16.ごめんなさい、武…
“カラカラカラ…”
スロープで自転車を押して登る千早。雲の多い空を見上げる顔には、笑顔がなかった。
なんて顔をして武にあったらいいのだろう。武は私のことをどう思ってるのだろう。いちいち問題行動を起こす問題児か、はたまた会話一つ成り立たない精神異常者か…。
「おはようございます。」
「はい、おはよう。」
朝のあいさつが交わされる昇降口を、小走りで駆け抜ける。
「ハァ…ハァ…」
息を荒げながら、階段を数段上った。
「何急いでるんだろ…私。」
踊り場で短く深呼吸し、息を整えてから再び上り始める。足音が落ち着いたリズムをたてていく。
三階に上がった。階段の影から、そっと教室側をのぞく。ロッカーを荒らされた日以来、同じことがあったらどうしようかと不安を抱えていたからだった。幸い、特に変わった様子はなかった。
できるだけ足音を立てずに教室に入る。視線を上げた瞬間、涼子と目があった。
「…。」
「…。」
睨み、睨まれながら席についた。静かな教室に、二人の間の緊張が張り詰めていく。
“ガララ…”
「そうか?俺はそうは思わないけどなー。」
「いやいや、やってみ。考え方が180度変わるからさ。」
他の男子に混じって、武が入ってきた。楽しそうに会話をしながら、席へと近づいていく。
「千早。」
そう呼んだ武の顔は、笑っていた。
「どうしたんだよ、そんな暗い顔しちゃってー。」
まったく、もっと笑わないと。そう言って、男子のところへと戻る武。千早は返事をすることができなかった。
武が励まそうとしているのが、千早にもわかった。信じていいのだろうか。それとも何か企んでいるのだろうか。自分でも許せないほど、疑いの念が産まれては消えていく。
ケータイを開いた。いつものように、理由はない。黒板のすぐ上にあるくせに、時間を確かめる。
「はい、じゃあ笛ごとにスタートしてください。」
“ピッ”
短く、高い笛の音と共に、八人の水着姿の女子がプールの壁を蹴る。
今日は、今年最後のプールの日。最後の日にふさわしく、太陽は雲の間からちゃんと出ていてくれていた。強い日差しが照りつける。
千早はプールの中へとゆっくり入った。ぬるめの水が心地よい。
「ん~…、ぷはっ。」
潜って頭まで水を被る。
“ピッ”
笛の音。あたふたしながら頭を沈め、壁を蹴りつける。腕を伸ばし、前へ前へと…。
「ぷはっ。…ぷはっ。」
息継ぎをしながら足を懸命にバタつかせる。
残念ながら、千早はプールが苦手だった。手で漕ぎ、足を動かせどなかなか前へと進めない。
「ぷ…はぁっ。はぁっ…。」
ちょうど真ん中で立ってしまった。
「立っちゃだめ!最後まで泳ぐ!」
教師の言葉に、水に飛び込む千早。
「ぷは…ぷは…ぷは…」
クロールの左右、両方で息継ぎをする千早。通常、クロールの息継ぎは片方どちらかだ。これは水泳嫌いの千早が、息をつなぐためにしている苦肉の策だ。
「ぷは…。…ぷはぁ、はぁはぁ。」
ようやく、手が壁へと届いた。他の生徒がプールサイドへと上がる中、一人だけ隅っこで息を整える。
「はー…、はー…。はぁ~。」
千早にとって、プールなんて嫌いな上に疲れるだけの授業だった。他の生徒がなぜあんなにも早く泳げるのかと、不思議に思っているくらいだ。
「はい集合。」
パンパン、と体育教師が手を叩いた。
「では今日の授業を終わります。これでプールは終わりです。」
「ありがとうございました。」
全員の礼で終わったプール。更衣室へ行こうとすると、
「西園寺さん。」
後ろから教師に呼ばれた。
「…はい。」
「あなた、途中で立ったでしょ。辛くても最後まで泳がなくちゃだめ。犬掻きになってもいいから浮いていなさい。」
「はい…。」
犬掻きなんて、そんな恥ずかしいこと…。千早の心の声も届かず、立ち去っていく教師。
「あーん、冷たいよ~。」
「早く早くー。」
シャワーは混み合っていた。最後の方で、やっと浴びる千早。
更衣室に入ると、もう着替え終わった生徒もいるのか室内は空いていた。ちょうどいいやと、着替え始める。
「タオルタオル…。」
タオルを巻いて、水着を脱ぐ。下着を探していると、気づいてしまった。
「…スカートがない!」
どこに置いたっけ。更衣用のロッカーを隅から隅まで探す。ブラウスはあるがスカートがどこにもない。
「他の人が間違ってはいていった?いや、そんなはずはないのに…。」
生徒がいなくなり、空室になりつつある更衣室中を探し回る。ロッカーの上、水道の下、ちょっとした隙間…。
「ない…、ない…。」
“キーンコーンカーンコーン…”
予鈴が鳴った。三時限目終了の予鈴だ。あと十分しかない。
「どうしよう…。」
体操着用のズボンをはき、考える千早。このままでは今日一日、下は体操着という格好になってしまう。
再度探すが、結局見つからない。しだいに焦りが出てくる千早。
「お探しのものはこれ?」
出口から聞き慣れた声。
「また…。」
涼子がスカートを持って立っていた。
「今度はどうするつもり…?」
千早の言葉を待っていたかのように、もう片方の手を差し出す涼子。
「お金。」
顔が笑っていなかった。いつものような冗談半分にも似た雰囲気とは違う。
「前の慰謝料もセットでね。」
ギリッと歯ぎしりをする千早。今日はあきらかに涼子の方が有利だと悟った。
「…いくらよ。」
「五万円。」
そのまま掴みかかろうとする千早。お金に対する怒りは、抑え切れなかった。
涼子は慌てず、スカートを持ちながらプールへと逃げた。ドアにぶつかりながら追う千早。
「待てー!」
プールサイドを走る二人。一周したあたりで、
「…動くと、わかるわね?」
スカートを持った手を、プールの水面の上へで止める涼子。
「クスクス…」
ハッと笑い声に気づく千早。プールの出入り口で、こちらを見ている女子生徒たち。
「どうするの?早く決めないと落ちちゃうよー。」
初めてニヤリと笑う涼子。
「…わかったわよ。」
涼子がスカートを持ったまま、近づいてきた。
「もう一度、言ってくれない?」
ケータイを取り出し、千早に向けた。裏面のレンズが千早にピントを合わせた。
「…払います。これでいいでしょ。」
「はいはい。じゃあお願いね。」
そう言うと、涼子はスカートを空中へと投げ捨てた。
「!」
間髪いれず、反応する千早。
“ザブーン!”
スカートと共に、プールの中へと落ちた。
「アッハハハハハハ。」
「アハハハ…」
耐え切れないとばかりの涼子の笑い声で、見ていた女子生徒がみんな笑い始める。
「何やってんの~?」
「あー、下手だからもう一度やるのね~。」
「西園寺さーん、風邪ひきますよー。アハハ…」
プールサイドから上がる千早の耳に、遠ざかってゆく女子たちの声が聞こえた。
「…。」
頭が呆然となる千早。右手には、全身と同じくズブ濡れになったスカート。
無表情で、そのスカートをはいた。下半身に冷たい感触が走り、なんとも気持ち悪い。
“キーンコーンカーンコーン…”
予鈴。四時限目の始まりを告げる予鈴が、千早の心にまで響いた。全身濡れたまま、トボトボと校舎へと帰る千早。下着が透けているのがわかっても、恥ずかしいとは思わなかった。
滴を落としながら校舎へと入る。暑い夏の日光でも、乾ききらなかった制服。
“ガララ…”
「すいません…。遅れました…。」
教室のドアを開け、入る千早。入った瞬間、女子生徒からクスクスという笑い声が聞こえた。
「なにやってたんだ。濡れてるじゃないか。」
教師が厳しい目つきで睨む。
「プールに制服で落ちました。」
「バカだな、まったく。早く席につけ。」
教科書とってきます、と小さく礼をしてロッカーへと向かう千早。自分の滴で廊下には跡がついていた。
「ほんとにバカだよねー。」
「あんなことしたんだから罰よ罰。」
席に戻る間も、女子生徒たちのヒソヒソ声が聞こえた。教科書を少々乱暴に置く。
「えーと、じゃあ続きからいく。」
教師が黒板に振り返ると、武が身を乗り出してきた。
「何があった?雰囲気が普通じゃなかったぞ。」
小声で訊いてくる武に、千早は答えることができなかった。
武が私を助けてくれるのだとしても、これは私の問題。巻き込むわけにはいかないの…。
相談を持ちかけてくれる武に、返事一つ返せないのは辛かった。だが少しでも喋り始めてしまえば、そのまま全部吐き出してしまうんじゃないかと不安だった。
(ごめんなさい…、武…。)
後ろで心配そうに千早を見る武に、心の中で精一杯の謝罪をした。




