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夏の中盤

作者: ParticleCoffee

 朝の七時――

 布団から起き上がり、気だるく身支度を調える。

 顔を洗って髪を整え終えても、まだ、頭がぼんやりとしている。

 すこしだけ、寝不足気味だった。

 その原因は、ソファーのうえでおっさんのようないびきをかきながら眠っている。

 あの女は、深夜に帰ってくると私をたたき起こし、客と私といない父への文句をギャーギャーとわめき散らし、ただでさえゴミだらけの居間をさらに引っかき回し始めた。

 暴れまわるあの女を、いつも通りになだめてすかして、二時間前にようやく眠りにつかせたのだ。

 そうしてから私も眠ったのだと思う。

 睡眠が足りないせいで思考に白いもやがかかり、うまく思い出すことができない。

 とりあえず、今日の用事をすませるべく準備を始める。

 まず私は、学校の制服に着替えた。

 月も変わり、まだ夏休みも折り返し地点というところだ。

 登校日でもなにか行事があるわけでもない。

 にも拘わらず、今日、私は学校へいかなければならない。

 次に、学校で使うものを取りに台所へ向かう。

 台所も、居間と同様にゴミだらけだ。

 私は、ゴミを蹴りわけながら進む。

 シンクの水おけのなかにある汚れたままの食器、そこに埋もれている出刃包丁を取り出した。

 サビがあり、刃こぼれもあるが、先端がとがってさえいれば問題ないだろう。

 キッチンペーパーで水気を取って、ハンドタオルで巻き、学生カバンへ放り込んだ。

 そのとき、背後でガサガサと音がした。

 振り返ると、雑然と積まれたゴミの山から、一匹のネコがはい出てきた。

 黒と白の長毛種で、『ブチ』と呼ばれている近所の野良猫だ。

 開けっ放しになっていた台所の小窓からはいってきたのだろう。

 ブチはこちらに気づいて一瞬だけ動きを止めたが、立っているのが私だとわかると、シッポを立てて近づいてくる。

 そして、ゴロンと寝ころび、おなかを見せてきた。

 私は足の側面でブチをどかして台所を出る。

 そして、包丁だけがはいったカバンを手に家を出た。

 

 いつもの通学のように、通学路を歩き、校門をとおり、昇降口を抜け、階段を上った。

 夏休みであるため、だれともすれ違うことはなかった。

 いや、すれ違ったとしても一心不乱に歩く私の目には映らなかっただろう。

 廊下を進みつづけ、目的の教室の前で足を止めた。

 室名札には『生徒指導室』と書かれている。

 今日この時間、ここに学年副主任の先生がいるはずだ。

 夏休み明けの保護者説明会で使う資料の作成を押し付けられ、生徒指導室でその作業をする――

 そう調べがついていた。

 耳を澄ませば、なかからキーボードをたたく音が聞こえる。

 間違いなく、なかにいる。

 包丁を取り出し、音を立てぬように気をつけながら足元にそっとカバンを下ろした。

 学年副主任は、とても良い先生だ。

 生徒にも教師にも、学年副主任を悪く言う人間は存在しない。

 そう断言してもいいほどの人物だ。

 私は、こんな大人には会ったことがなかった。

 こんな大人が存在するとは考えたことすらもない。

 そして、私の人生には存在してはいけない『良い大人』だ。

 包丁を胸に固く握りしめ、コンコンコン、と三回ノックをする。

 キーボードの音がやみ、

「はい――」

 短くはっきりと返ってくる。

『失礼します』

 そう言って入室するつもりだった。だが、声が出ない。

 異常にノドが渇いているせいだ。

 ツバを飲み込むことすらままならない。

 トビラを前にして、私は立ち尽くしていた。

 なかからイスのローラーの動く音がした。

 パタパタというサンダルの音がこちらへ近づいてくる。

 トビラが横へ開き、運動着姿の先生があらわれた。

 私は、息を止め、目を伏せた。

 包丁の柄を右手でにぎり、刃を上に向ける。

 柄尻を左手で抑え、その手の甲を自分の胸に当てる。

 先端に全体重をかけて、先生の胸へ飛び込んだ。

 先生からは、寄り掛かられただけにしか見えないだろう。

 はいるべき穴があるかのように、包丁はスルリと飲み込まれてゆく。

 刃が半分程度を進んだところで、それ以上ははいっていかない。

 こういうとき、なかの液体が噴き出てくるものだと思っていたが、意外と出てくるものはなかった。

 包丁を中心に、白いティーシャツがジワジワと色づき、広がる。

 先生が私の両肩に手を置いた。

 その手に、だんだんとチカラがこめられてゆく。

 指が、私の肩に強く食い込んだ。

 先生の顔を見上げた。

 いつもの笑顔が、少々間の抜けたおどろきの表情になっていた。

 ……そうか、『ねじる』か『抜く』かしなければいけないのだ――

 やはり睡眠不足で頭が働いていない。

 肩を押えられているため引き抜くことはできそうにない。

 ねじってみよう、と包丁に目を向ける。

 ――が、ワイシャツに広がったシミがさきほどよりも小さくなっていた。

 気のせいかとも考えたが、見ているあいだにもシミは刺された場所へと小さくなってゆく。

 そして、一分と経たずにシミは完全に消えた。

 すると、今度は包丁が抜けてしまう。いや、私が抜いてしまったのだ。

 先生の間の抜けたおどろきの表情も、いつもの笑顔に戻った。

 先生が後ろ歩きで室内へ戻り、トビラを閉めた。

 私も、もと来た廊下を後ろ向きに歩かされる。

 ――まるで逆再生だ。

 眉のひとつも自由に動かせず、抵抗はいっさい許されなかった。

 ひとつ下の階まで戻る。

 そうして、ようやく逆再生は止まった。

 手足を動かし、カラダが自由になったことを確認する。

 きっと……寝不足のせいだろう。

 私は、もう一度階段をあがる。

 

 階段を上りきる直前に、家で見た野良猫のブチがいた。

 階段の最上段で丸まってこちらをみおろしている。

 さきほどは、戻される前には、絶対にいなかった。

 もしいたならば、踏みつけて気がついたはずだ。

 無視して横を通り過ぎ、階段を上りきって廊下を進む。

 が、それを阻むようにブチが足に絡んできた。

 大きくまたいで先へ進もうとするが、それでもまとわりついてくる。

 何度も無視する私を責めるように、ブチは大きな鳴き声をあげつづけた。

 ――階下に投げよう。

 ブチの両脇を抱えた。

 突然、生徒指導室のトビラが開き、

「にゃーにゃーに――」

 と、言いながら先生が顔を出す。

 私と目が合うと同時に、先生の鳴き声もやんだ。

 ブチと私の視線が先生に突き刺さる。

 先生はそのまま室内へ引っ込み、私があっけにとられているうちに、ブチも手をすり抜けて階下へトコトコと歩き出した。

 その背を見送っているうちに、先生が教室から出てきてしまった。

 いつもの笑顔だが、ほほを赤く染め、耳まで赤い。

 先生の歩調に合わせて私も近づき、準備をする。

 ――あと二歩近づいて、さっきと同じことをする。

 一度目よりも簡単に覚悟を決めることができた。

 ――今だ。

 カバンのなかから包丁を引き抜いた――つもりだった。

 私が手にしていたものは包丁ではなかった。

 刃だった部分が黄色いトウモロコシに、柄だった部分がその茎になっていた。

 私も先生も思わず立ち止まり、ふたりで顔を見合わせた。

 先生の顔がふたたび、間の抜けたおどろきの表情になる。

 きっと私も似た表情をしていただろう。

 私は、無言でトウモロコシをしまう。

「……夏休みに学校にくるなんてなにか忘れ物でもしたのか」

 先生は大人らしく、何事もなかったように話を切り替えた。

 そんな大人な対応に、思わず、

 ――先生を刺しに来ましたが包丁がトウモロコシになってしまって……

 正直に言ってみようか。

 きっと『そうか、それは災難だったな』と笑顔で返してくれるだろう。

「なんか、ずいぶんと眠そうだが――」

 ぼーっ、として返事をしない私の顔を先生がのぞき込んでくる。

「はぁ……」

 目が合ってしまったため、仕方なくおざなりな答えを返した。

 寝不足だけでなく、計画の失敗により、私はドッと疲れてしまっていた。

 先生は私から目をそらして、考えこむ様子を見せた。

「そうだ、プールにでもはいってくか?」

「プール……?」

 突拍子もない提案に思わず顔をあげた。

 私が反応を示したことに、先生は気分を良くして話をつづける。

「午後からプール開放するから塩素はいれてある。いまなら貸し切りで泳げるぞ」

 とても魅力的な話だと思う。

「涼しくて静かで、いい気分転換になる」

 あんな家に帰るよりはいいだろう。しかし、

「私、水着もってきてません」

「先生の私物だが旧スクール水着でよければ貸すぞ」

「旧?」

 理解できずにいる私に先生は喜々として解説を始めた。

「前面だけがスカート状で、その内側に水抜きがついていて――」

 楽しげに語る先生と、ふたりで並んで廊下を歩く。

 ――あぁ、この人は、私の周りにいてもいい、ダメな大人だ。

 私は、先生の話を喜んで聞いている。

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