久遠の夢
怖い夢を見ている。
その自覚はあれど夢から覚める方法は分からないから、とにかく逃げることしか思いつかなかった。夢の舞台は昔に通っていた中学校だ。スタート地点は下駄箱で、理由もなく玄関は開かない仕様となっている。
自分はそこで背後から追ってくる真っ黒な人型から逃げ切らなければならなかった。逃げなければならない理由もわからないが、どうせ夢だからというくだらない言葉が用意されているだけだろう。ただ、夢であるにせよ、人型に対して内側から猛烈な恐怖が風船のように膨らんでいく。ひたすら、恐ろしかった。
夢の中の自分は文字通り飛ぶように速く走れるが、追ってくる幽霊も同様で、天井を這うように追いかけてくる。昔の学校七不思議に出てくるてけてけ対策の「曲がれば助かる」という理論も通用しないらしい。
飛ぶように速く走れることは嬉しいが、この夢にはそこはかとなくリアルが混じっていたりして、余計に焦燥感を煽り立てられる。リアル。それは、三十代後半の体力だということだ。額から流れる脂汗が目に入って鬱陶しい。
「きっつい……!!」
ぜぇはぁと息を切らしながら廊下をひた走る。次から次へと流れていく廊下の壁に、こちらを嘲笑うかのように「廊下を走るな」という紙が張り出されているのを横目に見た。廊下の突きあたりに出た辺りで肩越しに顔を後方へ向けると、黒い幽霊は長い手足を縦横無尽に廊下へ張り巡らして追いかけていた。まるで蜘蛛だ。タランチュラという種だった気がする。ふさふさとした体毛が身体中にびっしりと生え、鞠のような膨らんだ腹を潰せば、いったい中から何が出てくるというのだろう。放射線状に伸びた足が鍬のように振り下ろされ、足先にちらとでも引っ掛かってしまえば、あの大きな牙は容赦なく小さな獲物の息の根を止めに来る。それから奴は。
あぁ、もう。最後はどうなるかなんて考えたくもない。頭から食われるのだろうか、足からじっくりと食べられるのだろうか。痛みは、恐怖はどうなる。足の裏から見えない恐怖が這い上がり、冷えた指先で背筋をなぞられ、凍える手足は頭の指揮下から外れようとしていた。
「うわぁああ!!」
廊下に響く大絶叫を上げながら、階段を一段飛ばしに駆け上がる。駆け上がる際に、ふと「十三段しかなかったな」と思えば、途端に階段がぐにゃりと曲がって真っ逆さまに落ちていった。
急激に訪れた浮遊感に目を向けると、自分が落ちていく先は階段のあった廊下ではなく、底の見えないほどの暗闇が大口を開けて待ち受けていた。
落ちていく。落ちていく。なかなか辿り着かない底に暇を持て余すと、あるものに気がつき、ひっと声を上げた。
そこに見えたものは、あの黒い蜘蛛の真っ赤な二つの目。これから自分は蜘蛛の口元まで落ちていき、ばくりと頭から食われてしまうのか。ごりごりと脳髄を咀嚼され、ごくりごくりと飲み下され、手足のないダルマのような身体になってまで意識があったらどうしよう。最悪だ。漠然と考えついたことに、そら恐ろしくなって身体が小刻みに震えだす。
嫌だ、いやだ。食われたくない。逃げたい。蜘蛛がすぐそこまで迫っている。早く逃げなくちゃ。
ぐんぐんと近づいてくる蜘蛛の存在を見ずとも感じられる距離にまで近づくと、ふっと意識が途切れた。
「……あ。あれ?」
はっとなると、また下駄箱に自分は立っていた。おかしい。自分はあれから蜘蛛に食われたのではなかったのか。食われなかったとしても、何故ここにいるのか。冷や汗が額から顎先まで流れ落ちると、背後の扉がざわざわと騒ぎ始める。人ならざるもののざわめきに、思わず息を殺した。震え始める両足を叱咤しながら、再び脇目も振らずに駆け出す。すると、自分が走り出した足音を合図に背後に待つものたちも追いかけ始めた。振り返らずともあの黒い幽霊だということは何となく分かった。
ざわざわという音が次第に大きくなり、耳元で何やらぼそぼそと呟く声も聞こえる。なんだろう、一体なにを話しているのだろう。女とも男ともつかぬ声で、随分としゃがれた声だ。汗水を垂らしながら耳元で聞こえる声に意識を向ける。すると、聞きたくなくとも自然と聞こえてくる言葉に、居ても立ってもいられなくなった。
「お前の命が、欲しいよぅ」
地の底から響くような声であり、老婆の声である。ともすれば、子供の声だったかもしれない。声を聞いてますます「捕まっては元に戻れない」という謎の恐怖が体の奥底からこみ上げてきた。怖い。もうひたすらに怖い。背筋は冷や汗で濡れてさらに体温が下がり、足は疲労困憊だ。次第に上がらなくなってきた両足に焦りを感じ得ない。逃げ切れない。そんな予感を打ち払おうと、我武者羅に走った。
突き当たりの廊下を曲がって階段を上る。今度は階段を上りきれたが、代わりに目の前に広がっていた光景は、雪原だった。
「……嘘だろ」
寒波が吹き荒び、吹雪のせいで視界は悪い。普段のシャツにジャージ姿では凍死してしまう。駆け出そうと足を前に出すが、先ほどとは打って変わって足が鉛のように重かった。吹雪の中から狼のような唸り声が木霊し、後ろからあの声が追いかけてくる。自分は声に追い立てられるように足を進めた。
しばらく歩いていると、手足が凍えてしまったのか痛覚もなく指先が崩れ落ちていく。小指から、薬指、中指と人差し指、最後は親指と、順番に剥がれていき、両足もドミノ倒しのように雪へ飲まれていく。底なし沼に落ちていくような感覚だ。ずぶずぶと雪の中に沈んでいく恐怖は心臓を氷らせ、虚無へと誘う。いつの間にか流れていた涙も一瞬で凍りつき、肌に刺のように張り付いてしまっていた。足が侵食され、腰まで沈み、とうとう胸のあたりまで雪が迫り来る。どこにも逃げられないという閉塞感と鬱屈感に追い打ちをかけるように背後の声が耳元で囁き続ける。
「ひもじいよぅ」
「苦しいよぅ」
「命を、飲み干したいよぅ」
心底から渇望するような声で、老爺と老婆が恨み節を語る。
「どうせ夢など見られんのだろう」
「どうせ咽び泣くこともできんのだろう」
「そんな命など」
「いらんわなぁ」
背筋を氷の指で撫で上げられて、咄嗟に出かかった悲鳴を噛み殺す。どうしてだか、自分の存在をばらしてはいけないと、がんがんと頭の中の警鐘は打ち鳴らしていた。煩すぎて目眩と頭痛がする程だ。風邪をひいた時のような鈍痛に目を閉じてしまいそうになるが、その度に背後の声が囁くから目を開けてしまう。
あぁ、もう。いい加減に眠ってしまいたい。気が付けば、雪は鼻先まで覆ってしまっている。霞む視界の先には黒い足しか映らず、足の向こうには両親が恨みがましそうな目でこちらを睨んでいた。
それが分かった途端に意識が遠のいていく。完全にブラックアウトする前に、子供の声で「助けて」という声が聞こえた。
*****
次に目を開けると、何の変哲のない病室のベッドの上だった。目だけを開けて辺りを伺う。すると、自分を取り囲むように白衣を着た医者や看護師、それに妻と息子が泣き腫らした表情で見下ろしていた。さて、今度はどういった悪夢だろうか。疲労がたまった体を動かそうとするが、びくともしない。これは所謂金縛りというものだろうか。それにしては、意識がふわふわと定まらず、浮いているような気もする。
妻にどうした、と声を掛けようとして声が出ないことに気がついた。体も動かない、声も出ない。なるほど、たしかに金縛りだ。しかし、これではどうしようもない。何とかして妻や息子に話しかけようとするが、口が開閉するだけで言葉も出て来なかった。
そうこうするうちに、妻の背後にある窓に、老爺と老婆がにたにたと笑いながらこちらを見ている様子が映り込む。
瞬間。眼前に老爺と老婆の顔が迫っていた。もがもがと真っ黒い口を開閉させ、どぶのような臭いをまき散らし、二人が粘ついた口の中で糸を引いて嗤う。意味があるのか無いのか分からない言葉を吐き出した。
「ご馳走さま」
老爺と老婆が、口を揃えて嗤った。その笑みにぞっとする間もなく、自分はその言葉の意味を唐突に理解する。
自分は、死んだのか。
*****
気が付けば、今度は常闇だ。後ろからは追い立てる老爺と老婆と両親の声が反響して聞こえてくる。しかし、もう逃げようとは思わない。救いを求めるように、両手を頭上に掲げる。疲れてしまったのだ。
もう儚い明日など来なくて良い。それよりも、誰か夢のような子守唄を歌ってくれ。見えない明日を求めるよりも、今はただこの手を誰かに掴んで欲しい。常闇の中でもゆっくりと、穏やかな夢が見たい。見たいだけなのに。
「眠りたい、だけなんだ」
傍らに寄り添う子どもの手を握り締めて望み、今度は自分から瞼を閉じる。
瞼の裏には、自分の墓石ばかり。