第八話 「どこにもいない」
NOW HERE 〜傍観者〜
第八話「どこにもいない」
朝の七時二〇分。校舎内の窓に日の光が差し込み、照らされた椅子を引く。前から四番目。右から数えて三番目。席替えをしてまだ慣れない席に腰を下ろした。教科書と本が入ったバックを机の横に置く。ドスッという鈍い音が教室内で響く。凝っている肩を軽く回し、首を横に曲げると骨の音が高らかに鳴った。首を回したついでに教室を眺めるが、この時間帯には誰もいなかった。近頃、早く起きるのが習慣されてしまったため、以前より数十分早い時間に登校することにしたのだ。バックを開け、そこから出したのは文庫本。使い古された紙のカバーで表紙は見えないようにしてある。丁度真ん中くらいに挟まっている栞を頼りにページを開く。栞をはずして、上下に並ぶ小さな活字を読んでいった。これが自分の一日の始まり。
本を読んでいると、時計の進行が全く把握できなくなる。知らないうちに数十分が経過していて、辺りを見回せば朝から汗を流しながら着替えをする運動部員、机に向って今日の国語の授業にある漢字テストの勉強に取り組んでいる人など、クラスの密度は少しずつ増えてきたようだった。真中に席がある自分は、教室の中心にいるというのに、どこか違う世界にいるような錯覚に陥った。何故だ。何故こんな気分になるのだ。それは今に始まったことではない。ここ最近、そう自然と感じられるようになったのだ。
あれから数日が経った。自分はいつも通りの一日を過ごしていた。客観的に見ると自分の一日は大きく変わっている。小早川とも夢宮とも話さなくなったのだ。これは自分とは関係のない話なのだが、小早川は孤独に耐えられなかったらしく遂に夢宮に話しかけたようだった。きっと頭を下げたのだろう。既に夢宮の周りで騒がしく集る人はもういない。もう何の問題もない。小早川が付き合ったことに感動し過ぎてはしゃぎわめいたこと、自分を一方的に疑ったこと、机を蹴とばしたこと、それらの愚行を反省して謝ったのだろうか。そこら辺のやりとりは分からないが、教室の右端の席で仲良さそうに話している二人の姿が見える。クラスの人も騒がないし、堂々と付き合っているようだ。おめでとうと言ってやろう。
―――いや、そんな言葉を言う機会は無い。小早川も夢宮も、当然クラスメートも自分に話しかけることは一切なくなったのだった。読書の時間が増える。自分にとっては何も問題が無かった。むしろ好都合と言っても良いほどだった。いつものように活字を追って、一日の終わりには日記を書く。そんな充実した毎日を送っている。
八時四〇分。担当の先生が号令を促す。号令係なる人が「気をつけ、礼」と言う。ガラガラと椅子を引く音がする。全員が座った。教卓の前で先生は幾つかの連絡を生徒たちに告げる。どうでもいい内容だった。生徒会が委員会の人を召集している。文化祭実行委員会がはたらく季節か。文化祭をより楽しめそうな委員会に見えるが、実際はただ仕事を任され、自分自身は文化祭の表にほとんど顔を出せないという損な委員会である。それをよく知っていた自分はなんとかこの委員会に入らないで済んだ。まぁ、この委員会に入らなくても文化祭には参加しないで適当なベンチで読書をするわけだが。
朝のショートホームルームが終わった。次の授業はなんだっただろうか。まぁ、何でもいい。教科書ノートはいつも机の中に入っている。先生の顔を見てから準備をしても遅くはないだろう。漢字テストなど、どうにでもなる。バックの中から文庫本を取り出した。また栞をはずして、気になる続きを読み始めた。
受験に関係ない授業は机の下でこっそり本を読んで過ごしていた。六時間授業はあっという間に終わり、すぐに帰る準備をした。帰りのショートホームルームも適当に聞き流し、礼を揃ってしたあと、椅子を机の上にあげて後は掃除当番に任せる。よし、帰ろう。
やはり帰り道には誰もいなかった。大抵の生徒が部活動に励んでいるからだ。歩きながら本を読む。これもまた日常。少しの物音がすれば顔を見上げて、何者かの邪魔にならないように端に寄る。安全のためにだ。また、曲がり角を曲がろうとする時も顔を上げる。いつものポイントで顔を上げ、ミラーを見ることなく曲がろうとしたその時だった。顔を上げていなかったら間違いなく正面衝突していただろう。曲がってすぐ、一歩二歩体を後ろに背けて後ずさりした。目の前にいたのは夢宮だった。そのまま気付かずにぶつかって彼女の体温を感じ取っても良かったかもしれない。・・・おっと、それは小早川の発想だった。
「水谷君・・・」
夢宮の可愛らしい口が微かに動く。正直、驚いた。一つ呼吸を置いてからこの状況を判断することにした。夢宮が曲がり角で何かを待っているかのように立ち伏せているのだ。小早川を待っているのだろうか。この時間帯に学校から離れるのは自分と夢宮と小早川の三人くらいだから。
「小早川を待っているのか?」
「いえ・・・」
そうなると夢宮が何故ここで立っているのかが不明だ。しかし消去法的に自分を待っているとしか考えられない。
「どうしたんだ」
「・・・少し話したいことがあるの」
「はぁ、そうか」
あれからずっと夢宮と話していなかった。彼女が何を言ってくるか、想像がつかなかった。だから彼女が自分に話しかけてきたということだけでも驚きのはずだった。だがしかし、この夢宮はどこかいつもと違う雰囲気を漂わせていた。少し真剣さを帯びた表情、冷静な口調でセリフを述べている、そんな気がした。どこか自分に対する威圧を放っているようにも感じ取られる。
「小早川君のこと、本当に友達じゃないって、思ってるの・・・?」
「・・・」
その威圧的な夢宮はすぐさま破綻した。夢宮は途端に目を潤わせたのだ。か細い声で途切れ途切れにそう尋ねてくるのだ。何故だか言葉が詰まる。はっきりと「違います」と言えばいいのに、どうしてかその言葉が喉の前で止まっている。一向に自分を喋らせてくれない。何かが自分の発言を止めている。何も返答しないでいると、夢宮はもう幾つか質問を重ねてきた。
「じゃぁ、何でそんな寂しいコト考えているの・・・? いいじゃない。友達でも、信頼しても。仲良く一緒に、さ・・・」
この間日記に書いた内容を思い出した。自分は裏切られたくない。だから元より他人を信じないし、友人だとも思いもしない。友達とは何だろうか。ただのクラスメート、一緒に過ごしている人、他人、所詮そんな存在でしかないと見なしていた。いつの日か、それが常識になっていった。当たり前のように感じていた。だが、日記を書いているうちに思い出してきた。自分は裏切られたくないからこうしているのだ、と。他人を信じる、少しだけでも心を委ねる、幼き頃の自分を振り返ってみた。
・・・なんて静かなのだろう。何の音もしない。天気は曇り。少しだけ涼しい。一度夢宮の目を見つめてしまったのが間違いだった。自分の目はそこで固定され、二人見つめ合うことになってしまった。きっと彼女の目には自分の顔が、自分の目には彼女の顔がくっきりと映っているのだろう。彼女の目はまだ潤っている。
「小早川君・・・すっごく悲しんでた。水谷君とは友達だって思ってた、って」
「・・・」
「小早川君、とっても真っ直ぐな人だよ・・・。だから、絶対裏切らないよ、だからさ・・・」
信じてみたらどうか、と言いたいのだろうか。ついに自分は目線を下に向けた。夢宮のスカートと黒いニーハイの間にある綺麗な脚が目に映った。でも何とも感じなかった。ただ目線が下りていっただけ。
「この日記、水谷君のでしょ?」
その言葉に反応した。条件反射のように自分は顔を上げた。脚、スカート、腰、腹、胸、そのあたりに、携帯電話を持つ手があった。焦点を合わせてみる。その日記、確かに自分の日記である。小さい画面に映っている内容は、以前自分が過去について書き綴った内容だった。これをどうして知っているのか、これまた反射的に尋ねた。すると答えは簡単だった。彼女もまた、そこのコミュニティの参加者だったからだ。自分は身元バレを防ぐための策をとっていなかったため、プロフィール欄に名前こそ書かないものの、年齢やある程度の地域に住んでいることや学校までも書いてあったのだ(ユーザー登録するときに面倒くさかったため)。
「裏切られたく・・・ないんでしょ?」
「・・・」
「小早川君も私も、裏切りなんかしないよ? 昔の水谷君みたいに、私たちを信じてよ・・・」
それから、自分が無言を保っている内に夢宮は何度もそれを繰り返した。何度かなど数えてはいない。だが、明らかにそれはしつこかった。自分の有意義な時間が奪われているとさえ感じるまで、それは一向に終わりを見せようとはしなかった。自分は遂に揺らいでいた心境をはっきりさせ、本音を打ち明けることにした。
「だから、自分は君も小早川も最初から友達だとは思ってないんだって。勝手に友人ぶるな」
それが自分の真の本音だった。次に無言になったのは夢宮の方で、何の音も聞こえなくなった。自分はわざとらしくそっぽを向いてみる。女が黙るのは気味が悪い。そして恐い。どんな展開が待ち受けるのか想像できないからだ。
「何よ・・・」
自分はその声でそっぽを向くのをやめた。夢宮が発したとは思えない、深く沈んだ声だった。
「水谷君こそ、裏切り者じゃない」
「・・・」
「小早川君の気持ちを踏みにじって。何が自分は裏切られたくない、よ。自分さえよければ他人はどうでもいいてこと?」
「・・・」
「もういいよ・・・。酷い、酷いよ。・・・じゃぁね」
夢宮は肩を落とし、バックを体の前で持つという基本姿勢をつくると、後ろを向いて駅の方へと向かって行った。自分は、追いかけはしなかった。そこで一歩たりとも動かなかったのだ。きっと自分はその場で立ち止まっていたのは、夢宮の後ろを歩くのに気が引けたからだけではなさそうだ。
次の日から、本格的に二人は自分に話し掛けることはなかった。どうやらこの先まだ長い高校二年生の生活で、彼らとの関わりは全く無いと言い切ってもいいくらいに感じられた。またこの前のように、夢宮が曲がり角で待ち伏せているという摩訶不思議なコトも起きないだろう。水谷が自分に助けを求めてくることも当然ながらにしてない。このクラス内で自分が話し掛けられることは全く無いと断言してもいいとさえ思われるくらい、それは絶対的なものであった。だが別に、彼らが自分に寄り添ってこないところで自分の生活に何の影響も及ぼさない。ただ自分は読書をしているだけだった。
だが、何だろうか。
何か、この胸のあたりで残る蟠りのようなものが―――
これもまた、消えてなくなることはないのだろうと、絶対的に予測できた。
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