第四話 「大体八時間」
NOW HERE 〜傍観者〜
第四話「大体八時間」
どうしたものかね。小早川と夢宮が見事に結ばれてしまったのだ。ほとんど一目惚れに近い恋愛だっただろう小早川の恋は大成功をおさめた。夢宮が何故小早川の告白にOKを出したのかは謎ではあるが、まぁきっと自分の知らないところで男らしさを見せつつあったのだろう。・・・ここで一応念を押しておくが、実際のところ小早川が恋愛に成功したことを妬んではいない。だが、あの小早川がこれから目の保養を独占することになるのは少し気に入らないという程度であった。祝福してやろう。努力のたまものだ。本当に、事実は小説より奇なりという言葉が当てはまる。おめでとうだ。
次の日、案の定浮かれた小早川が自分の机まで駆け寄ってきた。当然「もう終わったー」という言葉は発していない。朝の八時くらい、教室内に人が自分たち二人しかいないというのもあって、小早川はそのまま天に昇っていってもおかしくないような喜び様だった。手をパタパタ震わしながら教室内をぐるぐる回りだしたり、聞いたこともないような演歌を口ずさんだり、黒板に「漢」とか大きく書いてみせたり、どうしようもない落ち着きのなさだった。手の付けようのない幼稚園児を見守る母親の気分を知った数十分だった。
「サンキュー水谷、アイアム・・・アイアム・・・ベッ、ベリーハッピー! サンキュー!」
「良かったな、夢宮と付き合えて」
「お前にだけには教えてもいいらしいから、お前にだけは言うさ。ありがとよ」
「そりゃぁどうも。でも他の人にばれることなく付き合っていくのは結構難しいぞ」
「今まで通りさ。これまで何度もと一緒に帰ってきたけど、まぁ誰にも発見されることなく過ごしているじゃないかぁ」
「弁当のときも、な。・・・んで、ラブメールは早速昨夜したわけですか」
「あぁ・・・それは・・・」
小早川は突然下を向いて自嘲するような笑みを浮かべて説明を入れた。どうやら彼女の携帯電話は日曜日の帰りにどこかで落してしまったらしい。何度も家と駅の間を往復する夢宮の姿が頭に浮かんでくる。きっと小早川のメールを一通残らず大切にデータフォルダに保存していたのだろう。あまりにも可哀想だ。家でしくしくと泣いている彼女を想像するだけで胸が痛くなる。しかし今はもう、これからの幸せを二人で築き上げていけばいいじゃないか。
その後しばらく小早川のテンションは上がりっぱなしだった。人が来るとすぐさま黒板にでかでかと書き殴られた文字を消し、ぶつかって乱れた机などを戻すなどして、自分の方へ振り向いては「てへ」などとウィンク混じりに笑って見せた。そろそろ気持ちが悪い。
こうして朝のホームルームの開始の合図が校内全体に響き渡る。遅刻指導にリーチを掛けそうな愚か者たちがチャイムの終わりとほぼ同時に教室内に滑り込みをして、セーフセーフとジェスチャーを入れながら担当教師の第一声を待っている様子を眺めるのがここ最近の趣味でもある。どうして彼はこうギリギリを求め続けるのであろうか。一つ前の電車に乗るだけでも遅刻は簡単に真逃れることが出来ると言うのに。さらに彼らはその時間では必ず遅刻するという電車には乗ってこない。遅刻するか否かの瀬戸際の電車をピンポイントに狙って乗車し、登校しているのである。日々スリルを味わっているのかもしれない。自転車は知らん。結局、今日遅刻した戯け者は無様にも廊下で待たされる羽目になり、週明けにして来週の五日間の朝に無償労働することが義務付けられていた。まさに馬鹿者だ。朝っぱらから笑わしてくれてありがとう。感謝しよう。
「おや、今日は夢宮が来ていないのか?」
教壇に教師という職を持つ人間が生徒に尋ねた。誰も知らない様子である。自分は小早川に目を向けてみるが、彼も把握していないようだった。ついさっきまでニヤついていた表情が一変している。そりゃぁそうだ。夢宮と付き合ってまだ何時間も経っていないはずだ。小早川の報告によると、日曜日の夜八時くらいに付き合ったとか言っていた。そうすると計算で十三時間ほどであろうか。学校で目を軽く合わせて照れながら下を向くといった付き合いたての恋人同士がよく行うコトをしたかったろうに。あいにく携帯が壊れているそうで連絡手段もない。ホームルーム終了後、授業の準備時間に充てられるはずの休み時間も虚しく、小早川は机に筆記用具さえも用意しないで自分の元にやってきた。自分は片手に本を、片手で授業準備を、の体勢を崩さずに彼に耳を向けてやった。夢宮が病弱なのは元より知っていたことだ。今さら何を不安に思うと言うのだ。
「だけどよぉ、そのぉ・・・よぉ」
言いたいことが言葉として具現化されないようだ。一気に弱気になる小早川。その移り変わりはあまりにも滑稽だった。ビデオカメラで撮影をしておけばよかったと後悔するくらいに。それを見比べて感想文を原稿用紙二,三枚勢いに任せて書きたいほどである。いや、そのギャップの明確さはメモリーディスクを使わないでも記憶を辿って振り返られるほどだったから今すぐにでも感想文は書ける。
「水谷、どう思う?」
「だから、彼女は前から病弱だっただろう」
小早川は「そうか」と口にはしながらも顔には不安の顔が消し切れないまま机に戻って行った。小早川は腕に鉛が乗っかったようにゆっくりと机の中に手を伸ばしていき、授業の準備をし始めた。きっと彼にとってのこの一時間は無意味なまま終わるだろう。チャイムが鳴り、授業は始まった。同時に小早川は腕を枕に睡眠することを選んだらしい。残りの授業もそうしっ放しであった。帰りのホームルームまで寝続けていた小早川は真っ赤になった手を振って教室のドアを開いて真っ直ぐ家に帰って行った。
自分は掃除当番だったため彼に同行することもなく、砂が撒き散らされた教室を箒で適当に掃いて終わらせた。その後自分はすぐに帰ろうと思ったのだが、ふと明日に提出物があることに気付いて自分の机に戻るとノートを開いて課題に手をつけた。普段は家に帰ってから宿題をするのが自分の常であった。その日だけ、その日だけ学校でやろうと思っていたのだろう。それとも運命か。今思うと聞くべきではなかった。自分はある人の会話を小耳に挟んでしまった。
「異常に大人しい夢宮さんか?」
「そう、学年一、容姿が綺麗だと言われている女子よ」
「それは少し誇張だろ。でも可愛いよなぁ。で、夢宮さんがどうしたんだい」
数人の女子や男子が机に座りながら話している。やはり小早川が目を付けたのは間違いではなかったらしい。夢宮は確かに可愛いのだ。自分が見てもそう思える。今夏に、いつも目がお世話になっています、と暑中見舞いを送りたいくらいだ。その彼らの話に興味を持ったのか、何だろうと思って耳を傾けたのも普段の自分にはありえない行動だった。だからその時自分が聞き耳を立てたのは運命だったように思えるわけだ。もちろん、聞いていても聞いていなくても結果は何も変わりやしなかったのだが。
「あの夢宮さん、可憐でお淑やかな人だと思ってたんだけどなぁ」
「やり手だったのね、あの子。誰と付き合っているの?」
「それがな・・・」
その言葉に続いたのは、自分がもっとも聞き慣れた名字だ。そう、紛れもなく、小早川。彼と夢宮が付き合っているのが早速クラス中に広まっていたのだ。何故だろう、分からない。だが、大した興味もない。別に取り上げるような問題でもない。聞き耳を立てていたのは認めざるを得ないが。堂々付き合えばよいのだ。課題を終わらせた自分は、定着しつつある習慣、片手に本を持って下校するスタイルをとると体が勝手に下駄箱の方に動いていた。結局家に帰ったときには夢宮と小早川のことも忘れ、本に全神経を集中させ続けた。
次の日、あんな事が起きようとは知らずに。
朝、いつものように早い時間から登校している自分は静かな道を淡々と歩き、活字を目で追っているうちに学校に着いていた。この時間帯には自分と小早川、夢宮くらいしか来ない。夢宮は小早川と仲良くなってから早く来るようになった。この一日前には原因不明の休みをとっていたのだが。自分のクラスの扉を開くとやはりそこには小早川がいて、その教室内の空気は進学して初めてこのクラスに訪れたときのようであった。小早川は「おはよう」の一つも言わずに自分の前へ歩いてきた。少しだけ背を丸めて、手はポケットの中に突っ込み、数センチ下がった顔は自分の目を見上げるように凝視している。何も喋ることなく、ゆったりゆったり寄って来た。
「どうしたんだ」
自分から言葉を発することは滅多にないことであった。その不気味さ故、質問の一つを投げ掛けたくなってしまったのだ。その一言に反応する小早川。眼を軽く見開いて、閉じていた口を少しだけ開かせた。時が止まっているように感じるのは、彼がゆっくりと歩いているせいではない。圧迫されているような、胸をえぐられているような、嫌な気分。そして、スローモーションの彼が急に動かした腕に反応することはできずに自分の肩はがっちりとその手で掴まれた。少しだけ、痛い。
「・・・ど、どうした?」
「どうしたじゃねぇ。この机を見ろよ」
自分を掴んでいない方の手で夢宮の机を指した。ピントを指の向けられた方へ合わせていく。自分までゆっくりと、十分の一の世界に引き摺り込まれたような。まだ威圧感が自分の体内時計を狂わしている。ようやく焦点が合わさったところで自分は目を疑った・・・いや、この瞬間までは忘れていたが、意外性はない、なるほどと思えるような光景が映った。机には鉛筆で書かれた文字がびっしりと埋め尽くされていた。「小早川」の三文字。それが幾つも夢宮の机に綺麗に羅列している。昨日誰かの会話を聞いた通りだ。この二人の関係を誰かが妬んだのか。隠れ夢宮ファンの悪戯なのかもしれない。
「お前と夢宮さんは付き合っているんだよ・・・。この悪戯はやり過ぎだと思うけどね。どうしたんだよ、怖い顔して・・・!」
自然と含み笑いが表情に表れるのを感じた。彼の眼はなおも自分の目を睨み付け続けている。あの調子の良い小早川徹はどこに行ったのだろう。幾つかの間が開き、小早川は声を発した。
「お前がやったのか?」
「そんなことないさ」
「じゃぁお前は何で誰かに言ったんだ。俺と夢宮が付き合っていることを」
「言ってないけど」
「嘘だ。俺はお前にしか教えていない。夢宮は学校に来ていない。お前が言ったとしか考えられない」
あまりの不明さに、自分は口が止まってしまった。反論しても無駄だと言うことに気付いたからだろうか。小早川は自分の右肩を突き放して、自分の机を蹴り飛ばして帰って行った。その後、他のクラスメートが戻ってくるまで、自分は動けなかった。