少年と絵画
朝焼けすら見えぬ隔離されたこの世界で、ここの住民達は細やかに生活を営んでいた。
あるものは毎朝同じ時間に目を覚まして、良い香りのするフランスパンを作り周囲に配ったり、またあるものはお手製の木製の椅子に座りながら、迫りくる巨大な穴を酒の肴にし、泥酔し続けていた。今まで塔を蝕むように迫る穴から離れることに精一杯だったカゲリが、どのようにして周囲を観察する程度に落ち着いたかというと、大穴から逃げ続ける最中で、巡り会った偶然によるものだった。
「ちょっとカゲリ君、こっちを見てよ!」
名前を呼ばれたカゲリは気怠そうに呼ばれた方向へ振り向くと、そこには元がどのような配色だったのか想像するのに難しいほど絵の具で汚れたエプロンを着た1人女性がいた。彼女はマドカという名前らしい。
「君はこの場所に留まるつもりがないのは十分理解しているよ……だから時間が勿体無いよ!……約束を守ってよ」
飲まず食わずで塔を登り続けたカゲリは途中で行き倒れた。それを救ったのがマドカだった。マドカはカゲリに暖かいコーヒーと焼きたてのフランスパンをご馳走したばかりでなく、この世界の仕組みを子供であるカゲリに優しく教えた先生でもあった。夢中で食事を頬張るカゲリを眺めたマドカの表情は優しくもあり、悲しげだったのだが、カゲリはそれを知らない。なぜなら食事に夢中だったからである。
「お姉さんのお願い聞いてよ……」
今にも泣き出しそうな表情で懇願するマドカの姿は、とても20代の女性だとは思えないほど幼く見えた。まるで妹ができたような錯覚に陥ったカゲリは仕方なく、マドカの方を見、身体を固めた。
「えっぐ……えっぐ……」
目を腫らしながらも筆を止めない彼女の姿は、自殺した世界に置いてきた母と重ねた。
「ねえ、お姉さん。ぼくのお母さんは今どうしていると思う」
「……たぶん、今の私みたいにこれから永遠と悲しんでいるんじゃないかな?」
「自殺は悪いこと?」
「……悪くないよ」
マドカは本心しか言えない。というよりも、この世界では本心しか言えないのだ。ここには嘘という概念は存在しない。マドカ曰く、ここが天国だかららしく、カゲリはその問いに半信半疑だった。
「だって、ここは天国だから。」
ここに住む住民の全ては自殺者だ。あるものは眉間にぽっかりと穴ができ、またあるものは、お腹にナイフを刺したまま暮らしている。カゲリの首に巻かれたロープも、つまりはそういうことなのだ。
「マドカはどうやって自殺したの?」
カゲリは子供だから、土足で他者の神聖な領域に足を踏み入れることができた。子供はいつだって他人の家に土足で上がり込むものなのである。
「それはまたこんど教えるね。カゲリくん、そろそろ座り疲れただろうから遊びに行っておいで。わたしも腰が痛くなっちゃった」
そういうとマドカは道具も片付けずに、いそいそと部屋の奥へと逃げるようその場を立ち去った。
カゲリはマドカの自殺理由が気になって仕方がなかった。ほかの住民は身体になんらかの自殺の痕跡があるのに、マドカにはそれが一切なかった。
この世界には娯楽となるものがほとんど存在しないことをカゲリは知っていた。当然、マドカも。
この世界においての遊びとはいったいなんだろう。カゲリは常にその答えを探していた。ある時はじりじりと迫り来ているであろう大穴に、塔の一部であったろう朽ち果てた煉瓦の破片を放り込み続けたり、またある時は煉瓦の壁に住み着いた朝露を纏う苔を観察したり、毟ったりした。人の観察も飽きる程やったが、わかったことはみんなが現世で自殺をした経験があるということだけだった。




