5.みじめな千早
“ガタガタ…”
自転車を押し、千早はアパートへと戻った。もう夜の七時をまわった。バイトには完全に遅刻している。
駐輪場に置いてあった自転車は、前輪も後輪も空気が抜けていた。いや、抜かれていたという表現の方が正しいだろう。誰がやったかなど、当たり前の答えが出てくる。
「明日…どうしようかな。」
部屋で着替えながら、千早は考える。制服も汚れてしまったし、自転車も無残な姿になっている。クリーニングに出すお金、修理するお金、そんなものはどこにもない。
「はあぁ…。」
いつものようにため息をつきつつ、着替えてコンビニへと走った。
息を荒げながら、裏口から入る。
「お、遅れてすいません…。」
「もう、やっと…って、西園寺さん!どうしたの、その顔!?」
店長が驚きの顔で見つめる。鏡を見ると、頬が赤く腫れ上がっていた。
「す、すいません…。」
「謝らなくてもいいけどさ…。あー、今日は品の補充だけでいいから。」
「はい…。本当に、すいません。」
何度も頭を下げ、フリーザーの奥へと入る。冷気が頬を刺激する。
昨日の予感はこれだったんだ。あの女性、涼子かその仲間か…。
「どうしちゃったんだろうね。あんなに頬を腫らしちゃって…。」
「女子高生なりの悩みがあるんですよ。我々のような男にはわかりませんって。」
レジで店長と男のアルバイトが話しているのが聞こえた。いつも通り、黙々とペットボトルを入れていく千早。
「いらっしゃいませ~。」
ビクッとなる千早。おそるおそる、隙間から店内を見る。
「…うちの高校のスカート!」
思わずたじろく千早。目には恐怖が浮かんでいた。
「そんなこと…、そんなことないよね…。」
ビクビクしながら、もう一度隙間からのぞく。
いたのは、一年生だった。容姿も身長も全然違う。
「はぁ…。」
胸を撫で下ろす千早。客一人に、こんなに神経を使ったのは初めてだ。全身の力が抜けていくのがわかった。
“チュンチュン、チチチチチ…”
“ピピッピピッ…”
目覚まし代わりのケータイが鳴った。ゴソゴソと布団から手を出し、アラームを止める。
「ふぁぁーっと。」
大きく伸びをする千早。ケータイにつながっている充電器をとって…
「ああー!もう行かないと!」
あわてて起き上がり、制服を探す。砂まみれのブラウスに、紺色があせているスカート。とは言っても、代わりはないのだから仕方ない。
身支度もそこそこに、部屋を飛び出す千早。自転車がないから、早めに出ないと遅刻することをすっかり忘れていた。パンパンと砂を払いながら小走りする。
「早くしろー!遅刻するぞー!」
生活指導の教師が叫ぶ校門を、千早は大慌てで駆け抜けた。
“キーンコーン…”
階段の途中で予鈴が鳴り出す。焦った千早、階段を二段飛ばしで駆け上がる。が、
“ダンッ”
「いったーい…。」
踊り場で足が届かず、スネを思い切り打ち付けてしまった。思わず涙が出る。
“…カーンコーン”
予鈴が鳴り終わってしまった。スネをさすりながら、教室へ向かう。
「遅いぞー、もう遅刻だ。職員室行ってこい。」
ようやくたどり着いた教室の前で、言われた戸塚からの一言。
「…はい。」
自分はなんて惨めなんだろうと、泣きそうになりながら北校舎へと歩き始めた。
“キーンコーンカーンコーン…”
放課後、予鈴と共に地学室へ入る。秋恵と琴音がすでにいた。
「千早ちゃん!どうしたの、その顔!?」
案の定、驚かれた。痛みはひいてきたが、やはり腫れは目立つらしい。
「うん、ちょっとね。」
作り笑いで誤魔化す千早。
“ガララ…”
「だって玲子先生だよ?やりかねないよ~。」
「さすがにやらねーだろ。それやったら理数科全員で授業ボイコットしてやるしー。」
楽しそうにおしゃべりしながら、理数科組が入ってきた。後ろには、武の姿も見える。
「ねえねえ、今度みんなでカラオケ行かない?」
「え、カラオケ?」
「どうしたの突然?」
七海の突然の提案に、キョトンとする千早と秋恵。
「理数科で話してみたんだけどさ、科学部も一段落したことだし、パーッと騒ごうってね。」
桃子が説明する。
「このメンバーで行くの?」
「そうそう。男子は全員来るって。」
後ろで話している武、翔太、勲をチラ見しながら言う七海。
「それでね、いつがいいかなって話し合ってたんだけど…千早ちゃんとかは明日空いてる?」
「はやっ!明日行くの?」
びっくりする秋恵。
「だって早いほうがいいでしょ?ほら、理数科は伸ばすといつになるかわからないから。」
「う~ん。」
腕を組んで考え始める秋恵。
「千早ちゃんはいいの?」
「私は大丈夫だけど…、。琴音ちゃんは?」
「ああ、琴音はいいの。私が絶対来させるから☆」
「勝手に決めないでよ~…、まあ空いているけどさぁ。」
「空いてるじゃん。七海ー、明日でいいって。」
秋恵得意のごり押しで決まった。
「千早、お前は金とか大丈夫なのか?」
武が心配そうに尋ねてきた。今の千早の現状を知っている、数少ない人物の武。
「数少ない友達との交流だもの。少し無理してでも、都合つけるよ。」
「大丈夫かよ…。いいよ、俺が奢るからさ。」
「ええー、いいよ武こそ無理しないで。」
あれー、千早ちゃんお金ないの~?と寄ってくる七海。
「私、少しなら出そうか?」
桃子が横から言った。
「桃子ちゃん出すなら、私も出すよ。」
「じゃあ決まりっ。れっつごー!」
またもや秋恵が無理矢理締めくくった。
「う、うん。ありがと。」
友達っていいなぁ。一時であっても、千早には幸せが感じられた。
夜、千早のアパート―
「懐中電灯にカイロ…。あ、ビニールテープ貼らなくちゃ。」
バッグに四苦八苦しながら、詰め込む千早。明日はカラオケに行くことになったが、夜は自然科学部の天体観測だ。丸一日予定がギッシリと詰まることは、千早にとって嬉しい悲鳴だった。
「ビニールテープは…、うん?」
戸棚を開けた千早は、目の前にあったガイドスコープを手にとり、ふと止まった。
「…。」
懐かしそうに眺める千早。
小学生の時だっただろうか。父親が買ってくれた望遠鏡。誕生日に欲しい欲しいとねだって、どれだけ喜んだだろうか。今は元の家でホコリを被っているだろうが、横の小さなガイドスコープだけは今も離さず持っているのだ。
「お父さん…。」
涙が出てきた。思い出と悲しみがこみ上げてくる。
「うっうっ…ぐすっ…」
あの時のお父さんは優しかった。お母さんも優しかった。航太がまだ小さくて、みんなで親戚のうちに遊びに行ったりしたっけ。
「ほら千早、あれが東京タワーだぞ。」
「航太、東京タワーは何メートルか知ってる?」
「知ってるよ。333メートルでしょ。お母さんが知りたかったんじゃないの?」
「…。」
声はもう聞こえなかった。寝てしまったのか、涙の乾いた感触を頬に感じる。
千早はガイドスコープをバッグへと仕舞い込んだ。思い出を忘れようとするかのように、奥深くへと。
「…お父さん、…お母さん。」
もう、やさしい父はどこかへと行ってしまった。やさしい母は戻ってこない。温かかった家族は、その存在を幻想へと消してしまった。自分がまるで自分じゃないような感覚がしてたまらなかった…。




