18.変わろう。バカになろう。
“ガチャ”
「ふぅ~。」
バイトから帰り、部屋に倒れこむ千早。うーんと伸びをひとつ。
「あれ?」
手の先に、何かが当たった。学校帰りに買った小説だった。軍艦の表紙絵が目をひく。
「…ちょっと読んでみようか。」
起き上がり、小説を手に取る。ペラペラっとページをめくってみると、薄さの割には文字も大きいみたいだ。
「…。」
前書きをすっ飛ばし、始めのページに目を通し始めた。
“遊撃艦隊出撃セヨ!”。読んで字のごとく、というか内容がわかりやすい題名の小説だ。二人の男女が過去へとタイムスリップしてしまい、1930年という荒ぶった時代の日本へと移転してしまうストーリーだ。艦魂という、船の魂が実体化したものが登場するのも特徴だ。
「…。」
いつの間にか、千早は小説に全ての神経を注いでいた。ただ無言に、並ぶ文字を追いかけ頭に流し込んでいく。
軍艦好きでもなければ、戦車が好きなわけでもない。ましてや、女の子が好きという変わった嗜好の持ち主でもない千早。登場するヒロインの生き方にひかれたのだろう。いつでも笑い、豪快かつ大胆な行動を見せるその人物に、千早は考えてしまう。
「私…、こんなに生き生きとしていたことあったっけ…?」
主人公の男を引っ張るほど、活発的に動くヒロイン。それに比べて私は…。
「嫌になっちゃうな~。」
沈む気持ちを抑えようと、わざと声のトーンを上げ自分に語りかける。
「時間は…、もう一時か。」
お風呂入って寝よ。立ち上がり、脱衣所へと入る。
冷たいシャワーを浴びている間も、考え続ける。
「すぐに友達を作れる人…か。」
小説のヒロインが、出会う艦魂の女の子たちへ次々話しかけていく場面。自分から喋ることもできず、喋りかけられても満足に答えることもできない自分とは対照的だ。
小説内の話だから。それで片付けることもできた。それでも答えを求めたのは、千早の精神力が限界に近づいていたからかもしれない。
「はぁー…。」
バスタオルで体を拭く。
「活発的…か。」
この言葉が、どうも引っかかった。自分に足りないもの…?
自分が活発になったら…。活発になった自分は…。想像したこともないし、したいとも思わない。しかし心のどこかで、好奇心が目を覚ましていた。
誰にでも話しかけられる自分。友達がいっぱいいる自分。どんな時でも笑顔を絶やさない自分。いくつもの、活発な自分が…。
「なんでこんなこと考えてるんだろ…。」
バカらしくなった。私はやっぱりバカだ。できないことを一生懸命になって考える。考えて考えて、結局何もできずに終わる。いじめだってそうだ。自分ひとりで解決しようとしながら、手も足も出ずにやられているだけ…。
「…あ。」
むくりと起き上がった。
「そうだ…。バカになればいいんだ。」
開き直ったような口調で声を出す千早。自分でも、今おかしいことは百も承知だ。
「どうせバカなんだから、落ちるとこまで落ちちゃおう。」
自分はバカ。何もできないくせに、何とかしようとするバカ。そうだ、何やったって失敗してばかりなんだから。
「明日からバカになろっと。おやすみっ。」
半ば自暴自棄で、タオルを被った。
「…ぷはっ。」
7月に被れば、当然暑い。やっぱりバカだな、私。
次の日は雨だった。朝から蒸し暑い。
「ん…。」
伸びをひとつ、ノソノソと寝床から這い出る千早。台所をあてに体を起こす。
「ご飯はまだあったかな?」
台所の下をまさぐり、タッパーを取り出す。中にはご飯が半分ほど入っている。
「あったあった。これでいいか。」
そのままタッパーをバッグへと滑り込ませる。今日のお昼らしい。
「朝はどうしよ。…なんかなかったかな。」
再び台所の下をまさぐる。残念ながら、食べ物はなかった。
「いいや、朝ごはんいらない。」
身支度を整え、部屋を出る千早。自転車にまたがったところで、
「そうだ、今日からバカになるんだった。」
具体的にどうすればいいのか、全くわからなかった。でも、不思議にも辞めようとは思わなかった。
そのまま自転車を漕ぎ出す。小雨とはいえ、降ってくる雨が千早の髪を濡らしていた。
結局、学校に着く頃にはビショ濡れになっていた。
「いやぁ~。これじゃ透けちゃうー。」
駐輪場で、誰に言ってるのかもわからない言葉を発する。タオルでブラウスだけ拭き、校舎に入った。
「今日は古文で、数学Ⅲで、物理で…。」
履修室の席に座ると、予定表を見ながら順番に教科書とノートを出していく。教科書とは対照的に、ほとんどのノートはボロボロだ。
“ガララ…”
「はい、準備はいい?」
「は~い。準備できてまーす。」
できるだけの笑顔で、古文の教師に返した。
「じゃあ始めましょう。教科書の34ページを開いてください。」
まさかの千早の反応に、驚きを隠しきれない教師。教科書へと目を落とすその姿は、千早から目線を切っているようにも見えた。
「では5行目からいきます。この文章の現代訳は…」
ホワイトボードにペンを走らせる教師。
昼前の補講は地理だった。地理の教師は、無駄に元気な男の教師だ。
“ガララ…”
「はい今日もやってくよ。用意はできてる?」
「はーい。準備バッチリ~。」
千早の元気な返し方に、びっくりする教師。
「おおう…。今日はやけに元気だね、西園寺さん。」
「えー、いつもと変わりませんよ~。」
ニコニコ笑顔で返す千早。まあいいや、と教科書を広げる教師。
「今日はヨーロッパ諸国をやってくよ。ヨーロッパの国といえば?」
「はーい。アメリカー。」
千早の元気いっぱいの間違いに、大笑いする教師。
「アッハハハ。残念ながら、アメリカはヨーロッパではありませーん。」
「えー違うのー?海を越えたらヨーロッパでしょー?」
「海を越えてヨーロッパだったら、みんなヨーロッパへ旅行しちゃうよ。」
「私はその方がいいんだけどなー。」
ずっと笑顔を絶やさない。初めてのことだったが、千早は笑い続けた。作り笑顔でもいい、私はバカだから笑うことしかできないんだ。
「ヨーロッパにあるのは、イギリスドイツフランスオランダイタリア…。こんなところかな?はい繰り返し。」
「えーと、イギリスフランスドイツ…オーストラリアイギリスあれ?」
「オーストラリアがヨーロッパにあったら困るなぁ。あんな大きな大陸がヨーロッパにあったら、窮屈で困っちゃうよ。」
「せんせー、ヨーロッパってオーストラリアの方になかったですかー?」
「え?え?…えーと、ヨーロッパってオーストラリアの方に?」
「あ、間違えましたぁ。オーストラリアってヨーロッパの方になかったですか?」
「オーストラリアはヨーロッパにありませーん。…ひょっとして、オーストリアのこと?」
「そうとも言う~。」
「言わない言わない。えーと、結局何の話だっけ。」
教師を前に、おバカキャラを演じる千早。
あれ?なんだか楽しい…。嫌なはずの補講が楽しく思える…。
こんな感覚は初めてだった。授業が楽しいと思ったのは、二年と半年、この学校に通って初めてだ。教師との会話が弾み、帰ってくる反応が楽しくなってくる。
「はいっ。じゃあ今日はここまでー。…今日の西園寺さんは元気だったねー。」
教師にこう訊かれた。やはり気づいていたのだろう。
「何か楽しいことでもあったの?」
「いーえー。特に何もないですよ~。」
笑顔を見せる千早を、不思議そうに振り返りながら教師は退室していった。




