第五話 「何も変わらない」
NOW HERE 〜傍観者〜
第五話「何も変わらない」
「おい、水谷くん・・・どうしたんだ?」
そう言ったのは恐らくクラスメートであろう男子。エナメル性の白いバックを机に置いてから自分の方へ駆け寄った。しばらく困惑のために体を全く動かせていない自分の姿を見て、気が利くことに倒れた机を元の位置に戻してくれた。
「今、小早川とすれ違ったんだが、アイツが机やったんだよな?」
「あぁ、そうだよ」
困惑して何も話せなかっただけで、恐怖により硬直していたわけではない。確かなイントネーション、流暢な日本語で返答した。
「アイツ・・・頭大丈夫かよ・・・。高校生にもなって。付き合ったからって調子乗っているよな。いつもは下位の層にいるのに」
まさか同級生に「高校生にもなって」と批評されているなんて小早川は想像していないだろう。自分もこんなことを言う人を見られるのはこれが最初で最後だなと思った。名も分からない彼は小早川が出て行ったドアを向いて言う。それに、その彼といつも一緒にいる自分の前で言うべき言葉でない文句までしっかり添えてくれた。突っ込みを思わず入れたくなったが、どうでもいい反論なので口を慎むことにした。それは事実であるのだ。自分たちはいつもサブキャラだ。集合写真の端っこが似合う、クラスメート。
「この机は誰がやったんだろうな。ま、きっと女子だろうな。夢宮が可愛いからって理不尽にも憎んでいたよ。それで小早川なんかと付き合うから、馬鹿にする意味でこんなことをしたのかな。くだらない」
おそらくその仮説は正しいだろう。全くもって下らない話だ。しかし、何故彼と夢宮が付き合っていることが漏れたのかは謎のままであった。先日、宿題の取り組み中にそのことを噂する人の会話を聞いて感じたものと同じだった。何で勝手に自分が濡れ衣を着せられなくてはいけないのだ。夢宮が言ったのだろうか。いや、付き合ってから数時間後の昨日、学校を休んでいたのでその可能性は低い。舞い上がっているうちに小早川が知らぬうちに誰かに言ったのかもしれない。まぁ、どうでもいいや。自分は机に座って本の続きを読み始めた。彼は「大丈夫か?」と聞いてきたが、「うん」の二文字でも満足したらしくエナメルバックを置いた机に戻っていったようだった。椅子を引く音が聞こえる。
学校が機能し始めた。朝の号令が何気なく始まり、教師は小早川と夢宮の欠席を不思議がるような顔を見せた。夢宮はこれで二日連続の欠席だった。後ろの人がクスクス笑っている。耳障りだ。そう思いながらも一字一句正確に耳に入ってくるのは近頃自分がおかしいからであろうか。「駆け落ちでもしたんじゃね?」とか言っている。彼が教室を出て行った理由が本当にそれならば、将来ブログか何かのネタとなって役に立つだろう。
それからは普段よりも落ち着いた一日を過ごすことが出来た。ページをめくる手が忙しなく動く。有意義な一日となりそうであった。偶然にも今日読んでいる本は分厚い小説だったために一日で読み終えることなく、学校生活のあらゆる暇をつぶしてくれていった。久しぶりの体験だったため、極上の気分だ。風呂上り、マッサージチェアに座りながら読書をしている時くらいの至福に感じられた。
あっという間に次の日だ。自分の行動は学生として決められた行動と暇つぶしの読書と夜に日記を書く以外は何もない。無駄が一つもなかった。夕飯を食べた、お手洗いに行った、風呂に入って体をふき、歯を磨いて眠りについた、など定着した習慣など描写する必要もないだろう。文章に表すまでもなく、次の日がいとも簡単に訪れるのである。
しかし自分の至福は「日々」に修飾することなく途切れた。朝、偶然にも登校している夢宮を発見したのである。ゆっくりと歩いている夢宮を追い越したのだ。横目で見た彼女は一層沈んだ表情であった。体調不良を訴えて保健室に駆け込む仮病常習犯のような顔。でもこれは偽りのない顔だった。夢宮は自分の袖を掴んで自分の足を止めた。あまりにも突然の行動に、自分は本から目を離して彼女の顔をじっと見ていた。
「私・・・どうしよう・・・・・・」
森の中で食糧も尽きて道に迷った赤ずきんちゃんのようにか細い声を出す。最初は予言者かと思った。学校では既に夢宮と小早川が付き合っていることが知られている。それを避けていた夢宮が憂鬱そうな顔で途方に暮れていることを示すセリフを吐いたからだ。当然、どうしたのですか、と聞く。予言能力を手に入れたの、という新しい展開など毛頭期待していないが。
「私、実は一昨日学校に行っていたの・・・」
一昨日と言えば、彼が付き合ったと朝っぱらから自分に自慢していた日だ。何故教室に入らなかったと問うてみると、
「実は、一昨日の朝、廊下でクラスの女子に・・・その・・・色々言われたの・・・」
夢宮は実に言い辛そうにそう言った。「色々言われた」を「いじめられた」と解釈してよいだろうか。昨日の名前も分からないクラスメートが自分に言った仮説は確かであるようだった。もともと嫌っている女子があまり顔の優れない男子と付き合ったのをいいネタにして馬鹿にしてきたのだろう。人にバレることが嫌だと言っていた彼女にとってこれはあまりにも酷な現実である。
「やっぱり・・・小早川くんが言ったのかな・・・」
「分からない。何で皆知っているのか自分も知りたいくらいだよ」
「・・・小早川くん・・・・・・酷いよ・・・」
こんな言葉を聞くだろうとは想像もしていなかった。もちろん、僕が夢宮たちと話している時以外に彼女らのことを考えることはほとんど無いのが大きな理由ではあるだろうが。きっと夢宮は自分がクラスメートからどういう目で見られているのかを知っていたのだろう。自分は昨日、小早川と入れ替わりで入ってきた名も知らぬクラスメートAの仮説を聞くまで何も知らなかったというのに。彼女はクラスメートから良い目で見られていないことを悟っていて、小早川と楽しく話していると小早川にまで非難の目が向けられることを想定していたのかもしれない。ましてや恋人の関係になったらどうなるか。いや、そうだとすると「酷いよ」の発言は出てこないか。結局こんなに性格の良い可愛い子でも自分自身のことばかり考えているのだなと興ざめしていると、
「小早川くん・・・何か言っていた?」
夢宮は自分にそう問いかけた。とりあえず歩きましょうと提案してから、自分は答えた。
「うん。水谷が言ったんだろ、って一方的に。机を蹴とばして帰って行った」
「・・・・・・」
無言の返事が間を埋めた。その後、自嘲するように夢宮は一人話し続けた。高校に入学する前から何人もの人に告白されてきたが、真剣に付き合おうとする男は誰一人といなかったこと、だからと言ってすぐに断ろうとすれば女子からは僻まれ、受動的な行動しかできずに毎日が息苦しかったこと、だから騒がしい人とは関わりを持ちたくなかったということ。
「小早川くんは違うって思ってたのに・・・。机を蹴るなんて・・・」
「まぁ、人間にはそう一面もありますよ」
度々敬語をいれたりいれなかったりするのは、まだ自分が夢宮の扱いに慣れていないからだ。そう言って自分はポケットに手を突っ込んで、近くに見える学校の天辺あたりを見た。そして学校に着いた時、下駄箱に前に来ても夢宮は自分の靴を脱ごうとはしなかった。前に持ったバックを両手でつかみ、やはり目を下に向けているだけ。そうかと思うと、番号の若い方の下駄箱を開いた。小早川の下駄箱だった。中には少し古臭く、使い込んで廃れた靴が置いてあった。いつも彼が履いている靴。
「来てるんだ・・・」
「まぁ、そうだろうな」
すると夢宮は、「今日も休むことにします。やっぱり、まだ彼には会えない」と言って足を一、二歩後ろへ持って行った。自分は認識したことを伝える適当な言葉を言うと、夢宮はお辞儀をしてから学校を去って行った。何故学校に来たのか問いたくなる行動であったが、きっとそれは理屈でも論理でも説明できない不安定な心が夢宮をそう動かせたのであろう。自分は常日頃の行動を思い出したかのように読み物に目を映す。そしてのたのたと歩いて行った。
あと一回だけ角を曲がれば教室に着く場所で、見知らぬ女子生徒に声を掛けられた。異常にスカートの丈が短く、髪の毛にパーマをかけた子だった。ここで分かりやすく説明を添えておくと、このような女子こそ夢宮が苦手としている女の子なのである。自分に話しかけてくる人はほとんどいないので心構えをしていなかっただけに驚いた。彼女が軽い自己紹介するまで、彼女が自分と同じクラスだということに気付かなかった。彼女はいろいろとしちめんどうくさいくさいことを自分に聞いてきた。夢宮と小早川のことについてだ。“高校生にもなって”、他人の交際にいちゃもんをつけるのはどうかと思ったが、彼は付き合っていることはどうでもいいと付け足した。ただ、小早川が自分に怒鳴る、机を蹴とばす、彼らが休んでいるという不審な行動について質問してくるのだ。
一昨日、小早川が「お前にしか教えない」とはしゃぎながらも真剣な眼つきをしてそう言ってきたのだから小早川との約束は守っておこうと、自分が直接二人の交際について聞いたことを話さないようにしていた。しかし、今目の前にいる女子生徒が「水谷が最初に小早川から教えてもらったんでしょ?」と確認してきたので、どうしてかと逆に質問すると彼は簡単に答えてくれた。話によると、彼は一昨日の朝の今頃に学校に来ていて、騒いでいる小早川と自分の会話を聞いていたのだという。それを聞いて自分は首を前に振った。小早川は自分に言ってきたのだと。もう事件は解決した。ちっとも面白くないが笑ってしまう。小早川が大声で秘密を簡単に喋るからである。それを聞きつけた彼女が他の人に漏れなく広めたのだろう。これは予測にしか過ぎないが、廊下でばったり会った夢宮をものの見事に侮辱し、からかってやったのだろう。紛れもなく小早川の自業自得だった。夢宮には気の毒な話だが。
それ以来、自分は誰とも話さない日々を過ごすことになった。普段から小早川以外の人に話しかけられることはないし、その小早川はてっきり勘違いして自分に悪意を抱いている。別にどっちでも良いことだった。自分には本がある。何の苦も味わうことなく、日々を経過させていった。一週間ほど、夢宮は学校に来なかった。朝のホームルームで遂に自分が読書していたことが見つかり、毎度教卓に立つ大人に注意されるようになってから連絡事項が耳に入ってくるのでクラス状況を知りやすかった。本がないと数分であるとはいえ退屈であった。ふと辺りを見回す。小早川がふてくされながら頬杖をついている。あの日以来、小早川は自分と同様、誰とも話していなかった。それだけではなく、とりあえずメールアドレスだけ知っているクラスメートから誹謗中傷の嵐が巻き起こる。物に当たる、他人に切れるといった弁えの知らない行動に軽蔑視され、しまいには夢宮が連日休んでいる理由も彼のせいだと言われていた。これはホームルームが終わってから授業が始まるまでに聞こえてきた話し声だった。いつしか、夢宮を影で嫌っていただろう女子たちも、矛の向きを変えたようだった。既に誰も夢宮を憎む人は誰一人としていないように感じられた。
しかし、自分の日常は何も変わらないし弊害もない。