25.お姉ちゃんがついてるよ
「マークシートは全員いきましたか?持っていない人は申し出てください。」
教室の窓から、外を見た。木枯らしで葉っぱが舞っている。窓一枚隔てた室内とは比較にならないほど寒いだろう。
今日は午前中のほとんどを使っての、センター試験の答え合わせだ。答え合わせと言っても、本物の模範解答があるわけではなく学習塾が出す模範解答を利用するものではあるが。
「4…3…1…1…」
問題用紙に殴り書きした解答に、レ点を付けていく。全然ダメね…。
そうしてセンター試験の仮ながら結果が出ると、生徒は希望校への出願を始めていく。推薦で受かっており、すでに遊んでいる者や、一般を控え一心不乱に参考書と見詰め合っている者と様々な光景が見れる時期となった。
「千早ちゃーん。」
廊下で呼び止められた。
「秋恵ちゃんじゃない!久しぶり~。」
笑顔を見せあう二人。お互い、忙しさで姿を見ていなかったのだ。
「元気ー?」
「全然元気だよ~。いろいろ決まってないけどね~。」
エヘへ…と照れる千早。
「千早ちゃん、変わったね。」
「そう?」
「すっごく変わってるよ。前より明るくなってる。」
やっぱりわかるんだ。この数ヶ月で、自分でもびっくりするくらい明るくなれたなぁと感じているが、本当だったんだ。
「千早ちゃん、センターどうだった?」
「もうダメダメ~。数学とか両方とも50点切ってるよ…。」
「えー、千早ちゃん勉強したの?」
「忙しくって全然…。」
「もうー。」
秋恵は国立大学への進学を決めたらしかった。琴音も県内の大学へ行くらしい。
「進路が安定したら、また遊ぼっか。」
「うん。またみんなで集まりたいね。」
「そうだねー。」
そんなことを言いながら別れた。
秋恵ちゃんも、琴音ちゃんも将来をちゃんと考えてる。私…、どこ行こうかな。
2月に入った。もう卒業まで間もないというのに、進路が決まっていない千早。毎日のように進路科の教師に呼び出されていた。
「西園寺さん、あなた本気で進路考えてる?もう募集が始まってるところもあるのよ。」
「はぁ…。」
「明日までに受験する場所を決めなかったら、帰らせませんからね。」
すでに暗くなった道を、自転車に乗って帰る。頬に風が攻撃する。
「うう~…、寒う…。」
手はかじかみ、ひざの動きが鈍い。風邪引きやしないかと心配でたまらなかった。
「航太が風邪引かなければいいけど…。」
そんなことを思いつつ、アパートへと辿り着いた。
“ガチャ”
「ただいまー…」
あれ?返事がない。
「…置手紙?」
机の上に、ポツンと置かれた紙。
「提出書類を取りに、家に行ってきます。…メールでいいのに。」
目を通し意味を理解すると、丸めてゴミ箱に放り込んだ。航太のバッグと制服が目に入った。
「今日は早めに寝ようかな…。」
一週間に一度しかない、バイトが休みの日。制服を脱ぎ、私服を取る。
“リリリリリ…”
電話だ。バイトは今日休みだし、家賃は昨日ギリギリで払ったし…。
「あれ?航太だ。」
母親に呼び止められたのかな?服を着ながらケータイを開いて、
「もしもし?どしたの?」
明るい声で出た。
「…。」
うんっ?と画面を見た。表示は通話中になっている。
「もしもし?航太だよね?」
「…お姉ちゃん。」
か弱い声だった。かすれた声とも言えるのかもしれない。
「あー、何かあったの?」
また母親に何かされたのだろう。慰めるように、やさしい声で訊いた。
「…お姉ちゃん、」
「うん。」
「…。」
沈黙がおりた。航太と会話して、沈黙がおりたのは初めてかもしれない。
「お姉ちゃん…、あのね…、」
「うん。聞いてるよ。」
よっぽど言いにくいことなんだと、返事を待った。
「…ろしちゃった。」
「え?ゴメン、もう一回。」
聞き取れなかった。あまりにも小さい声で…
「…殺しちゃった。…母さんを。」
「え…。」
何が何だかわからない、というのはこういう場面を言うのだろう。言葉ではわかっていても、誰が何をどうしたのか理解ができなかった。
「俺…、どうすればいい…?」
呆然としているのが、声からでもわかった。だが、千早自身も固まっていた。
「…と、とにかく、そこにいなさい。お姉ちゃんが行くから。いい?」
「…うん。」
ケータイを閉じた。何も考えられなかった。
「航太…。」
ハッと我に帰り、上着を着る。玄関を思いっきり開けたが、不思議と寒くはなかった。
鍵をかけるのも忘れ、自転車で家へと急いだ。
“ガシャン!”
スタンドがうまくかからなかったのか、後ろで自転車の倒れる音がした。が、そんなことはどうでもいい。
ドアノブを回すと簡単に開いた。土足のまま、居間へと入った。
「ハァ…ハァ…。」
テレビのすぐ前で、呆然と立ち尽くす航太。目の前には、仰向けで倒れた母親の姿。首から真っ赤な血がドクドクと流れ出ていた。
「けっケガはない!?」
なぜか、そう訊いてしまった。
「う、うん…。」
手には血がついたカッターナイフが握られていた。
「か、母さんが…母さんが…」
航太はずっとそればかり繰り返す。手は震え、唇は紫色に染まっている。
居間のテーブルの上には、二・三枚の書類が置いてあった。これが原因だろうか、一枚には血が飛び散っていた。
「…航太。」
ゆっくりと航太に近づき、抱きしめた。どうすればいいのかわからなかったが、とりあえず航太を安心させたかった。
「うう…、グスッ、ううううう…」
航太は泣き始めた。頭をいい子いい子、と撫でる。千早も、航太の温もりを感じていた。
「航太にはお姉ちゃんがついてるよ。何にも怖くないからね。」
できるだけ、語り続けた。母親の血がスカートに染みてきていたが、気にも留めなかった。今はただ、航太を甘やかしてあげたい…。
三十分か一時間か…。千早にはもっと長く感じられた。静かな家の中で、時だけが過ぎていく。
「もう…大丈夫。」
航太が顔を上げた。真っ赤で、涙の跡がついていた。
「航太、自分で呼べる?」
「うん…。」
どんな理由であれ、人殺しは間違いないと思った。姉として残酷なのかもしれないが、やることはやらなければならない。
「…もしもし。…はい、事件です。…はい。」
電話に、落ち着いた口調で対応する航太。
「すぐに…、来るって。」
「そう…。」
千早は立ち上がり、急須をコップに向かって傾けた。予想通り、お茶が出てきた。
「飲む?」
「うん。」
二杯入れ、二人で飲んだ。警察が来るまでは、よくないことだと思ったが…。
「落ち着いた?」
「うん、落ち着いた。」
航太の顔に、笑顔が戻っていた。安堵する千早。
「お姉ちゃん。」
「うん、なあに?」
「あのね…、ありがとう。」
千早は笑みで返した。
サイレンの音が迫ってきた。




