり強く降りはじめて、ヤスイの母親から傘を借りた。返しに来なければならない、面倒だなと思ったが、その後、本社に戻って出なければならない会議もあり、タクシーを呼ぶために電話を借りるのもどうかと思った。タクシーを待つ間にもヤスイの家族と同じ場にいなければならないというのも気詰まりだった。

 折りたたみ傘を借り、必ずお返ししますと言って外に出た。整理できない思いを抱えて強い雨の中を歩いた。その時も紫陽花は道の両側に咲いていた。



 傘を返したのは、ほぼ一ヶ月後だった。紫陽花はほとんど散ってしまったが、丘の上の家に訪れて玄関先でたたみ直した傘を渡した。そのまま招かれるまま、仏間に上がり線香をあげた。

 ヤスイの母親との会話はごく儀礼的なものだった。

 その後の話をしよう。

 我々の研究班の取り組んだ方法は、生物の進化系統樹のうちの行き止まりの枝のように主流にはなれなかった。同じ方法は世界中のライバルの企業や大学で取り組まれたが成果が出せず研究は次々に中止に追い込まれた。一方、違う元素系の金属を利用した取り組みが、その隣で大きな枝となり幹となった。製品化がなされ、何世代にもわたり進化した。二十一世紀の現在、その製品については第八世代の開発が進んでいる。

 成功したのは我々の研究班とは別の、同じ社内の研究班で「彼」はその班のリーダーでもあった。

 我が社は、アメリカが第二次世界大戦末期にマンハッタン計画としてウラン型原爆とプルトニウム型原爆を同時並行して開発していたように、人的物的消耗を折り込み済みで、複数の研究班による複数のプロジェクトを社内で走らせていたのだ。

 それぞれの研究班のメンバーはその全体の構図を知らなかった。我々は、我々の研究班こそが社運をかけたプロジェクトを背負っていると思っていた。両方のリーダーを務める「彼」を除いては。

 我々が目指していた学会の大会で研究発表をしたのは「彼」をリーダーとする別の研究班であり、それは世界初ということで一般紙の一面を飾るほどの反響を呼び、業界、学界を越えて各方面から賞賛が集まった。

 学会の発表の後、研究成果は、本社広報課の記者会見室で華々しく報告されたが、そこに出席したのは、「彼」とその班のメンバーだった。当時としては珍しい色鮮やかな大判のプレゼンテーション用のパネルが掲げられ、報道陣のフラッシュの中で「彼」は成果を報告した。

 その後、組織改正があり、「彼」とその研究班は中央研究所から工場の開発部門に移る一方、我々の研究班は存在さえなかったことにされてしまった。ヤスイの不祥事を考えれば当然とも言えた。

 学会の発表に伴い複数の研究班が同時平行で進める全体像が見えたが、ヤスイが資料と試料を持ち出した時点で我々の研究はストップしていたので、我が班のメンバーは、その構図に不満を訴える気力もなかった。

 ヤスイの一周忌を迎える頃には、我々の研究班のメンバーは散り散りとなり、ヤスイの不祥事の責任をとる形で私には全く別の部門への異動が発令された。様々なものに裏切られたと感じたストレスで体調もおかしくなり、研究に対する情熱を失っていたので、私は、その辞令を受け入れた。サラリーマンとしては辞令を受けない選択肢はなかったが。

 新しい部署に移る前の休暇に、私はヤスイの実家を訪れた。線香を上げただけで、ほんの少しの間しか居なかった。事前に訪れる旨の電話を入れておき、ヤスイの母親の出迎えを受け、仏間に上がり線香を上げ、そして退出した。

 ヤスイの母親は、最初と最後に、

「わざわざ遠いところをおいでいただき、有り難うございました」

とだけ言った。

 それから、どうしてそうなったのかわからないが、私は、毎年、ヤスイの命日の前後に、その家を訪れるようになった。

 最初にその家を訪れたときから庭木も大きくなり、一部は大きくなりすぎたのか新しい木に変わった。家屋も記憶では、ほぼ新築だったものが、すっかり古くなり、一部は改修された。

 どのように手入れをしているのか私にはわからないが、坂の両側の紫陽花は何年たっても、ほとんど変わらない盛り上がりをもって群れていた。ある年は鮮やかに咲き、ある年は盛りをすぎて花びらの色も変わり重く頭を垂れていた。

 いや、花びらではない。紫陽花の花びらのように見えるものは「ガク」、花だと思われている部分は装飾花そうしょくかという。実際の花の部分は中央にあるごく小さな部分である。この話は、梅雨から夏にかけての小学生向け科学講座の前振りに使うと、ちょっと受ける。

 ヤスイの母親とは、少しずつ話をするようになった。たわいもない世間話から、実家のある土地の由来話などである。

 数年が経ったとき、ヤスイの母親は、毎年来ていただいて申し訳ないが、できればこのままの形でこれからも来ていただけないだろうか。

そして、あなたのことを話して欲しいと言った。ヤスイのことを思い出して話すのは、つらいから、という言葉は飲み込まれていた。

 私は、その時々の私の仕事や、前年からの私の身の上の変化を話した。既に科学館に異動していたので、科学館とはどういうものか、科学教育とは何か、など彼女の興味があるのかないのかわからないような話をした。

 身の上の変化としては、その後、何年か過ぎて、遅い結婚を報告し、さらに女の子、男の子が生まれたことも報告した。その育ちも一年ごとに報告した。

「今年も参りました」

と言って線香を上げ、お茶をいただいてから、相対で仏間に座り話し始めるのが毎年のこととなった。

 結婚を報告しても、子どもができたことを報告しても、

「それは、良かったことですこと」

 と遠くを見るような目をして返し、聞き置くという形だった。

 彼女の頭の中ではヤスイが生きていれば、という想いが渦をまいていたのだろうとも思った。しかし、いつも柔らかな表情をしていて、そこから彼女の感情は推し量れなかった。

「今年は雨が多くて、紫陽花がきれいに咲きました」「今年は、気温が低くて紫陽花も遅いようです」

 などの紫陽花にまつわる話を何回か聞かされた。

 ヤスイの思い出話などは出なかった。こちらもヤスイについて触れにくかった。なにか、一番大事なことに触れないまま、その周りをぐるぐると回っているような感じだった。

 ヤスイの母親は、何を思っているのだろうか、と訪問の時期が近くなると考えたが、うかがい知れなかった。

 ただ、私の来訪を彼女が望んでいることは確かだった。

 一年、また一年と過ぎ、彼女の皺は深くなり、背中も丸まり小さくなってきた。私もすっかり白髪が増えた。

「また、来年、参ります」

と言って、ヤスイの家を出る。それが繰り返されてきた。



 科学館の夏休みのにぎわいは去年と変わらずにある。

 飲み屋の若女将がぼやいていたように夏休みの宿題の自由研究が大変なのだろう。材料費だけでできる工作教室やタブレット端末を使ったプログラミング教室が人気である。

 科学館は工場跡地を商業施設とオフィスに複合開発した一角に入っているのだが、一度再々開発を行った際に駅からペデストリアンデッキで結んだので、雨に濡れずに訪れることができる。そこそこの人気はあり、子ども向けの学習施設案内やガイドには必ず掲載される。

 小学生向けの科学教室には、私も講師としてなるべく現場に出るようにしている。自分がつくったプログラムへの子どもの反応を見るのは楽しい。

 近隣の小学校と長期にわたりる授業やクラブ活動に組み入れたプログラムの中で子どもの成長を見るのもよいが、たまたま商業施設に寄った子どもが迷い込んだように参加する教室で、科学のおもしろさに触れてもらうのも重要だと思っている。子どもの興味が「立ち上がる」瞬間に立ち会えることには幸運を感じる。誰も評価してくれないが、そう悪くはないと思う。

「予算が去年と同じだけついているのですが、いいのですかね」

 一仕事終えた専任講師が言った。

「本社は、こちらまで手がまわらないからだろう。企業グループ全体から見れば端の端もいいところだ」

「目立つ部門だから、逆に削ることができないのでしょうか」

「風向きが変われば真っ先に切られるだろうが、今のところ、上の方も足下の火消しに忙しくて、科学館をどうこうする気力もないだろう」

 現時点では、こちらから本社に何を言っても無駄だろう。ヤマザキによれば本社の情報がまったく手に入らない。広報担当役員が全く他分野から来て日も浅い。前任者も前々任者も不正会計にかかわっていたということで解任されてしまった。解任した側の首脳陣も退陣せざるを得なかった。

「新しいことは始められないが、やめるわけにもいかない。不思議な時期だな。ある意味では恵まれた時期ともいえる。その間に次のことを考えておけ。この間の話はどうなった」

 専任講師は、新しい科学教育プログラムの作成のために大手学習塾から声がかかっている。紹介したのは私だ。

「なかなかの好感触でした。うちの社のネームバリューは別として、具体的なプログラムをつくるところでは、評価してもらえました」

「二股でも三股でもかけておけ。私が許す」

「ちゃんとあちらと連携をとれば、この科学館のプログラムも一段とグレードアップできるのですが」

「残念ながら新しいことはできないから」

「副館長はいかがですか」

「もう歳だし。退職金ももらって転籍も済んでいる。逃げ切ったといわれれば、その通りだ。最後まで船の甲板にいよう」

「船は沈むのでしょうか」

「テレビと新聞に出ていること以上のことは知らない。近頃は、見聞きもやめているから、就職活動をしている学生の方が詳しいのではないかな。テレビのワイドショーでもやっているらしいから、主婦でも詳しいようだ。うちの妻が大丈夫か大丈夫かと親戚連中に言われているようだ」

 太平洋戦争の終盤、日本の負け戦の過程で、米軍が島伝いに北上して順々に日本軍を全滅させていったが、中に飛ばされた島があったということを聞いた覚えがある。不確かな話だが、そこの日本兵はなすすべもなく不思議に平和な日々を送っていたとこのことだ。この科学館のスタッフはちょうどその取り残された日本兵のようだと思った。

 東京は爆撃されているようだが、それを知る術さえない。知らせがとどくまで、南の青い海で釣り糸をたれていよう。



 大学の同期で、大学教授になった友人から電話があった。

「あまり愉快な話ではないのだが俺の幼なじみが新聞記者をしていて、君に取材をしたいというんだ。君の会社の会計の話だ」

「私が経理部門にいたのは二十年以上も前の話だ。もっと直近の大きな話があるだろう」

「クマヒラ元副社長を知っているか」

「私がいたときの経理副部長だったが、もうとっくに引退しているはずだ」

「先日亡くなったそうだ。その新聞記者がクマヒラ氏からごっそり資料を託されていて、その中に君の作ったものもあったとのことだ」

 記憶にないな。全く思い当たらない。クマヒラ氏の名前もよく自分でも覚えていたと思う。

「その記者はとにかくその資料を君にみてもらいたいとのことだ。連絡先を教えていいかな」

 気はすすまないが、許可を出した。電話を切ると間もなく記者からメールが来た。内容は、とにかく早く時間をとって会いたいとのことだった。

 会社が重大な危機に瀕しているとはいえ、二十数年前の書類が一刻を争うような問題なのだろうか。

 科学館が入っているビルの喫茶店で会うことにした。記者は新聞社の名刺を出すと前置きなし言った。

「このレポートです」

 さっぱり見覚えがない。二十ページほどの紙を綴じたもので当時のワープロ用の感熱紙が黄ばんでいる。

 一番最後のページの作成者一覧の下から二番目に私の名前が載っていた。

「本社内ではクマヒラレポートと呼ばれていたそうです」

 二十数年前の日付で「本社決算の問題点」との表題がついている。

「要するに、これが粉飾決算の原点です。当時から今につながる問題は全てこの時点で把握されていました。あなたはこのとりまとめに関わっていましたか?」

「私は基礎資料をまとめただけかと思います。出てくる表やグラフの様式にはなじみがありますが、具体的な内容は初めて見るものです」

 私は正直に答えた。

「当時、何か違和感がありませんでしたが」

「いわゆる教科書的な経理方法とは異なることが行われていたとは思います。しかし、それは当社の固有のルールだと思っていました。製品・サービスは多岐にわたり、当時も子会社・関連会社を多数抱え、既に世界展開していましたから」

「そのローカル・ルールが問題だったわけです」

「どのようなルートでこれを入手したのですか」

「クマヒラ元副社長が遺書とレポートを残されていて、遺族の方が遺書で指定された新聞社に持ち込んだという経緯です」

「名前の順番をみてもわかるように私はただの下っ端でした。畑違いの部署から移ってきて、それなりに勉強しましたが、とても全体を見たり問題点を指摘できるような能力はありませんでした」



 研究部門から飛ばされた新しい部署は経理部門だった。そこに四年ほどいて、さらにこの科学館に飛ばされた。そこで約二十年過ごし、役職定年を迎え、科学館を運営する財団に籍を移してここまできた。それが私のキャリアである。

 私が経理部門にいた間、役員でもある経理部長を差し置いて経理部門を仕切っていたのがクマヒラ元副社長だった。当時は経理副部長の肩書きだった。

「クマヒラレポートについて何かおっしゃりたいことはありますか」

「いえ、なにぶん、今初めてみたものですから」

「こちらにレポートの写しがあります。これを見て思い出されることがありましたら連絡ください」

「貴重なレポートを写しとはいえ私に渡していいのですか。情報源の守秘義務というのもあるでしょう」

「いえ、故人の遺志です。まあ、レポート自体の所有権は会社にあるのかもしれませんが、会社はそれが会社で作成された文書であることを認めていません。怪文書扱いです。それに対して何か主張することもないでしょう」

 押しつけるようにレポートが渡された。

「いつでも、いいのですか」

「長期戦になりそうですので。急いで会っていただいてこういうのも何ですが、あなたは中心人物ではないと思います。いろいろな意味で」

「まあ、下っ端でしたから」

「しかし、中心に居なかったから見えるものもあるでしょう。ところで、クマヒラ氏に対してどんな印象を持っていますか」

「ほとんど接したことはないので。なんとも」

「攻めるタイプでしたか」

「いや、全く」

「クマヒラ氏の残したメモに『三度戦い三度敗れた』とありました。それは何を指していると思いますか。クマヒラ氏は何と戦っていたのでしょう」

 しばらく考えて、私は言った。

「思い当たることは、ないです。会社がこんなことになってしまったのは周知の事実ですので、その根源に何があったかは私も知りたいところです。今更、会社の経営陣に義理立てしても仕方がありません。なにか陰謀とか秘密とかを知っていたら、その一端でもお話したいところですが、そういうこともないですね」

 新聞記者は去って行った。何かありましたら電話でもメールでもください、と強く言って。

 私は、しみじみとそのレポートを見た。様式は飽きるほど見たものだった。内容も概ねマスコミで指摘され尽くしたことだった。二十年も前に今の迷走の種は蒔かれていたということはわかった。それも、マスコミで報じ尽くされたことだった。

 私があの部署にいた頃、クマヒラ氏は何度目かの戦いを挑んでいたのだろうか。その相手は誰だったのだろうか。

 レポート作成者の一覧に自分の名が出ているのは初めてみた。一覧のうちの何人かは役員になっており、それなりの出世コースではあった部署だったのだと思った。

 自分は、このサラリーマン人生で戦ったことがあっただろうか、と思い返した。中央研究所の日々はそれに値したと思うが、その後はどうだろうか。



「挨拶が遅れまして申し訳ありません」

「海外への移住だ。忙しかったろう。詳細なメールをもらっている。向こうから葉書の一枚もくれればよかったのに」

 平日の午前中で、小学校の見学が一件入っているだけの科学館にとっては最も暇な時間帯だ。

「結婚式に呼んでもらっただけで十分だ」

 事務室の応接に若い二人を座らせた。似合いの若夫婦である。額に入れて飾っておきたいくらいだ。

「シンガポールとはな。まあ、君の選択だから間違ったことはないだろう。真奈さんはシンガポールは初めてかな」

「事前の打ち合わせに何度か一緒に連れて行きました」

「君と初めて会ってからもう十五年くらいか。この科学館が改修される前だな」

「ずっとお世話になりっぱなしで」

「いや、君を見つけたことは、生産的でなかった私の人生において、唯一世の中に恩返しできたと思っている。披露宴でも言ったが、その言葉に嘘はない」

「この科学館がなければ今の僕もないと思います。いや、もちろん、副館長がいてこそですが」

「いつまでも帰らない中学生を拾ってよかった」

 一時期、科学館に科学書籍と雑誌を集めた図書室があった。約十五年前、そこに、いつまでも帰らない中学生がいた。何度か言葉を交わし、数学・物理関係の話をするととても中学生とは思えない回答が返ってきた。読んでる書物も大学の専門課程のものだった。大学院入試レベルの数学も物理の問題も軽々と解いた。

 平日の昼過ぎからいることも多かった。中学校の授業では全く物足らないようだった。

 中学校から問い合わせがきた。今から思えば担任の教師が偉かった。

「イシヤマ・ヒロト君が中学のレベルではまったく満足しないのは、よくわかっています。私はヒロト君を教えるには全くの力不足です。よりよい教師と環境を用意してあげたいのです。その一方で、義務教育は受けなくてはなりません。出席日数はこちらで調整しますが、その空いた間、ヒロト君にふさわしい教育を受けさせるようにできませんか」

 そう持ちかけてきた。科学館の図書室の一席をヒロト君の専用として、中学校の授業と調整し、彼の時間表を作った。

 家は母子家庭で決して裕福ではない。勉強ができすぎ、いじめられっ子になりやすいことも担任の教師は話してくれた。

 母親は平日九時ぐらいまで働いているとのことなので、休日に担任の教師と訪ねた。イシヤマ親子は幸いにして科学館の近くの公営住宅に住んでおり、私の通勤経路上でもあった。

「ヒロト君には特異な才能があります。天才と言ってもいい。とても中学校の教室にいるのはもったいない」

 そう切り出した。中学校の教師と一緒なので、母親もあまり不安を感じなかったようだ。まだ、私の会社の社会的地位も高く、そのロゴのついた名刺は威力があった。

「先生の許可ももらって、卒業に差し支えない範囲で、科学館で預からせて貰いたいのですが」

「科学館で預かる?」

「科学館の図書室に居るだけですが、ヒロト君のレベルにあった進路を考えたいと思います。お母さんは進路についてどのようにお考えですか」

「母子家庭なものですから、とにかく高校だけは出したいと思います」

「そこはおまかせください。とりあえず悪いようにはしません」

 


 私はヒロト君を近隣の全国的に有名な私立高校の数学と物理の教師に引き合わせた。科学館の仕事で知り合った縁である。その教師たちは校長と理事長にヒロト君の特待生扱いでの入学を進言し、それは実現した。

 高校でのヒロト君は授業に参加しないことも許されたが、時々は授業に出たようだ。授業の進行を手助けする形での質問はしたが、ノートはとらなかったという。グループワークや共同作業には積極的に参加したようだが、周囲からの評判は良く、ヒロト君がいると自分たちまで頭が良くなったような視野が一段と開けるような知的な刺激が得られるとのことだった。担任の教師によれば、ヒロト君と話して自分より頭がよいことがわかるまでの時間が短いほど頭が良い、などという噂も流れたとのことだ。私がその話は、ノーベル経済学賞を受賞した学者のエピソードだと指摘したら、ヒロト君はきょとんとしていた。

 有名進学校なので二年生までに三年生のカリキュラムを終えてしまうような授業を楽々とこなす生徒たちばかりであったが、その中でもヒロト君は別格だった。

 数学オリンピックにも日本代表として選ばれ北米の大会に参加しメダルを獲得したのをはじめ、様々な賞を獲得しながら、大学、大学院と駆け抜けた。

 その間も、ヒロト君はなぜか科学館に来てくれた。図書室は科学館の拡張にともなって本社の資料室に統合され無くなってしまったが、バイトとして彼の机を事務室に確保した。

 実際に体験プログラムの開発や、小中学校の研修の講師、資料の整理までやってくれた。大学は東京へ行ったが、実家から通ったため、机はそのままあった。 高校から大学院まで約十二年の間、なんらかの形でヒロト君の姿は科学館にあった。

 ヒロト君は昨年結婚したが、その相手も科学館で見つけたとのことだ。真奈さんは、高校生として科学館の研修に参加して、講師だったヒロト君と会ったそうだ。

 私は全然気づかなかったが、それからずっとつきあっていたらしい。

 三年前の夏、ヒロト君から紹介されて、さらに真奈さんの両親に会って欲しいといわれた。ヒロト君が博士課程に在籍していて二十代後半であるのに学生の身であることとで結婚を反対されていた。

 私の勤める会社が変調をきたした時期であったが、中小企業の経営者であった真奈さんの父親には私の属する大企業グループのネームバリューはそれなりにあり、ヒロト君の将来についての私の熱弁は信用されたようだ。

 ヒロト君が職を得ることを条件に真奈さんの両親に結婚を認めさせることに成功した。ヒロト君の業績はかなり高く評価されており、助教として大学に残ることは可能で、大学の指導教官もそれを勧めた。

 しかし、ヒロト君はシンガポールの大学を選んだ。

「ちょっと聞きづらいのだが、お母さんは日本に残るのかね」

「母は、住み慣れたところがいいようです。母には母の付き合いや過ごし方がありますから。それにシンガポールからでしたら、成田、羽田に一日七便あります。飛行時間七時間で帰ってこられます」

「真奈さんは、シンガポールではどうするのかね」

「落ち着いたら働きたいと思います。どんな求人があるかは調べました」

「まあ、君たちのことだから心配はないだろう」



十一


 ヒロト君の大学の指導教官は、科学館の仕事で知り合いだったので、彼の海外就職の理由を聞いてみた。

 優れた研究者を引き留めるほどの魅力を、もう日本の大学はもっていない、という自嘲気味な回答が帰ってきた。日本の大学は、研究環境、給与、人的ネットワークのあり方、そして研究成果のすべてにおいて先進国のレベルから落ちつつある。中国や韓国などの新興国の追い上げということではなく絶対的な物差しでレベルが落ちているとのことだ。

「もう日本の大学は、欧米やシンガポールはもちろん、中国や韓国の大学にかなわなくなっている。研究環境は言うまでもなく大学教員の給与も日本の方が低いので人材の流出も多くなっている」

 それは、予算の削減の下、国立大学法人化、競争的資金制度や授業評価制度の導入などの「大学改革」の「成果」とのことだ。

 失われた二十年と呼ばれた時期に、日本企業は自業自得で様々な陥穽に陥ってきたが、大学も決してうまくいっていないようだ。私のような中途半端に大学教員とかかわるようになった身にもよくわかる。

 一方、優れた研究者は、インターネットの普及により海外の情報と直にアクセスできるようになった。かつてのようにジャーナルを航空便や船便で取り寄せる悠長なことをせずとも、海外論文をリアルタイムで読めるようになった。研究成果もそうであるが、研究環境や待遇についても直に情報が入る。

 日本の大学で研究することが日本社会への貢献ということでもなくなっている。

「我々のできることは優秀な研究者を育て、最も活躍できる場に彼・彼女らを送ることです。その場を自らの大学に用意できなかったのは、我々の非力ではありますが、せめて、よりましな場で彼・彼女が活躍することを妨げないようにしないと・・」

 酒の場ではあるが、しみじみと退官間際の教授がつぶやいたのを覚えている。

 先人の残してくれた良きものを若者に引き継げなかった。大人の我々がだらしなかった、後進に申し訳ない。

 それは、私の思うところでもある。入社した頃は、こんな風に会社がなるとは思わなかったが、それについて直接的な責任はないとはいえ、今、会社にいる若手にとっては、私のような会社にただぶら下がっているような階層の人間は会社をダメにした経営者の次に怨嗟の的となっても仕方がないだろう。

 ただ、自分たちが失敗したという自覚があればこそ、ヒロト君のような優れた才能の邪魔をせず道を譲りたいと思うところはある。自らが王道を行くと信じて若い部下を使い潰す時代があったが、どちらがよかったのだろうか。

 私は、学会の懇親会からの流れで入った居酒屋で老教授と肩を並べて思った。

 使い潰す、か。ふと、ヤスイの顔が浮かんだ。日頃なるべく思い出すのを避けていた顔だったが、そうか、ヤスイが死んだのはヒロト君と同じ年齢だった。

 

十二


 そのことに思い当たってから、ヤスイのことが頭から離れなくなった。

 ヒロト君の輝かしい前途と比べると死んでしまったヤスイはかわいそうだった。

 もう、四半世紀も前の話であり、自分の人生にとっての一大悔恨事だったので思い出すのを避けていたが、あれは何だったのか、もう一度整理せざるを得ないと思った。

 我々は、研究班として、目標に向けて一丸となって実験を繰り返していた。そこからヤスイが消えた。重要な資料と試料を持って。そしてヤスイの自殺体が見つかった。海に飛び込んで、岩場に打ち上げられたとのことだ。資料は一部しか見つからず、試料は完全に失われた。

 そのため研究班は解散した。ただし、後から見れば、我々の研究は行き詰まり目標は決して達成できなかっただろう。隘路に入り行き止まりに向けて空しい努力をしていたわけだ。

 同時に行われた別の研究班の取り組みが世界的な成功を収め、今や企業グループの屋台骨を支える製品群を生んでいる。

 我々の研究班は、歴史の中の失敗の一例、世界最初に南極点到達をめざしたが、ノルウェーのアムンゼンに先を越され、帰路で遭難・全滅した英国のスコット隊のようなものだ。違うのは、こちらの場合、同じ会社の研究所の中の二つの班の競争だったことだ。失敗した側については歴史に残らず言及されることもない。

 ヤスイは遺書を残さなかったと聞く。母親にも何も残さなかったという。ただ、飛び込んだと思われる崖の上にバッグが置いてあり、中から持ち出したと思われるものの一部が見つかった。試料と、いくつかの重要資料が欠けていたが、それらはとうとう見つからなかった。自分の目で確認したわけでないが、そう聞いた。

 警察によれば、ヤスイの足取りの目撃者の証言や崖上の状況から自殺であることは間違いない。

 研究班のメンバーは、ヤスイが逃げた、脱落したと受け取った。私もそうだった。会社と研究に身を捧げるのは当然の時代だった。泊まり込みの連続は当たり前と思っていた。

 そしてヤスイが自殺したのも本人の問題と捉えていた。

 会社の資料を持っての失踪は、本人とその家族が責められても当然と考えていた。事実、ヤスイの母親は、ヤスイの死体が発見されるまで犯罪者の親のように責められ、謝り続けていた。そして自殺が明らかになっても、さらに謝り続けていた。

 当時は連日の泊まり込みは当然と思っており、気にもしなかったが、我々の労働時間は過労死ラインをはるかに超えていた。しかし、ワーク・ライフ・バランスなどという言葉もなかった時代である。世界的な競争の中で闘っているという、すさまじいプレッシャーの下で研究に取り組んでいた。精神的におかしくなっても不思議ではない。

 過労自殺が労働災害として話題となるようになったのは、日本では、つい最近であるが、別に昔もそのようなことがなかったわけではない。問題として把握する概念がなかったからといって問題が存在しなかったことにはならない。

 セクシャル・ハラスメントという用語がなかったからといって昭和の時代にそのような行為がなかったわけでなく、ベトナム戦争を一般に契機として知られるようになったPTSD、心的外傷後ストレス障害は、それ以前の第一次、第二次大戦などの戦争の兵士になかったわけでもない。

 当時、リーダーである「彼」の下で、私がサブリーダーだった。「彼」は他の研究班のリーダーも兼ねており、実際は私の指揮の下で研究が進められていた。すなわち、研究メンバーの労働環境のコントロールは私の責任であったといえる。

 そこまで、考えて私は凍り付いた。

 被害者面づらをして、ヤスイの母親に謝られてきたのは全くの間違いだった。

 私の責任だったのだ。私が悪かったのだ。

 四半世紀を経て、ようやく事件の本当の姿、そして自分の姿をはっきりと認識できた気がした。

 私は彼女に謝らねばならない。


十三


 そのように思い当たったものの、いきなりヤスイの母親のところに押しかけるわけにはいかない。

 今は、八月であり、今年は、ヤスイの命日の数日後に、あの家を訪れたばかりである。例年のように、あたりさわりのない話をして帰ってきたのは、つい二か月前のことである。

 私は、もう少し考えることにした。

 ヤスイの失踪前後のことは、思い出さないようにしていた。思い出さないようにした上で、ヤスイの母親に会いに行っていた。坂道やら紫陽花やら天候やらに気をつかっていたのは、それがためでもある。毎年、線香を上げるという形に頼って、その原因となった事実に向き合ってこなかった。

 事実関係は、二十年以上経ってしまえば、自分の中でもおぼろとなっている。もう一度、確認しないといけないことが何かあるのではないか。

 そう思い返しながら、表面的には変わらぬ日々を過ごしていると、ある日、科学館にヤマザキから連絡があった。

「こちらの工場からの資料を科学館に送る件だが」

 会社が危機に陥ってから、多くの工場が閉鎖されたり売却されてきた。各工場は見学コースやその歴史を説明する資料、歴史的に価値のありそうな機械類を保管していたが、それらは廃棄される運命となった。それでも捨てるには惜しい資料や機械もあり、なかなか私企業の資料の寄贈を受ける大学や公的な機関もなかったため、科学館が受け皿として使われることになった。

 立地する再開発ビルが世界的に高名な建築家による設計で空間の効率性よりも外からの見栄えが重視された結果、科学館には不相応な大容量の収蔵スペースが存在している。

 私は答えた。

「そちらも忙しいだろうから分類は適当でいい。いや、資料の重要性は、よくわかっている。運送業者を使うわけにもいかないだろう。本来的にこちらの仕事だ。そちらで適当にまとめてくれれば、人を派遣する。俺自身が行ってもいい」

 景気が良かったころは、科学館は工場見学会などには説明員を派遣しており、各工場の見学コースや、そこで実施される研修会などを仕切っていた経緯もある。

「いや、それは問題ないのだが、資料を整理していて気になるものを見つけた。ちょっと見てくれないか」

「見学用の資料ならば公開されているものだろう」

「いや、いわゆる重要保管物で永久保存という箱の中からでてきたのだが」

「企業秘密に関わるものか」

「いや、特許に登録され誰でも見られる。論文も多数出ているので非公開の技術ではない。もう技術としては古い。歴史的な価値はあると思うが」

「ならば、何だ」

「極めて個人的な、お前さんに深く関わるものだ」

「そんなものが、なぜ工場にある。俺は中央研究所、本社経理、科学館が籍と居場所の全てだった。人事の資料も工場にあるとは思えない」

「まあ、来いよ。見てみればわかると思う」

「なんだか思わせぶりだな」


十四


 ヤマザキは、もともと生産技術の専門家である。研究室から生まれた技術を使った製品を、適正なコストと安定した品質で量産する体制を整えることは、新技術を開発する以上の困難をともなう。「彼」の研究班の成果を、第一世代の製品化に早期にこぎ着けたのはヤマザキの功績であり、第二世代、第三世代の製品の量産もヤマザキがいなければ、あり得なかったろう。

 ヤマザキが現場と技術にこだわりすぎて、役員一歩手前で主力工場のぬしと化したのは、社内の誰もがもったいないと思っているが、本人はそれで満足らしい。

 私とは、独身寮時代には飲み友達として交流があったが、仕事上での関係は科学館の勤務となってからだ。工場の見学コースや研修などの企画や資料管理で、それなりのやりとりがあった。その流れで、時々、居酒屋で飲むようになった。

 ヤマザキのいる主力工場は、高速道路沿いの地盤のよい台地を選んで造られており、自動車を運転しない私には行きにくい場所にあった。JRの支線に乗り込んで単線のディーゼル機関車が牽引する三両の列車に揺られ、寂れた駅にたどり着いた。

 改札を抜けると、ヤマザキがオフロード車で待っていた。個人の車らしい。

「やあ、大変だったな。この工場は、皆、自動車で通うからな」

「他所からの視察などは、どう受けるのかね」

「急行の止まるターミナル駅まで迎えの車を出す。お前さんが、最寄りの駅まで来るというから、こちらへ来た」

「そちらに迎えの車を出してもらった方が、簡単だったか」

「まあ、時間的には変わらない。ここのところ工場も剣呑でね」

「占領軍が来ているということか」

「モノも書類も持ち出せない」

「まだ、買収交渉中だろう」

「船が沈む前にネズミがブツをもって逃げ出さないように監視している。一応、デュー・デリジェンス(資産価値調査)の実施という扱いだが態度は占領者だね。工場長室の横に部屋をつくられた。六人ほど詰めている。工場の機械やら原料、製品在庫をチェックしている。監視カメラの記録も全部押さえられている」

「戦争に負けるということは、そういうことか」

「会話の盗聴、記録ぐらいはされている感じだ。だから、半休をとって個人の車でお前さんを迎えにきた」

「大変だな」

「しかし、奴らも技術のプロ、生産のプロだ。あちらの工場との比較でこちらを見ていることもわかる。質問は的確だし、技術者としてこちらを尊重してくれているので、そう不愉快ではない」

 起伏のある細い道を、頻繁にクラッチを切り替え、ハンドルを左右に回しながら、ヤマザキは話した。

「そんな状況だから車の中で話そう。お前さんに現物は工場で見せるがあくまで科学館に収納する資料の事前確認という位置付けだ」

「ものものしいな」

「既に奴らのチェックは通った資料だ。何の問題もない」

 急に目前が開け、両側が山の渓谷にでた。道は深く落ちた谷の途中を通っている。谷底に流れている川の河原に何人か釣り人が見える。

「ほう、こんなところがあったのか」

「こちらは山だからな。山を回り込む形になりちょっと道のりがある。おかげで時間はたっぷりある」

 遠くにダムと関連の建物が見えた。太陽はまだ上がりきっていない。青い鳥が茂みを渡っているのが見えるが沢の近くなのでオオルリだろう。

「ちょっと停まっていくか。さすがに話に集中できない」

 ヤマザキは、路肩に車を止め、サイドブレーキを強く引いた。オフロード車なので座席は固く、乗り心地はいいとはいえない。

「見てもらいたいのは、ヤスイの作った資料だ。ヤスイ・シロウ、中央研究所でお前さんの研究班にいた人間だが。覚えているだろう」

「ヤスイは、よく知っている。というか、忘れるものか」

「会社から見れば許可無くに研究資料を持ち出して行方不明となった社員だ。研究はそれが原因で続行不能となった。結果としてお前さんの研究班が解散に追い込まれた」

「失踪した時に不明になった資料があるということか」

「多分、一部だが」


十五


 ヤマザキは言った。

「ヤスイとは、高校のクラブの先輩後輩との関係なんだ。それなりに親しかった。実家にも行ったこともある」

 あの紫陽花の坂道の上の家だろうか。

「ヤスイが自分と同じ会社にいたことを知ったのはやつの自殺がマスコミで報じられた時だったから、大学進学以降は疎遠になったといえる。俺は大学が北海道だったからな。休みに実家に戻った時も、特に会わなかった」

「資料は、どこにあった」

「第一世代が生産工程に乗る際に研究資料を工場で預かった。その中だ。歴史的な資料を科学館に移すために整理していたら出てきた」

「研究班は二つあった。生産工程に乗ったのは成功した研究班の方で、私とヤスイは失敗した側だ。失敗した側の資料は全て廃棄されたはずだが」

 二つの研究班のリーダーは「彼」だった。「彼」は両方の研究班を見渡せていたが、研究班のメンバーは互いの存在さえ知らなかった。

「ただ、資料を見るとヤスイは競わされる構造に気づいていたらしい」

 ヤマザキの話をまとめると、次のようになる。

 研究班は、二つあった。私とヤスイが属した班は一班である。「彼」は両方の班のリーダーだったが、一班、二班のメンバーは互いの存在を知らず、それぞれ唯一期待されたと考えて研究に取り組んだ。

 研究成果の鍵となる元素として使ったのは、一班がA、二班がBである。当時はA、Bとも有望な元素で、それぞれ成功の見込みがあったが、一班がAで成功せず、二班はBで成功した。Aによる実験も、しばらくは世界中で取り組まれたが、Bほどの性能が出る完成品はついに作れなかった。

 我が社は、成功した二班のBによる製法を使い世界的な製品をつくり出した。製造は独占しなかったが、ライセンス供与で入った収入は、これまでで数兆円となるだろう。

 ここまでは、私も知っている。

 ただし、完成にはもう一つ不可欠な要素があった。製法である。一班はX、二班はYという製法を使っていた。すなわち、A―X、B―Yの組み合わせで二つの班が取り組んでいた。しかし、最後に二班が成功したのはB―Xの組み合わせだった。途中で二班は製法をYからXに変えたのだ。B―Xは、その後の全世界を制覇した組み合わせであり、現在でもそれ以外は数%しか行われていない。

 そこは、私の知らない経緯だった。二班も最初から、同じ製法Xで取り組んでいたと思い込んでいた。今回見つけた資料からわかるのは、二班で採用された製法Xは一班の実験でヤスイにより編み出されたということだ。

「二班が一班の製法を盗んだ、ということか。それともヤスイが二班のスパイだったということか」

 私は尋ねた。

「同じ中央研究所の中でのやりとりだ。盗んだとかスパイとか言っても仕方がないだろう。まあ、必死で研究していたお前さんやお前さんらの班のメンバーとしては納得いかないだろうが」

 二班での製法Xの採用は、リーダーの「彼」が承諾したからだろうが、そこにヤスイがどう絡んでいるか、が問題だ。

「彼」が製法Xの資料を無理矢理ヤスイから取り上げて、ヤスイは君らに申し訳ないということで命を絶ったとも考えられる。

「ヤスイが最初から納得ずくで情報を二班に流していたが、二班の仲間を裏切っていることに耐えられなくなって・・・」

「できの悪いテレビドラマのようだ」

「話を聞いたが、問題を自分で整理できない。少し考えさせてくれ」

「工場には二時ぐらいまでに入ればいい。途中で蕎麦屋にでも寄っていこう。まあ、黙っているから少し考えろ」

 ヤマザキはオフロード車を発車させた。渓谷を通り過ぎ、うねる山道に入った。道は舗装されていない部分もあり、ヤマザキの荒い運転でも何度も跳ねた。とても話ができるようではないが、話をする気にはならなかった。時折、山の夏の風が気持ち良く吹いたが、それを味わう気分ではなかった。


十六


 ようやく町場に降りて工場に向かう途中の蕎麦屋で昼食を取ったが、二人とも黙ったままだった。

 工場の敷地に入りオフロード車は来客用の駐車場に停めて、玄関正面から事務棟に入った。私はICチップの入った社員証を持っていたが、それでも何段階かのチェックを受けた。

「こんなにチェックが厳しかったか。工場のトップが帯同した社員だぞ」

「これは買収される前からだ。そこまで競争が激しいと言うことだ。工場といっても宇宙船の中に等しい重装備の部分が多い。かつての工場祭りなどというのんびりした催しをやった時代とは全く変わっている。内部は二十四時間記録が取られている。その必要があるかどうかは別として、技術進歩で記録を無限に残すことができ、その費用も極小化されているからな」

「そんなに記録してもチェックできないだろう」

「今はな、データとして貯めているだけだが、そのうちビッグデータとして解析できるようになる。やがては、俺がこの工場で呼吸した回数まで瞬時に把握できるようになるだろう」

「スタートレックかなんかでやっていた、コンピュータに呼びかけるやつか。『コンピュータ、工場長は今年になって何回たばこを吸った?』とか聞けば答えてくれるのか」

「ああ、そうだ。ただし、工場敷地内は全面禁煙なので、答えはゼロだ。しかし、こうやって通路を歩きながら無駄話をしている回数と時間、相手の人数、男女別、年齢別、すべて答えてくれるようになるだろう。まあ、無駄話とそうでない話を区別するには、それなりの時間がかかりそうだがな」

「かなりの距離を歩くな」

「工場長室は、事務棟と生産棟の二カ所にある。資料は全て資料庫から事務棟の工場長室に運んである」

 工場長室は思ったより簡素な造りをしていた。

「窓がないだろう。外から狙撃でもされるのを心配しているとしか思えない造りで好きではない。日頃は、ほとんど生産棟の方にいる。台湾からの占領部隊も生産棟の部屋の隣に陣取っている」

 机の上に置かれたファイルは五冊ある。二十数年前のものなので、表紙も中身もそれなりに黄ばんでいる。

「内容は全てデジタルデータ化してあり、また画像としても記録してある。無くなってしまってもかまわない。当時の苦闘の記録として科学館に展示するにふさわしい」

 ヤマザキは、その中の一冊を取り出し、ファイルのポケットに収めたノートを私に見せた。

「実験ノートだ。日付と実験内容、毎日、成果と課題がボールペンで几帳面に書いてある。そしてイニシャルだ」

 毎日の記録の終わりに書いてあるのはヤスイのイニシャルだった。そして、それには製法Xを高度化していく過程が記録されていた。実験ノートは製本され後で差し替えができないような堅牢なものが社として統一され特注で作られていたので、私にも見覚えがある。

「これは、一班での実験の記録だろう。一班の他の記録はあるのか」

「中央研究所から工場に持ち込まれた資料は生産プロセスに載せるのに必要なだけだ。中央研究所では保管していたかもしれないが、中央研究所は二○○○年にならないうちに解散している。俺にはわからない」「いずれにせよ、この資料は科学館に送る。占領部隊の再チェックを受けて、だが」

 ドアがノックされた。若い背広の人間が入ってきた。ちょっと髪型が普通と違う感じがしたが、社員証を首から下げているので工場の人間だろう。

「やあ、張君か。紹介しよう。こちらは我が社の記念碑的な資料を保管してくれる科学館の副館長だ」

 挨拶をして名刺を交換した。肩書きは生産管理統括官となっている。名前は韓国系で日本語はかすかな訛りがある。

「工場長から聞いています。初期研究・開発メンバーのお一人だったそうですね」

「いや、もう研究からも開発からも離れて長くなりました」

「この分野においては、貴社の技術は他の追随を許しません。その技術力を生産システムも含めて尊敬してきました。今回、この工場に関わらせていただきまして誠に光栄です」

「張君は、韓国の大学を卒業してアメリカの大学院で博士号をとって、アメリカの現地法人で採用され、こちらに来た。日本語も堪能だ。優秀な若者と仕事ができることは、立場がどうあれ、うれしいことだ」

 ヤマザキは「立場がどうあれ」のところで、少し言いよどんだ。

「工場長」

 張君は困ったような口調で言った。

「本社の方からいくつか急ぎの連絡が入りました。なるべく早く回答した方がよろしいかと思いますが」

「わかった、わかった」

「資料の確認は終わりました。用件は済みましたので、私は失礼します。張統括官も一度よろしければ科学館においでください。事前に連絡くだされば案内いたします」

「ありがとうございます。当地の生産体制を把握するのに精一杯で、なかなか関連施設までいけないのが残念です。科学館は、是非とも見学させていただきたいと思っています。娘もおりますので、休みの日のプライベートでも一緒に訪問させていただきたいと思います」

 張君の口調は年長のものを立て、また、嘘のないものだった。私はヒロト君を思い出した。


十七


 科学館にヤマザキからの資料が届き、私は最初から最後まで内容をチェックした後に資料室の棚に並べた。

 二班の資料の中に混じっている一班の資料、それがヤスイのものだ。研究の成功の鍵を握る重要な部分である。

 二班の取り組みは一班と平行して進められていた。当時も研究室の情報管理は厳しく、私の手元に個人的なメモさえもないが、頭の中には消そうとしても消えないデータがあり、二班の資料にはそれが記載されている。

 時間を追って記録を確認すると、ヤスイの資料に基づき手順Xが二班に導入された日は、ヤスイが失踪した日の一週間前にあたる。何の注釈もなく、日付と手順をYからXに変更としてある。手順Xの由来も理由も記載がない。まとめは、責任者である「彼」の名前でなされている。

 ファイルの一番後ろに学会での発表論文が綴り込まれている。代表は「彼」で、二班の研究員の名前が並んでいる。ヤスイの名前も入っている。

 郵便の配達証明による学会への投稿の日付は、その二週間後である。

 資料を見れば二班の実験は極めて拙速に行われたとわかる。方法が確立して思うような数字が得られなかった一班の方がまだ実験としては堅実ではないかとの印象を持った。

 二班の追試が何度かなされて、安定して数字の達成が確認されたのは、論文が発送された日よりも後で、その記録は追加されていた。

 追試で安定した成果が得られなければ、論文発表を取り消すところだった。

 二班もすさまじい追い詰められ方をしていたのだ、と私は思った。それでも、ヤスイの資料がなぜ二班に渡ったのか、その後ヤスイはなぜ失踪したのか、この資料だけではわからない。

 やはり「彼」に確かめなければならない、そう思った。

 科学館の資料室には窓がない。紙の資料だけではなく様々な機器や実験具が置いてあり金属や薬品の匂いがこもっている。

 その匂いのため深呼吸をする気にはとてもならなかったが、呼吸を整えて考えをまとめた。

「ヤマザキに同行を頼むか」

 テレビに映る「彼」の顔を思い出した。白髪がはっきりと増え顔の皺も深かった。迷走、頑迷、無能と揶揄される経営陣の一角を占めている。「彼」ほどの人物が、なぜ、という疑問は私も持つ。

 そもそも、会社が傾いたのは会計の不正と国策がらみの海外企業の買収の失敗である。それは、「彼」が関与した分野ではなく、「彼」が統括してきた事業分野は今、企業グループの収益の八割を上げている。にもかかわらず「彼」はトップに立たず、無能な経営中枢が権力を握りつづけている。一体どうなっているのだろう。

 ヤマザキは役員一歩手前のポジションにいて今回の買収への対応の前線に立っている。ヤマザキからなら「彼」との面談の約束は取れるだろう。

 ヤスイの母親への対応はどうするべきか。ヤスイと「彼」の関係、ヤスイのとった行動が明らかになってからではないと動けない。

すべては「彼」と会ってからだ。


十八


 ヤマザキは、台湾からの「占領軍」の対応に忙殺されているらしい。とはいうものの、電話口のヤマザキの声は明るかった。

「いや、あちらの生産システムとレベルのすり合わせをしているんだが、これがなかなかのもので」

 生産技術面では数年もすればウチも追いつかれる。好い時に買ってもらったと思う。

 そう言った。そんなものなのだろうか。

 二週間ほど、台湾と中国本土、ベトナムの生産拠点の現場を駆け足で見てくるとのことなので、「彼」に会うのはそれからということになった。

 私は宙ぶらりんな日々を過ごした。

 正直なところ、私がいなくとも科学館の日々の仕事は回る。いくつかの原稿は頼まれていたが、それは過去のものの焼き直しで済むだろう。

 資料室の作業机の上に、何度か例の資料を広げてみた。四半世紀も前の資料である。そこに記されている「彼」の名前を見ながら「彼」と自分のつながりを思い出した。

 研究班が崩壊してから思い出すのも避けてきた。そもそも研究班の組成の経緯はどうだったのかもあまり思い出せない。私は、中央研究所でのいくつかのプロジェクトの補助から段々とプロジェクトの中心に上がっていき、次はリーダーかという時に呼ばれたのが、「彼」がリーダーとなるあのプロジェクトだった。

 「彼」は既にその分野の研究者として社内外に名を馳せていた。高額の報酬を伴うヘッドハンティングも受けている、欧米の研究所から招聘されている、などの噂はあった。

 研究室につながる小部屋を「彼」は持っていた。朝のミーティングが終わると、メンバーに指示を与えた後、小部屋に引きこもった。時々、メンバーの一名または複数名を小部屋に呼び込み、報告を受け指示を与えた。

 当時は、パソコンも貴重品であり、インターネットもなかったので、小部屋には電話とファックス、そして小さな本棚しかなかった。

 私は、「彼」とは三つしか年齢が違わなかったが、あらゆる面で格が違うことを十分認識していた。

 そのプロジェクトの成功は研究メンバーとして望んだが、私個人としては与えられたプロジェクトだった。プロジェクトの組成から関わったのは「彼」だろう。予算や組織、人員についても仕切ったのは「彼」だ。

 そのように思い返しながら、私は、我ながら自分の主体性のなさに呆れた。いや、決して熱心でなかったわけではない。ある種の情熱がなければ、今ならば過労死レベルと非難される長時間労働などやっていられなかった。そして、ヤスイを追い詰めもしなかった。

 色々と思い出したが「彼」があそこまで成功し、私がここにいるのは必然だった。

 ここにいるといっても、科学館の副館長というポジションに不満があるわけではない。出世競争から早々に脱落したサラリーマンとしては望外の地位だろう。対外的にはそれなりにネームバリューがありつつ、内側では自由がきく。研究・開発・生産・営業・販売・管理などのどの分野にも属さない。社内で比べられる地位がないので競争にもさらされない。大学の教授などと比べてもあまりに特殊なので替えがきかない。

 「彼」が、研究者、技術者としての王道を歩み、テクノロジーの会社の経営にかかわるようになっているのとは、まさしく雲泥の差がある。

 今更それについて何も言うことはないと思っていた。その差は当然であり、誰に苦情を言う気もない。

 私はこのまま「彼」とその業績を仰ぎ見ながら、今の地位のまま、あと数年を過ごし退職する気であった。二度と「彼」と言葉を交わすこともなく、「彼」に会うこともないと思っていた。

 ヤマザキからあの話を聞くまでは。


十九


 ヤマザキとは本社の受付で待ち合わせた。今日は珍しく背広である。

「作業服の方が楽なのだがな」

 IDカードホルダーを胸ポケットから出して受付の女性に見せようとしたところ、秘書と思われる女性に声をかけられた。

「秘書のトモミツでございます。ご案内します」

 秘書はタブレット端末を持っており、顔写真か何かで身元は確認されているらしい。最新技術を使っていれば顔認証か声紋認証かをしているはずである。役員用のエレベーターに案内された。

 役員用のエレベーターは従業員、来客用のものと違い、受付の奥の特別室のさらに奥から出ており、秘書とともに役員階で降りると、もう一つ受付があった。部屋に囲まれており窓のない空間である。空間の真ん中は、小さな日本庭園で枯山水になっている。

 空間を取り囲むようにドアがあり、そのうちの一つに案内された。入ってみるとそれなりの広さのある応接室である。

 革貼りのソファに座ってしばらくするとコーヒーが出され、すぐに 

 「彼」が現れた。髪は白くなり、皺は深くなったが、細身の体とスーツの着こなしは変わっていない。

「待っていた。ヤマザキ工場長とはこの間会ったばかりだが、副館長とは、もう二十年ぶりぐらいになるか」

 年をとったなと思うが、確かに「彼」である。こんな顔貌、体格をしていたかと思ったが間違いはない。「彼」の表情からは何も読めないが声は柔らかい。

「用件は聞いている。説明を受けたいとのことだな」

 秘書の女性がコーヒーカップを「彼」の前に置いた。

「トモミツ君、はずしてくれたまえ」

 秘書の女性は出て行き、「彼」は上着を脱いでハンガーに掛けた。再び座り直すとコーヒーをすすった。「彼」は、私の顔を見て言った。

「特に君には聞く権利があるな」

「単刀直入にお聞きします。ヤスイ君はなぜ、あのような行動をとったとお思いでしょうか」

 「彼」は私の顔をじっと見た。きれいに梳かしてあるが髪の毛はかなり白い。

「人が一人亡くなっている。説明の仕方が難しい」

 「彼」は口を開いた。

「しかし、説明はしよう。納得はいかないかもしれないが」

 「彼」は淡々と話し始めた。

「わかっている事実を述べよう。認識に齟齬があるといけない」

 「彼」は、なめらかに続けた。

「まず、あの研究は成功だった。当初の目的は達成した。その後の製品化にもつながった。新たな製品分野を作ったといえる。兆円単位の売り上げを当社にもたらした。成功としかいいようがない。後から評価すればそうなる」「ただし、最初の地点に立てば、ベストな方法は見つかっていない。そこにたどり着くまでいくつかのルートがあった。最大限の人と予算は投入するが、限界もある。時間も限られている」「だからプロジェクトとしては、三つの研究班を走らせることになった」

「え、二つではなかったですか」

「いや、三つだった。三つの研究班がいくつかの方法を組み合わせながら最速で目的に到達する方法だ。私は、その三つの研究班を統括した。三つの研究班のメンバーは、それぞれの存在を知らなかった。ヤスイ君以外は、な」

「ヤスイは、当初から他のグループの動きを知らされていたのですか」

「ヤスイ君のやっていた製法のところは、要となるところだ。三つの研究班に成果は逐次還元されるようになっていた。それは本人も納得済みだった。ただし、ヤスイ君の製法の開発は一班で行われた。一班が一番、見込みがあったからだ」

「しかし、成功したのは、二班で、その製法は一班で開発したヤスイのモノだった」

「それは当初から織り込み済みだった。ヤスイ君の開発した製法は、全部の班に還元された」

「ならば、成功した二班にヤスイの研究ノートがあっても不思議ではないということですか」

「そういうことになる」

「それならば、なぜ、ヤスイは一班の試料と資料を持ち出し、自殺したのですか」

「ヤスイ君が持ち出したのは、一班のものだけではない。三班のものだ」

「何故だかわかっているのですか」

「ヤスイ君が、資料類をもって失踪した時点は、一班は成功ぎりぎりのところを詰めていた。それが最終的に不可能だったとわかったのは、二~三年後のことだ。あの時は、成功する一歩手前で、ヤスイ君はすべてを壊したと思われた」

「それはそうです」

「しかし、三班は既に成功しないことがわかっていた。あの時点では、班の解体が視野に入っていた。まあ、それは仕方がない」

「なぜ、ヤスイは三班の資料まで持ち出したのでしょうか。一班の成功を壊すならば一班のだけでよいはずだし、会社全体の研究を害しようとするならば二班の資料も持ち出すべきでしょう」

「会社の評判に影響するため盗難届はださなかったが、会社の上層部の伝手を使って警察に研究室を調べてもらった。ヤスイ君は三班と一班の資料を同じ日に持ち出している。彼には全部の班の研究室に入る権限が与えられていた」

「そして、その三日後に海から死体が上がった。遺書は見つからなかった」

「ヤスイ君の開発した製法を二班に持ち込んだ際には、二班のメンバーにはそれを伝えている。研究者としてヤスイ君を二班に組み入れている。一、二班兼務ということで辞令も発令されている」

「覚えはないが」

「ぎりぎりの詰めの段階にきていた研究で、そのメンバー全員必死だったから、そんな辞令は覚えていないだろう」

「だから後の成功した研究班メンバーとしてヤスイ君の名前と資料が残っているのは不思議ではない」

「では、こういうことになる。最終段階で、あなたとヤスイが二つの班の研究を仕切っていた。どちらが成功しても良い形で。ただし、班のメンバーは死に物狂いで取り組んでいた。お互いの存在を知らず」

「研究班のメンバーとしては不満があるかもしれないが、そういうことになる」

「なぜ、ヤスイはあんなことをして自殺したのか。あなたは知らないのか」

「形式的には、会社には何の損害もない。自分としてもプロジェクトは成功したと思っている。その理由を突き詰めなければならない立場に私はない」

「何のメッセージも、あなたには残さなかったのか」

「私には、ない」

「誰にならばあるのか」

「ヤスイ君のご母堂ならば答えられるかもしれない」

 意外だった。「彼」はヤスイの母親と接触していたのか。

「ヤスイの母親を知っているのか」

 私の言葉遣いは詰問調になっていた。

「君をヤスイ君の実家に行かせたのは私だったな。私も葬儀には出た。君は覚えていないか。その後、家には何度かうかがった。あの両側に紫陽花のある坂道の上の家だ」


二十


「会社には何の損害もない。プロジェクトは成功した」

と言われてしまえば、それ以上、事実を突き詰めろとは言えない。

 資料や試料は会社の所有物であり、また、研究成果も会社に属する。ヤスイが滅したものは成果とも言えないものだ。

「他に、聞きたいことはあるか」

 多分、「彼」には二度と会えないだろうと思った。目の前にいる「彼」にもう一度問う。

「なぜ、ヤスイはあんなことをして自殺したのか。あなたは知らないのか」

「その答えはヤスイ君のご母堂から聞いた、としか言えない。私が聞いた事柄を君に伝える許可はいただいていない。直接、当たってほしい」

 「彼」は私から目をそらさずに答えた。

 ヤマザキが割って入った。

「これ以上、お時間をいただくこと適当ではないと思います」

 ただし、だ。

「ただし、ヤスイ君のご母堂からお話をうかがって納得ができなければ、もう一度会っていただけますか。会社で人が一人亡くなっているのです」

「会社内ではないが、会社で研究をしていた人間が亡くなったという意味では会社も私も関係ないとは言わない。いいだろう」

 ヤマザキはうまくまとめてくれた。

「それでは失礼します」

 応接室を出てエレベーターで一階に降りるまで、我々は無言だった。

 建物を出て地下鉄の駅に向けてしばらく歩いてから、初めて口を開いた。

「いや、ありがとう。つないでくれて」

「あいつも敢えて話を切ろうとはしなかった。あいつは聞いているな。納得のできる確かな理由を聞いている」

「ヤスイの母親とは六月に会ったばかりだ。なぜ、私には話さないのか。なぜだ」

「ヤスイの母親には直接聞いたことはあるのか。なぜヤスイはあんなことをして自殺したのか、を」

「いや、面と向かってとても聞けなかった」

「あいつは聞いた。どういうことだ」

 少し頭を整理させてくれ。後で連絡する。

 私はそう言って、ヤマザキと別れた。ヤマザキは本社に帰っていった。別の部署にも用事があるとのことだ。

 その日は台風が九州付近に上陸した日だが、本州の各地では、すばらしい夕焼けが見られた。私はヤマザキが戻る本社の高層ビルが紅色の空を背景に黒々と立っているのを見た。


二十一


 なぜ、ヤスイは、二班の資料類を持ち出さなかったか。三つの班の部屋に入れたのに。

 ヤマザキと例の駅の近くの飲み屋で会った。

 奥さんは出産後、里帰りをしているそうで、若旦那が手伝いの女性と店を仕切っていた。

「俺が思うに」

 ヤマザキは冷酒をすすりながら言った。

「二班は研究が佳境に入り昼夜交代で人が詰めていた。だからヤスイを二班の資料を持ち出せなかった」

 当時、俺は生産現場にいたが、噂は伝わってきた。どのみち中央研究所は昼夜なく動いているが、とくにあの開発の時は不夜城の状況だった。

 私も思い出した。あの夜はヤスイ一人が研究室に残っていたから、翌日、資料類とともにヤスイがいなくなったことで、その持ち出しがヤスイだとすぐ騒ぎになったのだ。

 第二班の研究室も誰かが残っていたからヤスイは近づけなかったのか。それならば、第一、三班の資料類を持ち出したことで、ヤスイは何かの目的を達成できたことになる。すなわち、ヤスイの目的は研究全体を妨害することではなく、一、三班の研究を妨害することだった。

「ヤスイは何をやりたかったのか」

「本当は二班の研究も妨害したかったが、人がいたのであきらめた、と?」

「そういう可能性もないこともない。ヤスイは、自殺するほど心身が追い詰められていた。我々研究メンバー全員そうだといえばそうだが常軌を逸した行動をとっても不思議ではない」

「そうすると合理的な説明をつけようとしても仕方がないか」

「その時は、みんな疲れてまともな状況ではありませんでした。だからどんな変なことでもやりました、ということでは・・」

「一班の誰かを害することを試みて、それをカムフラージュするために三班の資料も毀損したという可能性もある」

「ヤスイの意図、そのものを聞くしかないな」

「気は進まないが『ご母堂』のところへ伺うか」

 奥さんはいないが、店は混んでいる。それなりに流行っているのだろう。主人の忙しさを気遣って焼き鳥をまとめて頼んだ。

 どうであれ、私は上司としてひどい状況でヤスイを働かせた。もし資料の持ち出しがなく失踪と自殺だったならば、そして現在の基準ならば十分労災として認められる。資料の持ち出し自体は犯罪だが、それで人の命に値するほどのことではない。

 研究からの逃亡、資料の毀損、会社への反逆という筋書きは、劣悪な労働環境、パワー・ハラスメントという観点からみれば、見事にひっくり返る。

 当時は、パワー・ハラスメントなどという言葉もなかったな。

 私も冷酒をあおった。

 当時と今とどちらがまともかと言えば、もちろん今である。今の若者、例えばヒロト君や張君をあんな場で働かせたいかといえば、それは否である。

 残業二○○時間、家に一月帰らないなど、研究が佳境に入ると皆偉そうに言っていたが、それはマネジメントができていないだけだと心の底から思う。

 そう、私はマネジメントができなかった。

 ヤスイが資料を持ち出したから、それに全ての罪をなすりつけて過ごしてきたのだ。実験など成功するはずがなかった、と素直に思えた。

 ヤスイの母親には、まずは謝ろう。ヤスイの意図と行動がどうであったのであれ。

 二十数年経って、ようやくそこに思い至った。

 私とヤマザキはカウンターで肩を寄せて宙をにらんだ。

「ちょっと、煙がこちらに来るんだが」

 ヤマザキが言った。

「換気扇が一つ、モーターの調子が悪いんです。申し訳ありません。業者には修理を頼んでいるのですが」

 店主が申し訳なさそうにいった。

「俺は、作業着だからいいが、他の客の背広に匂いがつくだろう。ちょっとみせてみろ」

 ヤマザキは、ひょいとカウンターの向こうに立って、換気扇をのぞき込んだ。

「これは蓋が取り外せないな。隣のこちらは生きているのだろう。そこの扇風機をここへもってくればいいだろう。風の流れを、こう、こう、こう、と」

 ぶつぶついいながら、店にある扇風機の向きをいくつか変えた。

「これでいいだろう。換気扇はうちの企業グループのやつだからな。あまり修理が遅れるようだったら俺に言ってくれ。ただ、ちょっと古すぎるな。もう部品がないかもしれない。儲かっていたら新しいのに変えてやってくれ」

 店主は恐縮している。店の客も見ていてほっとしている。

 ヤマザキは、経営層に入っても、手を動かすのが好きな男で、明るい。友人としてはありがたい。自分はどうして、こうなれなかったのかと思う。


二十二


 ヤマザキとは駅で待ち合わせた。ヤマザキは背広姿で、オフロード車とは変な組み合わせだが、作業着で訪問するわけにはいかない。

 もう九月に入っているが、暑い。背広の上着は久しぶりに着た。

 あの頃は、夏でも上着とネクタイが通例だったが、今より気温は低かったのだろうか。

 車の冷房はつけず窓を開け放ってヤスイの家に向かった。坂をゆっくりと登り、海はまだ見えないが潮の匂いがする。風は心地よく、かすかに秋の感じがした。

「連絡は、してあるな」

「当然だ。二人で行くと言ってある」

「俺とヤスイの関係については」

「それほど詳しくは言っていない。重要な資料が見つかったのでお話したい、とだけ言ってある」

「俺が訪問したのは、もう四十年近くも前のことになる。覚えていなくても当然だし、かつての高校の同級生でなく、会社の関係者としての訪問だからそれでよかろう・・・ここのあたりの記憶はある。景色のいいところだ。市の観光ポスターにも使われる場所だろう」

 海がみえるところまで登った。

「『ご母堂』は、いつも和服を着ている。お茶の師範をしているので姿勢がいい。ちょっと威圧感がある」

 家が近くなって私は言った。

「まあ、顔は合わせにくいし、俺は同席しなくともいいかとも思うが、乗りかかった船だ。それに・・・」

などと、ヤマザキがもごもごと言ったところで、ヤスイの家に着いてしまった。

 他に来る自動車もないだろうということで、玄関を過ぎた公道の脇に車を停め、門扉の呼び鈴を押した。玄関でヤスイの母親は二人を出迎えた。他に人気はなく、例年と同様に応接に通された。

 かつては座敷に正座して対面したが、何年か前から和室用のソファが低い木製のテーブルを挟んで置かれており、その客用の向きのソファに座った。

 膝を痛めたので普段はソファにしているが、稽古をする際には正座をすると聞いたのは何年前かである。今も茶の稽古をつけているのだろうか。和服姿で背筋は伸びているが、心持ち小さくなったような気がする。

 客用の茶碗で緑茶が丁寧に二人の前に置かれた。

 私が口を開き、本日は整理中に重要な資料が見つかったので説明しておきたく伺った。資料の整理を担当しているのが帯同したヤマザキだ、とヤマザキは紹介した。

 ヤマザキは、ヤマザキです、と言っただけで、ヤスイの高校の先輩であることや、現在の肩書きについては何も言わなかった。

 私から、ヤマザキは同じ会社の工場長で、資料整理をしたのは彼だ、と伝えた。覚えていらっしゃるかどうかわからないが、ヤスイ君の高校の先輩で、この家にもお邪魔したことがあるそうだ、と言った。

「その際は失礼しました」

とヤマザキは言った。

「いえ、いえ覚えておりますとも」

 ヤスイの母親は言った。

「その資料の話をする前に、私からお話しておかねばならないことがあります」

 私は切り出した。当時、私は研究環境をマネジメントする立場だった。にもかかわらず一切の私生活を犠牲にするような現在ならばとても許されない労働環境を放置した。むしろそういう環境により研究を推進するように方向付けた。研究員に心身の異常が発生しても仕方がない状況としてしまった。

「過労で心が病み自殺に追い込まれることが労働災害として広く知られるようになったのは近年です。かつては、単に厳しい仕事についていけない脱落者だと見なされていました。特に研究者は研究に全てを捧げるということは当然と思っていました。しかし、それは間違いです。

 ヤスイ君の場合は、研究を放棄し妨害をするような行動に出たため非難されました。それゆえに労働環境の劣悪さをつくりだした責任が見過ごされてしまいました。私自身がそう思い込んでいました。自分は被害者だと思っていました。それは違うのです」

 ヤスイの母親は、不思議なものを見るように私の顔を見た。


二十三


「そういう考え方もあるのですか」

 ヤスイの母親は言った。

 私はそのような考えに至りました。これまで誰も私を責めませんでした。しかし、だからといって、私の罪がないわけではありません。

「罪ですか」

 ヤスイの母親はそうつぶやくように言った。

「すると、罰はあるのですか」

 それについては考えていなかった。

「まずは、あなたに謝ってからと思いました」

「では、資料の話をしていただけますか」

 言葉に詰まっているうちに、ヤマザキが話しはじめた。

 当時、三つの研究班が互いの存在を知らずに競い合っていたが、リーダーとヤスイだけが横断的に研究の状況を知っていた。ヤスイは、研究の鍵となる製法を開発し、その製法は、一班から二班に移され、二班が成功した、その一方、一班と三班の資料類がヤスイにより持ち出された、一班の研究方法は後に不成功となることがわかったが、それ以前にヤスイの行動により継続不能となった。

 そのようなことを丁寧にヤマザキは話した。

 新しく見つかった資料は、ヤスイの一班で開発した方法を記したノートで二班の成功を記した資料類の中にあった。それを移したのは、リーダーの「彼」と思われる。

 それについて「彼」を問い詰めたところ、あなたに聞けばすべてわかる、と言われた。

「~様は、毎年、線香を上げにおいでいただいています」

え、毎年なのか。

「なぜ、息子は、一、三班の資料を持ち出し自殺したのか、ということですね」

そういう直裁的な言い方はしていないが、詰まるところそうなる。

 ヤスイの母親は、ヤマザキの方を見て言った。

「あなたは、高校時代にこちらの家においでになったことがある、とおっしゃいましたね」

 ヤマザキがつばを飲み込む音が聞こえたような気がした。

「でしたら、あの事件の際のことでしょう。息子の性癖はご存じだと思いますが」

 ヤマザキは、背筋を伸ばし直して答えた。

「私は、高校卒業後はヤスイ君とは疎遠になって、次にその存在を知ったのは、ヤスイ君の自殺が新聞で報じられてからでした。同じ会社にいたことも知りませんでした」

「息子の性癖は私の悩みでした。初めて知ったのが高校のあの事件の時でした。同級生の男子と交換日記をしていたことが教師にとがめられて、二人で家出したのです」

 小説にそんな話があった。「チボー家の人々」だっただろうか。

「ヤスイ君は同性愛者だった、ということですか」

「そうでした」

 ヤマザキが口を開いた。

「ヤスイ君は、勉強ができた。しなくてもできた。天才というのはこの世にいるものだと思いました」「スポーツも器用にこなした」「ただ、交友関係はわからなかった。女生徒にももてたと思っていたが、同性愛の性向があったとは思わなかった」「家出をしたのは,同じ運動部の同級生とだったので、部長の私が先頭になって探しまわるしかなかった」「そして、その際に、この家にもお邪魔した」

 母親は、続けた。

「その際は、誠にご迷惑をおかけしました」

「しょせんは高校生の家出なので、数日後の夜、新幹線のどこかの駅で補導されたとのことでした。自由な校風の私立学校だったので、退学などの処分にならず、その後は特に問題も起こさなかった。高校時代の私の知る限りですが」

 ヤマザキは付け加えた。

「私は、北海道の大学に進み、この土地を離れました。ヤスイ君も大学は京都ですので高校卒業後はすっかり疎遠になってしまいました」



二十四


 母親が口を開いた。

「早く父親を亡くしました。父親の家は資産家でしたので、私の生活も息子の進学も何の問題もありませんでした。この家も、その資産の一部です」「大学時代、息子は何ら問題を起こすことはありませんでした。何か悶着があったのかもしれませんが、それは遠い京都で大学生のことですので、私の耳には入らなかっただけなのかもしれません」

「夏休みや正月にはこちらに帰ってきましたが、親子関係は普通でした。私に対しては良い息子でした。何を心の中に抱えていたのかはわかりません。工学部の修士課程まで終えて、教授の紹介で、あなたの会社に入ったのです」

 あなたの会社、と言われて、胸が塞がった。

「私には良い息子でした」

 母親は繰り返した。

「子どもは大きくなってしまえば、親にはわからないものです」

 目をテーブルに落として母親は続けた。

「会社では独身寮に入りましたので別居でした。時々帰ってきたのですが、ごく簡単に健康や仕事の話をする程度でした。私の生活や健康を気遣ってくれました。この家の前の坂はきつくはないのか、などと。どこか便利なところへ引っ越さないかとも言われました」

 平穏な日々でした。毎日、顔を合わせずとも、それなりの近さに息子がいることは心強く、また、将来が楽しみでした。高校の頃の事件は、なにかの間違いだったのように忘れかかっていました。

「会社や仕事のことについては何か話していませんでしたか」

 私が聞いた。

「いや、特に」

 今はどうか知らないが、我々が独身の二十代だった時は、親と会社や仕事について話すことはなかった。親を心配させるだけで何にもならないと思うのが普通だった。

「あなたは、いつ、ヤスイ君の異常、異常というのは、まさしくそれまでの常態とは異なるという意味ですが、それを知りましたか」

 ヤマザキが口を開いた。

「会社からの問い合わせがあるまで、全く気がつきませんでした。親としては責められるべきなのかもしれませんが、全く気がつきませんでした」

 表情を少しだけ曇らせて母親が答えた。

「そう、全く気がつかなかったのです」


二十五


「あの日、かかってきた電話から全てが変わりました。息子が会社の資料を持って行方不明との電話です。私は何もわからず、それでも謝らざるを得なかったのです」「電話の向こうの殺気だった様子が伝わってきたからです」

 私は確かにその電話の向こうに居た。

「こちらに人を寄せてもらえないか、との申し出がありました。息子がこの家にいることを疑ったのかもしれません。警察でもないのに、そんなことをするのかと思ったのは、後々のことです。すごい剣幕なので、すっかり飲みこまれてしまいました」

 そして、こちらに向かったのが私だった。着いた時には、もう夜になっていた。

「その後に、警察から電話がありました。息子の遺体が見つかったと。通常ならば警察署に呼ばれて遺体を確認するまで、そのような話をしないのですが、息子の持ち物と遺書から、それは確実なようでした」

「遺書はあったのですか」

私は言った。

「ありました。でも、当時はそれを警察は言いませんでした。その時、あなたが家に訪れたのです。私は息子の死をあなたに伝えました」「警察は会社にも連絡をしていました。あなたは、この家から会社に電話をかけて、息子の自殺を会社に確認したのです」

 思い出した。電話をかけた先は「彼」だった。

 「彼」は私に言った。これから警察に向かう。本人の確認、持ち出された資料の有無の確認は「彼」が行う、と。

 パトカーが、ヤスイの母親を迎えにきて、遺体を収容した警察署に連れて行った。私は家から出て、そのパトカーを見送り途方に暮れた。その時点で研究班での徹夜は続いていて私の体力は限界だった。私は別のパトカーからタクシーを呼んでもらい、駅前のビジネスホテルへ行って眠り込んだ。

 会社側の対応は、すべて「彼」が行った。私は、その後の顛末、すなわち資料がなくなったこと、遺書がなかったことは「彼」から聞いたのだ。

 次に、ヤスイの顔を見たのは、この家で行われた葬儀の場であった。自殺と言うことで、ごく限られた人間しか集まらなかった。会社からは「彼」と私だけだった。研究班のリーダーとサブリーダーなのだから当然だったが、それより上の役職の人間が来てなかったのは不祥事の上、自殺だからだった。

「遺書はあり、資料もあったということですか」

「そうです。いや、私に残された資料は、あのノート一冊だけです」

 それを「彼」に渡すように遺書に書いてありました。

「彼」は嘘をついたのですか。

「それは息子の望んだことです。あなたには申し訳なかったと思います」

 息子の望みの通り「彼」は事実を隠してあなたに伝えたのです。

いったい何なのですか。どうなっているのですか。

 私は語気を荒く問い詰めることをこらえることができなくなった。ヤマザキが手で私を制した。

 私は同じ質問をした。

「なぜ、息子さんはあんなことをして自殺したのですか」

「あなたには絶望を与える、と遺書にはありました」


二十六


 「彼」は、研究は成功し、会社としては何の問題もなかったと言った。だからヤスイの自殺については詮索しないということだろう。

 私にとっては、とんでもないひどい仕打ちである。ヤスイが資料と試料を奪ったために心血注いでいた研究が頓挫した。その後、一時心身を病み、キャリアは中断され、思いもしなかった分野に異動させられた。あれ以来、何か打ち込むということがなくなってしまった。

「ヤスイ君にそのような扱いを受けるとは思いもよりませんでした。その理由は何だったのです」

「息子はあなたを愛していた、と遺書に書いてありました」

 絶句した。そんなことは想像したこともなかった。ヤスイが同性愛者だとも思わなかったし、そのようなことも気づかなかった。

「息子は、勝手にあなたに恋慕し、勝手に振られたと思い込んだのだと思います」

 それは「彼」の分析なのだそうだ。

 研究リーダーの「彼」は、それを知っていたのか。

「息子は、リーダーには、自分が同性愛者であることを打ち明けていたそうです。リーダーと息子は研究上の秘密も共有していたとのことですから。これも遺書に書いてありました」

「男女の間でもストーカー行為みたいなとんでもないものもあります。しかし、振られたからといって相手を傷つけることは許されません」

「当然です。あなたには謝っても謝りきれません。息子は愚かでした」

 その愚かさは「彼」にも向かったとのことだ。ただし「彼」には「半分の希望を残す」とのことで、もう一つの研究班の資料には手を触れなかった。製法を記したノートを「彼」に託すことで、見込みのあった二つの班の研究のうち一つは残した。

 ヤスイは同性愛者で私に恋慕した。私は全くそれに気づかなかった。それを恨んで勝手に私の研究班の資料類を毀損した。そういう経緯なのか。そんな経緯なのか。

「その程度のことで、自殺するのですか。とても失礼な聞き方ですが」

「息子はエイズに感染していました。その当時は不治の病と考えられていました」

 私は言葉を失ったが、納得はできた。

 ヤマザキが口を開いた。

「もう四半世紀も前のことです。その時代は、同性愛などは名乗り出ることはできなかった。エイズも不治の病でした。現在では、政府から性的少数者への偏見や差別をやめるよう呼びかけられています。エイズは治療方法が確立されきちんと診断し治療すれば大した病気ではない、とまで言われています」

 ヤマザキらしくない固い口上だが、確かにその通りである。

「世界最大規模のIT企業の最高経営責任者が、自らが同性愛者であることを公表しています。その経営者は、性的少数者の権利向上の運動に多額の寄付を行っています。今、言っても仕方がないのですが、生まれる時代が違っていたら、ヤスイ君は、自分の性的な指向について悩まず、にすんだかもしれません。自らの指向を抱えたまま、周囲と調和して幸福な生活をおくる道筋を見つけられたかもしれません」「だから、時代が不幸だったと思います。いろいろなものが不幸な出会いをしてしまった。もちろんヤスイ君が行ったことは許されるものではありませんが」

 私も口を開いた。

「本日、おうかがいした理由は、自分で納得したかっただけです。筋は通りました。ありがとうございました」

「息子が行ったことは許されるものではありません。人様にご迷惑をかけ、救いのない人生の終わり方をしてしまいましたが、私にとっては唯一人の息子です。私があなた様に面と向かえば、謝るしかありません。しかし、息子を全て否定することはできないのです」

「ヤスイ君の貢献がなければ、会社として研究が成功することはなかったでしょう。その結果、生み出された製品は世界中で使われています。ヤスイ君の生きた証です。我々の会社だけでなく、世界中の人が大きな恩恵を受けています。ヤスイ君がいたからこそです」

「そう言っていただけるだけで、有り難いです」


二十七


 また、駅の近くの居酒屋である。ヤスイの家からオフロード車で高速を通って乗り付けてしまった。ヤスイの家を出てから道中はずっと黙ったままだった。

 まだ、のれんが出ていないが、入り口が開いていたので入った。

「まだ五時前だがいいだろう。若旦那、代行を頼むから、飲ませてくれ」

 ヤマザキは言った。

「代行は、八時から後でしか動きませんが」

「三時間ぐらいは飲んでやる。奥の席にしてくれ。とりあえずビール、生ビールだ。つまみは、いつものやつ。順に出してくれ」

 二人でいつもの店の奥に陣取った。ヤマザキは出てきたおしぼりで顔を拭きながら言った。

「どうかね、納得いったかね」

「ううん。筋は通ったが気持ちの整理ができない」

「まあ、飲め。ところで、お前、全然気がつかなかったのか」

「何に」

「まあ、ヤスイの態度とか、好みとか」

「思い返しているのだが、全く記憶にない」

「隣で爆弾が爆発しても気付かない男か」

 ヤマザキはある女性の名前を挙げて、覚えているか、といった。

「なんとなく聞いたことがあるような、ないような」

「クマヒラレポートは知っているだろう。その作成者リストのお前さんの次に名前が載っていた女性だ」

 何でここでクマヒラレポートが出てくるのだ。

「ううん、すぐに思い出せない」

「クマヒラレポートが作成された時、その異常を上司に訴えて会社をやめたとのことだ。そして、その後、公認会計士の資格をとって、海外の会計事務所を渡り歩いて、今度、うちの企業グループの財務部門の役員に入る」

「すごいね」

「この間、経営会議に呼ばれてね。そこで会ったんだが」

「はあ」

「その後の内輪のパーティで話したら、お前のことを覚えていた。それなりの好意は持っていたらしい。お前に」

「はあ」

「彼女の評価が『隣で爆弾が爆発しても気付かない男』だ。会計の異常にも気づかなかったろう。彼女の気持ちにも、そんな評価にも気がつかなかったろう」

「ううむ」

「それが、お前の罪であり、罰でもある」

 いつもの冷酒に移ったが、うまいのかまずいのかわからない。味がない。

 あのヤスイが資料を持ち出して死んだ日から、しばらくは、こんな色のない世界に生きていたような気がする。いや、今も。少なくとも仕事上は。


二十八


「しかし、性的マイノリティについては、よくヤスイの母親の前で、ああ言えたな」

「『性的指向及び性自認』なんて用語がすらすら出るのは、散々、研修やら講話をやったからだ。こちらは千人からの生産現場を預かっている。なおかつ多国籍だ。国内だろうが海外だろうが、差別やら人権関係のトラブルで評判を落とせば、会社が潰れかねない・・といっても別件で潰れかかっているがな、あははは・・」

 事実であるが、笑えない。

 ヤマザキは冷酒をあおった。

「そういうトラブル回避とか防御的な話でなく、生産性を上げるためにも、性別やら国籍・人種、宗教などの諸々の違う人間に気持ちよく働いてもらうために日々知恵をしぼってきたさ」

 手羽先をばりばりと食べながら、ヤマザキは言った。

「工場にはちゃんとイスラムの礼拝室がある。メッカの方向も示してある。食事は各宗派向けにタブーに触れないようにしてあるが、転勤してきた時に食事のリクエストを受ける。持ち込みも大丈夫としている。ベジタリアンもいるしな」「その一方、従業員間の差別は許さない。男女差別、人種差別、民族差別の一切を許さない」「今の製造現場は、それなりのエリートの集まりだから、アラブ系とユダヤ系も一緒に仕事をしている。中東でもめ事があると結構、微妙な雰囲気になるが政治的対立も職場に持ち込まないことで合意している」「そういう風にしなければ、いい人材は集まらない。日本人だけで作って、世界で売るなどというのは、もう無理だ。日本連合、オール・ジャパンなんて意味が無い」

 近頃、科学館が対象とする小学生も一割ぐらいは、名前にカタカナが混じったり、名字が中国系・韓国系だったりするが、そこまでの配慮はない。館内の表示は近年、日本語に加え、英語、中国語、韓国語にしたが。

「そうそう」

 ヤマザキは言った。

「この間、工場で紹介した張君、彼は同性愛者だ」

「娘を科学館に連れてくると言ったが」

「人種的には白人のパートナーがいて、難民だった女の子を養子にしている。ロヒンギャ族だったと思う」

 そんな個人的な事情まで、押さえているのか。

「彼の自己申告だ。会社に知って欲しいことがあったら申告するように、と初めて会ったときに言ったら、そう言った。彼はまだこちらの所属ではないので、正式な話ではないのだが」「その話は、彼から事前にお前にしておくように言われたから、言っている。今度、『家族』で科学館へ挨拶に行くそうだが、そういうことを事前に知らせておいてくれとのことだ。もちろん、個人情報にかかわることなので、他言はしないように」

 ヤスイもそういう環境だったならば良かったのだろうか。

「いや、敢えてカミングアウトしなければならないということは、それはそれなりにプレッシャーがあるということだろう。昔の日本で『和をもって尊しとなす』などと憲法に記さねばならなかったのは、和がなかった社会ということだよ。ゲイ・プライド、レインボー・プライドとして行進がされるのは、日頃、プライド、自尊心を剥奪されるような目に遭っているからだ、とも言える」

 今の状況は、わかる。現在の状況の説明としては全く正しい。自分がこだわっているのは過去の話だ。

 どうにもならないことは、わかっている。取り戻せないのも、わかっている。それでも、だ。


二十九


 それでも、日々は流れる。ヤスイの家を訪問して、ヤマザキと痛飲した翌日は休みをとった。事前に、ヤスイの家の訪問の結果がどうなるかわからないので予め有休を入れていた。

 娘が高校から帰ってくるまで布団の中にいた。

「お父さん、飲み過ぎだ。お酒くさい。お母さんに嫌われる」

 娘は、二階の寝室をのぞき込んで、そう言って居間に行った。

 私もようやく起きて、一階の居間に降りた。

「いやいや、飲み過ぎた。近頃は、酒の質がいいから頭痛はしないが、体に応えた。年だなあ」

「お風呂わかそうか」

「いや、後でシャワーを浴びる」

 遅く結婚して遅く生まれた娘なので、まだ高校生である。この下に中学生の男の子もいる。悩んでもかまわないが、日々の生活をやめるわけにはいかない。

「お父さん、ここのところ難しい顔をしていることが多いってお母さんが言っていたわよ。会社の方でうまくいっていないのじゃないかって心配していた」

「まあ、会社がうまくいってなかったのは、ここのところ、ずうっとで。お父さんは個人としては、特に問題ないと言っているだろう」

 台湾企業がグループを買収すると言うことで決着がついてからテレビのニュースに出ることも減っていたが、今日は最終的な買収条件が決まったとの報道がテレビでなされている。結局、企業グループは台湾企業が、一度まるまる買った後、解体とのことで、いくつかに分けられて残されるものと売却されるものが選り分けられるようである。

 日本政府からは雇用の維持と地域経済への悪影響の最小化が要望するとなっているが、まあ、売られてしまった後は、まな板の上の鯉で、されるがままとなるだろう。

 ヤマザキの工場は最新鋭なので残るはずだ。こちらの科学館は形式的には独立した公益財団法人であるが、企業グループからの委託業務や人件費補填がなければ立ちゆかない。命運はそろそろ尽きそうだ。

 近々に大きな発表がありそうだが、今度は、週刊誌や新聞ではなく、きちんと本社からの通知で知りたいものだ、と人ごとのように思った。


三十


 夕刊を取りに玄関に出た。寝間着代わりに着ているスウェットのままなので、できるだけ近所の人間と顔を合わせないように、新聞受けから引き抜いて玄関を閉めた。

 台所に持ってきて、広げると一面が、我が社の件だった。最も儲かっている製品分野が独立して新会社になるらしい。会長が買収した台湾グループの総帥の老人、社長が「彼」であるとのことだ。細かく紹介されている記事にヤマザキの名前もあり、よく見れば経営陣が並んだ写真の真ん中からやや外れたところにヤマザキの姿があった。

 昨夜はあれだけ飲んだのに午前中から出社か。ご苦労なことだ、という気持ちだったが、ヤマザキと自分の差を見せつけられたような気がした。画面の内と外か。

 テレビをひねると、夕方の情報番組の中で報道されていた。隅の方に女性の姿が見えて、なんとなく見た顔だと思った。クマヒラレポートに名前があった彼女だろうか。

 ダイニングテーブルに座っていると、娘が冷たい麦茶を持ってきてくれた。

「やさしいね」

「お母さんが帰ってくるまでに、シャワー浴びちゃった方がいいわよ」

「そんなに酒臭いか」

「窓は開けているから大丈夫だけれど」

 娘の姿をしみじみと見る。ずいぶん女らしくなった。中学生の一時期、科学館に通っていて、ヒロト君に熱をあげていたらしい。

 ヒロト君の結婚話を母親としていたら、機嫌を悪くしてすねたこともあった。

「お父さん、お父さん、まだ二日酔いなのか。もう夕方だぜ」

 背中から声がかかった。中学生の息子である。そろそろ、背丈は私を追い抜きそうである。

「まあ、いろいろあるんだよ。帰りが早いな。部活はないのか」

「もう中間試験前だからね。受験生でもあるし、ここまで部活をやっている生徒はもう珍しいんだぜ。中間試験が終わった後の対外試合で終わり。予選を通過しても本戦には出ない」

 息子は、自分の部屋があるのに、いつも台所で勉強をする。バッグから教科書を取り出しながら言った。

「中高一貫だったら、楽だったのにね」

「まあ、お父さんが公立中を勧めたからな。できるだけいろんな人間がいる学校の方がいいと思って。それになによりも家に近い」

「家に近いのがお父さんは好きだよね。科学館からも自転車で通える距離で戸建てを買って、ずっと自転車通勤だものな」

「近頃は、都心でも自転車通勤がはやっているぞ」

「戸建てに住んででは無理でしょう。政令市だけれども、そこそこ田舎のこの街ならではの、ゆとりのある働き方をエンジョイしている家族、ということですか」

「いや、お前が生まれたころ、一時期、徒歩通勤にしたのだがな。すぐに疲れて自転車通勤に戻した。この街は坂が多いんだ。四十歳過ぎれば君にもわかる」

「あと、二十何年か先ですな」

などと会話をしつつ、息子は鉛筆を削った。

「中間試験もなあ、ヒロトさんが家庭教師をやってくれたら無敵だったのに。もうシンガポールか。グローバルだねえ。ウチはローカルだけど」

 この息子もヒロト君に夏休みの自由研究を手伝ってもらった。

 娘・息子の二人が自立するまで頑張りたいとは思うが、さて、どうしたものか。

 一方、ヤスイの母親のことも頭によぎった。息子を失ってからの年月、彼女はどのようにして過ごしたのだろうか。

 自分が子どもを持つ前は、事故や事件のニュースがあってもどうとは思わなかったが、子どもができてからは、ニュースに胸が痛むことが多くなった。震災で子どもを亡くした親の話などは、全く耐えがたい。

 東北や熊本の震災時には、義援金を個人でも科学館でも出したが、それで生活再建はともかく当事者の喪失感がどうなるとも思えなかった。

 そうした喪失感にヤスイの母親は耐え続けてきたのだ。自分には耐えられない、としか思えなかった。

 そして自分にはどうにもできない。


三十一


  観光で来訪する外国人も増えてきたので、科学館では外国人向けのプログラムも組んだところだった。

  そもそも、二十年来、企業グループの現地従業員が日本に研修や会議で来た際に見学を組み入れていたのだが、近くのインターナショナルスクールの研修を受け入れ、さらに一見の外国人観光客向けにもプログラムを広げた。見学用の簡単なテキストも英語に中国、韓国語を加えたものを、ここ二、三年で準備した。

  東京からも、そう遠くないので、大使館関係や外資系の駐在員の家族からの見学の申し込みも多かった。こちらもパンフレットをつくって利用を呼びかけた。

  子どもは、午前中を科学館での座学と実験、午後は展示見学や体験をする。昼は隣接しているショッピングセンターからの弁当をとる。その間、親はショッピングセンターで買物と中のシネコンの映画で過ごす。親子ともに満足度は高く好評である。

 そうしたプログラムに張君の娘さんは参加したらしい。

 小学生向けの英語でのプログラムならば、それなりに力を入れた自信作である。アメリカにいたそうだが、限られた分野ならば、州レベルのサイエンスセンターなどには引けはとらない。

「張君の娘さんが、ほめていたそうだ」

 ヤマザキから科学館に電話がかかってきた。

「占領軍の奴らも、そちらに送り込むのでよろしく」

「送り込むって、どうするんだ」

「いきなり大勢で押しかけるわけではない。うまく占領を回すためには、現地の歴史を知らなければならない、ということだ。きちんと研修プログラムに科学館の歴史展示見学を組み込むさ。ちゃんと研修の委託料を支払う。俺が直接そちらと交渉するわけにもいかないので、窓口をきちんと立てた。そのうち連絡がいく」

 相変わらず乱暴な電話だが、用件はわかった。

 これで科学館の今年度の仕事と収入ができた。できれば来年も続いて欲しい、と思いながら、どのレベルの社員が、どのレベルの理解を求めてここに来るのか、よく詰めないといけないと考えた。

  歴史展示と学習・体験展示があるが、学習・体験展示は、子どもの科学への興味をかきたてることを主な目的としている。歴史展示は、企業グループの創業からいくつかの時代にわたる社会と創業者の活動をパネルと製品、製造機械を展示している。こちらは、外国人には珍しいが、ビジネスマン・ビジネスウーマンには、どんなものなのだろう。

 研修と絡めるならば、キャンプ・インと呼ばれる泊まり込みでやってもいい、と考え始めた。

  また、電話がかかってきた。

「あ、言い忘れたが、会長は、うちの創業者に心酔している。何年も前から科学館には複数回、行ったことがあるそうだ。この間もお忍びで行ったそうだ」

「えっ」

「うちの創業者の著作や言行録は台湾で翻訳されて広く出回っているらしい。台湾での創業の時から繰り返し本を読んで心の支えにしてきたと言っていた。重役クラスの研修で科学館の歴史展示を使いたいとか言っていたぞ」

「展示を本社に運ぶのか」

「いや、科学館でやる気でいるぞ。今日明日の話ではないが覚悟はしておけ」


三十二


「モノには旬の時期がある。青春期といってもいいだろう」

 いつもの居酒屋である。ヤマザキとは久しぶりに肩をならべている。世界的な企業グループの経営陣の一人のはずだが、焼き物の煙が流れる、あまりきれいとは言えない居酒屋のカウンターに良く馴染んで全く違和感がない。

 冷酒をあおりながら、何かの話の流れでヤマザキは言った。

「人にはもちろん組織にも、技術にも、だ。今、中国で多数の原子力発電所ができているが、中では技術の蓄積が次々となされているそうだ。一つ作ればそれだけ人も技術も伸びるような感覚をみんなが持てる。かつて日本もそうだった。多分、一九八〇年代。ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われていたころだ」

 それなりの正式な場に出て、一流のレストランや料亭で高級な料理も食べているはずだが、そんな感じには見えない。手羽先をバリバリとかみ砕きながら、話すのをやめなかった。

「それが、ある時期からうまくいかなくなってくる。歯車が合わなくなるというか、微妙なところでずれてくる。まあ、タガがゆるむというか金属疲労が起きるというか。五十にもなると、ある日、腕が方から上に上がらなくなるのと同じで、かつてと同じことをやろうとしてもできなくなる。打っても響かなくなる。個人も組織もだ」「だから、あるところで、何かの革新やショック、入れ替えは必要なのだろう」

 それが一般論なのかヤマザキの工場の経験なのかはわからない。また、それをどうこう言う能力も経験も私にはない。

「ただ、慣れてくると易きにつくから、なかなかそういう革新は起こせない、外からのショックも受け入れられなくなる。その場に居座れるならば居座ってしまう。それが年をとるということだろう」

 ヤマザキは指先を拭いて、また、冷酒をあおる。ここのところ、ヤマザキは台湾から来た会長について、国内の主要な生産拠点を回っていたはずである。 その途中で科学館にも寄った。

「会長はどんな感じだった」

「どんな感じと言われても」

「創業者だからね。まさしく今でも青春を生きている。打つ手、打つ手が当たる手応えの中を進む人の自信と明るさがある。もちろん世界的な経営者だから突出した才能と努力の人であることは疑いようがない」

 ヤマザキも見かけは別として才能と努力の人である。世界最先端の生産設備を更新し維持し続けている。見た目の派手さはなく一般世間では知られていないが、業界内では突出した存在である。マスコミなどには公表せず広報もしないが世界的な経営者が工場を訪れているとの噂は聞く。

 自分のような者と肩を並べて酒を飲んでいる時間は惜しくはないのだろうかと思うが、時々あちらから声をかけてきて今日もこの居酒屋で飲んでいる。

「そういう青春の人に付き合うのはつらいぞ。世界が違うから」

 ヤマザキは、いわゆる占領軍に対し一歩も引かない、との噂で「経営で負けても現場では負けない」と役員会で大見得をきったとも言われる。

 話の流れで確認した。

 そんなこと言うわけないだろう。経営と現場がそうきれいに分けられるわけないし、むしろ経営のダメさに現場はすぐ順応する。そういう兵隊は強いが将は弱い、みたいな捉え方はおかしい、と否定した。

 まあ、占領される側としては、こちらにもいいところがあった、と思いたいのはわかるがね。

「青春の人ではない我々は何なのかね」

「青春に続くのは、朱夏、白秋、玄冬だが。まあ、最後は暗い穴の中、だ」

「なんだ、それは」

「一度暗い穴をのぞいてしまうと、もう無邪気ではいられなくなる。がむしゃらな姿勢は保てなくなる。前傾姿勢、ファイティングポーズをとっても、前とは違う、腰の据わりが悪くなる」

 新しい事業をゼロからはじめるのを一とすると、古い事業を壊して新しい事業を始めるには倍の二のエネルギーがいる。古い事業が成功したものであればあるほど壊すのは難しい。それなりの成功体験をもってしまった日本企業が苦しむのは、そういうことだ。そして、その苦しみはそれなりの経験をしないとわからない。青春を謳歌している若者に高齢者の感覚が理解できないようなものだ。

 ヤマザキは、しみじみと言った


 三十三

 

 年が明けて「彼」が社長、ヤマザキが生産担当の役員となった新会社が発足した。一度、企業グループの中核の持ち株会社の子会社として組成され、その株式を台湾の企業グループが買い取った。

 科学館は企業グループの持ち株会社が基本財産を出して設立した財団が所有・運営しているので相変わらず元の企業グループ内にあった。科学館で展示している製品を造っている企業群は今やばらばらにされ世界中の企業やらファンドに売られていく。

 企業グループが解体されるならば、そのショーウィンドウでもある科学館の存続の意義はなくなっていくのは当然のことである。

 そんな身を削り取られていくような日々が続いていたが、年度替わりを迎える時期に持ち株会社から財団の廃止についての連絡があった。新会社の会長が個人として設立する財団に吸収されるとのことだ。

 ごく地味なプレスリリースが企業グループのホームページに掲載され、その添付メールが館長のアドレスに届けられ、そこから科学館内で回覧された。

「まあ、本社広報課の記者会見室で華々しく発表する話でもないだろう」

 館長はぼやいたが、行き先が決まって、科学館にはほっとした空気が流れた。

 新しい財団は、個人設立の財団としては大規模なものだが、アメリカのJ・ポール・ゲティ美術館のように新しく美術館を収蔵作品も含めて作ることと比べればたいした大きさではない。会長は創業者としてゲティ一族よりも資産額の大きい世界的な大富豪であるので全く問題とならなかった。

 現在の館長は持ち株会社の役員クラスの天下りだったが、歴代の館長の中では科学館の事業にも理解があり、副館長の私とも息が合った。

 正副館長で持ち株会社と新財団の窓口と交渉にあたったが、新財団がすべての費用を持ち出しでこちらの資産を買い取るので持ち株会社の了承は簡単にとれ、手続き的にもほとんど書類仕事で済む見込みが立った。資料や展示も細かく目録をつくっていたので、所管官庁と監査法人のチェックが入るとしても移行にはそう大きな困難もなさそうだった。

 問題は、新財団の運営方針である。今の展示や資料は旧企業グループのものであり、科学館の名前の企業グループの冠も、そのままというわけにはいかない。パンフレットなどの印刷物もすべて新しくする必要がある。

 科学館の近隣にオフィスが確保され、移行チームが専門家や外部の事業者も含めて組成されて新たな科学館の構想が練られた。台湾からも何人か来ているらしい。

 私の意見も求められ、長年、企業グループの広報か社会貢献かの間で引き裂かれてきた状況は説明した。会長の意見で、少なくとも三十年間は社会貢献に徹し、企業グループ創業者の業績の顕彰、資料の収集と保存、そして理念の継承としての科学教育事業に集中することが決まった。新興の台湾企業に日本を代表する企業グループが買収・解体されたことをあからさまにせず、これまでの歴史に敬意をもって対応するとの姿勢だった。

 それまでに様々な議論がなされたが、創業者の経営とその理念への会長の理解と尊敬は格別のものであり、また実際の経営にも生かされていた。会長は、創業者の全著作のみならずインタビュー・対談など関係する書籍や雑誌・新聞記事類を中国語に翻訳し出版する会社を台湾で立ち上げ、創業者についての研究会も運営しているとのことで、新たな科学館の構想策定メンバーはその会社や事務局から日本に派遣されてきた。

 その構想会議に出席すると、我々の企業グループが、ここ二十年ほど、その創業者の理念をいかに蔑ろにし、いかに表面的になぞってきただけだったかを思い知らされた。

「心技体、すべてあちらが上。負けに不思議の負けなし、と言うが、うちの会社がこうなった原因はよくわかった。参りました」

 会議の後に館長はよくぼやいていた。

 それなりに時間をかけて検討したので、一年の時間をかけて全面的に見直しをして開館するとの方針が決まった時には、「彼」とヤマザキたちの新会社が発足してから一年も経ち、年明けを迎えていた。

 その一年の間にヤスイの命日がきて、私は、またその前の年と同じように紫陽花の坂の上の家でヤスイの母親を訪ねた。線香をあげ、対面し身辺の状況を伝え、辞去をする、これも前の年と同じだった。


三十四


 春が来て、新財団への移行が終わった段階で館長は退任し、新たな館長には名誉職的な意味合いで日本人のノーベル賞受賞者が就任することになった。その下に、副館長が四名おり、統括が一名、創業者の顕彰・研究部門が二名、科学教育部門が一名である。創業者の顕彰・研究部門の二名のうち、一名は日本の在野の研究者、もう一名は創業者についての書籍類の翻訳・出版を担当していた台湾からの人材が充てられた。

 私は、科学教育部門の副館長の職を得られた。予算が大幅に増額されたため、部下に二名の部長級がつき、科学教育プログラムを思ったように拡充できそうである。年齢的には定年を過ぎるが、長期の取り組みを構想するように命じられている。

 オフィスのスペースが足らないので、科学館の対面にあるビルの三つのフロアと地下を借りて創業者の顕彰・研究部門とした。私には幸いだったのだが、元の企業グループの創業者の理念を絡めての研修は、そちらの部門で担当することになった。

 新しい館長と科学教育部門の副館長と私は、科学館のオフィスに居ることになる。私は、組織が変わっても相変わらずの自転車通勤である。会長にとっては、創業者の顕彰、研究に優先順位があり、創業者の哲学を関係する企業グループ全体に広げる拠点とする構想のために相当な負荷がそちらの部門にかかっている。予算・人員とも潤沢に確保されているので、順調に進んでいるようだった。

 一方、科学教育部門は、企業グループの広報の役割から逃れられ、小中学校や大学、行政機関ともかなり自由に交流が行える余力が得られた。海外の大学や科学教育施設とも連携がとれそうだ。

 二股、三股をかけることを勧めていた職員に対しても、業務への専念を言えるようになった。給与面では、私個人はそう変わらないが中間層に配慮が厚くされたらしい。

「新しい財団、科学館は、台湾企業グループよる日本の名門企業買収に対する日本国内からの反発を和らげる役割を担っている、との話もマスコミでは流れている。それは否定はできないだろう。しかし・・・」

 退任の挨拶で科学館の全職員を前にして前館長は言った。

「この前の休暇で高野山を家族で旅行した時に現地でそう聞いたのだが、空海はそこに金剛峯寺を開く際に、まず神社を造ったそうだ。今でもその神社は残っている。空海の現地へのあいさつとの意味だそうだ」

 寺や神社の縁起についての伝承は様々なバリエーションがつくられるので、本当かどうかはわからない、と注釈をつけながらも

「新しい財団と新科学館もそのような位置づけになるのだろう」

と続けた。

「高野山も今では世界遺産に登録されている。日本の大事な遺産であり、世界の遺産でもある。世界中から人が訪れる」

「新財団、新科学館が役割をその果たし、また、新会社が日本企業、また世界企業として、そのように永く愛されるようになることを願う」

 その挨拶の日をもって、旧財団は廃止、科学館は一年間の休館に入った。


三十五


 その年の夏の終わり、ヤマザキから入院したという連絡を受け、見舞いにいくことにした。千葉県にある海辺の最新鋭の医療と設備で有名な総合病院である。本人の声は元気だったが急ぎで会っておきたいとのことなので、その週末に足を向けた。

  それほど高層ではないが真新しい病棟であり、受付でICカードを渡された。ヤマザキの工場を訪ねた時を思い出した。これで見舞客の移動を全て把握し、コントロールするのだろう。エレベーターに乗るとヤマザキの入る病室の階に向かうと音声案内がなされた。自動でICカードを読み取る仕組みになっているらしい。

 ヤマザキが最上階の個室に入っているのは、それなりの大企業の役員だからだろう。エレベーターを降りてから、病室に向かう廊下についているラウンジも空港の会員制クラブ並みの造りで、天然木の天板をもつバーカウンターまでついていた。さすがに酒類はないが、紅茶、コーヒーは自由に飲めるようだ。窓からは、海が見え、遠くの岬の上に雨雲がかかっていた。

 廊下に両開きのドアがあり、前に立つと病室の番号を伝える声がして自動的に開いた。個室の前に立つとこれも自動的に扉が開いた。自動ドアではなく、廊下のドアと連動してICカードを読み取ったようだ。中の個室も通常の病院のものとは異なり、外資系のホテルの一室のようだった。

「よう、来てくれたか」

 若い女性がベッドの脇にいた。

「悪いがちょっと席をはずしてくれ」

 彼女は軽く会釈して部屋を出て行った。

「娘だ。まだ大学生だが」

 ヤマザキは軽く微笑んだ。私は、見舞い品を脇に置いて言った。

「急にどうした。顔色は悪くないようだが」

「お別れだ。残念ながらな」

 ヤマザキは、いつもの口調で端的に言った。

「余命一ヶ月とのことだ。癌が、あちらこちらに転移していて手遅れだそうだ。延命措置は拒否して緩和ケアに集中してもらっている。まあ、少し早いが仕方がない。人は誰でも死ぬ。致死率百%だ。そこはあきらめる」

 口調は、いつもと変わらない。ヤスイの残した資料について、渓谷沿いの道をドライブして工場へ行った時と同じである。

「ちょっと体調が悪くて病院に行ったら、いきなり入院で、ここに閉じ込められてしまった。だから、会社の人間にもここに来てもらって、いろいろ引き継ぎをした。風光明媚な所だが、本社や工場からは遠いな。診断は余命二ヶ月だったが、会社関係のいろいろで一ヶ月も使ってしまった。まあ、残りはプライベートで使わせてもらう。ということで、申し訳ないが来てもらった」

 あまりに急なことなので私には言葉が出ない。

「相変わらず反応が鈍いな。そうやって鈍いまま、いろいろなことをやり過ごしてきたし、これからもそうしていくのだろう」

「勝手に決めつけないでくれるか」

「まあ、そうしながらそれなりの所に転がるので、ある意味では恵まれている」

「人のことよりも、君のことを聞かせてくれないか」

「俺はな、病人が病気自慢のようなことをするのが大嫌いで、自分はそういうことをするまいと強く思っていた。いざ、自分の段になり入院したりすると、それなりにいろいろな経験があって、それを人に伝えたくなるのはよくわかった。といって、その経験によって人間が偉くなるわけでなく、今までの主義を変える気もしない。だから、自分の病気のことは最小限の言葉で伝えたいと思う。余命は、あと一か月、冬まではもたない」

 最上階といっても六階建ての病棟なので窓が開く。九月の秋の訪れを感じさせる風が入ってくる。海の香りは強くはない。

「この六月、ヤスイの家へは行ったか。ご母堂は元気だったか」

「もう年だが、元気だった」

「そうか、来年はよろしく伝えてくれ」

 何を、だ。


三十六


 ヤマザキは続けた。

「まあ、別れが言えたのは幸いだ。癌はそう悪い病気ではないな。こうなって言うのはなんだが、長患いをして散々迷惑をかけるよりも、これぐらいの期間で死ねるのは幸運だろう。自分としては満足だ。欲を言えば、もう少し娘と長く過ごしたかったが」

 顔色は悪くないが、体の起こし方が中途半端である。体にかかったタオルケットの盛り上がりが不自然なのは、やはり病人だからだろう。

「さて、別れの言葉を言うだけで呼びつけたのでは失礼だ。大切な頼みが一つある」

「なんだ」

「クマヒラレポートのことは覚えていると思うが。お前さんが作ったレポートだ」

「クマヒラ氏のグループの下っ端で作っただけだが」

「ただ、俺の話は、その件ではない。俺もこの一か月で似たようなレポートを一つまとめた。会計ではなく品質管理の問題についての告発だ。もちろん新会社でなく元の企業グループ関係だ。直接、関わったわけではないが、かなり良くない」

 かつて、企業グループ横断で品質管理を向上しようという動きがあって、その際に、ヤマザキが他部門の管理のお粗末さを正面から言挙げして取締役会レベルで問題化した。品質管理は、それぞれの部門ごとの責任に戻されたが、対策はうやむやになり、欠陥は是正されなかった。その杜撰な管理体制が続いて品質に問題のある製品が出回っているとのことだ。ヤマザキの指摘は生かされず、企業グループ内の「和」が優先されたらしい。

「元の企業グループは、もはや解体されているぞ」

「相変わらず生産は続けているだろう。製品は世界に散っている。端的に言えば地雷をばらまいているようなものだ。それについてのレポートだ」

「俺にどうしろというのだ」

「お前さんが先頭に立って糾弾しろというのではない」

 本社へ行ったときに「彼」の秘書にトモミツという女性がいたろう。彼女が中心になって、コトを正そうとしている。お前さんにクマヒラレポートを見せた新聞記者も、今は退職してフリーのジャーナリストになっているが、協力している。

「重大な品質上の問題を組織的に隠蔽してきた。その証拠ともなるものだ」

「ヤマザキレポートということか」

 別にお前に冒険をしろということではない。若い人間はそれなりに鍛えてある。俺がいなくなっても大丈夫だ。

 トモミツには何かの時にお前に頼れと言ってあるが、大丈夫、彼女とその仲間は強い。さらに後ろに味方もついている。クマヒラレポートに名前があった今は持ち株会社の財務担当役員をやっている彼女だ。

「それでも、だ。何かの時には、よろしく頼む。科学館は傍流も傍流なので、いざというときの隠れ家にちょうどよい」

「了解した、としか言いようがないな」

「悪いな」

 ヤマザキは、話を続けた。

「ところで、張君の娘さんは、科学館に行っているか」

「科学館の名前が変わる前に三度度ぐらい来て、新科学館になってから、長期プログラムに参加している」

「これも、張君に言っていいと言われているので言うが、彼はパートナーと別れて今度女性と結婚するそうだ」

「女性と、か」

「そうらしい。すなわち彼は、バイセクシャルということだったようだ。一時期、トモミツとも付き合っていたようだが、トモミツは品質不正の告発に身を捧げるとのことだ」

「はあ」

「俺は仲人を頼まれたが、ちょっと無理そうでな。お前はどうかと考えたが、会長が引き受けるそうだ。で、張君の娘さんの具合はどうかな」

「いや、特に問題はなさそうな、明るい優秀な子だ。何か変わったとの報告もない」

「ならば、いい。しかし、男女かかわらず、色恋の話はどう転がるか俺にはわからない。死ぬまでわからないだろう・・・もうすぐ死ぬし」

 笑えない。

 ヤマザキも私も少し黙り込んだ。秋風は心地よく窓から入ってくる。

「もう一度、あの居酒屋で飲みたかったな。それなりの所で色々飲み食いしたが、あそこの酒、肴が一番、俺に合った」

「若旦那と娘さんに何と言う」

「よろしく伝えておいてくれ。そうそう、俺の葬式はだな・・」

「縁起でもない」

「余命一か月と言っているだろう。既に、会社の方で準備をしている。家族だけでやりました、というのもいいのだが、線香を上げる人間が家の方に五月雨式に来るのも迷惑だ。まとめて、やれるところでやるようにした。お前は来ても来なくてもいいが」

「行くよ、俺は」

と言って、とんでもない会話になっていると思って口ごもった。

「葬儀会場は本社の近くだ。まあ、その帰りに、あの居酒屋に寄ってくれ。自宅への帰りの途中の駅の近くだろう。来年の夏は、若夫婦の上のお子さんの自由研究を見てやってくれ」

 その来年には、ヤマザキはいないのだ。


三十七


 再び巡ってきた春、一年間の閉館を経て、科学館は内装を一新して開館し、新しい科学教育プログラムが開始された。それを軌道に乗せるのが私の主な仕事となった。

 開館を迎える直前に、旧企業グループの製品の品質偽装が発覚して社会的に大問題になった。

 クマヒラレポートが不正会計が少なくとも二十年前からなされていたことを暴いたように、ヤマザキレポートは品質偽装が数十年前から行われていたことを指摘していた。会社と業界への長期の悪影響は避けられない、世界中で裁判が起こされることが予想された。

 「彼」の新会社の製品は、元の企業グループに残った製品群とは系列も違い品質管理も全く別手法でなされていた上に、台湾企業に株が引き渡される際に徹底的なデュー・デリジェンスを受けていたので問題とならなかった。ヤマザキの品質管理に加え、張君のチェックが厳しくなされていたことが、功を奏したといえるだろう。

 ヤマザキレポートはあちらこちらで参照され、品質偽装の「闇」を暴くのに利用されたが、レポートの存在と作成者が直接言及されることはなかった。

 そのような状況がヤマザキやトモミツ女史の本来の意図と合っているのか、いないのか私にはわからない。トモミツ女史からは、何の連絡もないので、いざという事態にはなっていないのだろう。そうなったとしても私にはできることは思いつかないが。

 新しい科学館も名前もロゴも変わっていたため影響は受けなかった。

 ノーベル賞受賞者でもある科学館の新館長は、名誉職的な扱いかと思われたが、館長室にいることが多く、中高生の研修会の挨拶や実施の立ち会いまでするようになった。国の研究機関の長をやっていたが、研究不正があり、その責任を問われた際にずいぶんといやな思いをしたそうだ。

 関係者からは、老害との悪評もずいぶん聞こえたが、いずれにせよ、研究機関と本人の相性は良くなかったようだ。

「研究は好きで選んだ職業だが、組織の運営なんてやったこともないし、やりたくもなかった」

とぼやいていた。ノーベル賞をもらった研究は三○代のころのものであり、国の機関の長になる時に研究は整理して弟子たちに任せてしまったので、出る幕はない。好きにやらせてもらう条件で館長になったとのことだ。会長との約束で科学館に関係する動きならば大概の支出は認められる。

 そうは言っても開館以降、一応は常識的な動きをしていてくれる。

 この間は、ヤマザキと行っていた居酒屋にも二人で行った。二十一世紀に入ってからノーベル賞受賞者も増え、館長は見た目はただの高齢者なので今は、大学や研究関係者でなければ、そうはわからない。

 二人でカウンターに座り、いい加減、酔っ払ったところで言った。

「若旦那、大きな声では言えないが、この人、ノーベル賞受賞者」

「はいはい、わかりました。この間は中国の大富豪もお連れいただきまして」

「いや、あれは台湾」

「こんな汚い居酒屋に申し訳ないと思います。偉い方をたくさんお連れいただいて。でも、あれ日本人でしょう」

 会長は日本語が流暢なのだ。

「まあ、大富豪は、手羽先をいたく気に入っていたがね」

 館長は、にやにやして黙って冷酒をあおった。

「今度、シンガポールの大学教授も連れてくるよ。そちらは日本人だけど」

「へいへい」

 連れてこられないのは、ヤマザキとヤスイか。張君は、まだ新婚なので、もう少し様子を見てみよう。

 月末には、また、ヤスイの母親の家にいかなければならない。今年は好天が続いているが紫陽花の咲き具合はどうだろうか。

 これまでの自分のこれまでを振り返ると、これはこれで幸せな人生なのだと思えるようになった。

 科学教育という、世間的にはあまり知られてない分野で、それなりのネットワークも築けている。

 大学で、学問的な業績を上げたからといって、教育者として優れているとは限らない。一方、科学にも洞察があり、教育にも優れた教師は、小学校の教諭にも多数いる。多くの尊敬できるそうした人達と交流できたのは人生の幸福といえる。

 環境はいろいろ変わったが、人にも恵まれている。そして、まだ次の世代を育てるという仕事はある。それが私の新しい仕事だ。

 日々は平穏に過ぎていく。

 しかし、ヤスイに対してしたように、何かひどいことを自分が気がつかないまましている、または、してしまったのではないかと、時々疑いを感じる時がある。気づきのなさが、私の罪であり罰だとヤマザキは言った。具体的なことには思い当たらない。 また、時として、その不安はふと胸を過るのだ。

 もうひとつ、逆に、自分は気づかないうちに悪意を向けられ貶められているのではないか、との疑いもないわけではない。しかし、それは考えないことにしよう。新しい仕事が自分を待っていることに感謝したい。

 

(了)


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